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第43話 三島の炯眼(改)

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(これまでのあらすじ……)

 住民から徴収する負担金の期日を巡り、郡長と意志の齟齬をきたしていた東村山郡役所は混乱の中にあり、一方の三島通庸県令不在の山形県庁においても、高木課長・鬼塚警部らは善後策に腐心します。一方、お梅と許嫁を装う峰一郎は、今まで通り、高楯村と天童村の間の連絡を取り持つ密使を勤めていました。そして、ようやく県庁に帰った三島県令は、今上陛下の山形行幸決定という成果を持ちかえりましたが、その三島県令を県庁で待ち構えていたのは、東村山郡での不穏な状況報告でした。

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 状況を総合して検討していた三島は、ふと、そこに違和感を感じるのでした。そして、あることに気付きます。

 自分の閃きに確信的なものを感じると、三島は悪戯な笑みを浮かべて、楽しそうに目の前の二人の部下に話しをします。

「じゃっどん……どうも、おはんらは頭が偏っておるかもしれんの」

 三島は『鬼県令』と、まるで血も涙もない悪鬼の如く言われていましたが、その実、子供のような悪戯っぽいことが大好きです。南国薩摩の風土なのか、緊迫した危機の中でも笑顔での軽口が大好きです。

「鬼塚くん、念のためじゃ、天童から山形への街道、船着き場、すべてに巡査を配置してくいやい。ついでん、県外者の出入りにも注意すっとじゃ」

 その指示に、一瞬、三島の意図を計りかねた高木課長と鬼塚警部でした。

 突然、三島から言い渡された警備配置に、ふたりは疑問を禁じえません。当時、山形本署に勤務する巡査は、臨時雇いの元士族も含めても100人にも届きません。

 現実に選抜した特別編成巡査隊40余名はなけなしの精鋭部隊で、これを出してしまえば、正直、お膝元である南村山郡の治安にも責任が持てない状態です。

 一体、三島県令の意図はなへんにありや?

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「百姓どもがおるんは東村山郡内じゃっで、なんでん山形に……? 」

 しばし、首をひねった鬼塚警部を三島県令はニヤニヤして楽しそうに眺めています。

 しかし、隣に立つ高木課長は、三島の意図することにすぐ気づいたようです。

「なるほど、……郡住民一同で裁判所に提訴するか……ワッパ騒動の前例がありながら……これは迂闊でした」

 ふと、あることに気付いた高木課長が顔を上げて、三島県令の悪戯な瞳に視線を返します。すると、その高木の言葉に対して、鬼塚警部も打てば響くようにその謎解きの答えを見つけました。

「そういや、一昨年やったが、天童村のもんが県ば訴えもした。まさかに……懲りん奴ばらじゃっで! 」

 さすがに三島の両輪と言われる二人です。すぐにその意味するところを理解しました。つまり、三島の警備配置は山形裁判所への提訴を未然に防ごうというものです。

 今までにも三島県令や県を提訴する民権家かぶれによる訴訟沙汰は何度もありました。しかし、その悉くを警察と県の圧力で押さえ込み、すべての提訴を取り下げさせてきました。

 それだけに裁判沙汰については、つい甘く見ていましたが、しかし、これが個人ではなく住民一同となれば、今までとは違い、事はそう簡単には行きません。

(役所に気取られずに、隠密裏に何万といる住人をまとめて原告の集団を作る……果たしてそんなことが可能だろうか? )

 それと気付くや、高木はすぐに頭の中をフル回転させ始めました。

(いやいや、ワッパ騒動の前例がある。あの時とは確かに状況がまるで違うし、より困難だとは思われる。しかし、根拠のない楽観論ほど危険なものはない。ならば、提訴されるよりは提訴前に絡め捕るにしくはない)

 つい住民蜂起の危険性ばかりにとらわれていた高木課長と鬼塚警部は、三島の炯眼に驚きました。

「わかったか? ……おいの勘じゃ、奴ら、おいと県を訴えるつもりじゃっで」

 三島は再び悪戯小僧のように、にやっと笑いました。

「留守もおんしらも、住民の暴発ばかり恐れちょるようじゃが、暴発するんは大体匂いで分かるもんじゃ。じゃっどん、おいの鼻はなんも匂わんど」

 三島はかつて弥兵衛と名乗っていた青年時代、薩摩藩激派の精忠組に所属して、暴発を実行する側にありました。

 しかし、その動きは藩の知るところとなり、同朋相撃つ惨劇の悲しい結末を見ることとなりました。それが、文久2年4月の寺田屋事件です。

 戊辰の戦塵も潜り抜けた三島には、生死の狭間たる戦陣を肌で知っている体験があり、いくさの嗅覚のようなものが備わっているのかもしれません。

「じゃっどん、そいでは人手が足りもんど、そんだけの手配ばしたら、天童への応援ができもはん」

 三島は笑って答えます。

「一揆の恐れが少ないとなれば、とりあえず、警察は住民どもの監視にとどめておけば良か。できるこつなら、新聞社や県境にも配置したかじゃが、巡査の数が足りもはんでの。……鬼塚どん、そいでんどうがじゃ?」

 治安維持を気にしている三島にとって、一番恐れているのは、山形の地主や県会議員らと、県外の民権派活動家との提携でした。

 住民が暴発するにしても民権派との連携のあるとなしとでは大きな違いがあります。

 三島としては、単なる百姓一揆ならば警察力で一気に鎮圧するのはたやすいことです。しかし、これが県外の民権派と連携しての動きとなれば少々やっかいです。

 まして、御鳳輦をお迎えせんとなれば、投石のひとつも許されざることなのです。

「ほんなこつなら、巡査増員計画ば、はよう通すんじゃったわい。いまいましい、県会の奴ばらのおかげで、今年にゃ出来んじゃったが! 」

 一年前の明治12年度警察関連予算案は、県会から49%削減修正されました。これに対して県側は、内務卿の指揮を受けての『原案執行権』を行使しました。

 とはいえ、県会によるこの活動は、県側に無形の民意圧力を加える結果ともなり、いかに原案執行権があるとはいっても、県側もフリーハンドで好き勝手に出来ない一定の影響を及ぼしていました。特に当時の県会が削減を目指したのは主に土木・警察・勧業の三点であり、警察関連予算は特に県会側のターゲットにされていました。

 このような状況の中、県庁では巡査300名体制を一挙に450名体制にする大増員計画を用意していましたが、県会の抵抗があまりに大きく、予算案の計上は延期を重ねつつ、明治14年度会計で計上する予定になっていました。

 明治12年の山形県統計表によると、当時の警察幹部職員である警部は28人、巡査は305人、この他に旧士族からの臨時任用も行われており、明治14年の統計では巡査及雇人員390人となっています。

 令和元年時点での事務職員を除く山形県警察官数は約二千人強、人口が違いますので単純比較はできませんが、明治13年時点では現在のおよそ6分の1程度のマンパワーしかありませんでした。しかし、三島県令の意向もあって、それでも当時の東北6県の中では、山形県は飛びぬけて第一位の巡査数を誇っていたのでした。

 そのような背景もあって、巡査数不足を嘆いて忿懣やるかたない表情の鬼塚を、三島が笑って諌めます。

「今更、言っても始まらんでごわんそ。現地の留守には気の毒じゃっで、手持ちの兵隊でなんとか始末してもらいもんそ」

 そう言うと三島は改めて鬼塚に顔を向けます。

「まずは、鬼塚どんが編成した巡査隊編成を元に、分隊毎に主要街道の往来警備に当たらせっど、不審な奴は問答無用で拘束して構わんでごわす」

 三島はその言葉に力を込めて、冷酷な笑みを浮かべて言いきりました。

「万がいつ、暴動・蜂起などでん、天童分署や郡役所から半鐘の音が聞こえもしたら、分隊判断で、直ちに分署か役所に向かい、署長郡長の指揮下でん治安維持ばすっとじゃ」

 そう言うと、三島は再び鬼塚の顔を見て、ニヤリと笑います。

「そんときは、鬼塚どんは出来るだけ早く分署に行ってたもんせ。そん上で、巡査隊の陣頭指揮に当たってくいやんせ」

「おお! 見てたもんせ! 百姓ども、来るなら来い! あっちゅう間に蹴散らしてやりもんそ! 」

 鬼塚はここぞとばかりにサーベルを鳴らして胸を張りました。

 戊辰戦争の第一線で銃弾の下を掻い潜り、なおかつ、ロジスティクスも知り尽くした三島の果断即決です。兵は拙速を尊ぶ、いかにも薩摩人らしい積極防御・攻勢的防衛策です。

 なお、山形県の巡査増員計画は、明治14年度予算案においても県会に否決されましたが、当然のように県側は『原案執行権』を行使しました。その後の明治20年統計での警部及巡査数は480人に及び、順調な増員計画の推移が見て取れます。

 **********

 三島はその日の内に県令通達を東村山郡五條郡長宛に発出しました。既に官舎に帰宅してくつろいでいた五條は、盃を片手にその通達を受け取りました。

 しかしながら、まったく空気の読めない五條郡長は、県令閣下からの通達の意味を解することが出来なかったようです。

 その日はそのまま寝所に向かい、翌朝の9月29日、執務室に留守永秀を呼び、通達文書を示しながら話をしました。。

「おはよう、留守くん。県令閣下より通達が夕べ届きましたので、郡内の各村に督促状を出してくれますか? ……もう、督促状、出来てますものね」

(なっ! )

 五條は、まったく悪びれることなく留守に指示を出して督促状を準備するように言いました。

 日付も違い、内容も微妙に変わっていますし、何より郡長が独断で勝手に許可した延期措置を取り繕うための一文も添えねばなりません。

 しかし、公式に郡長の誤りを公表するわけにも参りません。それで、口約束を良いことに9月25日の期限を、郡役所の温情で、この日、29日まで4日間延長したことにしての督促状を作り直すしかありません。

(自分の勝手な行動を県令から取り消されたという意識もないのか? ……つまりは、自分の行動の意味や影響も理解できていないのか? )

 五條はいつもと変わらず、穏やかな微笑みをたたえています。とても、県令からの行政指導を受けて萎縮している者のようには見えません。

(しかも、夕べの内に通達があったなら、なぜ、連絡も寄越さないのか? 今、郡役所は全職員が徹夜で対応しているのを知らないのか……)

 留守は憤りを隠せませんでした。が、三島県令の通達が来ただけでも良かったと思い直すことにして、郡長執務室を後にしました。

 こうしている間にも住民は得物を集めて蜂起準備を進めているかもしれません。しかし、三島県令が戻って来た以上、巡査隊投入もそう先のことではないでしょう。

 留守は今更ながらに覿面の任務に精励することを肝に銘じたのでした。

 **********

(おわりに)

 東村山郡住民の不穏な状況と郡役所での郡長の失策について状況報告を受けた三島通庸山形県令は、住民たちの目的が、百姓一揆などではなく、郡住民挙げての集団訴訟行動にあることを喝破し、高木秀明土木課長と鬼塚綱正警部に対して次々と指示をくだします。しかし、県庁や郡役所の緊張感とは裏腹に、危機意識に欠ける当の東村山郡郡長五條為栄は、相も変わらずに呑気に構えているのでした。一方、現場の責任を一身に受ける留守永秀は、己の職責を淡々と果たして行くのでした。
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