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第七話
𓎡𓄿𓇋𓃀𓍢𓏏𓍢〜怪物〜
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ホルスはクヌムに言われるがままその後を追う。アカシアやナツメヤシなどの樹木が群生するこの場所は、砂地とはいえ他の地域よりも幾分か涼しく感じられた。
ホルスが周りの景色に気を取られている間もクヌムはどんどんと先へ進んでいく。同じ砂地を歩いている筈なのに、彼の足取りは驚く程軽くホルスはついていくのに必死だった。
国土の90%以上が砂漠地帯と言われるこの国で生活圏といえばナイル川周辺とわずかに分布するオアシスに限られた。これらはケメト(黒い大地)と呼ばれ、人々の生命線となっている。
そしてあらゆる生物の生命維持には食物、そして水が欠かせない。殆ど雨が降らない乾燥地帯で人々が生き、文明が築けたのは、他でもないこの川のおかげだ。ナイルの水源地、熱帯地帯であるエチオピアやウガンダでは、毎年のようにモンスーンが発生し、大量の雨を降らせる。それがナイル川主流を増水させ、氾濫を起こすのだ。
氾濫したナイルはエジプトの地に肥沃な土と水を運び、人々はそれを使って作物を育て、今日まで命を繋いできたのである。
クヌムの歩くペースにも慣れ始めた頃、ホルスは周りの異様な静けさに気づく。これだけの自然の中にいるというのに鳥の鳴き声一つしない。
「……やけに静かじゃないか?」
ホルスはその不安を吐露するように話しかけた。徐々に日も落ち始め、その不気味さに拍車をかけている。
「そういう領域だからな」
短く呟かれたその言葉がホルスには不穏なものに感じてならない。神域か或いはその逆かもしれない、とホルスは思った。そして幼い頃に母から聞いた話が頭をよぎる。この世界には神々の手が届かない混沌の領域が存在し、魑魅魍魎が渦巻いている、と。
「何だ、怖いのか?」
「そんな訳ないだろ」
先程より明らかに口数の減ったホルスを茶化すかのようにクヌムが笑う。ホルスはその言葉を食い気味に否定した。
「別に責めようってんじゃねえ。恐怖心ってのは、危険を察知して生き延びる本能としてあらゆる生物に備わってるもんだ」
それに、とクヌムは続ける。
「お前の恐怖心は今まさに正しく機能したって訳だ」
どういう意味だ、そう問いかけようとしたホルスの声は突如響いた轟音にかき消された。
「な、何だ……?」
全身に伝わる地響きと舞い上がる砂塵に全ての感覚を遮断され、状況が把握できない。
「お前、戦闘経験はあるか?」
前方から僅かに聞こえるクヌムの至極冷静な声がホルスの意識を現実へと引き戻した。
「……狩り、ならあるけど」
「狩りね。上手く立ち回らねえと狩られる側になるかもな」
意味深なその言葉がまるで合図であったかのように現れた巨大な影。見上げる程巨大なワニがその巨体を揺らし、威嚇するその姿にホルスは息を呑む。その大きさは通常のナイルワニを遥かに凌駕し、もはや別の生き物のように見えた。
成程、狩られるとはそういう事か。
この窮地にも関わらず思いの外冷静な自分に驚いた。
――逃げるか?
ただでさえ手強そうな相手なのに加え、縄張りを侵され相当気が立っているようだ。とても正面から突っ込んでいく気にはなれない。頼りのクヌムもまるで自分には関係ないと言わんばかりに距離を取り、傍観している。
ホルスが踵を返し飛び立とうとすると、すかさずクヌムが言った。
「残念だがホルス。一度縄張りに足を踏み入れたらそいつを何とかするまで出られねえ」
やはりここは魔の領域。ホルスはこの男について来た事を後悔した。
「何とかって……」
「とにかく、そいつの動きを封じりゃいい。拘束するなり気絶させるなりやり方はいくらでもあんだろ。それより前見ろ、前」
突き放すような彼の態度に憤る間もなく、ホルスが再び前を向くと、脅威はすぐそこまで迫っていた。
ヒュッと風を切る音と共に何かがこちらに向かって飛んできた。ホルスはとっさに翼を広げ、飛び上がる。まるで鞭のようにしなるそれをギリギリ避けたホルスはぞっとした。
それは怒り狂ったワニの尾であり、獲物を逃したそれは凄まじい音と砂塵を立てて目の前の地面を抉る。もし当たっていたらただでは済まなかっただろう。
「ああ。そういやお前、ハヤブサだったな。動きは悪くねえ」
クヌムはやはり焦る訳でも、助けに入る訳でもなく、呑気にその様子を観察している。ホルスにはそれが何か試されているようで気味が悪かった。
とはいえこのままでは埒が明かない。体力を消耗しきる前に何とかしなくては。
「そんな怒んなって。別に荒らしに来た訳じゃねえよ」
クヌムはワニを宥める様に話しかけるが、それを挑発と捉えたのかワニは狂ったように体をしならせ、周りの木をなぎ倒しながら物凄い勢いで突進してきた。ホルスはそれをスラリと躱し、薙ぎ倒された木の一本を丸々その腕に抱える。
「こいつを引きつけてくれ!」
ホルスがそう叫ぶとクヌムはめんどくさそうにため息をついた。
「おい、お前の餌はこっちだ」
その目がクヌムを捉え、獲物が切り替わった瞬間、ホルスはその頭上から抱えた木を落とした。
獲物を嚙み砕く顎の力は一トンを超え、様々な生物の脅威となるワニだが、開口する力は意外にも非力な人間が押さえつけても開かない程軟弱だ。
ホルスの落とした木の重さで開口出来なくなったワニは混乱してその動きを止めた。狩りから派生したサバイバル知識が言葉通り自らの命を救う事になろうとは。ホルスはほっと胸を撫で下ろす。
だが安心したのも束の間、ホルスは先程地面を抉った尾が再び自分に向けられている事に気づかなかった。
「危な――」
クヌムが声を上げた時、それは既に逃げられない距離にあった。もはやどうする事も出来ず、ホルスはぎゅっと目を瞑った。
ホルスが周りの景色に気を取られている間もクヌムはどんどんと先へ進んでいく。同じ砂地を歩いている筈なのに、彼の足取りは驚く程軽くホルスはついていくのに必死だった。
国土の90%以上が砂漠地帯と言われるこの国で生活圏といえばナイル川周辺とわずかに分布するオアシスに限られた。これらはケメト(黒い大地)と呼ばれ、人々の生命線となっている。
そしてあらゆる生物の生命維持には食物、そして水が欠かせない。殆ど雨が降らない乾燥地帯で人々が生き、文明が築けたのは、他でもないこの川のおかげだ。ナイルの水源地、熱帯地帯であるエチオピアやウガンダでは、毎年のようにモンスーンが発生し、大量の雨を降らせる。それがナイル川主流を増水させ、氾濫を起こすのだ。
氾濫したナイルはエジプトの地に肥沃な土と水を運び、人々はそれを使って作物を育て、今日まで命を繋いできたのである。
クヌムの歩くペースにも慣れ始めた頃、ホルスは周りの異様な静けさに気づく。これだけの自然の中にいるというのに鳥の鳴き声一つしない。
「……やけに静かじゃないか?」
ホルスはその不安を吐露するように話しかけた。徐々に日も落ち始め、その不気味さに拍車をかけている。
「そういう領域だからな」
短く呟かれたその言葉がホルスには不穏なものに感じてならない。神域か或いはその逆かもしれない、とホルスは思った。そして幼い頃に母から聞いた話が頭をよぎる。この世界には神々の手が届かない混沌の領域が存在し、魑魅魍魎が渦巻いている、と。
「何だ、怖いのか?」
「そんな訳ないだろ」
先程より明らかに口数の減ったホルスを茶化すかのようにクヌムが笑う。ホルスはその言葉を食い気味に否定した。
「別に責めようってんじゃねえ。恐怖心ってのは、危険を察知して生き延びる本能としてあらゆる生物に備わってるもんだ」
それに、とクヌムは続ける。
「お前の恐怖心は今まさに正しく機能したって訳だ」
どういう意味だ、そう問いかけようとしたホルスの声は突如響いた轟音にかき消された。
「な、何だ……?」
全身に伝わる地響きと舞い上がる砂塵に全ての感覚を遮断され、状況が把握できない。
「お前、戦闘経験はあるか?」
前方から僅かに聞こえるクヌムの至極冷静な声がホルスの意識を現実へと引き戻した。
「……狩り、ならあるけど」
「狩りね。上手く立ち回らねえと狩られる側になるかもな」
意味深なその言葉がまるで合図であったかのように現れた巨大な影。見上げる程巨大なワニがその巨体を揺らし、威嚇するその姿にホルスは息を呑む。その大きさは通常のナイルワニを遥かに凌駕し、もはや別の生き物のように見えた。
成程、狩られるとはそういう事か。
この窮地にも関わらず思いの外冷静な自分に驚いた。
――逃げるか?
ただでさえ手強そうな相手なのに加え、縄張りを侵され相当気が立っているようだ。とても正面から突っ込んでいく気にはなれない。頼りのクヌムもまるで自分には関係ないと言わんばかりに距離を取り、傍観している。
ホルスが踵を返し飛び立とうとすると、すかさずクヌムが言った。
「残念だがホルス。一度縄張りに足を踏み入れたらそいつを何とかするまで出られねえ」
やはりここは魔の領域。ホルスはこの男について来た事を後悔した。
「何とかって……」
「とにかく、そいつの動きを封じりゃいい。拘束するなり気絶させるなりやり方はいくらでもあんだろ。それより前見ろ、前」
突き放すような彼の態度に憤る間もなく、ホルスが再び前を向くと、脅威はすぐそこまで迫っていた。
ヒュッと風を切る音と共に何かがこちらに向かって飛んできた。ホルスはとっさに翼を広げ、飛び上がる。まるで鞭のようにしなるそれをギリギリ避けたホルスはぞっとした。
それは怒り狂ったワニの尾であり、獲物を逃したそれは凄まじい音と砂塵を立てて目の前の地面を抉る。もし当たっていたらただでは済まなかっただろう。
「ああ。そういやお前、ハヤブサだったな。動きは悪くねえ」
クヌムはやはり焦る訳でも、助けに入る訳でもなく、呑気にその様子を観察している。ホルスにはそれが何か試されているようで気味が悪かった。
とはいえこのままでは埒が明かない。体力を消耗しきる前に何とかしなくては。
「そんな怒んなって。別に荒らしに来た訳じゃねえよ」
クヌムはワニを宥める様に話しかけるが、それを挑発と捉えたのかワニは狂ったように体をしならせ、周りの木をなぎ倒しながら物凄い勢いで突進してきた。ホルスはそれをスラリと躱し、薙ぎ倒された木の一本を丸々その腕に抱える。
「こいつを引きつけてくれ!」
ホルスがそう叫ぶとクヌムはめんどくさそうにため息をついた。
「おい、お前の餌はこっちだ」
その目がクヌムを捉え、獲物が切り替わった瞬間、ホルスはその頭上から抱えた木を落とした。
獲物を嚙み砕く顎の力は一トンを超え、様々な生物の脅威となるワニだが、開口する力は意外にも非力な人間が押さえつけても開かない程軟弱だ。
ホルスの落とした木の重さで開口出来なくなったワニは混乱してその動きを止めた。狩りから派生したサバイバル知識が言葉通り自らの命を救う事になろうとは。ホルスはほっと胸を撫で下ろす。
だが安心したのも束の間、ホルスは先程地面を抉った尾が再び自分に向けられている事に気づかなかった。
「危な――」
クヌムが声を上げた時、それは既に逃げられない距離にあった。もはやどうする事も出来ず、ホルスはぎゅっと目を瞑った。
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