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四章 アレンジ料理

四章 アレンジ料理(4)

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 本当に都合よく、月曜日はこのところの雨が嘘のように、綺麗に晴れた。

待ち合わせ場所は、上野公園の噴水広場。平日でもたくさんの人が訪れる園内でも人気のスポットだ。かなり久しぶりにやって来た、なんだか感傷に浸りたくなる。

私がついたのは、約束の十四時から、なんと三十分も前だった。絶対遅れないようにと念には念を入れたせい、今度は早くなりすぎたのだ。

端のベンチで待っている心づもりだったが、いかんせん見渡せばカップルばかりだった。格好だけは遜色ないほど整えてきたけれど、心臓のほうはもたない。

ドギマギするのを紛らわすため、噴水のまわりをせかせかと歩く。

ちょっと気合を入れすぎたかもしれない。水色のワンピースに、丈の高いサンダルヒール。香水なんか振ったのは何年ぶりだろう。無理した感のある自分の身なりを振り見ていたら、どんと誰かに正面からぶつかった。

すぐに謝って顔を見上げてみれば、ブロンド。

「これは……お早いですね、佐田さん」

見目麗しい待ち人だった。

彼は、ジャケットスタイルに身を包んでいた。フォーマルな格好が似合わないわけがない。よく映えて、端的にいって格好よかった。

思えば、彼を店の外で見るのは初めてだ。

「え、江本さんこそ早いですよ」
「……迷ってはいけないなと思いまして」

少しだけ、その美貌に見とれる。江本さんは、なぜか空を見上げていた。暑いのか、ほんのり頬が赤い。
そのまま二人して噴水の飛沫を聞くこと、しばし。散歩されていた犬にひどく吠えられて、私たちは突かれるように広場を出た。

わざわざ噴水前を待ち合わせに指定したのは、私の方だった。上野公園内を親しい男の人と散策するのは、小さな頃からのささやかな憧れだったのだ。それから、過去の清算でもあった。

江本さんは、私の勝手な願望に付き合ってくれた。広い上野公園内を、ゆっくりと歩いて回る。さすがに動物園や美術館には誘えなかったけれど、

「やはり自然豊かですね。すぐそこに都会があるとは思えません。大変落ち着きます」
「分かります。私、昔落ち込んだらよくここに一人できてました」

園内中央にあるさくら通りの脇、清水観音堂や花園稲荷神社を二人で見られただけで十分だった。

神社にはたくさんの鳥居の横、『縁結び』と大きく札が掲げてあった。本殿に手を合わせるとき、ちらっと彼を見てしまったのは秘密だ。おかげでろくに願いを言えなかったが、小さなものならまさにその時叶っていた。
ぽわんと胸が少し温かくなる。

私は違う違うと、持ち歩いていた水を含んだ。

そうして三十分以上公園に滞在してから、当初の目的に移る。

私が江本さんを案内して向かったのは、百貨店のデパ地下にあるスーパーだった。
ここが、上野近辺ではもっとも野菜の品揃えが多い。母は来客がある時だけ、ここで具材を揃えていたから質もいいのだろう。それならば、お気に召すかと思ったのだ。

実際、目論見は当たった。

「同じ野菜でもこれだけ種類が置いてあるのは素晴らしいですね」

江本さんは、表情には出さないが愉快そうに、棚一つ一つをじっくりと眺めていく。私が押すカートへ、まず北海道のじゃがいも、玉ねぎと乗せた。

最初の野菜がこれとくれば、昨日のことがあったから思いつく料理は一つしかない。

「作るのはちゃんちゃん焼きですか」
「えぇ、どうせなら斎藤さんと同じものを作り返そうかと思いまして。そのためには、この芋と玉ねぎは欠かせませんね」
「えーっと、そう、なんですか?」

お店で使っている物と同じにしか見えないけれど……。

「なにせ地元で作られたものですから。本当は日頃から料理ごとにその地の物を使いたいのですが、普段の仕入れでそこまではなかなか難しいのです」

なるほど、郷土料理らしい理由だ。

「ということは地元の質がいい野菜を使えば、ついに完璧な郷土料理が!」

これまで食べてきた絶品料理たちがさらに美味しくなる。アバウトなイメージだけで、私はごくりと唾を飲んだ。けれど、

「究極の料理なんて不可能ですよ」

江本さんは、さらりと言って隣の棚へ。今度はしめじの品定めだ。私はその言葉に少し間足を止められたあと、カートを転がし後を追う。

「江本さんでも?」
「僕などまだまだですが、料理の鉄人と呼ばれる方々でもたどり着けるものではないと考えております。どこまで追求しても、人や時代によって料理というのは評価が異なりますから。でも、基本に忠実になれば近づくことはできます」
「基本でいいんですね」
「はい。どれだけ変化してみても、最後に料理が帰ってくる味。そういえば基本こそが究極に近いかことが分かるのではないでしょうか」

その基本から一定以上逸れすぎたら別物になるのだ、と江本さんはつけ加える。
つまり、ひふみさんが持ってきた彼女流の郷土料理は、その一線を超えていたわけだ。そこを跨ぐと、その先からはあるべき味へ戻れなくなる。

でもなんで、ひふみさんはわざわざ、あんなにはっきり変な組み合わせを生み出したのだろう。
思っていたら、江本さんは、さらに店内を移動する。

「この時期はキャベツの旬だよ~。品種たくさん用意してますよ!」

キャベツのコーナーでは、試食販売が行われていた。
これもたくさん種類があるが、私にはよく違いが分からない。江本さんが手に取るのをぼやっと眺めていたら、

「奥さん、食べてみるかい?」
「……えっ、私!?」

よもやの勘違いをされた。
私はぶんぶん首を振るが、訂正されたのは、「彼女さん」。
どうせこれきりの相手だ。わざわざ二度も違うというのは変だなと思って、あえてなにも言わないことにした。
爪楊枝に刺さったキャベツを渡され、いくつか食べ比べる。

すると、たしかに物によって全然違う。瑞々しさ、味の濃さ、葉の厚みに、柔らかさ。違う食べ物と言ってもいいほどだ。とくに、北海道の大玉キャベツが格別だった。

私は半ば感動して、江本さんにそれを伝えようとしたら、彼はもう随分遠くの方にいた。野菜を買いにきたはずが、なぜか精肉コーナー前だ。その横まで行く。

「お肉も買うんですか?」
「……いえ、その、すいませんでした。僕みたいなものの奥さん扱いなど申し訳ないなと。佐田さんは迷惑でしょうから」
「……あーそういう理由……。えっと、私はむしろ嬉しかったくらいで」

って、なに言っちゃってるんだ、私。早口で訂正にかかる。

「キャベツ! キャベツ買いに戻りましょう! 今すぐ! かなり美味しかったです、保証します!」
「……はい、佐田さんが言うなら、そうなんでしょう。あの、佐田さん」
「な、なんでしょう?」
「僕も同じ思いでございます」

なにが! 私は迫り上がってくる照れを押さえつけながら、さすがにそうは問いただせずに、カートをぐいぐい押す。

襟の裏には、もう見ぬふりはできないくらい、ほのかな火が灯っていた。

その火が消えないうちに、会計は終わり、私たちはデパートを後にした。
ただ仕入れは終わらない。今度のターゲットは、メインの鮭だ。それを仕入れる場所なんて、私には一つしか思いつかない。

「今日も繁盛しておりますね、ここは」
「ですね。どっかのお店の数ヶ月前とは大違い」
「……今は違うので、あまり比べないでください」

アメヤ横丁、つまりアメ横。
本当はデパートにも魚売り場はあるけれど、台東区に住む私にとって鮮魚といえば、まずこの通りだった。
幼い頃は、叩き売りに参加することを夢見たものだ。当然欲しいものはなかったけれど、もし安い高いが分かれば楽しいのだろうな、と思っていた。

「サバがなんと五百円! 今朝締めたてだよ。ウニにイクラはなんと千円ぽっきり!」

ただまぁ江本さんがそれを喜べるかは別問題だった。
むしろ、眉間には小じわが寄っていた。たかる客から随分後ろで腕を組む。

「上野にお店を持ってるんですから、これくらい大丈夫ですよ!」
「輪に入れないわけではございません。今、魚の種類、鮮度を確かめています」

本当だろうか、怪しい。
彼のつぶらな目をじーっと見つめてみてから、視線を露店の方へ切り替えた。このままでは、私の方が変な気分になってくる。

とはいえ、私の背では、目一杯踵を蹴上げてみても、魚の一尾も映らない。

ただし、

「北海道の時鮭一切れ二百円! 半身で千円、一尾で二千! この時期は脂乗ってるよ!」

威勢のいい声はこの混雑でもよく通った。

「安いんですか?」
「相場通りの値段でしょうか。でも、脂が乗っているのは嘘ではなさそうですね」

江本さんは一歩前へ踏み出る。
頑張れ、なんて半ば物見感覚でいたら、なぜかどんどん彼が遠ざかっていく。
あれれのうち、間に挟まるは人、人。ヒールということも凶と出たか、おぼつかない足取り、私は客波に流される。

「きゃっ」

いよいよ腰だけ地面へ持っていかれかけた時、ぱしっと手を掴んでくれた人がいた。

「佐田さん、大丈夫でしょうか」
「……はい」

江本さんは、私を引き起こすと、安堵の表情を見せる。そして、ならよかった、とはっきり笑った。そんな顔はずるい。お礼を言うのも忘れて、じっと見つめる。

「では僕は鮭を買ってくるので、もう少し離れたところでお待ちください」
「……はい」

はい、しか言ってないぞ、私。雑踏の中にいるのに、どういうわけか心臓の方がうるさかった。
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