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第17話 真っ赤なアトリエ

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「さっきも思ったんですけど」
「どうしました?」
 おかしいと手を挙げた千春に、友也が何か変だろうかと訊く。
「どちらの部屋も、ベッドを使った形跡がないんですよね。あの後、こちら側の三人はすぐに眠ったかはさておき、やることは寝ることしかなかったはずだ。それなのに、どうしてベッドを使った形跡がないのでしょう」
「確かに」
「さっきの部屋も、シーツが乱れた様子はなかったですね」
「と、ともかく、他の部屋の確認を急ぎましょう。臭いの原因はこちらではなかったようです」
「ああ」
 誰もが故意に回避したのは否めないが、奥へと進むことになった。主寝室からすぐの場所は書斎だったが、こちらも人の気配はなく、同じくいつも通りだった。壁一面の本棚に、様々な本が置かれていたが、こちらも乱れた様子はなかった。
「やはりアトリエですね」
「ああ」
 頷いたものの、全員の足がそこで止まってしまった。アトリエのあるこちらの建物の奥に進んできたわけだが、あの鉄臭い臭いは強烈になっている。現場は一番奥のアトリエであることは間違いなかった。
「い、行きましょう」
 ここで確認せずに警察を待つという方法もあるが、引き下がれない状況だった。そこで、まだ冷静さを保っていた忠文が先に進むことになる。他はその後ろに隠れるように、ぞろぞろと従った。
「うっ」
「これは」
 アトリエの中は足を踏み入れることが出来ないほど、真っ赤だった。そう、真っ赤だったのだ。天井も床も壁も真っ赤に染まっていた。どうやら絵の具もぶち撒けたらしい。そもそも血だけでは無理な量だし、血の臭いに混ざって油絵具独特の臭いがしていた。その真っ赤に彩られた部屋の中央に、無残な姿の安西の死体があった。
 無残というのは、もちろんその状態にある。首はあらぬ方向へと曲がり、俯せの身体からは、内臓がはみ出ていた。両手足も、無理に捻じ曲げたように、本来向くはずのない方向を向いている。
「だ、旦那様」
「これ以上は踏み込んでは駄目です。現場を荒らすことになる」
 ふらふらっと中に入ろうとした石田を、忠文が止めた。そうだ。これは明らかに殺人事件の現場だった。
「い、一体誰が」
「それは」
 まだ見つかっていない人物なのではと、誰もが思い浮かべたのは一人だ。しかし、彼女がいない理由が犯人だからとは、まだ断定できない。
「と、ともかく、ここはこのままで。遠藤先生を探しましょう」
「で、でも、この建物はここで終わりですよ。ドアは、田辺さんの話が正しいのならば、ついさっきまで閉じたままだった。しかも開いていなければならない時間に、閉まったままだったんです。つまり」
「この建物が密室ってことですか」
 言い募る石田の言葉の最後を、友也がにやりと笑って言う。その顔は悪戯めいていた。
「厳密に密室かどうかは不明ですけどね。庭から回ることも可能ですし」
「それは当然」
 千春の指摘で、全員が現場のアトリエの奥に見える、大きな窓へと目を向けていた。昨日の夜はカーテンが締まっていて解らなかったが、一面がガラス窓だったらしい。しかし、今は無惨に木っ端微塵になっていた。そこから庭が見えていて、安西の好みなのか、奇妙なオブジェが置かれているのが解った。それは昨日見かけたあの奇妙な石だ。
「一雨来そうですね」
 薄暗いのは部屋の電気が点いていないからというだけではなかった。いつしか曇り空となり、日差しが全くなくなっていた。今にも雨が降り出しそうな、そんな薄暗い天気へと変わっている。
「雨が降る前に、庭を確認してみましょう。犯人がそこから出入りしたのならば、何か残っているかもしれないですよ」
 密室ではないと考えているらしい友也の提案で、一同はその凄惨な現場から逃れるように渡り廊下を渡った。そして大急ぎで玄関へと行き、それぞれが靴を引っ掛けて庭からアトリエのある建物へと向かった。その際、当然ながら犯人が残した痕跡がないか。ちゃんと確認しながら歩を進める。
 途中、田辺が合流し、警察が来るまでもう少し時間が掛かるとのことだった。近所の派出所では対応できないだろうと判断され、少し離れたところから応援を呼んでいるのだという。
「解りました。そうなると余計に外に証拠がないか、探しておく必要がありますね」
 忠文はそう言うと、スマホのバッテリーを確認した。庭の状況がどうか、カメラに記録しておくつもりなのだ。カメラを起動し動画モードへと切り替える。
「何もないですね」
「そうですね」
 慎重に確認しながら進むが、人間の足跡は見つからなかった。しかし、代わりに昨夜話題になった動物の足跡は複数見つかる。地面が夜露か何かで湿っているらしい。残された足跡の形からしてイノシシやシカというところか。獰猛なクマは今のところ現れた形跡がなかった。
「あれをクマの仕業にするのは無理ですよ」
「ですよね」
 思わず動物が犯人かと思ったが、部屋一面に絵の具をまき散らすことは不可能だった。必然的に、犯人は人間となる。千春は誤魔化すように笑ったが、考えを見抜いた友也には驚かされる。
 こうやって千春が冷静でいられるのも、この友也がどこか違った雰囲気を持っていることに助けられている。緊張を誤魔化すためかもしれないが、一人だけ笑顔でこの状況に対応している姿は頼もしく見えるのだ。
「ここまでは何もなし。でも問題は、あのアトリエですからね」
「ええ」
 忠文も必死にカメラで周囲を撮影したものの、ここまでは無駄骨だった。しかしこれも、外部からの侵入はなかったという証拠になるので無駄ではないという。
「なるほど。でもそうなると、ますます内部犯ということになりますね」
 友也がにやりと笑うので、全員が思わず息を飲んでいた。そして互いの顔をそっと窺ってしまう。千春はというと、友也の顔だけを確認していた。全員が真っ青な顔をしている中、友也だけ変化がなかったからだ。しかしこちらも、まったく変化がないというわけではなく、先ほど感じたように笑顔で誤魔化しているかのようだった。
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