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最後の大仕事

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 それからというもの、名護屋地下鉄のホームにはどの駅にも、毎日通常の乗客とは別に、私服警官が多数見られるようになった。普段からも私服警官は乗客に紛れているだろうが、明らかに数が多い気がする。
 乗車率が名護屋地下鉄の中でダントツに多い西山線は当然のようにマークされている。特に時史の最寄り駅である前池駅は菊通線もある乗換駅で利用者が多いせいか、私服警官も通常の駅よりも多い気がする。通常の乗客は、しばらくしたらいなくなるだろうと楽観視していると思うが、時史はそう思えなかった。

「あいかわらず頑張るよな。もう二週間以上続いてるぜ」

 背後で声がしたが、振り返らずともわかった。以前の男とは別で、この駅周辺で女相手に行為に及ぶ同業の仲間だ。

「いつまでもこんな状況を続けられるはずがない。おそらく奴らには達成目標がある」
「ああ、奴らの目的は『常習犯の確保』だろう」

 時史も男とまったく同じことを考えていた。
 ここまで人員を動かしておいて手柄無しでは引き下がれないだろう。普通に考えれば、どこもかしこも私服警官がいる環境でさすがに手を出そうという気にはならない。もちろん車内では目が届かないだろうと迂闊に手を出して捕まった例もなくはないだろうが、そんなものは通常の痴漢検挙数と大差がないだろう。今回、人員を割いて、永続的に痴漢がいなくなったという実績を残すためには、このタイミングで痴漢を根絶やしにする必要がある。彼らの狙っているのは常習犯の確保だ、と時史は考えていた。

「久弥では囮捜査も始まったらしい。兄ちゃん、気をつけろよ」
「俺はそんなヘマしない」

 そうでなくても、痴漢から遠ざかってはいるが。

「これは俺の直感だから、聞き流してくれ。囮の女性役、どうもおまえのターゲットに合わせてる気がするんだ」

 その言葉に、ハッとする。情報流出元が北大路なら、間違いなく自分の好みを知っている。もし男の言葉が事実なら、時史自身が常習犯としてリストに上がっているのも間違いないだろう。

「悪いことは言わない。おまえしばらく電車はやめとけ」
「バカだな。いきなり俺が姿を消したら、計画に気づかれたってバレるだろうが」
「しかしあいつらは手段を選ばない気がする。冤罪だってやりかねん。事実、何人か捕まってる」
「もう、その段階なのか……」

 事実、思ったように犯人確保が進まなければ冤罪もやむなしになるとは考えた。男の言うとおり、すでにそのフェーズに来ているというのなら、あちらは思う通りの結果にならず、焦っているのかもしれない。

「すまない」
「なんでおまえが謝る?」
「この状況を作ったのは、俺のせいかもしれない」

 背後の男はしばし黙っていたが、意外な言葉を口にした。

「俺たちは間違いなく犯罪者だ。自覚がある。でもおまえは俺たちとは違う。けれどおまえは、俺たちを否定しない。だから仲間意識がある、それだけのことだ。悪いことは言わない。おまえはおとなしくしていろ。そしていずれどこかの駅で会おう」
「違う、俺だって……!」

 時史が振り向くと男はすでにいなかった。

『おまえは俺たちとは違う』

 なんでそんなことを言うのだろう。自分だって立派な痴漢だし、犯罪者だ。自分だけ助かろうなんて考えていない。責任を感じている。自分も含め彼らの狩場を荒らしたこと。間接的に捜査に加担したこと。その落とし前を自分はどうつけるべきなのか、思いあぐねている。

――このままでいいはずない。
 時史は電車を待つ列から離れ、ホームの隅でスマホを取り出した。連絡先から『北大路舞』を検索し、電話をかける。自分から連絡をするのは初めてだ。

「もしもし、おじさん? どうしたの?」
「舞、おまえに頼みがある」
「何……?」
「宝生真紀が、次に張り込む日とターゲットの駅を聞き出してくれ」

◆◆


 その日、九条時史は菊通線の前池駅にいた。舞によれば、今日、ここに宝生が現場を指揮しているのだという。あの日、電話で宝生にもう一度会いたいと告げたら、舞に「真紀ちゃんは手強いよ?」と弾んだ声で茶化された。どうやら時史が宝生を口説くと思い込んでいるようだ。言っておくが好みじゃない。とりあえず宝生の予定を聞き出してくれた舞に、「北大路には言わないでくれ」と念押ししたら「たまには女性と話したいときもあるよね」と快諾してくれた。つくづく、舞がお気楽女子高生で助かったと心から思う。

「さて」

 周囲を見渡すとホームは通常の様子を取り戻している。あんなにいた私服警官もいない。実は、今日まで様々な駅を調べて、時史は気づいたことがあった。どうやら県警は、多勢の私服警官を配置して牽制にあたる日と囮捜査の日を設けている。そこで今日は大丈夫そうだと気が緩み、行為に及んだ痴漢を一網打尽にするという作戦のようだ。
 実際その作戦は功を奏し、時史も何度か確保の現場を目撃したが、捕まるのは、どちらかといえば、まだ経験値の低い痴漢で、囮捜査の場合は、囮役の女性警官が目星をつけた常習犯に近づき、あからさまに誘いをかけている。それは誘導といっても過言ではない。あれでは「ソノ気があるのかもしれない」と調子に乗る男性は痴漢に限らず、いるのではないかと思うが、常習犯はすでに私服警官とそうでない乗客を見分けられている。それほどまでに『常習犯の確保』は難しいのだ。
 舞から今日、この前池駅で囮捜査が行われることを知り、それから自分なりに考えて、ひとつの答えを出した。最近の自分はそうした行為に及んではいないが、痴漢行為を常習的にしていた人間として、その行為についてお互いが狩場を維持すること、侵犯しないことを暗黙の了解とし、語らずとも仲間意識を抱いていた彼らに、間接的であるが裏切ってしまったことについての、けじめをつけるべきだ、と。一度捕まれば時史の社会的地位が危ぶまれる。それも理解した上で、だ。

 最近、北大路優也の論文を読んだ。それは性犯罪に遭った被害者の手記に対して、心理学的見解から解説した本だ。正直、自分は甘く見ていたかも知れない。相手が喜んでくれている、同意だと思ったという根拠はどこから来るのだろう、と考えた。本当は時史のせいで傷ついた女性もいたかもしれない。被害届を出す勇気のない女性もいたかもしれない。そうであれば、自分が罪を犯していないとどうして言い切れるのだろうか。
 痴漢は犯罪。そんなことは最初からわかっていたはずだ。それならば自分が逮捕されることで、この騒動に区切りをつけることができ、なおかつ自分が罪を償い、沈静化するのならば、その選択肢もありなのではないか、と。
 さいわい自分は顔がいい。そしてメンタルも弱くない。たとえ前科を背負ったとしても、きっと第二の人生を歩んでいける。時史の心は決まっていた。

「さっさと終わらすか」

 時史がホームを歩くと、数人、囮だと思われる女性がいた。いずれも小柄で髪が長く、服装は花柄のスカート、もしくはワンピースにカーディガン。顔つきはいかにも優しそうで気が弱そうなおとなしめの女性。しかもシャンプーはラッカスときてる。思わず笑ってしまいそうになるほど、時史のストライクゾーンだ。
 その中でも一番小さめな女性に目星をつけ、女性の背後に位置取った。髪で隠してはいるが、カールコードのついた片耳のイヤホンをつけている。むしろこれが目印になってしまうことにそろそろ気づくべきだ。時史が列に並び始めると、スーツの男性が一人、自分の背後に近づいてきた。いよいよ、周囲の空気が張り詰める。
――見せてやるよ。百戦錬磨の痴漢のテクニックを。

 痴漢行為は久しぶりだが、体はきちんと覚えていた。車内に乗車し、セオリー通り、駅が過ぎる毎に女性を扉の奥の死角に追い込む。押しつぶされそうになる彼女を背中で守る。彼女が時史の方を向かないのは、周囲から触っている手がわかるよう、そうするよう指示されているのだろう。普段、鞄を持ち歩かない男は両手を上に上げれば、ほとんどの場合は冤罪は免れる。時史も最近はそうしている。痴漢をする気がないからだ。しかし、今日の時史は片手をつり革、片手を普通におろしている。手を伸ばそうと思えばターゲットに触れることができる距離だ。
 はっきりいって、この女性を触りたいとは思わない。以前はあんなに女性が魅力的だったのに、本当に興味がなくなってしまった。丸みがあって、柔らかくて、何より女性が恥ずかしがりながらも感じてる反応が、かわいらしくて好きだった。
 いつしか、自分がするよりも、自分がされるほうが心地良いと思ったのは間違いなくあの男のせいだ。

『君は間違いなく、触られる側の人間だ』

 最初は、あの男の言葉を信じられなかった。そんなはずはない、と。けれど気づいてしまったら、女で勃たなくなった。触りたいとも思わなくなった。他の男に触られたとき、嫌だったのに体が反応して、やっぱり自分はそうなのか、と嘆いた。でも気持ちは違った。

――あいつだから、だ。
 男専門の痴漢のテクニックは巧みだった。けれど明らかに不快に感じた。逃げ出したかった。男なら誰に触られてもいいわけではない。あいつだから許した。北大路だから、心も体も許したのだ。それが、恋愛感情だとは言い切れない。
 でも、自分はどこかで北大路からの連絡を待っていた。聞いてみたかったからだ。

――本当に出世のためだけに、俺に近づいたのか。
 まだどこかで信じられない自分がいる。出世のためだけに、あんなに執着する必要があったのか。何度も体の関係を持ち、しかもあんなに優しく愛の言葉を囁きながら抱けるものなのか。真剣に付き合いたいと告げる必要まであったのか。こんなにも時史の心を動かすだけ動かしておいて、すべてが嘘だったなんて、この事実をどう受け止めたらいいのか。 目の前の女性に手を伸ばせば、間違いなく現行犯だ。背後から私服警官が嬉々として自分に手錠をかけるだろう。常習犯である自分の逮捕、それが北大路の望みだったとしたら、北大路はそれで喜んでくれるのか。それですべてがうまくいくのか。
 しびれを切らしたのか、目の前の女性が後ろに下がってきて、時史の手の甲に彼女の柔らかい臀部が触れる。ここで時史が手のひらを返せば、痴漢行為とみなされる。
 手が震える。鼓動が早くなる。思えば、会話を交わすことなく、同意じゃない相手を触るなんて初めてのことだ。何のために興味のない女性の体を触らなくてはいけないのか。

――今の俺が、北大路にしてやれることはこれしかない。
 迷いを振り払い、手を動かそうとしたその時だった。

「……!」

 突然、横から手首を掴まれた。まだ触ってもいないのに、捕まったのか。これですべてが終わるのか。

「私という女がありながら、こんな女のどこがいいのよ!」

 聞き慣れた野太い声が耳に響く、周囲の乗客がざわつく。声の主はすぐにわかった。なんでこいつがここにいるんだ。時史の腕を掴んでいる、その腕の持ち主は花柄のワンピースに、ピンクのカーディガン、髪はセミロング、そしてラッカスの香りを漂わせた女装した男、北大路優也だった。

「北大路……?」
「ごめんなさいねぇ。彼の手のひらがあなたのお尻に当たってたんじゃなぁい? 許してね、わたしがたっぷり彼をお仕置きするわぁ~!」
「は、はぁ……」

 北大路の風貌と勢いに目の前の女性は驚いたのか、目を瞬いている。

「おい、こら、変態准教授」
「え、わたしのこと?」

 女装した変態准教授は、時史に向かってにっこりと微笑んだ。

「なんでおまえがここにいるんだよ、邪魔すんな」
「だってー、私の時史が『痴漢に間違われそうだった』から心配で来ちゃったの」
「どうしてそれを……」

 北大路は時史に歩み寄り、背後に立っていたスーツの男に囁いた。

「宝生警部補は名護屋駅にいるんだろ。そこに案内してくれ」
「え……」
「君たちの作戦はやり過ぎだ。話し合おう」

 スーツの男は黙って頷き、耳元のマイクに向かって何かを話しているようだった。一体、何がどうなっているのか、わからない。

「九条くん、これが終わったらちゃんと話させてくれ。せめて弁解する機会をくれないか」
「……」

 時史の手首を掴んでいた北大路の手は、気づけば時史の手に繋がれていた。温かい手にぎゅっと包まれ、ずっと胸の鼓動が止まらなかった時史も徐々に落ち着きを取り戻していった。

 囮役の女性と、数人の私服警官に連れられた名護屋駅の鉄道警察の詰め所で、自分たちを待ち構えていたのは、仁王立ちで立っていた宝生だった。

「説明してもらいましょうか、北大路准教授」
「久しぶりだね、宝生くん」
「挨拶は結構です。そんな格好までして、私達の捜査を邪魔した理由を話してください。事と次第によっては公務執行妨害に値しますよ」
「スーツの彼の上着にピンカメラが仕込んであった。車内盗撮までするなんて捜査とはいえ、それはやり過ぎだろう」
「部外者の先生に捜査方法を指摘される覚えはないわ」

 情報提供をしていたはずの北大路に対して部外者扱いをした宝生に目を見張る。

「そもそも、なぜ彼をマークした」
「決まってるじゃない。常習犯だからよ」

 やはり自分は常習犯として、狙われていた。このあたりは読みどおりだ。

「彼は違う」
「犯人を擁護するの?」
「彼は相手の女性と同意の上でプレイをしているだけの一般人だ」
「え?」

 一般人……いや、確かにそうだが、なぜ北大路と宝生が対立しているのだ。

「現に、彼に触られた女性からの被害届は一通も出ていない」
「そんなはずないわ!」
「じゃあ、探してくるんだな。彼の被害者を。君たちだって被害者がいなければ逮捕はできないだろう。以前も言ったと思うが、彼は痴漢ではない。もちろん私も彼の無実を証明するために、論理的に動く。彼を逮捕すれば間違いなくそちらの立場が危うくなる。それでもいいんだな?」
「……」

 宝生は何も返す言葉がないようだった

「九条くん、行こう。君に罪はない」
「北大路先生、あなた、こんなことしていいと思ってるの?」
「僕は、常に弱者の味方でありたいだけだ」

 女装したままの北大路は、それだけ言い残し、時史の腕を掴んで詰め所を出た。
 まだ情報が脳内で渋滞している。けれど唯一間違いないのは、逮捕されなかったことと、北大路が助けてくれた、ということだ。

「車はタワービルの駐車場に停めてあるんだ、少し歩こう」

 北大路はそう告げて、時史と一緒に地下街を歩いた。総合駅である名護屋駅は、まだ朝の喧騒から覚めやらず、混雑していて、通勤途中のサラリーマンと何度もすれ違ったが、北大路の変装はバレていないようだった。
 無言のまま、ビルの駐車場まで歩き、シルバーのハイエースに乗り込んだ。いつものように助手席に乗り込む。運転席に乗り込んだ北大路はすぐにウィッグを外し、がしがしと頭を掻いて、バックミラーを見ながら整えている。

「ありがとな」

 やっと口を開いて出た言葉は、お礼だった。今は、まだ混乱していて、これが精一杯だ。

「間に合ってよかった。怖かったよね。もっと早く気づいていれば」

 北大路の手が時史の上に置かれる。少し汗ばんだ手の生温かさに悪い気はしない。

「いいんだ。捕まるつもりだったんだから」
「ねぇ、なんでそんな無茶をしようとしたの」
「俺が仲間を売ったと思い込んでいたから」
「そんなはずはないよ」
「だって、あんたが俺を捕まえないと教授に昇進できないと思って」
「真紀が吹き込んだのか? そんなわけないだろ。君は真紀に誘導されただけだ。そんなことで僕の出世は変わらないよ」
「俺に近づいたのだって、痴漢をなくすためだろう。情報収集に使うために」

 北大路は黙って、首を横に振った。

「今だから言うけど、君はずっと愛知県警からマークされていたんだ」
「え」
「痴漢行為の目撃もあるのに被害届が出ない。それで君を調査するように県警から依頼された。それが君を知ったきっかけだ」
「じゃあ」
「結論、僕が県警に出したの調査結果は『九条時史は痴漢ではない』だ」
「痴漢じゃないって……おれは明らかに痴漢をして…!」
「さっき真紀にも伝えた通り、痴漢行為というのは被害者が届けを出さないと成立しない。君はただスキンシップが過剰なだけで、ただのナンパだ」
「ナンパ……」

 百戦錬磨の痴漢だなんて通り名がついていたのに、実際はただのナンパ行為とみなされていたということになる。もしかして同業の男が「おまえは俺たちと違う」と言っていたのは、それをわかっていたから、なのか。

「けど今日は明らかにおかしかった。彼らの作戦は君が痴漢行為をするように仕向けることだった」
「え、仕向ける?

 囮捜査まで行って、常習犯である時史を捕まえたいのはわかっていた。しかし、途中から囮の女子警官が体を押し付けてきたので、違和感はあった。

「真紀が情報提供という言葉を使ったのなら、僕経由で警察に情報を流したと知って罪悪感を持った君はきっと行動を起こす。そういう君の義理堅い性格を彼らは利用したんだ。舞にスケジュールを漏らしたのもわざとだろう」
「もしかして今日のこと、舞から聞いたのか」
「うん。彼女は賢いから、君が何をするのかわかったみたいだ。それで僕に連絡してきたと思う。お兄ちゃんを助けてくれって」

 なんだ、あいつはただのお気楽女子高生なんかじゃなかったってことか。

「じゃあ俺は……」
「常習犯を現行犯逮捕して痴漢を抑制させようという作戦に君は利用されそうになったんだ」
「利用……」

 そもそも時史を利用していたのは北大路だと思っていたのに、まったく違っていた。じゃあ、自分は一体何に、腹を立てていたというんだ。今までの行動や言葉は出世のためじゃないというなら、なんなんだ。

「正義感の強い彼女のことは好きだ。しかしその正義は必ずしも弱者のためとは限らない。僕と彼女はお互いに価値観が歩み寄れずに離れるに至ったんだ」


 価値観の違い、一番で多いとされる離婚の原因だ。
「君を巻き込んでしまって本当にすまない。僕の役目もこれで終わりだ」
「役目……?」

 北大路はスマホを取り出し、何かをタップしていた。

「君の場所を特定していたGPSのアプリもアンインストールするよ」

 ほら、と見せられた画面には「削除されました」のメッセージが表示されている。

「僕が君をずっと見張っていたのは、警察が君を誤認逮捕しないためだった。でも、もう大丈夫だと思う。今一度、捜査の方法を考える意見書をちょうど今朝、警視総監に提出したところだ」
 あのとき北大路が時史に『しばらく痴漢をやめろ』と言ったのは、県警の動きに気づいていたからだ。普段から時史の行動に口を出す人じゃないことはわかっていた。けれど非常事態だった。だから、あの日の北大路はらしくない行動に出た。すべては時史を守るために。

「あとね、君がこれまで関係を持った女性はすべて君を好意的に想っている」
「わざわざ話、聞いたのかよ」
「もちろん、元銀行員の彼女もね」
「ちょっと待て、以前、俺の彼女のことを交換条件にしたことがあったじゃないか!」
「そうだっけ?」

 しれっと、とぼけた顔をして首をかしげてくる。

「汚ねぇぞ…」
「だから僕は君のすべてを知っている。その上で聞いてほしい」

 急に、その声音が落ち着いたトーンになる。

「君を僕だけのものにしたい。君が他の人に触れるのも、触れられるのも嫌だ。准教授とか、立場なんて関係ない。ただ一人の男として君のことを好きになった」
「なんで、俺……なんだよ」
「どうしてだろうね。君を研究対象として追いかけているうちに本当に目が離せなくなった。もっと近づく理由が欲しかった。いきなり体を繋げるなんて非常識だと思ったけれど、気軽な相手なら応じてくれるんじゃないかって考えた。だから、こうして触れることができるようになって嬉しくて嬉しくて」
「もういい、やめろって」

 思わず、握られていた手を振り払った。聞いてて顔に熱が集まってくる。恥ずかしいことを惜しげもなく饒舌に語らないでほしい。

「君が嫌がるであろうことを言うのは僕だって嫌だった。でも危ない目に遭わせたくなかったんだ。ごめん、本当にごめん」
「いいって、もう」

 すべては自分を守るためだった。そんなことにまったく気づかなかったのは時史のほうだ。北大路の『好きという気持ち』は本当に真剣でまっすぐで美しいものであったことは今なら十分わかる。それなのに自分は疑って冷静さを失っていただけだ。

「僕の気持ちに、答えてはくれないだろうか」

 その言葉に時史は返事ができなかった。できるわけがなかった。
 しばしの沈黙のあと、北大路は運転席に向き直り、車は走り出した。

◆◆


 二人は無言のまま、車は走り続け、時史の会社の前で車は止まった。

「今までありがとう。君と過ごした時間はとても楽しかった」
『俺たちはこれっきりになるのだろうか』なんて、聞けそうにない。北大路が時史を守るために自分の立場を顧みない行動をしてくれていたなんてことに気づかず、自分は北大路を疑い、誤解だと知った今でも、まだ謝ることができないでいる。まだ心の整理が追いつかないからだ。もちろん今の自分の気持ちも、すんなりと認められずにいる。
 これで終わりになるなんて、自分は望んでいないのは間違いない。
 カチッとドアで音がする。ロックが外れる音だ。時史は助手席のドアを開ける。

「君の個人情報はすべて破棄するから心配しないで」

 きっと間違いなく削除されるだろう。それはわかる。自分と北大路の間に繋がりがなくなってしまう。でも今の自分は、それを繋ぎとめる資格がない。
 そのままドアを締めると、パワーウィンドウが開けられる。

「さよなら、九条くん」

 北大路は無言のままの時史の背中にそれだけ告げて、そのまま車を走らせた。

 会社のビルの前で、時史は立ち尽くしていた。
 これでよかったんじゃないか。やっと元通りの平穏な日々が戻ってくる。鬼のように電話が鳴ることもないし、いきなり会社の前に車が迎えに来ていることもないし、どこにいるか突き止められたりもしない。甘いキスをたくさんしたりもしないし、抱かれることもない、好きと囁かれることもない。

「かっこよすぎるんだよ、バカ」

 北大路は最後まで時史を守ってくれた。気持ちを告げても、無理強いはしない。本来の北大路はきっとそういう紳士的な男なんだろう。今までみたいに心まで土足で踏み込んで、かき乱してくるようなことはしない。自分の知っている北大路は、本当の姿ではなかったのかもしれない。これで二人の関係は本当に終わった。
 頬に涙が伝う。この涙は別れがつらいからなのか、自分が情けないからなのか、時史にはわからなかった。
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