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第16話 藤本祐一郎

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 翌日。飛鳥の気が変わっては大変と急いだ優介によって、朝から八王子へと向うことになった。八王子は江戸の外れだ。朝早くから出掛けて昼過ぎに向こうに到着することになる。
「全く、面倒だぜ」
 昨日の夜は雨月と話し込んでいた飛鳥は、歩きながら大欠伸だ。普段ならばさっさと帰る雨月だが、昨日はだらだら長く嫌がらせしてくれた。まあ、雨月も飛鳥と里の連中との板挟みになっているだろうから、嫌味だって言いたくなるし嫌がらせもしたくなるだろう。
「申し訳ない。あの、駕籠を呼びましょうか?」
 高橋は面倒と言われたのは自分のせいと思ったのだろう、そんな欠伸をする飛鳥に顔を赤らめつつ、そう申し出る。
「いや、いい。それより金を弾んでくれ。っていうか、あっちの方が駕籠がいりそうだぜ」
 飛鳥はすでに口説かれているため、こいつに関わるとヤバそうだと距離を取る。そして一人遅れている優介を指差した。
「二人とも、歩くのが速いんだな」
 優介は手ぬぐいで汗を拭きながらぼやいている。
 鬼である飛鳥は元々の体力が違う。武士としてお役目を果たしている高橋も、日頃からの鍛錬で体力には自信があるだろう。ところが、旗本の次男坊で大した稽古もなく、日がな一日戯作を作っている優介は体力がないだけだ。
「まあ、あの速度でも昼過ぎには着きますよ」
 高橋は呆れる飛鳥にそう取りなす。
「まあ、いいか」
 どうせ向こうに泊まる算段になっている。少しばかり到着が遅れても問題ではない。ただ、この高橋と並んでいる時間が長くなるだけだ。それだけが憂鬱だと、飛鳥は溜め息を吐くのだった。


 さて、八王子のそれも田園地帯から離れて少し山の中。そこに小さな庵があって、そこが問題の高橋の恋人が住む場所だった。
 出家するということだったが、まだ僧形にはなっておらず、すらりとした華奢な青年がそこにいた。しかし、すでに髷は結わずに髪は後ろで束ねられているだけだ。随分前から世捨て人同然だったのだろう。
 名前を藤本祐一郎ふじもとゆういちろうといい、年齢は十九だという。薄幸そうな見た目で、役者のようにすらりとした顔立ちだ。高橋でなくても、その気のある男はくらっと来るだろうことは容易に想像できる。
「わざわざこのような庵まで足をお運び頂き、ありがとうございます」
 藤本はそう言って飛鳥に頭を下げると、客人三人に茶を出した。すでに幽霊事件に関して飛鳥に解いてもらうという文を、高橋がこの藤本に送っていたから、何事もすんなりと進む。
「来ないことには解らないからな。それにしても綺麗なもんだな。で、山ん中に住んでいるっていうのに、わざわざ出家する必要なんてあるのかい?」
 飛鳥はきょろきょろと庵の中を確認する。庵の広さは六畳。玄関横に土間があってそこで煮炊きが出来るようになっている。男一人で生活するには十分だろう。まだどこも新しいようで、新築かと見間違うほどである。
「今まではその、決心が付かずにいましたから」
 藤本はどう説明するのがいいのだろうと、少し困惑した表情をしている。どうやら込み入った事情があるらしい。
「まっ、世捨て人と坊さんじゃあ色々と違うからな。自由な生活を謳歌したけりゃ、こっちだよな」
 飛鳥は説明したくないならばいいと、そう言って茶を飲んだ。自分で淹れる茶と違って美味い。掃除が行き届いていることや茶の淹れ方から考えると、かなり出来る男であるらしい。
「殿が狭量でなければ、祐一郎はこんな生活をせずに済んだんだ。だから、俺や同僚は思い留まれと何度も説得したんだ」
 察している飛鳥に向けて、高橋は悔しそうに言う。
 なるほど、高橋と藤本はどこかの藩士なのか。訛りがないから代々江戸詰めなのだろう。優介が衆道は地域差と言っていたが、それも関係しているようだ。
「そう言ってくださるのは嬉しいのですが、もはや戻ることは出来ません。だらだらと皆さまの好意に甘え続けるのもよくないと、ずっと出家は考えておりました。そしてこの度、お寺に入門できる運びとなりました。江戸から離れたいという私の我が儘まもあり、少し時間が掛かってしまったんです」
 藤本は高橋を窘めるように言う。
 ふむ、未練たっぷりの高橋と違い、藤本はすでに諦念の境地らしい。そしてそんな元恋人だから、二度と戻って来ないかもしれないと、一夜を共にするためにわざわざ八王子に出向いたというわけか。
 事情は大分すっきりしてきたが、それにしても、藤本も厄介な男と兄弟の契りを結んでしまったものだ。好色男の恋人の一人だなんて、苦労が絶えないだろう。
「ん? ひょっとしてその殿に夜伽よとぎでも命じられたのか」
 で、余計なことに気づいてしまった飛鳥だ。高橋の必死さとこの見た目から導き出された答えだが、藤本は驚いた顔をし、ついで頷いた。
「はい。あの、断ってこうなったわけではなく、その、色々と不足していたと申しますか」
 言いながら藤本の顔は真っ赤になっている。横にいる高橋は悔しさから真っ赤になっている。この好色男のことだ、そういう指導役でもあるのだろう。
 世の中、色々とあるもんだ。
「いや、殿様との情事を聞きにきたわけじゃねえ。俺が問題にしてるのは幽霊だ」
 飛鳥は余計なことを言うんじゃなかったと話を元に戻す。
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