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幸せのクローバー
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私はふと気づくとどこかもわからない薄暗い場所にいたのです。辺りを見渡しても木しかありません。どうやらここは森のようです。
これからどうしましょうか、と考えるも、答えは一つです。薄暗い日は雨に降られる前に家に帰るのが一番なのです。だけど、この森は見晴らしが悪くて、右も左も同じようなのです。何気なく視線を落とすと、不自然に草木が生えていない場所がありました。それはずっと先まで続いています。昔お父さんが言っていた獣道というやつでしょうか?ちょっぴり不安ですが、それを辿ることにしました。
ガサガサ、ゴソゴソと枝葉をかき分けながら進んで行きます。お気に入りの服がボロボロになるのは嫌ですが、背に腹は代えられません。
しばらく進むと、少し開けた場所に出ました。その中心に私と同じくらいの緑色の服と灰色のコートを着た女の子がいます。その子は地面に座りこんで、うつむいてしくしくと泣いていました。
無視して進むのは可哀想なので、その子に話しかけてみました。
「ねぇ、どうしてこんな所で泣いているの?」
その子が頭を上げました。その子は今まで見たことがない吸い込まれるような赤色の瞳をしていました。
「お母さんとお父さんとはぐれちゃったの。」
「そうなんだ……。それは不安だね。私も家に帰れなくて困ってるの。」
「じゃあ私と同じだね。」
その子は私の手を取りながらそう言った。
「一人だとちょっと怖いから、一緒に行きましょう。」
するとその子は私の手をさらに強く握りました。
そして、「行かないで。私とここで遊ぼうよ。」と赤い瞳をこちらに向けながら言うのです。その子と目が合いました。その瞳は空っぽで、赤ワインを注いだグラスをのぞき込むように私の姿だけを映しています。私は何だかそれが恐ろしくなりました。
私はこの子から離れる為に腕を引きました。すると、その子の足元から変な音がしました。庭の雑草を根っこごと引き抜くような音です。急に右手が軽くなって私はその子の下になる体勢で転びました。私は起き上がって、その子の様子を確かめました。幸運にもその子は無事のようです。次の瞬間、私は自分の目を疑いました。
その子にはスカートから下にあるはずの足が無く、足があるべき場所には植物の根っこのようなものが生えていたのです。
私が呆然としていると、その子が起きました。私のただならぬ様子からか自身の違和感からか、その子は慌てて自分の足元のほうに向きました。
一瞬、辺りは時が止まったように静まり返りました。風も、森のざわめきも、遠くさえずっていた鳥や虫も、全てが死に絶えてしまったように。その子も何も言いません。どんな表情をしているのかさえわかりません。
次の瞬間、その子は耳をつんざくような叫び声を上げました。金属をこすり合わせたような人間には到底出せそうにない声です。耳を抑えていても全く効果がないから困ってしまいました。段々意識が遠くなってきたので、ここから離れることにしました。ですが、一歩歩くごとに叫び声が頭に響いて、私はとうとう倒れこんでしまいました。
「ジリジリジリジリジリジリジリジリ」
目が覚めると私は自分のベッドの上にいました。そういえば今日は月曜日です。学校に行く支度をしなければいけません。大きなあくびをしながら目覚まし時計を止めました。
「ピッ」と音が鳴って目覚まし時計が止まって、小鳥の鳴き声が窓の外から聞こえてきました。今日も晴れです。そういえば今は何時だろうと時計を持ち上げました。7時30分です。いくつか設定した時間のなかで一番遅い時間、すなわちデッドラインです。私は4大急ぎで支度を整えて、部屋を出ました。
「ねぇママ!何で起こしてくれなかったの!?」
「お母さんも五分前に起きて今準備してるの!目覚めが悪いあなたを起こす余裕なんてないわ。テーブルに朝ごはんを置いたから早く食べちゃいなさい。」よく見ると、お母さんはパートに行く服装をしていたが、髪には激しい寝癖がついていました。
その後、朝ごはんのトーストを急いで食べて学校に向かいました。教室に始業前ぎりぎりに滑りこみました。自分の席に向かう途中、おかしなことに気がつきました。クラスメイトが私のことを見て笑っているのです。またパジャマのままで来てしまったかと思って、自分の服を見たら、いつも学校に着ていってる服です。不思議な状況に首を傾げていると、教卓にいる先生が笑いをこらえながら言いました。
「エヴァ、すごい寝癖よ。間に合ったっていうことにしてあげるからトイレで直してらっしゃい。」
そういえば、寝癖を直すことを忘れていました。急に恥ずかしくなった私は慌ててトイレに向かうのです。私が教室を出た後にクラスメイトがドッと笑ったことはちょっと腹が立ちました。
昼ご飯後の五時間目は私にとっていや、ほとんどの人にとって眠たい時間です。ただでさえ満腹なのに、今の席は窓際の一番後ろ。おまけに今やってるのはほとんど黒板の内容を書き写すだけの歴史の授業です。気持ちいい太陽光も合わさって、私はすぐに眠りに落ちてしまいました。
次に起きた時には、授業はほとんど終わっていて、先生が雑談を始めていました。
「これで今日の内容は終わりです。皆さん明日はクローバー祭りですね。祭りで騒ぐのも四つ葉のクローバーを探すのもいいですが、あまり危ない場所には行かないでくださいね。」
ああ、そういえば明日はクローバー祭りでした。クローバー祭り当日に四つ葉のクローバーを見つけると、その年は幸福になれるという言い伝えがあるのです。私は毎年近所で探しているのですが、いつも他の人に先を超されてしまって、ぐちゃぐちゃのクローバーばかり見ています。早起きが致命的に苦手な私とは相性の悪いイベントです。
そんなことを考えているうちに、先生はいなくなってクラスメイトは家に帰る人と友達とおしゃべりする人に別れました。家に帰って昼寝しよう思って荷物をまとめ始めると、突然声をかけられました。
「エヴァ、今日は帰るの?」友達のアンナが机の前に立っていました。
「今日は眠いから帰って少し昼寝でもするわ。」そういうとアンナは意地悪そうににんまりと笑いました。
「今から寝れば明日は寝坊しないで朝から四つ葉のクローバー探せそうだね。」
「……別に寝坊したって構わないもん。四つ葉のクローバーとか興味ないし。私は祭りの屋台巡りしたいだけだもん。」
「エヴァは嘘つきだなぁ。去年みんなでお祭りに行った時一人抜け出して四つ葉のクローバー探してたじゃん。」
「あの時はみんなとはぐれちゃっただけだし……。」
「ふ~ん。」アンナは私が嘘をついているのをあっさり見破っているようです。
「四つ葉のクローバーがたくさん見つかる穴場を知り合いに聞いたから教えてあげようと思ったけど教えるのやめちゃおうかな~。」
「……そこはどこなの?」
「キャラン山の中腹よ。シロツメクサの群生地があるらしいわ。」
「……ありがとう。気が向いたら行ってみるわ。」
「明日は用事が終わったら連絡してよね。どうせふらふらどこか行っちゃうんだからそのほうが都合がいいわ。」アンナは立ち去り際に付け加えました。
「行くなら気をつけてね。」ちょっと腹立つところもあるけど、やっぱりアンナは大切な友達です。
家に帰る途中、町の中心にあるストリートを通ると、飾り付けや買い出しをする人であふれていました。クローバー祭りでは町の家やお店は緑の飾りつけをして、参加者は緑の服や小物を身につけるという決まりがあるのです。
家に帰って早速キャラン山について調べてみました。キャラン山はこの町の北の外れにあります。標高は1000メートル弱で季節によっていろんな動植物が見られる自然が豊かな山です。家から自転車で20分くらい走れば登山道の入り口に行けるでしょう。友達とのハイキングや学校の遠足でよく登った山なのでそこまで大した山ではないでしょう。
夜ご飯の時にお母さんが尋ねてきました。
「明日は去年みたいに友達と行くの?」
正直に山登りすると言ったら止められる気がしたので、誤魔化すことにしました。
「アンナちゃん達と一緒に行く予定。」
「わかったわ。祭りの最後にやる花火が終わったらすぐに帰ってきなさいね。」
私は明日のルートを頭のなかで再確認しながら、「わかった。」とだけいいました。
食器を片づけて部屋に戻ろうとした時、食事中ずっと無言だったお父さんがつぶやくようにいいました。
「祭りは人が多いからスリに気をつけなさい。」
一瞬ただの独り言だと思いましたが、数秒たって自分に向けられた言葉だと気づきました。
お父さんのほうに振り返って「気をつける。」と返しました。その時にお父さんと目があって、お父さんの口元と目元が緩んで、ふっと微笑みました。
私が部屋を出た後は食器が触れ合う音が時折遠く聞こえてくるだけでした。
自分の部屋に戻って、明日の準備をしている時、窓の外がやけに明るいことに気付きました。窓を開けて空を見上げると雲一つない空で満月が町を穏やかに照らしていました。そういえば今夜は満月でした。明日の花火は新月の中、綺麗に咲くでしょう。
欠けていく満月を見ているうちにいつの間にか私は眠っていました。
早めに寝たお陰か太陽がまだ東のほうにあるうちに起きることが出来ました。目覚まし時計のスイッチを切って時間を確認したら五時半でした。部屋を出てリビングに向かうと誰もいなくて、家族はまだ寝ているということに気付きました。私が一番早く起きることは今までの人生で一度もないことだったので少しわくわくしました。
家族を起こさないように静かに出発の準備をして出かけました。
ストリートに人影はなく、とても静かです。ただ、飾り付けは終わっていて、普段は色彩豊かなストリートがクローバーのような緑に変わっています。無人のストリートを突っ切って北にあるキャラン山を目指します。
教会の脇を通り抜けて石造りの立派な橋を渡ると段々と建物がまばらになって、代わりに木が増えてきました。時間はだいたい7時ごろでしょうか?増えていく鳥と虫の囀りを聞きながらそう考えました。
それからすぐにキャラン山の登山道の入り口にたどり着きました。アンナは正確な場所を知らなかったので、登山道を進んでいく過程で見つけたいと思います。ここに来るまでに減った水筒に水を補給してから登山道に足を踏み入れました。
前に登った時はたくさんの人が上り下りしていた登山道も今日はみんな祭りに行くので誰もいません。一人で静かな登山道を登ると、ふと昨日の夢を思い出しました。あの赤目の少女のことです。赤目で緑色の服と灰色のコートを着て、引き抜かれると聞いたことのないような絶叫をした謎の少女。今思えばバンシーとマンゴンドラを足して2で割ったような生き物です。バンシーもマンゴンドラも器用に立ち回れば心強い味方になってくれますが、私の場合即死させられそうな気がします。それとも、夢の中で私に警告してくれたのかもしれません。
そのまま登山道を登っていくと、展望台とお土産屋がある開けた場所に出ました。まだ早い時間だからなのかそれとも祭りの日だからなのかわかりませんが、ここにも誰もいません。まだ時間に余裕がありそうなので、展望台にある望遠鏡で町を見ることにしました。しばらく前に通ったストリートは出店の準備が進んでいます。今日になってから見ていなかった動いている人間を確認出来たので満足しました。
満足したところで本題の四つ葉のクローバー探しを始めることにしました。お土産屋の脇にある細道を進むと泉があります。そこは自然を守る為に舗装がされていなかったり、目立つ看板もないので、ほとんど人が来ません。
細道は整備されていないのか、自然に侵食されて前に来た時よりもさらに細くなっています。ほとんど森を突っ切るようになっていて、一歩進むごとに木の枝が顔にあたってきます。
入り口が木に隠れて見えなくなった頃、ようやく泉のある開けた空間に着きました。泉は日の光を浴びて水面がきらめいて、水は透き通るほどに綺麗です。泉の端からはグラスから水があふれるように静かに小川が森の奥へと流れていきます。クローバーを探しましたが、ここにはありません。ただ、名前の知らない花がひっそり咲いているだけ。
私は小川に沿って森のさらに奥へ進むことにしました。この綺麗な小川の先にはきっと素敵なものがあると思ったからです。
森の中なので、進めないほど木が生い茂っているかと思っていましたが、意外にもそんなことはなく進むことが出来ます。その代わり、大きな木の根がそこら中から突き出ていて、油断していると足を取られて転んでしまいます。
しばらく進んでも、風景は同じです。太陽はちょうど真上に位置しています。登山道からもずいぶん離れてしまいました。生きて帰る為にはここら辺で引き返したほうがいいのかもしれないと内心思いながらも、ここまで来て引き返すのはもったいないという思いに従って歩き続けました。
後から思い返すと、私は思い違いをしていたのです。この森の小道の先にはきっと素敵なものがあると思っていた。だけど、現実は無情で物語のようにはいきません。
あの時、足元だけを見て歩いていた私が気づくはずがなかったのです。ここが行き止まりだということに、小川がそのまま小さな滝になっているということに。
幸運だったのは、崖が3mほどで思ったより落差が無かったこと。それと落下した時に背負っていたリュックで体を守ることが出来たことです。さすがに今回は危なかった……。前方不注意で車にはねられかけたことは何度かありますが、前方不注意で崖から落ちるのは初めてです。
崖を登るのは無理そうだから迂回して元の場所に戻ろうと右足から立ち上がろうとしました。だけど、右足に力を入れた瞬間、刺されるような激痛に襲われて途中で倒れてしまいました。激痛の中何とか私は木陰にはって避難しました。とりあえず、張り裂けそうな心臓の鼓動が収まるまで休むことにしました。おそるおそる痛む右足を見てみると右足首が真っ赤に腫れていました。足から落ちたのだから当然の結果なのかもしれません。多分もう歩くことは出来ないでしょう。即ち、死。
それを理解した途端、体中から嫌な汗が吹き出し、先ほどの激痛が気にならないほど心臓が激しく脈打ちます。死にたくない、その一心の元、私の脳に走馬灯の如くいろいろなものが現れては消えて行きます。家族の顔、友達の顔、今朝の記憶exc。そこで私は思い出しました。リュックの中に連絡用の携帯を入れてきたことに。よかった。携帯で助けを呼べば家に帰れる。安心して力が抜けそうになりながらリュックに手を突っ込みます。スマホのようなものを掴みました。手に感じた違和感を無視してそのまま引っ張りだしました。
リュックから引っ張り出したそれはちょうど半分のところがケースごと歪んでいました。電源を押しても一切反応しません。虫の鳴き声が、目の前の光景も、自分の感覚も全てが遠のいていきます。血の気が引くとはこういうことでしょう。目から落ちた液体がスマホの画面に落ちました。それは流れ落ちることなく画面のひびに留まり続けます。
粉々になった画面に雨の後の蜘蛛の巣のようにぽつぽつと水の球が浮いているのです。もう、私がどんな顔をしているかもわかりません。
暖炉の中で薪がパチパチと穏やか燃えている音で私は目覚めました。上半身だけ起き上がって周りを確認していると、ここがどこかの家で、私は木製の大きめのベッドに寝かされていたとわかりました。腫れていた右足首を見てみると、テーピングがされていました。どうやらこの家の主は私を助けてくれたようです。とりあえず命は助かったんだなぁとほっとしていると、部屋のドアが開いて白髪の背の高いおじいさんが入ってきました。
「目を覚ましたのか。」おじいさんはそう言うとベッドの脇にある木で出来たロッキングチェアに座りました。
「あ……あの、助けてくれてありがとうございました。」
おじいさんはロッキングチェアを揺らしながら、フッと笑いました。
「水を汲みに行ったら子供が倒れていたんだ。助けるのは当然だろう。そんなことより、何であんなところで倒れていたんだ?」
「ちょっと崖から落ちちゃって……。」
おじいさんの眉がピクリと動きました。
「あそこから落ちてきたのか……。足首の捻挫で済んだのは運がよかったな。」
おじいさんと話しているうちに大切なことを思い出しました。私はアンナと一緒に祭りに行く約束をしていたのです。
「今は何時くらいですか!?」
おじいさんはいきなり大声を出した私に驚いたのか、目を大きく見開いています。
「……3月17日の7時38分だ。」
「えっ……。午後のですか?」
「そうだ。」
まさかそんな時間まで眠っていたとは。こんな時間では街に戻ってアンナと合流することは出来ません。がっかりして下を向いていると、おじいさんが私に問いかけました。
「友達と祭りに行く約束でもしていたのか?」
「……はい。」
おじいさんは少し黙った後、続けました。
「それは残念だったな。まぁ……祭りは来年もあるし、友達とはその時に行けばいい。今夜は新月で明かりがないから車で送ってやることも出来ない。明日、日が出たら家まで送っていってやろう。だから、今夜は泊まっていかなさい。」
「……はい。」
おじいさんは私を気遣ってくれたのか、急に話題を変えました。
「そうだ。今日は久しぶりに客が来たからアイリッシュシチューを作ったんだ。もうすぐ出来るからここで待っていなさい。」
そう言っておじいさんは部屋を出ました。
壁にかけられた鳩時計の長針がタッ、タッと回るのをぼんやり見ていると、小さなテーブルと椅子を持ったおじいさんが帰ってきました。
「今日はこの部屋で食べようと思ってな。毎年、街のほうで花火をやるこの日だけはこの部屋で花火を見ながら夕食を食べるんだ。」
喋りながらもおじいさんは手際よく準備していきます。
「そうだ、お前を椅子に運ばなければいけない。」
そういえば、ここはベッドです。汚す訳にはいきません。そう思って、椅子に移動しようとベッドから下りようとした時、おじいさんが慌てた口調で止めました。
「馬鹿、やめなさい。お前の右足首は捻挫してるんだから負荷をかけてはいけない。」
そう言うとおじいさんはベッドで寝ていた私を思った以上の力強さで持ち上げて、ロッキングチェアに座らせました。
「あっ、ありがとうございます。えっと……重くなかったですか?」
私がそう言うと、おじいさんは豪快に笑いました。
「なに、大したことはない。今朝薪にした丸太のほうがよっぽど重かったくらいだ。」
そう言いながら、おじいさんは部屋のカーテンを開けました。窓の外の景色は真っ暗で、黒の濃淡からここが森の中であるということがかろうじてわかるだけです。おじいさんが再び部屋を出ると、鳩時計の規則的な音だけがまた聞こえてくるのです。
「待たせたな、アイリッシュシチューを持ってきたぞ。」
そう言っておじいさんは暖かみのある木の器をコトリとテーブルに置きました。
「さて、準備も出来たし食事にしようか。いただきます。」
「いただきます。」
おじいさんに続いて私もシチューを食べ始めました。少し不安定なロッキングチェアを目一杯後ろに傾けてシチューを口に運びます。シチューを口に入れるとまずルーに溶けたビーフのうまみと玉ねぎの甘みが口に広がった。
「わぁ……このアイリッシュシチュー、とっても美味しいですね。」
おじいさんは嬉しそうに目を細めながら言いました。
「そうだろう。俺の作るアイリッシュシチューは昔から美味いと評判なんだ。」
おじいさんがそれを言い終えるや否や、視界の端で何かが光りました。次いでどこか遠くから、空気が揺れる音が聞こえました。
「花火か。もうこんな時間なのか。」
おじいさんはそう言うと、部屋の照明の明るさをぎりぎり手元が見えるくらいまで落としました。
「これくらいなら食べながら花火が見えるだろう?部屋は暗いほうが花火がよく見える。」
「そうですね。」
私はそう返しながらもう一口シチューをすすりました。
それっきり私達は喋るのをやめました。食器がカチャカチャ当たる音と花火が遠くで上がる音が時折聞こえてくるだけです。夕暮れ時のように暗い部屋の中、おじいさんの目は確かに窓の外に向けられていました。丁度十発目の花火が打ち上げられた時、おじいさんが窓の外を眺めながら私に話しかけました。
「そういえば、どうしてお前はあの崖から落ちてきたんだ?」
「あ~……。ここら辺に四つ葉のクローバーを探しにきてたんです。キャラン山にはクローバーがたくさん生えているところがあるって友達が言ってて。」
「ふふふ。まだその噂は囁かれているのか。」
「おじいさんもその話を知ってるんですか?」
おじいさんはシチューの器をテーブルに置いて話し始めました。
「俺が子供だった頃、この国は隣の国と戦争していたんだ。戦いはこの山でも行われた。毎日毎日どこかで爆発が起こって、この山を平らにするような激しい殺し合いをしたのさ。」
「戦争の話ですか?」
「まぁ、そうだな。昔、この国が戦争をしていた頃に出来た話だ。」
おじいさんは昔のことを思い出しているのか、少しさみしそうです。
「結局、この山の戦いは双方に甚大な被害を出して終わった。戦死者の中には俺の親父もいた。戦争の後処理も何とか終わった頃、クローバー祭の時期が来た。その年は戦死者を弔う為にいつもより盛大にやろうと、国中から四つ葉のクローバーがかき集められたのさ。不思議なことにな、その年に集められた四つ葉のクローバーはほとんどがこの山から採れたものなんだ。おかしな話だろう?お前はどう思う?」
「う~ん。……分からないです。」
「そうか。じゃあ四つ葉のクローバーが出来るのはなぜだと思う?」
「クローバーが突然変異して出来るって昔聞きました。」
「ふむ……。」
おじいさんは一呼吸置いて続けました。
「突然変異も原因の一つではある。だけどだいたいの四つ葉のクローバーは普通のクローバーが傷ついて出来る。傷の場所からもう一枚の葉が生えてくるんだ。だから四つ葉のクローバーってやつは人が踏み荒らすような場所に生えているのさ。あの年……この山で四つ葉のクローバーがたくさん見つかったのはそういう訳さ。」
「なるほど……。人が不幸になった場所に幸運のシンボルが生えるなんて皮肉な話ですね。」
その時、おじいさんは口元も手をやって咳をするように笑いました。
「いや、すまんね。思ったより知的な返事が返ってきたもんで笑っちまったよ。」
おじいさんはもう一度ふふっと笑って続けました。
「そもそも俺は四つ葉のクローバーだけがもてはやされるのがわからん。クローバーは三つ葉でも幸運の意味を持つというのにな。そこら辺にあるような幸せでは足りないのか、他人を踏みにじってでも幸せになりたいのか……。」
花火がテレビで見るようなマシンガンのような音を立てて打ち上げられていきます。今夜の花火はもうクライマックスです。
「クローバーは踏まれても立ち上がるが人はそこまで強くはない。クローバーは人間よりもはるかに細くて小さいのになぁ。」
その時、最後の一番大きな花火が打ち上げられました。それは今までのどの花火よりも高く、大きく咲きました。花火に照らされたおじいさんの横顔は痛々しいほど悲しそうなのです。
「もう花火も終わったからもう寝なさい。ベッドに運んでやろう。」
そう言っておじいさんはまた私を持ち上げてベッドに寝かせました。おじいさんは食事の器を持って、部屋の電気を消してしまいました。
「おやすみなさい。」
私がそう言うと、闇の中から「おやすみ。」と返ってきました。おじいさんが部屋を出ると、再び鳩時計の進む音が聞こえてきます。それを聞いているうちに私は眠ってしまいました。
アイリッシュシチューの香ばしい匂いがふっと香って私は目覚めました。匂いのするほうを見ると、昨日のテーブルに昨日の残りのアイリッシュシチューとパンが二人分載せられていました。おじいさんはいませんが、シチューの器からうっすらと湯気が立っているので用意されてからそれほど時間が立っていないようです。心地よい日差しで二度寝しそうになった時、おじいさんが部屋に入ってきました。
「起きたのか。おはよう。」
おじいさんはそう言うと私にタオルを差し出しました。
「顔を洗えないと気持ち悪いだろ。これで顔を洗ってきなさい。もう足もそこまで腫れていないし多分大丈夫だろう。」
「ありがとうございます。」
私はそう言ってタオルを受け取りました。足は昨日よりかなり腫れが引いていたので歩く位なら出来そうです。
「家の外に給水タンクがあるからそこで洗いなさい。」
「わかりました。」
私が部屋に戻るとおじいさんが昨日の椅子に座っていました。
「シチューが冷めてしまうから早めに食べなさい。」
おじいさんはパンをシチューに浸して食べ始めました。美味しそうだったので私も同じ食べ方で食べていると、おじいさんが私に尋ねました。
「これを食べ終えたらお前を家に送る。お前の家は街のどの辺りにある?」
「街の図書館の近くです。」
「わかった。……街に行くのはずいぶん久しぶりだ。」
食事を終えた後、私は荷物をまとめておじいさんの軽トラックに乗せました。一晩を過ごしたこの森の家とのお別れの時です。車が走りだすとすぐに家は見えなくなってしまいました。森の細道を走っている途中、不意におじいさんが尋ねました。
「そういえば、お前の目的のものは見つかったのか?」
「いや、結局見つからなかったです。まぁ……でもそれでよかった気がします。」
その時、私は顔を洗った時に見た小さなクローバーの群生を思い出しました。
「本当の幸せを見つけることが出来たから。」
「……そうか。その年で気づけたなら立派なもんだ。」
そう言っておじいさんは顔を少しだけこちらに向けて穏やかに微笑みました。
これからどうしましょうか、と考えるも、答えは一つです。薄暗い日は雨に降られる前に家に帰るのが一番なのです。だけど、この森は見晴らしが悪くて、右も左も同じようなのです。何気なく視線を落とすと、不自然に草木が生えていない場所がありました。それはずっと先まで続いています。昔お父さんが言っていた獣道というやつでしょうか?ちょっぴり不安ですが、それを辿ることにしました。
ガサガサ、ゴソゴソと枝葉をかき分けながら進んで行きます。お気に入りの服がボロボロになるのは嫌ですが、背に腹は代えられません。
しばらく進むと、少し開けた場所に出ました。その中心に私と同じくらいの緑色の服と灰色のコートを着た女の子がいます。その子は地面に座りこんで、うつむいてしくしくと泣いていました。
無視して進むのは可哀想なので、その子に話しかけてみました。
「ねぇ、どうしてこんな所で泣いているの?」
その子が頭を上げました。その子は今まで見たことがない吸い込まれるような赤色の瞳をしていました。
「お母さんとお父さんとはぐれちゃったの。」
「そうなんだ……。それは不安だね。私も家に帰れなくて困ってるの。」
「じゃあ私と同じだね。」
その子は私の手を取りながらそう言った。
「一人だとちょっと怖いから、一緒に行きましょう。」
するとその子は私の手をさらに強く握りました。
そして、「行かないで。私とここで遊ぼうよ。」と赤い瞳をこちらに向けながら言うのです。その子と目が合いました。その瞳は空っぽで、赤ワインを注いだグラスをのぞき込むように私の姿だけを映しています。私は何だかそれが恐ろしくなりました。
私はこの子から離れる為に腕を引きました。すると、その子の足元から変な音がしました。庭の雑草を根っこごと引き抜くような音です。急に右手が軽くなって私はその子の下になる体勢で転びました。私は起き上がって、その子の様子を確かめました。幸運にもその子は無事のようです。次の瞬間、私は自分の目を疑いました。
その子にはスカートから下にあるはずの足が無く、足があるべき場所には植物の根っこのようなものが生えていたのです。
私が呆然としていると、その子が起きました。私のただならぬ様子からか自身の違和感からか、その子は慌てて自分の足元のほうに向きました。
一瞬、辺りは時が止まったように静まり返りました。風も、森のざわめきも、遠くさえずっていた鳥や虫も、全てが死に絶えてしまったように。その子も何も言いません。どんな表情をしているのかさえわかりません。
次の瞬間、その子は耳をつんざくような叫び声を上げました。金属をこすり合わせたような人間には到底出せそうにない声です。耳を抑えていても全く効果がないから困ってしまいました。段々意識が遠くなってきたので、ここから離れることにしました。ですが、一歩歩くごとに叫び声が頭に響いて、私はとうとう倒れこんでしまいました。
「ジリジリジリジリジリジリジリジリ」
目が覚めると私は自分のベッドの上にいました。そういえば今日は月曜日です。学校に行く支度をしなければいけません。大きなあくびをしながら目覚まし時計を止めました。
「ピッ」と音が鳴って目覚まし時計が止まって、小鳥の鳴き声が窓の外から聞こえてきました。今日も晴れです。そういえば今は何時だろうと時計を持ち上げました。7時30分です。いくつか設定した時間のなかで一番遅い時間、すなわちデッドラインです。私は4大急ぎで支度を整えて、部屋を出ました。
「ねぇママ!何で起こしてくれなかったの!?」
「お母さんも五分前に起きて今準備してるの!目覚めが悪いあなたを起こす余裕なんてないわ。テーブルに朝ごはんを置いたから早く食べちゃいなさい。」よく見ると、お母さんはパートに行く服装をしていたが、髪には激しい寝癖がついていました。
その後、朝ごはんのトーストを急いで食べて学校に向かいました。教室に始業前ぎりぎりに滑りこみました。自分の席に向かう途中、おかしなことに気がつきました。クラスメイトが私のことを見て笑っているのです。またパジャマのままで来てしまったかと思って、自分の服を見たら、いつも学校に着ていってる服です。不思議な状況に首を傾げていると、教卓にいる先生が笑いをこらえながら言いました。
「エヴァ、すごい寝癖よ。間に合ったっていうことにしてあげるからトイレで直してらっしゃい。」
そういえば、寝癖を直すことを忘れていました。急に恥ずかしくなった私は慌ててトイレに向かうのです。私が教室を出た後にクラスメイトがドッと笑ったことはちょっと腹が立ちました。
昼ご飯後の五時間目は私にとっていや、ほとんどの人にとって眠たい時間です。ただでさえ満腹なのに、今の席は窓際の一番後ろ。おまけに今やってるのはほとんど黒板の内容を書き写すだけの歴史の授業です。気持ちいい太陽光も合わさって、私はすぐに眠りに落ちてしまいました。
次に起きた時には、授業はほとんど終わっていて、先生が雑談を始めていました。
「これで今日の内容は終わりです。皆さん明日はクローバー祭りですね。祭りで騒ぐのも四つ葉のクローバーを探すのもいいですが、あまり危ない場所には行かないでくださいね。」
ああ、そういえば明日はクローバー祭りでした。クローバー祭り当日に四つ葉のクローバーを見つけると、その年は幸福になれるという言い伝えがあるのです。私は毎年近所で探しているのですが、いつも他の人に先を超されてしまって、ぐちゃぐちゃのクローバーばかり見ています。早起きが致命的に苦手な私とは相性の悪いイベントです。
そんなことを考えているうちに、先生はいなくなってクラスメイトは家に帰る人と友達とおしゃべりする人に別れました。家に帰って昼寝しよう思って荷物をまとめ始めると、突然声をかけられました。
「エヴァ、今日は帰るの?」友達のアンナが机の前に立っていました。
「今日は眠いから帰って少し昼寝でもするわ。」そういうとアンナは意地悪そうににんまりと笑いました。
「今から寝れば明日は寝坊しないで朝から四つ葉のクローバー探せそうだね。」
「……別に寝坊したって構わないもん。四つ葉のクローバーとか興味ないし。私は祭りの屋台巡りしたいだけだもん。」
「エヴァは嘘つきだなぁ。去年みんなでお祭りに行った時一人抜け出して四つ葉のクローバー探してたじゃん。」
「あの時はみんなとはぐれちゃっただけだし……。」
「ふ~ん。」アンナは私が嘘をついているのをあっさり見破っているようです。
「四つ葉のクローバーがたくさん見つかる穴場を知り合いに聞いたから教えてあげようと思ったけど教えるのやめちゃおうかな~。」
「……そこはどこなの?」
「キャラン山の中腹よ。シロツメクサの群生地があるらしいわ。」
「……ありがとう。気が向いたら行ってみるわ。」
「明日は用事が終わったら連絡してよね。どうせふらふらどこか行っちゃうんだからそのほうが都合がいいわ。」アンナは立ち去り際に付け加えました。
「行くなら気をつけてね。」ちょっと腹立つところもあるけど、やっぱりアンナは大切な友達です。
家に帰る途中、町の中心にあるストリートを通ると、飾り付けや買い出しをする人であふれていました。クローバー祭りでは町の家やお店は緑の飾りつけをして、参加者は緑の服や小物を身につけるという決まりがあるのです。
家に帰って早速キャラン山について調べてみました。キャラン山はこの町の北の外れにあります。標高は1000メートル弱で季節によっていろんな動植物が見られる自然が豊かな山です。家から自転車で20分くらい走れば登山道の入り口に行けるでしょう。友達とのハイキングや学校の遠足でよく登った山なのでそこまで大した山ではないでしょう。
夜ご飯の時にお母さんが尋ねてきました。
「明日は去年みたいに友達と行くの?」
正直に山登りすると言ったら止められる気がしたので、誤魔化すことにしました。
「アンナちゃん達と一緒に行く予定。」
「わかったわ。祭りの最後にやる花火が終わったらすぐに帰ってきなさいね。」
私は明日のルートを頭のなかで再確認しながら、「わかった。」とだけいいました。
食器を片づけて部屋に戻ろうとした時、食事中ずっと無言だったお父さんがつぶやくようにいいました。
「祭りは人が多いからスリに気をつけなさい。」
一瞬ただの独り言だと思いましたが、数秒たって自分に向けられた言葉だと気づきました。
お父さんのほうに振り返って「気をつける。」と返しました。その時にお父さんと目があって、お父さんの口元と目元が緩んで、ふっと微笑みました。
私が部屋を出た後は食器が触れ合う音が時折遠く聞こえてくるだけでした。
自分の部屋に戻って、明日の準備をしている時、窓の外がやけに明るいことに気付きました。窓を開けて空を見上げると雲一つない空で満月が町を穏やかに照らしていました。そういえば今夜は満月でした。明日の花火は新月の中、綺麗に咲くでしょう。
欠けていく満月を見ているうちにいつの間にか私は眠っていました。
早めに寝たお陰か太陽がまだ東のほうにあるうちに起きることが出来ました。目覚まし時計のスイッチを切って時間を確認したら五時半でした。部屋を出てリビングに向かうと誰もいなくて、家族はまだ寝ているということに気付きました。私が一番早く起きることは今までの人生で一度もないことだったので少しわくわくしました。
家族を起こさないように静かに出発の準備をして出かけました。
ストリートに人影はなく、とても静かです。ただ、飾り付けは終わっていて、普段は色彩豊かなストリートがクローバーのような緑に変わっています。無人のストリートを突っ切って北にあるキャラン山を目指します。
教会の脇を通り抜けて石造りの立派な橋を渡ると段々と建物がまばらになって、代わりに木が増えてきました。時間はだいたい7時ごろでしょうか?増えていく鳥と虫の囀りを聞きながらそう考えました。
それからすぐにキャラン山の登山道の入り口にたどり着きました。アンナは正確な場所を知らなかったので、登山道を進んでいく過程で見つけたいと思います。ここに来るまでに減った水筒に水を補給してから登山道に足を踏み入れました。
前に登った時はたくさんの人が上り下りしていた登山道も今日はみんな祭りに行くので誰もいません。一人で静かな登山道を登ると、ふと昨日の夢を思い出しました。あの赤目の少女のことです。赤目で緑色の服と灰色のコートを着て、引き抜かれると聞いたことのないような絶叫をした謎の少女。今思えばバンシーとマンゴンドラを足して2で割ったような生き物です。バンシーもマンゴンドラも器用に立ち回れば心強い味方になってくれますが、私の場合即死させられそうな気がします。それとも、夢の中で私に警告してくれたのかもしれません。
そのまま登山道を登っていくと、展望台とお土産屋がある開けた場所に出ました。まだ早い時間だからなのかそれとも祭りの日だからなのかわかりませんが、ここにも誰もいません。まだ時間に余裕がありそうなので、展望台にある望遠鏡で町を見ることにしました。しばらく前に通ったストリートは出店の準備が進んでいます。今日になってから見ていなかった動いている人間を確認出来たので満足しました。
満足したところで本題の四つ葉のクローバー探しを始めることにしました。お土産屋の脇にある細道を進むと泉があります。そこは自然を守る為に舗装がされていなかったり、目立つ看板もないので、ほとんど人が来ません。
細道は整備されていないのか、自然に侵食されて前に来た時よりもさらに細くなっています。ほとんど森を突っ切るようになっていて、一歩進むごとに木の枝が顔にあたってきます。
入り口が木に隠れて見えなくなった頃、ようやく泉のある開けた空間に着きました。泉は日の光を浴びて水面がきらめいて、水は透き通るほどに綺麗です。泉の端からはグラスから水があふれるように静かに小川が森の奥へと流れていきます。クローバーを探しましたが、ここにはありません。ただ、名前の知らない花がひっそり咲いているだけ。
私は小川に沿って森のさらに奥へ進むことにしました。この綺麗な小川の先にはきっと素敵なものがあると思ったからです。
森の中なので、進めないほど木が生い茂っているかと思っていましたが、意外にもそんなことはなく進むことが出来ます。その代わり、大きな木の根がそこら中から突き出ていて、油断していると足を取られて転んでしまいます。
しばらく進んでも、風景は同じです。太陽はちょうど真上に位置しています。登山道からもずいぶん離れてしまいました。生きて帰る為にはここら辺で引き返したほうがいいのかもしれないと内心思いながらも、ここまで来て引き返すのはもったいないという思いに従って歩き続けました。
後から思い返すと、私は思い違いをしていたのです。この森の小道の先にはきっと素敵なものがあると思っていた。だけど、現実は無情で物語のようにはいきません。
あの時、足元だけを見て歩いていた私が気づくはずがなかったのです。ここが行き止まりだということに、小川がそのまま小さな滝になっているということに。
幸運だったのは、崖が3mほどで思ったより落差が無かったこと。それと落下した時に背負っていたリュックで体を守ることが出来たことです。さすがに今回は危なかった……。前方不注意で車にはねられかけたことは何度かありますが、前方不注意で崖から落ちるのは初めてです。
崖を登るのは無理そうだから迂回して元の場所に戻ろうと右足から立ち上がろうとしました。だけど、右足に力を入れた瞬間、刺されるような激痛に襲われて途中で倒れてしまいました。激痛の中何とか私は木陰にはって避難しました。とりあえず、張り裂けそうな心臓の鼓動が収まるまで休むことにしました。おそるおそる痛む右足を見てみると右足首が真っ赤に腫れていました。足から落ちたのだから当然の結果なのかもしれません。多分もう歩くことは出来ないでしょう。即ち、死。
それを理解した途端、体中から嫌な汗が吹き出し、先ほどの激痛が気にならないほど心臓が激しく脈打ちます。死にたくない、その一心の元、私の脳に走馬灯の如くいろいろなものが現れては消えて行きます。家族の顔、友達の顔、今朝の記憶exc。そこで私は思い出しました。リュックの中に連絡用の携帯を入れてきたことに。よかった。携帯で助けを呼べば家に帰れる。安心して力が抜けそうになりながらリュックに手を突っ込みます。スマホのようなものを掴みました。手に感じた違和感を無視してそのまま引っ張りだしました。
リュックから引っ張り出したそれはちょうど半分のところがケースごと歪んでいました。電源を押しても一切反応しません。虫の鳴き声が、目の前の光景も、自分の感覚も全てが遠のいていきます。血の気が引くとはこういうことでしょう。目から落ちた液体がスマホの画面に落ちました。それは流れ落ちることなく画面のひびに留まり続けます。
粉々になった画面に雨の後の蜘蛛の巣のようにぽつぽつと水の球が浮いているのです。もう、私がどんな顔をしているかもわかりません。
暖炉の中で薪がパチパチと穏やか燃えている音で私は目覚めました。上半身だけ起き上がって周りを確認していると、ここがどこかの家で、私は木製の大きめのベッドに寝かされていたとわかりました。腫れていた右足首を見てみると、テーピングがされていました。どうやらこの家の主は私を助けてくれたようです。とりあえず命は助かったんだなぁとほっとしていると、部屋のドアが開いて白髪の背の高いおじいさんが入ってきました。
「目を覚ましたのか。」おじいさんはそう言うとベッドの脇にある木で出来たロッキングチェアに座りました。
「あ……あの、助けてくれてありがとうございました。」
おじいさんはロッキングチェアを揺らしながら、フッと笑いました。
「水を汲みに行ったら子供が倒れていたんだ。助けるのは当然だろう。そんなことより、何であんなところで倒れていたんだ?」
「ちょっと崖から落ちちゃって……。」
おじいさんの眉がピクリと動きました。
「あそこから落ちてきたのか……。足首の捻挫で済んだのは運がよかったな。」
おじいさんと話しているうちに大切なことを思い出しました。私はアンナと一緒に祭りに行く約束をしていたのです。
「今は何時くらいですか!?」
おじいさんはいきなり大声を出した私に驚いたのか、目を大きく見開いています。
「……3月17日の7時38分だ。」
「えっ……。午後のですか?」
「そうだ。」
まさかそんな時間まで眠っていたとは。こんな時間では街に戻ってアンナと合流することは出来ません。がっかりして下を向いていると、おじいさんが私に問いかけました。
「友達と祭りに行く約束でもしていたのか?」
「……はい。」
おじいさんは少し黙った後、続けました。
「それは残念だったな。まぁ……祭りは来年もあるし、友達とはその時に行けばいい。今夜は新月で明かりがないから車で送ってやることも出来ない。明日、日が出たら家まで送っていってやろう。だから、今夜は泊まっていかなさい。」
「……はい。」
おじいさんは私を気遣ってくれたのか、急に話題を変えました。
「そうだ。今日は久しぶりに客が来たからアイリッシュシチューを作ったんだ。もうすぐ出来るからここで待っていなさい。」
そう言っておじいさんは部屋を出ました。
壁にかけられた鳩時計の長針がタッ、タッと回るのをぼんやり見ていると、小さなテーブルと椅子を持ったおじいさんが帰ってきました。
「今日はこの部屋で食べようと思ってな。毎年、街のほうで花火をやるこの日だけはこの部屋で花火を見ながら夕食を食べるんだ。」
喋りながらもおじいさんは手際よく準備していきます。
「そうだ、お前を椅子に運ばなければいけない。」
そういえば、ここはベッドです。汚す訳にはいきません。そう思って、椅子に移動しようとベッドから下りようとした時、おじいさんが慌てた口調で止めました。
「馬鹿、やめなさい。お前の右足首は捻挫してるんだから負荷をかけてはいけない。」
そう言うとおじいさんはベッドで寝ていた私を思った以上の力強さで持ち上げて、ロッキングチェアに座らせました。
「あっ、ありがとうございます。えっと……重くなかったですか?」
私がそう言うと、おじいさんは豪快に笑いました。
「なに、大したことはない。今朝薪にした丸太のほうがよっぽど重かったくらいだ。」
そう言いながら、おじいさんは部屋のカーテンを開けました。窓の外の景色は真っ暗で、黒の濃淡からここが森の中であるということがかろうじてわかるだけです。おじいさんが再び部屋を出ると、鳩時計の規則的な音だけがまた聞こえてくるのです。
「待たせたな、アイリッシュシチューを持ってきたぞ。」
そう言っておじいさんは暖かみのある木の器をコトリとテーブルに置きました。
「さて、準備も出来たし食事にしようか。いただきます。」
「いただきます。」
おじいさんに続いて私もシチューを食べ始めました。少し不安定なロッキングチェアを目一杯後ろに傾けてシチューを口に運びます。シチューを口に入れるとまずルーに溶けたビーフのうまみと玉ねぎの甘みが口に広がった。
「わぁ……このアイリッシュシチュー、とっても美味しいですね。」
おじいさんは嬉しそうに目を細めながら言いました。
「そうだろう。俺の作るアイリッシュシチューは昔から美味いと評判なんだ。」
おじいさんがそれを言い終えるや否や、視界の端で何かが光りました。次いでどこか遠くから、空気が揺れる音が聞こえました。
「花火か。もうこんな時間なのか。」
おじいさんはそう言うと、部屋の照明の明るさをぎりぎり手元が見えるくらいまで落としました。
「これくらいなら食べながら花火が見えるだろう?部屋は暗いほうが花火がよく見える。」
「そうですね。」
私はそう返しながらもう一口シチューをすすりました。
それっきり私達は喋るのをやめました。食器がカチャカチャ当たる音と花火が遠くで上がる音が時折聞こえてくるだけです。夕暮れ時のように暗い部屋の中、おじいさんの目は確かに窓の外に向けられていました。丁度十発目の花火が打ち上げられた時、おじいさんが窓の外を眺めながら私に話しかけました。
「そういえば、どうしてお前はあの崖から落ちてきたんだ?」
「あ~……。ここら辺に四つ葉のクローバーを探しにきてたんです。キャラン山にはクローバーがたくさん生えているところがあるって友達が言ってて。」
「ふふふ。まだその噂は囁かれているのか。」
「おじいさんもその話を知ってるんですか?」
おじいさんはシチューの器をテーブルに置いて話し始めました。
「俺が子供だった頃、この国は隣の国と戦争していたんだ。戦いはこの山でも行われた。毎日毎日どこかで爆発が起こって、この山を平らにするような激しい殺し合いをしたのさ。」
「戦争の話ですか?」
「まぁ、そうだな。昔、この国が戦争をしていた頃に出来た話だ。」
おじいさんは昔のことを思い出しているのか、少しさみしそうです。
「結局、この山の戦いは双方に甚大な被害を出して終わった。戦死者の中には俺の親父もいた。戦争の後処理も何とか終わった頃、クローバー祭の時期が来た。その年は戦死者を弔う為にいつもより盛大にやろうと、国中から四つ葉のクローバーがかき集められたのさ。不思議なことにな、その年に集められた四つ葉のクローバーはほとんどがこの山から採れたものなんだ。おかしな話だろう?お前はどう思う?」
「う~ん。……分からないです。」
「そうか。じゃあ四つ葉のクローバーが出来るのはなぜだと思う?」
「クローバーが突然変異して出来るって昔聞きました。」
「ふむ……。」
おじいさんは一呼吸置いて続けました。
「突然変異も原因の一つではある。だけどだいたいの四つ葉のクローバーは普通のクローバーが傷ついて出来る。傷の場所からもう一枚の葉が生えてくるんだ。だから四つ葉のクローバーってやつは人が踏み荒らすような場所に生えているのさ。あの年……この山で四つ葉のクローバーがたくさん見つかったのはそういう訳さ。」
「なるほど……。人が不幸になった場所に幸運のシンボルが生えるなんて皮肉な話ですね。」
その時、おじいさんは口元も手をやって咳をするように笑いました。
「いや、すまんね。思ったより知的な返事が返ってきたもんで笑っちまったよ。」
おじいさんはもう一度ふふっと笑って続けました。
「そもそも俺は四つ葉のクローバーだけがもてはやされるのがわからん。クローバーは三つ葉でも幸運の意味を持つというのにな。そこら辺にあるような幸せでは足りないのか、他人を踏みにじってでも幸せになりたいのか……。」
花火がテレビで見るようなマシンガンのような音を立てて打ち上げられていきます。今夜の花火はもうクライマックスです。
「クローバーは踏まれても立ち上がるが人はそこまで強くはない。クローバーは人間よりもはるかに細くて小さいのになぁ。」
その時、最後の一番大きな花火が打ち上げられました。それは今までのどの花火よりも高く、大きく咲きました。花火に照らされたおじいさんの横顔は痛々しいほど悲しそうなのです。
「もう花火も終わったからもう寝なさい。ベッドに運んでやろう。」
そう言っておじいさんはまた私を持ち上げてベッドに寝かせました。おじいさんは食事の器を持って、部屋の電気を消してしまいました。
「おやすみなさい。」
私がそう言うと、闇の中から「おやすみ。」と返ってきました。おじいさんが部屋を出ると、再び鳩時計の進む音が聞こえてきます。それを聞いているうちに私は眠ってしまいました。
アイリッシュシチューの香ばしい匂いがふっと香って私は目覚めました。匂いのするほうを見ると、昨日のテーブルに昨日の残りのアイリッシュシチューとパンが二人分載せられていました。おじいさんはいませんが、シチューの器からうっすらと湯気が立っているので用意されてからそれほど時間が立っていないようです。心地よい日差しで二度寝しそうになった時、おじいさんが部屋に入ってきました。
「起きたのか。おはよう。」
おじいさんはそう言うと私にタオルを差し出しました。
「顔を洗えないと気持ち悪いだろ。これで顔を洗ってきなさい。もう足もそこまで腫れていないし多分大丈夫だろう。」
「ありがとうございます。」
私はそう言ってタオルを受け取りました。足は昨日よりかなり腫れが引いていたので歩く位なら出来そうです。
「家の外に給水タンクがあるからそこで洗いなさい。」
「わかりました。」
私が部屋に戻るとおじいさんが昨日の椅子に座っていました。
「シチューが冷めてしまうから早めに食べなさい。」
おじいさんはパンをシチューに浸して食べ始めました。美味しそうだったので私も同じ食べ方で食べていると、おじいさんが私に尋ねました。
「これを食べ終えたらお前を家に送る。お前の家は街のどの辺りにある?」
「街の図書館の近くです。」
「わかった。……街に行くのはずいぶん久しぶりだ。」
食事を終えた後、私は荷物をまとめておじいさんの軽トラックに乗せました。一晩を過ごしたこの森の家とのお別れの時です。車が走りだすとすぐに家は見えなくなってしまいました。森の細道を走っている途中、不意におじいさんが尋ねました。
「そういえば、お前の目的のものは見つかったのか?」
「いや、結局見つからなかったです。まぁ……でもそれでよかった気がします。」
その時、私は顔を洗った時に見た小さなクローバーの群生を思い出しました。
「本当の幸せを見つけることが出来たから。」
「……そうか。その年で気づけたなら立派なもんだ。」
そう言っておじいさんは顔を少しだけこちらに向けて穏やかに微笑みました。
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