透過性の夢庭 ―これは誰の夢なのか?―

椎奈らん

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7. 透過性の夢庭

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 文字を書いた瞬間、庭園が変容し始めた。現実の花が言葉の花に変わり、普通の石畳が記憶の断片で構成された石畳に変化する。私は再び夢庭にいた。しかし、今度の夢庭は以前とは異なっている。すべての境界が曖昧になり、異なる世界が重なり合っている。

 空を見上げると、そこには複数の月が浮かんでいる。ひとつは三日月、ひとつは満月、ひとつは新月の暗い輪郭。それぞれが異なる時間を示している。時間もまた、複数存在しているのだ。

「君がついに到着したね」

 振り返ると、ナミオカ博士が立っている。しかし、彼の姿は半透明で、体の向こう側が透けて見える。

「ここはどこですか?」
「すべての場所であり、同時にどこでもない場所です。君の意識が作り出した最終的な空間だよ」

 博士の後ろから、記憶の海で出会った女性が現れる。彼女もまた半透明で、体内を小さな光が点滅している。

「境界が溶け始めています」

 女性が告げる。

「自我と他者、現実と夢、過去と未来。すべての区別が無意味になりつつあります」

 庭園の向こうから、サレフが歩いてくる。彼の姿だけは鮮明で、実体がある。

『君はついに理解するだろう』

 サレフの頭上に文字が浮かぶ。

『存在とは境界によって定義される。しかし、境界がなくなれば、存在は無限に拡張する』

 私は周囲を見回す。庭園には他にも人影がある。図書館で見かけた読書家たち、街角で擦れ違った通行人たち、記憶の中の懐かしい顔たち。彼らはすべて透明になりつつある。

「彼らは誰ですか?」
「君の人生に関わったすべての人々です」

 ナミオカ博士が答える。

「しかし、彼らが実在したのか、それとも君の想像の産物だったのかはもはや重要ではありません。すべてが等しく真実であり、すべてが等しく虚構です」

 庭園の中央にある噴水が変化している。記憶の代わりに、今度は光が流れ出している。その光は虹色に輝き、触れるとそれぞれ異なる感覚を与える。温かさ、冷たさ、甘さ、苦さ、そして名前のない感覚たち。さらに音も発している。鈴の音、波の音、母の子守唄、雨音。視覚だけでなく、すべての感覚が混じり合っている。

「これは何ですか?」
「純粋な体験だ」

 女性が説明する。

「言葉になる前の、概念化される前の、生の体験そのもの。サレフが君に見せようとしていたものだ」

 私は光の流れに手を浸す。言葉では表現できない感覚が体を満たす。それは幸福でも不幸でもない、美しいでも醜いでもない、ただ純粋な存在の感覚だった。

『言葉の檻から自由になったとき、君は真の自分に出会える』

 サレフが近づいてくる。彼の片目のない顔には、深い平安の表情が浮かんでいる。

「でも、言葉がなくなったら、私は考えることができません」
『考える必要があるのか?』
「私が私であることを確認できません」
『君が君である必要があるのか?』

 サレフの問いかけに、私は答えることができない。確かに、「私」という概念にこだわる理由は何なのだろう。
 庭園の花たちが一斉に花弁を散らし始める。文字でできた花弁が宙に舞い、やがて意味を失って形のない光の粒子に変わっていく。言葉が言葉でなくなり、意味が意味でなくなっていく。

「これが最終段階です」

 ナミオカ博士の声も徐々に聞こえなくなっていく。

「君はもうすぐ、完全な統合を体験します。すべての境界が消失し、すべてがひとつになる」

 私の体も透明になり始める。手を見ると、向こう側が透けて見える。しかし、恐怖は感じない。むしろ、長い間探し求めていた何かにやっと到達したような安堵感がある。

 サレフが私の手を取る。彼の手は温かく、確実な重さがある。

『一緒に行こう』

 私たちは光の噴水に向かって歩く。一歩進むたびに、私の輪郭がさらに曖昧になる。ナミオカ博士も、記憶の女性も、庭園の人影たちも、すべて光の中に溶けていく。

 噴水の縁に到達すると、私は振り返る。そこには誰もいない。いや、誰もが同時にそこにいる。境界が消失した世界では、個別性と全体性が矛盾なく共存している。

『怖いか?』

 サレフが最後の文字を浮かべる。

「いいえ。怖くありません」

 私たちは光の流れに身を委ねる。体が解体され、意識が拡散し、「私」という概念が宇宙に溶けていく。しかし、それは死ではない。より大きな生への参加だった。

 最後に聞こえたのは、遠くからの声だった。

「物語は終わらない。新しい読者が現れるたびに、物語は再び始まる」


 それが誰の声だったのかはわからない。私の声だったのか、サレフの声だったのか、それとも……

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