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三章 恋人のフリ?

39話 鴨志田の手帳

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「言っときますけど、なにもしてませんから、私」
「それをあなたが言っても、説得力ゼロよ。周りはみんなそう思ってるんだもの」

カーディガンを脱ぎながらも、普段から悪目立ちしているせいだとか、希美への口撃は止まない。

「しょうもないガセネタですよ」

間にいた鴨志田が席ごと後ろに下がり割って入った。

どうやら、希美を守ってくれたようだ。不意のことにとくんと胸を打たれるが、同時に恐怖も覚えた。

低く押さえつけたようなその声音には明白に怒りが含まれていた。佐野課長は少し怯んだように、肥えた唇をぶるりと痙攣らせる。

「で、でもこのままじゃまずいんじゃない? この部署は、いろんな部門と関わるんだから。人からの印象は大事よ」
「……仕事にそんなもの持ち込まれても困ります!」
「さぁ、それは人それぞれでしょ。ま、せいぜい気をつけることね」

佐野課長は勤怠入力だけを済ませると、ぎこちないステップで、ひらひら手を振り出ていく。
人事部近くにある給茶器までの、毎朝恒例のお茶汲みだ。一度行ったら、悠に十分以上は帰ってこないのが通例である。

なんだか、恐ろしいことを言い残された気がする。

「本当に仕事に影響でたらどうしましょう、鴨志田さん……」
「ならないことを祈るしかないなぁ」
「私、弁明に行ったほうがいいんでしょうか」
「ほっとけよ。知らぬ存ぜぬが一番自然に収まるさ」

鴨志田は、まるで何度も経験してきたかのような口ぶりだった。

謎の多い彼のことだ。こうして噂の種になることは過去にもあったのかもしれない。

人間関係の情報に疎い希美は知らないけれど。

「とにかく静観だからな、後輩」

鴨志田はおもむろに立ち上がる。
希美の肩を叩いてから、コーヒー買ってくる、と出口へ向かった。

「さっきも飲んでたじゃないですか」
「クッキーと合わせるつもりだったんだよ、本当は」
「もしかして、動揺してます?」
「……馬鹿いえよ」

鴨志田は素っ気なく残して、歩き出す。

ポケットに手を突っ込んだところから、手帳が落ちた。

彼が愛用している物だ。開いた状態になったせいか音があまり立たず、気づいていないらしい。希美は拾い上げて、ゆるっと大きな背中に名前を呼びかけた。

「鴨志田さん、これ!」
「あぁ、わりぃ。……中見たか?」

「い、いえ、そんな時間なかったですよ」
「ならいいんだ。ありがとうな」

奪われるように、手帳が鴨志田の手に渡る。

つもりこそなかったが、本当は少しだけ目に入ってしまった。開かれたページは、罫線だけが引いてあるメモ紙だった。

鴨志田らしく、その線は無視されていて、真ん中に一文だけ書きつけてあった。

『運のいい奴だけが勝手に宝物を見つける』、と。

前後もなにもない短文だけでは、よく意味が掴めなかった。
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