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姦計を祓う

(4)

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ミツハの辛そうな表情が胸に痛い。鯉黒の無念と、黒い渦の恨みの主、それからミツハの辛さをどうにか出来ないものなのか。新菜は考えて、鯉黒に尋ねた。

「鯉黒さんが呪った村は、どうなったのです?」

「知らん。魚一匹に出来ることなんてたかが知れている。だからこそ、俺はあの村を今でも傷の痛みと共に恨んでいるんだ」

自分を犠牲にしておいて、のうのうと暮らす人間たち。

そう吐き捨てた鯉黒の手を、新菜は取った。

「鯉黒さん。私に出来ることをさせてください。鯉黒さんには恨みから解き放たれて欲しい。私に唄を唄わせて頂けませんか。人を思うミツハさまのお傍に、人を恨む方がいらっしゃるのはよくないような気がするのです」

「唄だと? 俺が聞くのか」

片眉を上げ、怪訝そうな顔をした鯉黒に一つ頷き、新菜は鯉黒を見つめた。

「はい。お嫌でなければ、聞いて頂きたいです」

鯉黒は押し黙った。新菜は鯉黒の反応を見て、否、と言っているわけではないのだな、と理解すると、風に載せて唄い始めた。



ひふみ 
よいむなや 
こともちろらね
しきる
ゆゐつわぬ 
そをたはくめか
うおえ
にさりへて 
のます
あせゑほれけ



ゆっくりと、最後の音を響かせる。鯉黒がぱちぱちと瞬きをした。首の傷を何度も触り、痛みを確認している。

「……傷の痛みが……和らいだ……」

鯉黒はにわかに信じられない、という顔をした。その言葉を聞いたミツハも、驚きの顔をする。新菜も一度の唄で効果があるとは思わなかったが、ミツハにも効果があったことが鯉黒にも通用したことが嬉しかった。

「鯉黒さん。これからも私、鯉黒さんの為に唄いますね。私は、唄う事しか出来ないので」

「お前の唄の不思議な力の所為かもしれん。だが俺は、人間であるお前をミツハさまの嫁として認めたわけではない。ミツハさまを、真に救わなければ、認めることは出来ない」

相変わらず新菜に厳しい言葉を向ける鯉黒に、ミツハは苦笑する。

「鯉黒、君の忠義は分かる。だが、私にもどうにもできない君の傷を新菜が癒したなら、彼女を認めてやってほしい」

ミツハの言葉に鯉黒が恭しくこうべを垂れる。鯉黒が頑なに自分を認めない理由が、新菜も少しだけ分かった。それが鯉黒の、ミツハに対する忠誠の気持ちなんだろう。そう思ってしまう気持ちは、新菜にも分かる。

「分かっています。私はただ、出来ることを淡々と行うだけです。それに、池の黒い渦も放っておけない。あの渦がミツハさまのおっしゃる通り、贄にされた誰かの恨みなら、私はその方に恨みから解き放たれて欲しい」

新菜はミツハに頭を下げて、下界へ行く許しを請うた。

「ミツハさまがお住まいになる穏やかな水宮に、こんな恨みの渦は似合いません。私に癒させてください」

「君が……、この恨みを浄化するというのか?」

ミツハの問いに、こくりと頷く。

「出来るかどうか分かりませんが、鯉黒さんに出来たように、この黒い渦の主の方にも恨みから解き放たれて欲しいのです。下界でミツハさまをお恨みになったままになってらっしゃるその方は、恨みを持ったままでは魂が輪廻の道を辿りません。事実を知ってしまった以上、巫女として見て見ぬるふりは出来ないのです」

しっかりとした目で言う新菜を、ミツハは黙って見つめて、そしてため息をついたかと思うと小さく頷いた。

「……黒い渦は、恨みの対象が私であるだけに、私が君について下界へ降りるのは得策ではない。私が君を守れないが、それでも行くのか」

「はい。ミツハさまをお救いするためにも」

少しの間瞑目したミツハが、許そう、と呟いた。

「君は強くなった……。宮奥(ここ)に来た頃が夢のようだな」

寂しそうに笑うミツハに、新菜は返さなければならない。

「いいえ、ミツハさまの為だと思うから、出来るのです。ミツハさまがいらっしゃればこそ」

「はは、頼もしい。では私は君の無事を祈ってここに居よう。必ず帰って来るのだよ」

「はい」

返事をして池の淵に立つ。一歩、足を踏み出せば、草履が黒い渦に触れたかと思うと、新菜は池の中に引きずり込まれるようにして、下界への道を辿った。
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