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感情の変化
夜は、静かだった。
医務室の明かりは落とされ、
窓の外には薄い月。
ベッドの上では、奏多が穏やかな寝息を立てている。
霧島の腕の中で。
小さな手が、服の裾を握ったまま。
まるで離れたら消えてしまうものを掴むように。
霧島は眠っていない。
目を閉じても、意識は冴えたままだった。
腕の中の重みが、妙に温かい。
最初はただ、守るためだった。
怪我をして、壊れかけて、
行き場のなかった青年を拾った。
それだけのはずだった。
だが――
奏多が寝返りを打つ。
胸元に額を擦り寄せるようにして、小さく息を吐く。
「……すき…」
眠りの中で、また同じ言葉。
無意識。
飾りも計算もない、まっすぐな言葉。
霧島の指先が、ほんのわずかに止まる。
胸の奥が、妙にざわついた。
これは何だ。
保護欲か。
責任感か。
それとも――
霧島はそっと奏多の前髪を払う。
薄くなった頬。
それでも、少しずつ血色が戻ってきた顔。
自分がいなければ眠れないように見上げる目。
あの笑顔。
あれを失わせたくないと、強く思った瞬間。
胸の奥が、はっきりと痛んだ。
「……厄介だな」
小さく呟く。
こんな感情、久しく持ったことがない。
守るのは得意だ。
切り捨てるのも得意だ。
だが、こんな風に
“失うことを怖いと思う”のは、久しぶりだった。
もしこのまま記憶が戻ったら。
もし桐谷の元へ帰りたいと言ったら。
そのとき、自分は――
一瞬、考えた。
想像しただけで、胸が重くなる。
答えを出す前に、霧島は小さく息を吐いた。
「……俺らしくない」
だが、腕は緩めない。
奏多が無意識に少しだけ強く抱きつく。
まるで確認するように。
霧島は、静かに背中を撫でる。
拒まない。
距離を取らない。
それが答えだった。
自覚したくはなかったが、
もう気づいている。
ただ守りたいだけじゃない。
この少年の笑顔を、自分のそばで見ていたい。
その願いが、芽生え始めている。
霧島は天井を見上げる。
「……どうしたもんか」
低く、独り言。
腕の中の体温は、確かにここにある。
そしてそれを手放したくないと、
初めてはっきり思ってしまった。
奏多は何も知らずに眠っている。
霧島の胸の内に芽生えた感情も知らずに。
夜は、静かに更けていった。
****
翌朝の医務室は、いつもと同じようで――少し違った。
カーテン越しの光の中、
ベッドでは奏多がまだ眠っている。
そのすぐそばの椅子に、霧島が座っていた。
背筋を伸ばしたまま、腕を組んでいる。
一見、いつも通り。
だが。
奏多が寝返りを打つたびに、
無意識に視線が落ちる。
咳き込めば、書類より先に体が動く。
その一つ一つを、
愛斗は見逃さなかった。
⸻
「……頭」
聖夜が小声で呼ぶ。
霧島は視線を上げる。
「なんだ」
「今日は会議、十分後です」
「ああ」
短い返事。
立ち上がりかける。
だがその瞬間。
奏多が寝ぼけた声を出す。
「……いかないで」
か細い声。
霧島の足が止まる。
ほんの一瞬。
それだけのはずなのに、空気が変わる。
霧島は振り返り、ベッドへ戻る。
「大丈夫、すぐ戻る」
低く、穏やかに。
奏多は目を開けないまま、ほっとしたように息を吐く。
霧島はその額にかかった髪を払ってから、ようやく立ち上がった。
聖夜と愛斗は、何も言わずその様子を見ている。
扉が閉まったあと。
数秒の沈黙。
聖夜が、ぽつり。
「……変わったな」
愛斗が小さく笑う。
「うん。かなり」
⸻
廊下を歩きながら、聖夜が口を開く。
「前なら、“寝かせておけ”の一言で終わりだったはず」
「そうだね」
愛斗は肩をすくめる。
「自分で他人の額の髪なんて払ったりなんて見たことないよ、あの人」
聖夜は小さく息を吐く。
「甘い」
「甘いね~」
即答。
だが悪い意味ではない。
愛斗は続ける。
「でもさ、あの子が笑うときの顔、見た?」
聖夜は思い出す。
霧島に向ける、まっすぐな笑顔。
怯えも計算もない。
「……見た」
「頭、あれ見てから変わった」
聖夜は静かに言う。
「手放せなくなる顔だなー」
愛斗は苦笑する。
「もう半分手遅れかもね」
⸻
その日の夕方。
霧島が再び医務室へ来ると、
奏多は起きていた。
「きた」
嬉しそうに言う。
霧島の口元が、ほんのわずかに緩む。
それを、扉の隙間から聖夜が見ていた。
数秒。
そして小さく呟く。
「……あんな顔、初めて見た」
背後で愛斗が腕を組む。
「だよね」
霧島は気づいていない。
自分の視線が、以前より柔らかいことも。
声のトーンが一段低く、優しくなっていることも。
奏多が笑うたび、ほんの少し誇らしげになることも。
聖夜は静かに言う。
「守る対象、ではなくなりつつあるかもな」
愛斗は目を細める。
「うん。もう“情”だよ」
医師としての視線は冷静だ。
だが声はどこか温かい。
「ただね」
愛斗は続ける。
「奏多が回復して、もし記憶が戻ったとき――」
聖夜がその先を引き取る。
「どうなるか、だな」
医務室の中では、
奏多が霧島の袖を軽く引いている。
無邪気な笑顔。
霧島はその手を払いのけない。
むしろ自然に受け入れている。
扉の外で、二人は顔を見合わせる。
「止めるか?」
聖夜の問い。
愛斗は少し考えて、首を振る。
「今はまだいい」
そして小さく笑う。
「頭があんな顔するの、貴重だからさ」
聖夜もわずかに口元を緩める。
だがその目は冷静だ。
「……守り切れるなら、が」
医務室の中では、
穏やかな時間が流れている。
だが全員がわかっている。
この感情は、
いずれ選択を迫られる。
それでも今は――
霧島の変化を、誰も止めなかった。
医務室の明かりは落とされ、
窓の外には薄い月。
ベッドの上では、奏多が穏やかな寝息を立てている。
霧島の腕の中で。
小さな手が、服の裾を握ったまま。
まるで離れたら消えてしまうものを掴むように。
霧島は眠っていない。
目を閉じても、意識は冴えたままだった。
腕の中の重みが、妙に温かい。
最初はただ、守るためだった。
怪我をして、壊れかけて、
行き場のなかった青年を拾った。
それだけのはずだった。
だが――
奏多が寝返りを打つ。
胸元に額を擦り寄せるようにして、小さく息を吐く。
「……すき…」
眠りの中で、また同じ言葉。
無意識。
飾りも計算もない、まっすぐな言葉。
霧島の指先が、ほんのわずかに止まる。
胸の奥が、妙にざわついた。
これは何だ。
保護欲か。
責任感か。
それとも――
霧島はそっと奏多の前髪を払う。
薄くなった頬。
それでも、少しずつ血色が戻ってきた顔。
自分がいなければ眠れないように見上げる目。
あの笑顔。
あれを失わせたくないと、強く思った瞬間。
胸の奥が、はっきりと痛んだ。
「……厄介だな」
小さく呟く。
こんな感情、久しく持ったことがない。
守るのは得意だ。
切り捨てるのも得意だ。
だが、こんな風に
“失うことを怖いと思う”のは、久しぶりだった。
もしこのまま記憶が戻ったら。
もし桐谷の元へ帰りたいと言ったら。
そのとき、自分は――
一瞬、考えた。
想像しただけで、胸が重くなる。
答えを出す前に、霧島は小さく息を吐いた。
「……俺らしくない」
だが、腕は緩めない。
奏多が無意識に少しだけ強く抱きつく。
まるで確認するように。
霧島は、静かに背中を撫でる。
拒まない。
距離を取らない。
それが答えだった。
自覚したくはなかったが、
もう気づいている。
ただ守りたいだけじゃない。
この少年の笑顔を、自分のそばで見ていたい。
その願いが、芽生え始めている。
霧島は天井を見上げる。
「……どうしたもんか」
低く、独り言。
腕の中の体温は、確かにここにある。
そしてそれを手放したくないと、
初めてはっきり思ってしまった。
奏多は何も知らずに眠っている。
霧島の胸の内に芽生えた感情も知らずに。
夜は、静かに更けていった。
****
翌朝の医務室は、いつもと同じようで――少し違った。
カーテン越しの光の中、
ベッドでは奏多がまだ眠っている。
そのすぐそばの椅子に、霧島が座っていた。
背筋を伸ばしたまま、腕を組んでいる。
一見、いつも通り。
だが。
奏多が寝返りを打つたびに、
無意識に視線が落ちる。
咳き込めば、書類より先に体が動く。
その一つ一つを、
愛斗は見逃さなかった。
⸻
「……頭」
聖夜が小声で呼ぶ。
霧島は視線を上げる。
「なんだ」
「今日は会議、十分後です」
「ああ」
短い返事。
立ち上がりかける。
だがその瞬間。
奏多が寝ぼけた声を出す。
「……いかないで」
か細い声。
霧島の足が止まる。
ほんの一瞬。
それだけのはずなのに、空気が変わる。
霧島は振り返り、ベッドへ戻る。
「大丈夫、すぐ戻る」
低く、穏やかに。
奏多は目を開けないまま、ほっとしたように息を吐く。
霧島はその額にかかった髪を払ってから、ようやく立ち上がった。
聖夜と愛斗は、何も言わずその様子を見ている。
扉が閉まったあと。
数秒の沈黙。
聖夜が、ぽつり。
「……変わったな」
愛斗が小さく笑う。
「うん。かなり」
⸻
廊下を歩きながら、聖夜が口を開く。
「前なら、“寝かせておけ”の一言で終わりだったはず」
「そうだね」
愛斗は肩をすくめる。
「自分で他人の額の髪なんて払ったりなんて見たことないよ、あの人」
聖夜は小さく息を吐く。
「甘い」
「甘いね~」
即答。
だが悪い意味ではない。
愛斗は続ける。
「でもさ、あの子が笑うときの顔、見た?」
聖夜は思い出す。
霧島に向ける、まっすぐな笑顔。
怯えも計算もない。
「……見た」
「頭、あれ見てから変わった」
聖夜は静かに言う。
「手放せなくなる顔だなー」
愛斗は苦笑する。
「もう半分手遅れかもね」
⸻
その日の夕方。
霧島が再び医務室へ来ると、
奏多は起きていた。
「きた」
嬉しそうに言う。
霧島の口元が、ほんのわずかに緩む。
それを、扉の隙間から聖夜が見ていた。
数秒。
そして小さく呟く。
「……あんな顔、初めて見た」
背後で愛斗が腕を組む。
「だよね」
霧島は気づいていない。
自分の視線が、以前より柔らかいことも。
声のトーンが一段低く、優しくなっていることも。
奏多が笑うたび、ほんの少し誇らしげになることも。
聖夜は静かに言う。
「守る対象、ではなくなりつつあるかもな」
愛斗は目を細める。
「うん。もう“情”だよ」
医師としての視線は冷静だ。
だが声はどこか温かい。
「ただね」
愛斗は続ける。
「奏多が回復して、もし記憶が戻ったとき――」
聖夜がその先を引き取る。
「どうなるか、だな」
医務室の中では、
奏多が霧島の袖を軽く引いている。
無邪気な笑顔。
霧島はその手を払いのけない。
むしろ自然に受け入れている。
扉の外で、二人は顔を見合わせる。
「止めるか?」
聖夜の問い。
愛斗は少し考えて、首を振る。
「今はまだいい」
そして小さく笑う。
「頭があんな顔するの、貴重だからさ」
聖夜もわずかに口元を緩める。
だがその目は冷静だ。
「……守り切れるなら、が」
医務室の中では、
穏やかな時間が流れている。
だが全員がわかっている。
この感情は、
いずれ選択を迫られる。
それでも今は――
霧島の変化を、誰も止めなかった。
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