龍の檻と青年

はる

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傷跡




「……病院は、行きません」

奏多の声は、思ったよりもはっきりしていた。
それが逆に、自分でも驚くほどだった。

桐谷は一瞬、言葉を失ったように瞬きをする。

「なんでだ」

「……行きたくないです」

それ以上の理由は、喉の奥で絡まって出てこなかった。
視線を床に落とすと、心臓の音だけがやけに大きく聞こえる。

桐谷は立ち上がり、数歩、奏多の前に歩み寄る。

「このままじゃ、何も変わらないだろ」

低く、抑えた声。
でも、その奥にある苛立ちが、はっきりと伝わってきた。

奏多は肩をびくりと震わせる。

「変わらなくて、いいです」

その言葉に、桐谷の眉が強く寄る。

「よくない」

一歩、距離が縮まる。

「こんなんじゃ、いつまで経っても変わらないだろ?!」

声が、少しだけ荒くなった。
リビングの空気が、ぴんと張り詰める。

奏多の胸が、ぎゅっと締めつけられる。
思わず、ソファの端に爪が食い込んだ。

「……だって」

声が震える。

「本当の自分がもう分からない、
もしそれで何かが変わってしまったら」

桐谷は、その場で言葉を止めた。
息を吸う音だけが、静かな部屋に響く。

「俺は、そんな理由でお前を突き放したりしない」

少し間を置いて、桐谷はそう言った。
さっきよりも、ずっと低く、静かな声で。

でも、奏多は首を振る。

「わからないです……。誰も、わからないです」

立ち上がろうとして、足に力が入らず、またソファに沈む。
自分の体が、自分のものじゃないみたいだった。

桐谷は、拳をぎゅっと握りしめてから、ゆっくりと開いた。

「……怒鳴るつもりはなかった」

そう前置きして、視線を逸らす。

「ただ、俺は、お前がこのまま苦しむのを見てるだけなのが、もう……」

言葉が、途中で切れる。

二人の間に、重たい沈黙が落ちた。

奏多は、小さく息を吸って、やっとの思いで言う。

「……行ったら、ちゃんと、ここに戻ってきてもいいですか」

その一言に、桐谷は、ゆっくりと奏多を見る。

「当たり前だ」

迷いのない声だった。

「お前の居場所は、ここだ。どこにも行かせない」

奏多は、その言葉を聞いても、すぐには頷けなかった。
ただ、胸の奥で、何かが小さく、揺れていた。



****

病院から戻ったあとの家は、やけに広く感じた。
ドアが閉まる音だけが、やけに大きく響く。

結局先生と話す時間の時もほぼ口を開かなかった。
開けなかったというほうが正しいのかもしれない。

奏多は靴を脱ぐと、そのままリビングの隅に歩いていって、壁とソファの間の、いちばん端っこに座り込んだ。
膝を抱えて、背中を丸める。まるで、自分の存在を小さく畳むみたいに。

桐谷はそれを見て、少しだけ眉を寄せた。

「……そこ、寒いだろ」

カーテンの隙間から、冬の空気がじんわりと入り込んでいる。
床も冷たい。

「こっち来い。ソファの上のほうが、あったかい」

奏多は、顔を上げなかった。
床を見つめたまま、首を小さく横に振る。

「……ここが、いいです」

その声は、拒むというより、もう決めてしまったみたいに静かだった。

桐谷は一歩近づく。

「風邪引くぞ」

少し強めの口調になってしまってから、すぐに言い直す。

「……頼むから」

奏多は、ぎゅっと膝を抱える腕に力を入れる。

「大丈夫です」

桐谷の視線が、奏多の細い背中に落ちる。
呼吸のたびに、かすかに上下する肩。

「大丈夫そうに、見えない」

その言葉に、奏多の指先が、わずかに震えた。
でも、それでも動かなかった。

沈黙が、二人の間に落ちる。

桐谷は、ソファの端に腰を下ろす。
奏多と、ほんの少し距離を空けたまま。

「…はぁ、…ここがいいなら」

そう言って、毛布を一枚持ってきて、そっと奏多の肩にかける。

奏多は、一瞬だけ顔を上げて、桐谷を見る。
何か言いかけて、結局、何も言わずに、また視線を落とした。

毛布の中で、小さくなる背中を見ながら、桐谷は、ただそこにいることしかできなかった。

奏多は、端っこに座ったまま、動かなかった。
まるで、その場所が、自分の居場所だと、思い込むように。


****


風呂場のドアが開く音がして、湯気が廊下にふわりと流れ出てきた。
タオルで髪を拭きながら出てきた桐谷を、奏多は何気なく見てしまった。

その瞬間だった。

タオルがずれた拍子に、桐谷の横腹が一瞬だけ露わになる。
そこに残っていた、薄く伸びた傷跡。

奏多の息が、喉の奥で詰まった。

視線を逸らそうとしたのに、できなかった。
頭の中で、あのときの光景が、勝手に重なってくる。

――自分が、したこと。
――自分が、取り返しのつかないことを、してしまったという事実。

胸の奥が、ぎゅっと掴まれるように痛んだ。

怒りが込み上げる。
悲しみも、後悔も、恐怖も。
どれがどれだかわからないまま、全部が一緒になって、心の中で渦を巻く。

「……」

声を出そうとして、何も出なかった。

奏多は、無意識に自分の腕を強く抱きしめる。
まるで、自分を押さえつけるみたいに。

桐谷は、まだ気づいていない。
タオルを肩にかけながら、キッチンの方へ歩いていく。

その背中を見つめながら、奏多の目が、じんわりと熱くなる。

「……ごめんなさい」

小さすぎて、自分にしか聞こえない声で、そう呟いた。

床に落とした視線の先が、にじんで見えなくなる。
胸の奥に溜まった感情が、行き場を失って、ただ重く沈んでいった。
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