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第九話
𓎼𓇋𓍯𓍢〜偽りの王〜
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感情のまま半ば啖呵を切るような形で神殿を後にしたイシスはアヌビスを置き去りにした事を少しばかり後悔していた。
だが神殿の神官達はアヌビスにとっても幼少期からの顔なじみであり、病気や死別など特別な理由がない限りその顔ぶれが変わる事はない。イシスにとって彼らは家族同然であり、また彼らにとってもイシスは忠誠を誓い、崇拝する神であり続けたからである。
何より、彼ももう大人である。余程のことがない限り問題は起きない筈だ。そう言い聞かせてイシスは目的の場所へと向かった。
彼女が向かったのは他でもない王の神殿である。イシスは一連の事件には弟が絡んでいるという確信を持っていた。
何故今になって自分達に危害を加えるような真似をするのか、自ら足を運んだのはその真意を確かめる為でもあった。
望むものは全て手に入れた筈だ。これ以上何を望むというのか。
イシスはぎゅっと唇を噛む。あの男の強欲さと残虐性は神ならざるものだ。一刻も早く問いたださなければ。
王宮を兼ねたその建物はやはり他のどの神殿よりも荘厳で迫力がある。華美な彫刻が施されたオベリスクを横目にその先にある塔門に目を向けると、そこには眠そうに欠伸をする門番の神官が二人立っていた。
王の警備も随分と手薄なものだ。イシスは嘲笑を浮かべる。
しかし戦争の神相手に反旗を翻す者などいよう筈もなく、さほど問題がないのが事実だ。その驚異的な強さと残虐性は周知の事実だが、彼自身もまた己の強さに胡座を掻いている事に間違いはなかった。
イシスが塔門へと近づくと彼らは驚いたように背筋を伸ばした。
「イシス様。本日は一体どの様なご用件で……?」
「王に謁見を。それ以外に一体何があると言うのです?」
イシスが冷ややかな目線を送ると神官達はすくみ上がり、すぐにその身を引いた。
この時間ならまだ寝室には行っていないだろう。無論寝込みを襲うなどどいう無粋な真似はしない。
広大な神殿だが、イシスの足に迷いはなかった。迷う事などある筈もない。かつて自分達が暮らしていた神殿なのだ。セトが夫を殺し王座を奪い取るまでは——。
執務室へと続く列柱室を歩いていると、イシスの存在に気づいた神官達が慌ててその場に跪く。突然の訪問に皆驚きを隠せないのだろう。時々こちらを盗み見る様な視線も感じた。
そんな視線をものともせずさらに奥へと進むイシスの前に一人の神官が現れ、目の前で跪いた。
見た目からして神官の中でも地位の高い者のようだが、人間が神の行く手を阻むなどという無礼は決して許されるものではない。
「イシス様、セト様は只今会議中でして……。」
「会議?」
イシスは思わず嘲笑した。この国を憂うどころか破壊する事しか頭にないあの男が会議など滑稽にも程がある。
「そこを退きなさい」
しかしその命令にも神官はその場を動こうとしなかった。その様子にイシスはため息をつき、神官の肩に手を伸ばす。
「——ッ」
「それ程までに怖いのですか。主人の機嫌を損ねるのが」
その手が肩に触れた瞬間、神官の体がぐらっと傾き、そのまま床に倒れ込んだ。跪いたままその様子を窺っていた神官達はひいと悲鳴を上げ、石の様に動かなくなった神官を凝視する。
「覚えておきなさい。人も神も大切なものを守る為ならいくらでも残虐になるのです」
冷たく言い放ち、イシスは執務室の前で深く息を吸った。
足を踏み入れた瞬間、まるで時が止まったかの様に皆足を止め、こちらを凝視する。まさに会議中といった雰囲気で、中央の長机には何枚もの書類が山積みになっていた。神官の一人が驚きのあまり立ち上がった拍子に、その山が盛大に崩れていく。
神官達が驚くのも無理はない。二人が顔を合わせるのは数十年ぶりで、オシリスが殺された後はこれが初対面だった。
呆気に取られる神官達を横目に、イシスは玉座の前に立ち男を見上げる。神官達は一体どんな会話がなされるのであろうとその様子を固唾を飲んで見守っている。
褐色の肌に漆黒の長い髪を後ろで一つに束ね、その端正な顔立ちは横暴な性格を補って余りある程美しいと評判だった。
それ故彼の周りには常に女性神の取り巻きが出来ていたが、当の本人は気にも止めずむしろ疎ましく思っていたようだ。もっとも、彼が王位に就いてその残虐性に拍車がかかってからは誰も寄り付かなくなったようではあるが。
彼は書物を片手に豪華な玉座に座り、傍に何人もの神官達を侍らせていた。
——いいご身分だこと。
イシスは嘲るように笑った。
一方、セトは表情一つ変えず冷ややかな目でこちらを見つめている。曲がりなりにも血の繋がった兄弟に向ける視線ではない。その鮮やかな真紅の瞳はいつもイシスの心をざわつかせた。数多の命を無慈悲に奪い、流れた血のように見えるのだ。
セトは冷ややかな視線をこちらに向けたまま口を開いた。
「姉上自ら神殿に足を運ばれるとは珍しい」
そのわざとらしい口調と態度がイシスの神経を逆撫でした。生まれてこの方彼が自分を敬ったことなど一度もない。
「わたしが今日何故ここに来たか分かっているわね?」
静まり返った室内にイシスの震えた声が響く。彼女から発せられる殺気のようなものが周りの空気をピリピリと揺らした。
「何のことだか。言いたい事があるならはっきり言え」
先程のへり下った態度を一変させ、セトは吐き捨てるように言った。
「神官達を手に掛けたのは貴方ね? そしてその遺体を持ち帰ったのも。直接手を下していなくても、息が掛かっている事は確かよ。目的は何? 言いなさい」
イシスが強い口調でけしかけるとセトはフンと鼻で笑った。
「さっきから何を勘違いしているのか知らんが俺は何もしていない。お前達に何が起きようが俺にはどうでもいい事だ」
「この期に及んでシラを切るつもり? こんな非道な事、貴方以外に誰がするっていうの?」
我ながら、こんな短絡的な言葉を発するなんて思ってもみなかった。しかし夫の仇を目の前にして冷静でいられる訳がない。
「驚いたな。まさか何の根拠もなく俺がやったと決めつけるとは。お前はもっと考えのある奴だと思っていたが」
画策など衝動的にここへ乗り込んだ時点で破綻しているのだ。今更理性的になる必要もない。
「貴方に私の何が分かるというの? 夫を殺した反逆者が知ったような口を聞かないで」
腹の底からふつふつと湧き上がる感情が堰を切ったように溢れ出し、空気が揺れる。
周りにいた神官達が次々と倒れ、苦悶の表情でその場に蹲った。彼らは聖職者といえども人間である。神から発せられるその気に耐えられる者などいるはずもない。
対してセトは涼しい顔でイシスを見下ろす。
「何を怒っている? 神殿で何があったか知らんが俺は一切無関係だと言っているだろう」
セトはその気をものともせず立ち上がり、その顔をイシスの目と鼻の先まで近づけた。
「俺の気が変わらない内に出て行け。それとも息子共々バラバラに切り刻んでやろうか? ——オシリスと同じように」
夫を殺し、王座まで奪っておきながら平然と挑発する。それがこの男だと分かっていながらその怒りを抑えることができないイシスは目を瞑り、深く息を吸い込んだ。
息子達を引き合いに出されればこれ以上刺激するべきではない。今の言葉もただの挑発ではないだろう。喚けば喚くほどこの男を付け上がらせるだけだ。
「貴方はいつも自分を狩る側だと思っているけれど果たしてそれはいつまで続くかしら」
「鹿が虎に変わる事がないように狩られるものは一生狩られる運命だ。食物連鎖というのはそういうものだろう」
そう思うなら思っていればいい。
いつか必ずお前を王座から引きずり落としてやる。
イシスは嘲るように笑って踵を返した。
「言っておくがお前達を消したいと思ってる奴は俺だけじゃない。それを頭に入れておく事だな」
「ご忠告感謝するわ」
イシスはざわつく心を悟られまいと早足で神殿を後にした。
——ドンッ
静寂を破るその音に神官達は身を震わせて主を見た。
肘掛けにひびが入っている。
しかしその行動とは裏腹に不気味に笑う主を見て神官達はギョッとした。
「ジジイ共が何か企んでいるようだな。……面白い。ならば高見の見物といこうか」
だが神殿の神官達はアヌビスにとっても幼少期からの顔なじみであり、病気や死別など特別な理由がない限りその顔ぶれが変わる事はない。イシスにとって彼らは家族同然であり、また彼らにとってもイシスは忠誠を誓い、崇拝する神であり続けたからである。
何より、彼ももう大人である。余程のことがない限り問題は起きない筈だ。そう言い聞かせてイシスは目的の場所へと向かった。
彼女が向かったのは他でもない王の神殿である。イシスは一連の事件には弟が絡んでいるという確信を持っていた。
何故今になって自分達に危害を加えるような真似をするのか、自ら足を運んだのはその真意を確かめる為でもあった。
望むものは全て手に入れた筈だ。これ以上何を望むというのか。
イシスはぎゅっと唇を噛む。あの男の強欲さと残虐性は神ならざるものだ。一刻も早く問いたださなければ。
王宮を兼ねたその建物はやはり他のどの神殿よりも荘厳で迫力がある。華美な彫刻が施されたオベリスクを横目にその先にある塔門に目を向けると、そこには眠そうに欠伸をする門番の神官が二人立っていた。
王の警備も随分と手薄なものだ。イシスは嘲笑を浮かべる。
しかし戦争の神相手に反旗を翻す者などいよう筈もなく、さほど問題がないのが事実だ。その驚異的な強さと残虐性は周知の事実だが、彼自身もまた己の強さに胡座を掻いている事に間違いはなかった。
イシスが塔門へと近づくと彼らは驚いたように背筋を伸ばした。
「イシス様。本日は一体どの様なご用件で……?」
「王に謁見を。それ以外に一体何があると言うのです?」
イシスが冷ややかな目線を送ると神官達はすくみ上がり、すぐにその身を引いた。
この時間ならまだ寝室には行っていないだろう。無論寝込みを襲うなどどいう無粋な真似はしない。
広大な神殿だが、イシスの足に迷いはなかった。迷う事などある筈もない。かつて自分達が暮らしていた神殿なのだ。セトが夫を殺し王座を奪い取るまでは——。
執務室へと続く列柱室を歩いていると、イシスの存在に気づいた神官達が慌ててその場に跪く。突然の訪問に皆驚きを隠せないのだろう。時々こちらを盗み見る様な視線も感じた。
そんな視線をものともせずさらに奥へと進むイシスの前に一人の神官が現れ、目の前で跪いた。
見た目からして神官の中でも地位の高い者のようだが、人間が神の行く手を阻むなどという無礼は決して許されるものではない。
「イシス様、セト様は只今会議中でして……。」
「会議?」
イシスは思わず嘲笑した。この国を憂うどころか破壊する事しか頭にないあの男が会議など滑稽にも程がある。
「そこを退きなさい」
しかしその命令にも神官はその場を動こうとしなかった。その様子にイシスはため息をつき、神官の肩に手を伸ばす。
「——ッ」
「それ程までに怖いのですか。主人の機嫌を損ねるのが」
その手が肩に触れた瞬間、神官の体がぐらっと傾き、そのまま床に倒れ込んだ。跪いたままその様子を窺っていた神官達はひいと悲鳴を上げ、石の様に動かなくなった神官を凝視する。
「覚えておきなさい。人も神も大切なものを守る為ならいくらでも残虐になるのです」
冷たく言い放ち、イシスは執務室の前で深く息を吸った。
足を踏み入れた瞬間、まるで時が止まったかの様に皆足を止め、こちらを凝視する。まさに会議中といった雰囲気で、中央の長机には何枚もの書類が山積みになっていた。神官の一人が驚きのあまり立ち上がった拍子に、その山が盛大に崩れていく。
神官達が驚くのも無理はない。二人が顔を合わせるのは数十年ぶりで、オシリスが殺された後はこれが初対面だった。
呆気に取られる神官達を横目に、イシスは玉座の前に立ち男を見上げる。神官達は一体どんな会話がなされるのであろうとその様子を固唾を飲んで見守っている。
褐色の肌に漆黒の長い髪を後ろで一つに束ね、その端正な顔立ちは横暴な性格を補って余りある程美しいと評判だった。
それ故彼の周りには常に女性神の取り巻きが出来ていたが、当の本人は気にも止めずむしろ疎ましく思っていたようだ。もっとも、彼が王位に就いてその残虐性に拍車がかかってからは誰も寄り付かなくなったようではあるが。
彼は書物を片手に豪華な玉座に座り、傍に何人もの神官達を侍らせていた。
——いいご身分だこと。
イシスは嘲るように笑った。
一方、セトは表情一つ変えず冷ややかな目でこちらを見つめている。曲がりなりにも血の繋がった兄弟に向ける視線ではない。その鮮やかな真紅の瞳はいつもイシスの心をざわつかせた。数多の命を無慈悲に奪い、流れた血のように見えるのだ。
セトは冷ややかな視線をこちらに向けたまま口を開いた。
「姉上自ら神殿に足を運ばれるとは珍しい」
そのわざとらしい口調と態度がイシスの神経を逆撫でした。生まれてこの方彼が自分を敬ったことなど一度もない。
「わたしが今日何故ここに来たか分かっているわね?」
静まり返った室内にイシスの震えた声が響く。彼女から発せられる殺気のようなものが周りの空気をピリピリと揺らした。
「何のことだか。言いたい事があるならはっきり言え」
先程のへり下った態度を一変させ、セトは吐き捨てるように言った。
「神官達を手に掛けたのは貴方ね? そしてその遺体を持ち帰ったのも。直接手を下していなくても、息が掛かっている事は確かよ。目的は何? 言いなさい」
イシスが強い口調でけしかけるとセトはフンと鼻で笑った。
「さっきから何を勘違いしているのか知らんが俺は何もしていない。お前達に何が起きようが俺にはどうでもいい事だ」
「この期に及んでシラを切るつもり? こんな非道な事、貴方以外に誰がするっていうの?」
我ながら、こんな短絡的な言葉を発するなんて思ってもみなかった。しかし夫の仇を目の前にして冷静でいられる訳がない。
「驚いたな。まさか何の根拠もなく俺がやったと決めつけるとは。お前はもっと考えのある奴だと思っていたが」
画策など衝動的にここへ乗り込んだ時点で破綻しているのだ。今更理性的になる必要もない。
「貴方に私の何が分かるというの? 夫を殺した反逆者が知ったような口を聞かないで」
腹の底からふつふつと湧き上がる感情が堰を切ったように溢れ出し、空気が揺れる。
周りにいた神官達が次々と倒れ、苦悶の表情でその場に蹲った。彼らは聖職者といえども人間である。神から発せられるその気に耐えられる者などいるはずもない。
対してセトは涼しい顔でイシスを見下ろす。
「何を怒っている? 神殿で何があったか知らんが俺は一切無関係だと言っているだろう」
セトはその気をものともせず立ち上がり、その顔をイシスの目と鼻の先まで近づけた。
「俺の気が変わらない内に出て行け。それとも息子共々バラバラに切り刻んでやろうか? ——オシリスと同じように」
夫を殺し、王座まで奪っておきながら平然と挑発する。それがこの男だと分かっていながらその怒りを抑えることができないイシスは目を瞑り、深く息を吸い込んだ。
息子達を引き合いに出されればこれ以上刺激するべきではない。今の言葉もただの挑発ではないだろう。喚けば喚くほどこの男を付け上がらせるだけだ。
「貴方はいつも自分を狩る側だと思っているけれど果たしてそれはいつまで続くかしら」
「鹿が虎に変わる事がないように狩られるものは一生狩られる運命だ。食物連鎖というのはそういうものだろう」
そう思うなら思っていればいい。
いつか必ずお前を王座から引きずり落としてやる。
イシスは嘲るように笑って踵を返した。
「言っておくがお前達を消したいと思ってる奴は俺だけじゃない。それを頭に入れておく事だな」
「ご忠告感謝するわ」
イシスはざわつく心を悟られまいと早足で神殿を後にした。
——ドンッ
静寂を破るその音に神官達は身を震わせて主を見た。
肘掛けにひびが入っている。
しかしその行動とは裏腹に不気味に笑う主を見て神官達はギョッとした。
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