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第44話 皆さんの経歴は?

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 しかしふと、鎌倉という言葉が気になった。友也の出身も鎌倉ではなかったか。その地に何かあるのか気になってしまう。だが、観光地としてメジャーだ。東京近郊に住んでいたのならば、行きやすかっただろう。単に交通の便が良く、それでいて気に入る何かがあったのだろうか。ではどうして鎌倉に住まなかったなのだろう。別荘地も会ってここよりもいいと思うのだが、大きな土地が確保できなかったのだろうか。
「五年前って俺はまだ高校生だったな。でも、そんな旅行好きだった人が、こんなところに籠りっきりだったんですか」
「そうですね。こちらに移り住んでからは、旅行に出掛けられることも少なくなりました。それでも年に数回ですがお出かけになっていましたよ。昔のように長期間ではなく、一泊二日程度でしたが」
 そう答えたのは田辺だ。その口ぶりからして、田辺は五年前より以前から安西の執事をやっているようだ。
「田辺さんは長いんですか?」
「ええ。昔は秘書のような立場でした。私も若い頃は絵を志したことがありまして、そのご縁で」
「へえ」
 それは意外と言う大地の意見に、千春も同じ思いだった。てっきりどこかのホテルで働いていたのかと思ってしまった。
「ははっ。若気の至りです。自分には才能がないと解っていなかった。安西の秘書になるにあたり、それなりの知識とマナーを身に付けました。先生が有名になるにつれ、ある程度の格式を求められるようになりましたからね。頑張りました。絵は諦めたものの、それに関わる仕事が出来ていることが何よりの喜びでしたから」
 二人の意見に、田辺はお恥ずかしいと笑う。長年の経験がそういう雰囲気を作り出していたのならば嬉しいと、そう付け加えた。
「私は、本気で安西先生を尊敬していました。だから、どんな無理難題にも応えてきました。ここに越してきた時、ひょっとして私は不要になるのではないか。そんな不安もありましたが、変わらず置いてくださりました。本当ならば遠藤先生に取って代わられてもおかしくなかったと、本気で思ったものです」
「意外ですね。いくら男女の仲だったとはいえ、秘書と妻になるかもしれない人は別物でしょう」
 心配なんて不要だったのではという千春に、いやいやと田辺は手を横に振る。
「椎名さんって、心の研究をしているくせに朴念仁なんですね。好きな人が出来たら、その人しか見えなくなるものですよ。たとえ長年付き合っていた相手だとしても、ばっさりと切れるほどです。恋は盲目という言葉が示すようにね」
「うっ」
 田辺の代わりに答えた友也の言葉が重かった。心の研究という言い方は語弊があるものの、人工知能に心の理解をさせようとしている人間が、恋心を度外視しているのはおかしいと指摘された気分だ。
「ということは、二人の恋はかなり本気のものだった、ということですか」
「え、ええ。傍から見ている限り、そうだと思います。しかし、お二人は恋人という言い方は嫌だったようですけど」
「不思議ですね」
「そうですね。互いに総てを許しているものの、そういう恋愛とは違うのだという考えだったようです。もちろん、二人の関係は公にされていますし世間的には恋人と考えるのが普通ですけれども、二人はどうやら盟友のような、そういう超越した関係にあったらしいです」
 田辺は一気にそこまで喋っていた。終わった時、思わず口からほうっと長い息が漏れる。
「ううん。となると、二人の間にトラブルがあったとは考えられない」
「ないですよ。まさか椎名先生、どちらかが殺人を犯したのではと考えておられるのですか」
 いつになく強い口調で田辺は訊ねてくる。それはないと田辺は確信しているようだ。
「いえ。可能性の一つとして考えているというだけですよ。そもそも、あの死体はどういう過程を経て出来たのか、それすら皆目解っていない状況ですからね」
「そうですね」
 しかし、その可能性を考える必要はあるのか。田辺は不満そうだった。だが、千春は今、あらゆる可能性を考える必要があると感じていた。というのも、誰もがあの死体の問題に向き合わないのは、何一つ手掛かりを得ていないからではないかと思っている。
「どうやら椎名さんは犯人探しとは違うスタンスのようですね」
「ええ、まあ。この際、誰がやったかはどうでもいいと思うんです」
「それは凄い」
 友也は驚いたと手を叩いた。それは賞賛なのか揶揄なのか、後者だろうなと千春は思ったが、その目の真剣さに圧倒される。
「つまり純粋にトリックが知りたいと、まるで推理小説の探偵のような方ですね」
「そうなんですか。単純にこの事件において、トリックを排除することはおかしいと思っただけですけど。あの奇妙な死体が出来上がった理由こそ、この事件の様々な謎を解くカギだと思います」
「では、一緒に考えましょう」
「えっ」
「それが解決への一歩ですよ」
 にやりと笑う友也の顔を見て、初めて、事件に正対する時が来た。千春は何故かそう確信していた。



「あの野郎。連絡して来ねえな」
 その頃、天井を確認しろと指示した将平はスマホを睨みつけていた。時刻はすでに午前三時。相変わらず雨は上がる様子がなく、窓を激しく叩いている。そんな中で連絡が途切れるというのは不安を煽る。
「あの先生ですからね。天井裏の秘密に夢中になっているんじゃないですか」
 しかし、連絡が来ないことに慣れている翔馬の意見は冷たい。夢中になったらスマホなんて見ていないと、ばっさり切り捨てた。これは事件が起きた時から一貫している。
「そうなんだろうけどな。昔から連絡なんてして来ない奴だったよ。正月だろうと挨拶すらない奴だったよ。でもさ、状況判断できないのか、あの准教授はよ。というか准教授だろ」
 俺って間違っているのかと、将平は頭を抱えて悩み始める。たしかにそうですけどねと、翔馬はどちらの肩を持てばいいのか解らなくなる。
「准教授になれたのが奇跡と考えるのが正しいんじゃないか」
 そこにさらに酷い意見を述べる英士に、確かになと思わず頷きそうになる将平と翔馬だ。しかし、いやいや違うと何とか否定する。
「あいつの研究って凄いんだろ」
「そうだね。自分が凡人だと気づいた瞬間をもたらしてくれたほどに」
「ほう」
 准教授になれたのが奇跡と言った奴の意見とは思えない言葉が飛び出してきた。
「でもね。准教授という地位があることと研究の中身は関連しないよ。そういう場所だからね、大学は。だから俺の評価に矛盾はない」
 将平の疑いの眼差しに気づき、英士がちゃんと言い直した。つまり、その地位にあるべき人物と研究は関連しないと言いたいらしい。
「まあ、工学部はそれほど厳密ではない気がしますけどね。というか、医系を除く理系の教授や准教授の決め方って、結局は論文の評価に依る気がしますけどね」
「それは確かにね。昔ながらの凝り固まった考えってのは少ないよ。でも、あれを准教授にしちゃ駄目でしょとは思うんだよね。ああいうタイプには、地位を与えるよりも自由に研究できる環境を与えるべきだと思うんだよね」
「そういうものなのか」
 よく解らんと、部外者である将平は首を捻った。まあ、今はどうでもいいことだ。間違っていようと何だろうと千春は准教授。その立派な地位にある奴が連絡をしてこない、この事実が問題なのだ。
「そうでしたね。夢中になっているということは天井に何があったんでしょう」
 気になりますねと、翔馬は設計図を覗き込む。しかし、そこには空間があるかさえ解らない。ただの平面図でしかなかった。
「ここがアトリエなんですよね、たぶん」
「そうだろうな。この家の中で一番広いのはそこだ」
 翔馬が指差したのは、確かにアトリエだった。極端に広い空間として設計図には描かれている。ここだけ柱を取っ払ったかのようだ。
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