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「分断の千夜一夜物語――ライト・アップ・マイ・ライフ」

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 疲れ切った俺の脳みそに響く、低く重い声。

 の・ぞ・み・を・か・な・え・て・や・る……

 さっき拾ったオイル・ライターに着火した直後のことだ。

 も・う・し・て・み・よ……

 煙だ。部屋一杯に充満した黒煙が脳に直接語りかけている。

 な・に・が・ほ・し・い・の・だ……

 煤煙粒が集結し、巨人の姿へと変わった。真っ赤な瞳、尖ったあご、斜めに突き出した耳、口から白煙を吐いている。スモークは赤に黒にと明滅し、蜃気楼の如く揺れている。

 な・に・が・ほ・し・い・の・だ……

 悪霊に憑りつかれたか。俺は気が狂ったのか。どん底に落ちて三か月。もはや何が起こっても驚かない。

 ずうん、そいつが足踏みすると、家がまるごと震え上がった。足元に落ちる一冊の本。アラビアンナイトの絵本だ。これは二十年以上前、俺が愛する娘のために買ったものだ。

「炎の魔神、イフリート……」

 見開きに描かれたランプと異形の大魔王。目の前の魔物と同じかたちをしている。

 な・に・が・ほ・し・い・の・だ……

「金をくれ、それも一生使いきれないくらいの大金を」

 俺は思わず口走った。

 黒煙が激しく空気を攪拌する。ばん、弾けた烈風が玄関ドアを吹き飛ばす。竜巻が蜷局(とぐろ)のように体に巻きつき、俺は一瞬で家から放り出された。

 青空が一天にわかにかき曇り、あたり一面に暗雲が立ち込めた。同時に天頂が爆発、一筋の雷(いかづち)が俺をめがけて飛んできた。

「ひ」

 ごろごろと、とどろきわたる雷鳴。

 ああ、なんということだ。俺の唯一の財産が紅蓮の炎と燃えている。雷の一撃で、ガレージから屋根まで、自宅の全てが火の海だ。落雷先は我が家だった。

 ぱちぱち、バチバチ、バキバキ、柱や床の弾ける音が俺の鼓膜に突き刺さる。

 またか、ああ、どうして俺なんだ。

 災いが群れをなして取り囲み、途切れぬ悲運を嘲笑い、これでもか、これでもか、と俺の心を切り刻む、押しつぶす、嬲り、いたぶる。

 運命の神よ。そんなに俺が憎いのか。一生こつこつ誠実に生きてきた。なぜ俺なのだ。

 うーうーうー、耳をつんざくサイレンの音、消防車が猛スピードで走ってくる。消防士たちは手慣れた様子でホースを伸ばし、勢いよく放水した。一時間後、炎は鎮火した。

 消防士との面談、救急医の問診、保険会社への連絡、全ての手続きが終了したのは夕方だった。延焼はなく、燃えたのは俺の家だけだった。

 焼け出され、行き場所がない。財布を開けると持ち金は一万二千円だけ。この金で何日暮らせるだろうか。俺は駅前のネットカフェに泊まることにした。

「ナイト八時間パックを頼む……。」

「お部屋は十三番になります。右手奥にシャワーがありますので、ご利用ください」

 熱いシャワーを浴びると、今日一日の出来事がフラッシュバックした。

 俺は今朝、夜勤の帰り道で古いオイルライターを拾った。美しいアラベスク調の模様が目を引いた。百円ライターのガスが切れかかっていたので、ちょうどよかった。

家に着き、煙草を吸おうとライターに点火した時、くだんの魔神が出現した。

 三か月前会社をリストラされた。華華しい実績こそなかったが、二十五年間家族のために朝から晩までまじめに働いた。

 家族は俺を慰め、励ましてくれるものと信じていた。だが、リストラを打ち明けると妻は迷うことなく三行半みくだりはんを突き付けた。もうあなたには価値がない。子供たちは妻に従った。皆無表情で眉一つ動かさなかった。

 職を失い、家族を失い、誇りを失い、自我ががらがらと崩れる音を聞いた。

 そして今日、唯一残っていた俺の財産、汗水たらして築いたスイートホームが焼失した。

 金が要る。夜露をしのぐにも、腹を満たすにも、先立つものがなければどうにもならない。預金は妻に召し上げられ、バイトでその日暮らしの毎日。ネットカフェで一晩過ごすと千六百円。持ち金は一週間でアウトだ。

 いや、ネット株の口座にまだ残金があるかもしれない。スマホからパスワードを入力し、神にも祈る気持ちで残高を確認したが、表示された金額は三千二百円だった。


 一か月後、火災保険金が口座に振り込まれた。保険金は全焼で三千万円。とりあえず三万円を引き出した。

 ATMコーナーを出ると飲み屋の客引きが寄ってきた。

「帰りに一杯いかがすか、お安くしますよ」

 俺は手を振って、そいつに背を向けた。まともな職につけていないのだ。贅沢は禁物だ。

「待て。一本やらないか」

「いっぽん?」

 飲み屋なら一杯だろう。

 肩に手をかけられた。

「保険金は振り込まれたか」

 誰だ。他人が知っているはずはない。

「その手を離せ」

 振り向くとあの客引きだ。表情が何かおかしい。ま新しい煙草を一本差し出している。

「我慢するな。好きなんだろう? シガレット」

「何だあんた。俺に話しているのか?」

「そうだ」

 男がポケットから取り出したのは、あのアラベスク模様のオイルライター。

「受け取りたまえ。まだ所有権は貴殿にある」

「お前は誰だ。それをどこで手にいれた。」

 ライターは火事で焼けたのではなかったか。

「麿(まろ)はイフリート。この男の意識を乗っとった。貴殿と契りについて確認をしたい」

 イフリート 炎の魔神 俺を家から吹き飛ばした黒いイリュージョン。

 はははは、笑えるぜ。ここは地獄か。俺は魔物と話までできるのか。

「幻覚ではない。貴殿の願いが叶ったら、呪いを解いて麿を開放してほしいのだ」

 な・に・が・ほ・し・い・の・だ……

 俺には欲しいものなどもうなにもない。あるとすれば安らかな死だ。

「貴殿の望みはカネだと言った。これから貴殿の保険金を一生使いきれない大金に変えてしんぜよう。その代わり願望成就のあかつきには呪いを解いて麿を自由にしてほしい」

「何だよ、呪いって」

「麿は神を冒涜したかどであわせ金のランプに封印され、虜囚りょしゅうの身となった。マスターとなりし人間が大赦たいしゃの呪文を唱えることで、麿は自由になれる。麿は千五百年の間、数多のマスターに仕えてきた。時代が変わり、神輿みこし着火器ライターに変えた。過ちは充分償った。大赦は貴殿と麿の契りであるぞ。履行は必達ひったつである」

 言い終わると客引きは地面にばったりと倒れた。体中の穴という穴から煙が漏れている。


 この場から逃げようと、一歩、二歩と後退りを始めた。その時、ポケットからスマホが抜き取られた。相手は身長が二メートルはあろう巨漢だ。俺のスマホを勝手に操作している。左手にはあのライターが握られている。

「なんだ、あんた、俺のスマホを返せ」

 必死で取り返そうとしたが、両手は空振りするだけ。男の肘にも届かない。

「まあ待ちたまえ。もう少しだ」

 こいつもイフリートに乗っ取られたのか?

「よし、約定! 『荒神あらがみ窯業ようぎょう』を三十四万株空売りした」

 空売り? 俺のネット証券口座で売買したのか? 

(注 空売りは証券会社から株を借り先に売却すること。株価下落後買い戻す)

「たった今、煉瓦やセラミックを扱う『荒神窯業』の株を空売りした。一株三百十五円だ」

「ちょっと待て、あんたなぜ俺のパスワードを知っている」

「パスワードはひと月前、自分で入力してみせたではないか。麿は見ておったぞ」

「『荒神窯業』なんて聞いたこともない。虎の子の三千万円が塩漬けじゃねえか」

「悪いようにはせん。麿を信じよ」

「あ、頭が痛い……」

 イフリートは去り、巨漢の男は正気に戻った。

 俺はネットカフェに戻り、PCの前に座った。どこまでが現実でどこまでが妄想なのかもはや区別がつかない。こんな俺でも失っていないものが一つだけあった。理性だった。

 だが、もう、それさえも持ってはいけないようだ。

 突然スマホのアラートが鳴った。暗闇にネット株アプリのニュースが飛び込んできた。

『荒神窯業、火事で工場の大半燃える』

 急いで株価を見ると、さっき三百十五円だった株価がストップ安で暴落している。この調子ではまだまだ下がりそうだ。

(麿を信じよ……?)

 もう一度スマホを見るとメッセージが届いていた。

『荒神の株を全て買戻したまえ』

 その後も空売り、買戻しを繰り返し、売却益は十億三千七百万円になった。

 荒神窯業は奈落の底に叩き落とされた。絶え間ない努力は千夜、凋落は一夜。俺と同じだ。努力は一瞬で水泡に帰すのだ。だが一つだけ異なる点がある。

 企業には株価という価値が紐づいているのだ。

 俺の価値は誰も認めない。

 ライターに着火すると、たゆとう煙の中から炎の魔神が揚々と姿を現した。

「契約の履行だよな」

 イフリートは静かに頷いた。

「一つ聞きたい。荒神は今後どうなるんだ」

 右の腿が熱い。ポケットの中だ。俺はスマホを取り出した。検索サイトの画像が大量に自動スクロールしている。
 燃える工場、釈明に追われる会社幹部、奔走する男性、悲痛な面持ちで電話の応対をする女性、苦渋に満ちたサラリーマンの姿。

 火事で主力工場が燃えた荒神窯業が生き残るのは相当難しい。倒産するか、よくても社員は大量リストラされるだろう。若手は再就職も可能だが、中高年には厳しい試練となる。リストラの後に続くのは家庭崩壊と窮乏生活。辿った道だ。手に取るようにわかる。

 俺だけ不幸なのは合点がいかない。俺と同じ苦しみを味わってみるといい。

 だが、笑えない。ざまあみやがれと優越感に浸れない。

 工場の火事や株価の下落は俺のせいじゃない。しかし、俺がイフリートと契約しなければ、荒神の従業員がリストラされることはなかっただろう。

 スクロールは終わっていなかった。スーツ姿の俺がはつらつと仕事をしている。次の画像は机の上に置かれた社長のプレート。そして笑顔で働く社員の顔、顔、顔。

 結局俺は十億円の売却益で荒神窯業株を再度買戻した。

 筆頭株主として乗り込んで、荒神の社長に就任した。

 万年平社員だった俺に会社経営など不可能だと思っていた。

 だがセラミックス新製品のヒットと、プラント事業の成長で復活を果たすことができた。

 二年後、会社は軌道に乗った。俺は株を全て売却し、経営から引退した。売却益は百億円を超えた。

 絶望の崖っぷちまで追い詰められた俺だが、人生、最後まで何があるかわからない。

 イフリートは約束を守った。今度はこちらが誠意を尽くす番だ。

 俺はライターを点火した。

「ところで、どうして魔神が株の取引などできるのだ」

 ばさっ、突風が吹き、新聞紙が俺の頭にかぶさった。

『――エンビジョンファンド不調、サウジの変心か、神通力の枯渇か――無一文から身を起こした金融界の寵児、巨額の富を失う』

 俺は荒神に飛び込んで生きる意味を知った。

 一つの会社、一つの家庭。俺はそんな狭い世界しか知らなかった。

 イフリートと同じだ。小さな箱の中にとらわれていたのだ。

「イフリート、君は自由だ――」

 発火ホイールを回すと淡い青白磁色の煙が立ち昇り、イフリートは一陣の爽やかな風となって西の空に流れていった。

 俺も行くよ。俺も自由だ。世界を回る旅に出る。

 イフリート、どこかでまた、君に会いたい。

 これは御守りだ。俺は空になったアラベスク模様のライターを強く握りしめた。

(了)
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