21 / 91
第十九話
𓎼𓇋𓅱𓄿𓎡𓍢〜疑惑〜
しおりを挟む
『ほら 急いで
恋しい女のところへ 行きなさい
砂漠の中を跳ねるガゼルの
足が 揺れ動き
四肢が折れ曲がるように
狩人と犬どもに追い立てられて
恐怖に襲われるときの』
***
王宮の影に隠れるようにして佇む古びた建物。長年吹き付ける砂塵の影響でその半分以上が砂に埋もれている。まるで存在自体が否定されているかの如く有様だが、れっきとした王宮の一部である。
手入れもされず荒れ放題。この離れに一切の生物が寄りつかなくなった理由はその外観のせいではない。夜毎聞こえてくる女の声。泣き声とも歌声とも噂されるそれが全ての根源だと言えるだろう。
そんな陰湿な空気漂うこの場所にただ一柱、通い続ける者がいた。まるで牢獄のような部屋はひどく殺風景で、昼間だというのに少し肌寒い。
「ネフティス。調子はどう? ちゃんと眠れているかしら」
イシスはなるべく平静を装い彼女に声を掛ける。その声に反応するように彼女はベッドから体を起こした。
腕枷が重い音を立てて軋み、か細い腕がイシスの腰に縋りつく。痩せこけた妹を見てイシスは顔を歪ませた。
「姉さんごめんなさい、私……!」
嗚咽を漏らし、泣き喚くその姿を憐れむようにイシスは今にも折れてしまいそうな細い体を抱きしめた。
「……いいのよ。貴方はもう十分苦しんだわ。私はもう大丈夫」
「いいえ! 私は許されないことを……姉さんとあの子を裏切ってしまった……!」
彼女がこうなってもう何年になるだろう。痛々しいその姿を見つめながらイシスは過去の記憶を呼び覚ます。
あの日からネフティスの心は完全に壊れてしまった。この枷を解き放ち、全ての責苦から解放してやれたらどんなにいいだろう。
だがこうして寝台に繋いでいないと時々に暴れて手が付けられなくなるのも事実。彼女の心は繊細で、不安定だった。
最も恐ろしいのは自ら命を絶ってしまう事。それだけは避けなければならない。それが彼女をここに繋ぎ止める最たる理由、そしてセトを遠ざける唯一の方法だった。
それ故イシスには彼女を慰める為、こうして時々会いに来て抱きしめてやる事しかできない。イシスは涙でぐしょぐしょになった彼女の顔に手をかざす。すると先程の興奮が嘘のように彼女はゆっくりと瞼を閉じた。
大丈夫だと口ではそう言っておきながら、その寝顔を見ていると自分の中に未だ彼女への怨念が燻っているのを実感する。実際眠っている彼女の首に手を掛けたことは何度もあった。しかしそんな事をすれば絶対に後悔する。何よりあの子に申し訳が立たない。
愛憎がひしめき合い、葛藤し、イシス自身もその感情と戦い続けてきたのだ。そして今も——。
ネフティスをベッドに寝かせたイシスはそっと部屋を出る。
その時、扉の前に佇んでいた黒い影がさっと通り過ぎていくのが見えた。
「待ちなさい!」
影はまるで脱兎のように、影から影へ飛び跳ねながら逃げていく。それを追い、走り出そうとしたイシスははっとした。見覚えがある。そしてこの気配も——。
イシスは顔を覆い、その場に崩れ落ちる。
「……あぁ。気付いてしまったのですね」
イシスは物憂げなその背中をただ見送る事しか出来なかった。
出典元 ボリス・デ・ラケヴィルツ=編 谷口 勇=訳 「古代エジプト恋愛詩集」而立書房 1992年 p70
恋しい女のところへ 行きなさい
砂漠の中を跳ねるガゼルの
足が 揺れ動き
四肢が折れ曲がるように
狩人と犬どもに追い立てられて
恐怖に襲われるときの』
***
王宮の影に隠れるようにして佇む古びた建物。長年吹き付ける砂塵の影響でその半分以上が砂に埋もれている。まるで存在自体が否定されているかの如く有様だが、れっきとした王宮の一部である。
手入れもされず荒れ放題。この離れに一切の生物が寄りつかなくなった理由はその外観のせいではない。夜毎聞こえてくる女の声。泣き声とも歌声とも噂されるそれが全ての根源だと言えるだろう。
そんな陰湿な空気漂うこの場所にただ一柱、通い続ける者がいた。まるで牢獄のような部屋はひどく殺風景で、昼間だというのに少し肌寒い。
「ネフティス。調子はどう? ちゃんと眠れているかしら」
イシスはなるべく平静を装い彼女に声を掛ける。その声に反応するように彼女はベッドから体を起こした。
腕枷が重い音を立てて軋み、か細い腕がイシスの腰に縋りつく。痩せこけた妹を見てイシスは顔を歪ませた。
「姉さんごめんなさい、私……!」
嗚咽を漏らし、泣き喚くその姿を憐れむようにイシスは今にも折れてしまいそうな細い体を抱きしめた。
「……いいのよ。貴方はもう十分苦しんだわ。私はもう大丈夫」
「いいえ! 私は許されないことを……姉さんとあの子を裏切ってしまった……!」
彼女がこうなってもう何年になるだろう。痛々しいその姿を見つめながらイシスは過去の記憶を呼び覚ます。
あの日からネフティスの心は完全に壊れてしまった。この枷を解き放ち、全ての責苦から解放してやれたらどんなにいいだろう。
だがこうして寝台に繋いでいないと時々に暴れて手が付けられなくなるのも事実。彼女の心は繊細で、不安定だった。
最も恐ろしいのは自ら命を絶ってしまう事。それだけは避けなければならない。それが彼女をここに繋ぎ止める最たる理由、そしてセトを遠ざける唯一の方法だった。
それ故イシスには彼女を慰める為、こうして時々会いに来て抱きしめてやる事しかできない。イシスは涙でぐしょぐしょになった彼女の顔に手をかざす。すると先程の興奮が嘘のように彼女はゆっくりと瞼を閉じた。
大丈夫だと口ではそう言っておきながら、その寝顔を見ていると自分の中に未だ彼女への怨念が燻っているのを実感する。実際眠っている彼女の首に手を掛けたことは何度もあった。しかしそんな事をすれば絶対に後悔する。何よりあの子に申し訳が立たない。
愛憎がひしめき合い、葛藤し、イシス自身もその感情と戦い続けてきたのだ。そして今も——。
ネフティスをベッドに寝かせたイシスはそっと部屋を出る。
その時、扉の前に佇んでいた黒い影がさっと通り過ぎていくのが見えた。
「待ちなさい!」
影はまるで脱兎のように、影から影へ飛び跳ねながら逃げていく。それを追い、走り出そうとしたイシスははっとした。見覚えがある。そしてこの気配も——。
イシスは顔を覆い、その場に崩れ落ちる。
「……あぁ。気付いてしまったのですね」
イシスは物憂げなその背中をただ見送る事しか出来なかった。
出典元 ボリス・デ・ラケヴィルツ=編 谷口 勇=訳 「古代エジプト恋愛詩集」而立書房 1992年 p70
10
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち
ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。
クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。
それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。
そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決!
その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
裏切りの代償
中岡 始
キャラ文芸
かつて夫と共に立ち上げたベンチャー企業「ネクサスラボ」。奏は結婚を機に経営の第一線を退き、専業主婦として家庭を支えてきた。しかし、平穏だった生活は夫・尚紀の裏切りによって一変する。彼の部下であり不倫相手の優美が、会社を混乱に陥れつつあったのだ。
尚紀の冷たい態度と優美の挑発に苦しむ中、奏は再び経営者としての力を取り戻す決意をする。裏切りの証拠を集め、かつての仲間や信頼できる協力者たちと連携しながら、会社を立て直すための計画を進める奏。だが、それは尚紀と優美の野望を徹底的に打ち砕く覚悟でもあった。
取締役会での対決、揺れる社内外の信頼、そして壊れた夫婦の絆の果てに待つのは――。
自分の誇りと未来を取り戻すため、すべてを賭けて挑む奏の闘い。復讐の果てに見える新たな希望と、繊細な人間ドラマが交錯する物語がここに。
中1でEカップって巨乳だから熱く甘く生きたいと思う真理(マリー)と小説家を目指す男子、光(みつ)のラブな日常物語
jun( ̄▽ ̄)ノ
大衆娯楽
中1でバスト92cmのブラはEカップというマリーと小説家を目指す男子、光の日常ラブ
★作品はマリーの語り、一人称で進行します。
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
せんせいとおばさん
悠生ゆう
恋愛
創作百合
樹梨は小学校の教師をしている。今年になりはじめてクラス担任を持つことになった。毎日張り詰めている中、クラスの児童の流里が怪我をした。母親に連絡をしたところ、引き取りに現れたのは流里の叔母のすみ枝だった。樹梨は、飄々としたすみ枝に惹かれていく。
※学校の先生のお仕事の実情は知りませんので、間違っている部分がっあたらすみません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる