地球温暖ガールと絶滅フレンズ

Halo

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第二章

10℃

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 研究棟を出ると、雨が降っていた。月も星も隠れ、頭上には深い暗闇があるだけだ。

「午前中は晴れていたのに。今日一日持つかと思ったけど甘かったな」

 タクシーの自動ドアが開いた。太平洋を思わせるオーシャンブルーの車体がダウンライトを反射している。屋根の上には、ベイサイド・タクシーと印字された表示灯が光っている。

 乗りますよ、と声を掛けたが、デスティニーが車椅子から立ち上がる気配はない。ダイゴは体を引き上げようと、脇の下に腕を回した。

「いやあん。くすぐったい」

 デスティニーは上目遣いで体をくねらせている。

「ちょっと味見」

 戸惑うダイゴを後目に、柔らかな頬へと唇を寄せた。

「え、ちょっと、デスティニーさん、何してるの?」

 鼻腔を刺激するフローラルなフレグランス。ダイゴの心臓は、予期せぬハプニングにどきどきと音を立てている。

「あらいやだ。私、エレナよ」

「いつの間に交代したんですか?」

「私の方が、男の扱い上手いから」

 別人格になると声も表情も変わる。今のデスティニー、いやエレナはグラマラスでセクシーだ。顎を上げ、背中をそらし、腰を突き出して濡れた唇を舐めている。

「ふふふ。あなた少年っぽいわね。女性経験とかなさそう……」

 エレナはダイゴの左下斜め四十五度から秋波を送る。海からの生暖かい空気が肌にまとわりつく。

「少し暑いわね」

 エレナはスウェットのジッパーをこれ見よがしに引き下げた。どこまで欲望を我慢できるか、とダイゴを試している。

「さ、早く病院に行きましょう。時間も遅いし」

 ダイゴは焦りを見透かされないよう、平静を装った。

「お姫様だっこ」

 エレナはダイゴの首に手を回して体を密着させた。パイル生地一枚を挟み、心臓のときめきがダイレクトに伝播する。

「エレナさん、からかわないでくださいよ」

 ダイゴはタクシー後部座席にエレナを座らせると、急いで車椅子を折り畳みトランクに積み込んだ。

 ドアを閉めれば車内は完全なプライベート・スペースになる。エレナはダイゴの左手に自分の右手を重ね合わせた。

「イラッシャイ マセ。ベイサイド タクシーヲ ゴリヨウ イタダキ マコトニ アリガトウ ゴザイマス。ドチラマデ オコシ デスカ? ピポッ」

 タクシーはAIによる自動運転車だった。自動運転レベル5では、生身のドライバーはハンドルを握らない。行先を告げると、システムが最適なルートを検索し、乗客を目的地に送り届ける。

 幕張地域は道路幅が広く、交通量も安定している。公共交通機関のレベル5自動化は二〇二七年と、他自治体に比べ格段に早かった。

「ああ、海を見に行きたいなあ! 運転手、幕張の海に向かって!」

「ノーノ―! とんでもない。早く病院に戻らないと!」

「夜の海! 夜の海! ゴー、ゴー、レッツゴー! 早く早く!」

 エレナは運転席を蹴り上げるが、AIドライバーに腰はない。この車種は人間でも運転できるよう、ドライバーシートが残されている。

「オキャクサマ オシズカニ ネガイマス」

 ダイゴはじゃじゃ馬エレナ登場に辟易した。常識人のテルミかナカモトであれば、こんなにはらはらすることはなかった。

「マクハリノ ハマデ ヨロシイ デショウカ?」

「ヨロシクナイ! 却下! ベイサイドさん、国立湾岸精神医療センターまでお願いします」

「ケチね! 少しくらい寄り道してもいいじゃない。私、病院と研究室の往復でストレスたまりまくってんのよ。たまには息抜きしないと、病気は治らないわ」

 エレナは運転席をガシガシとキックし続けている。我儘娘もデスティニーの秘められた一面なのだ。

「わかりましたよ。じゃあ、ベイサイド・タクシーさん、海岸沿いのルートで国立湾岸精神医療センターまでお願いします。エレナさん、シートが壊れるから蹴るのはやめてください」

 ダイゴはしぶしぶ妥協した。多少遠回りをしたところで、所要時間に大差はない、と判断したのだ。

「カシコマリマシタ。ハッシャ シマス」

 出発の合図とともにハンドルは左に大きく回転し、車はキャンパスからそろそろと走り出た。

「モクテキチ コクリツ ワンガン セイシン イリョウ センター トウチャク スイテイジコク ジュウイチジ サンジュップン」

 時刻も遅く、道路はがら空きで車は走っていない。この調子なら早めに着けそうだ、ダイゴはほっと胸を撫で下した。

 ビチビチビチ、叩きつける横殴りの雨。風雨はますます勢いを増してきた。

「かなりの荒れ模様だな。これ以上ひどくならないといいけど」

 フロントガラスに滝のような激流が迸り、ワイパーが悲鳴を上げる。AIタクシーは嵐吹き荒れる海沿いの道をひた走った。

「ひどいことになってきたな。ベイサイド・タクシーさん、早いとこお願いしますよ」

「ヘイ、タクシー、ストップ・ヒア!」

 エレナに荒天を気にする様子はまったく見られない。車窓に張り付いて鼻唄を口ずさんでいる。一方、猛り狂う風は留まるところを知らず、平穏な日常を掻き消してゆく。

「何言ってんだ。こんな場所で! タクシーさん、止まらないで!」

 風圧でハンドルが取られ、タクシーはずりずりと横滑りを始めた。鼻先が風下に引っ張られ、進行方向が激しくぶれる。自動運転システムは体勢を立て直そうとするが、すぐに押し戻される。ついに車体が風圧に耐えられず、バタン、バタンとバウンドし始めた。

「エレナさん、タイヤが浮き上がっている。そっちに重量かけないとひっくり返る」

 ダイゴはシートベルトを外し、エレナ側にぐっと体を寄せた。

「いいわあ、スリリングでロマンチック! もっとこっちに来て。抱いてもいいのよ」

 ダイゴとエレナはゲリラ豪雨に遭遇した。ゲリラ豪雨とは、天気予報による正確な予測が困難な、突発的かつ局地的大雨をいう。強い日差しで地面が熱せられ、地表近くの空気の温度が上がり、大気の状態が不安定になる気象現象だ。以前は七月から九月がシーズンだったが、日本の熱帯化に伴い、十月でも発生するようになった。

 AIタクシーは減速し、走行の制御を保とうとするが、たかが百馬力のミニバン、風速三十メートルの暴風雨に勝てるわけがない。風速三十メートルは屋根瓦が飛散し、看板が落下するほどの威力だ。走行中のトラックでさえ横転する。

 暴風雨は留まる気配を見せず、タクシーは急流に浮かぶ小舟のごとく、右へ左へと翻弄された。

 車軸やギアがぎりぎりと断末魔の悲鳴をあげる。

「セイギョ フノウ、ソウコウヲ チュウシ シマス」

 走行システムは緊急停止した。さすがのAIも、想定外の急激な天候悪化には対応できなかった。

 タクシーは走行を停止しているのだが、強烈な勢いで風下に押し流されていく。荒れ狂う風神はすべてを吹き飛ばそうと、パンパンに膨れ上がった風袋を上へ下へと振り回す。

 海沿いの車道には周囲に雨風を遮る建物がない。タクシーは凄まじい風や水流に抵抗しきれず、勝手に動き出した。ガタガタガタガタガタガタ、鉄の塊が恐怖に震えている。

「怖い、怖い、怖い、怖いわ。助けてダイゴ!」

 エレナの総身に戦慄が走った。ダイゴにしがみつき、顔面蒼白、瞳孔は開き、顔中の筋肉という筋肉は歪みこわばっている。

「エレナ、落ち着いて! 気を確かにもって!」

「エレナじゃない! ちゃまだ!」

 ちゃまはタクシーのドアを思い切り蹴り飛ばした。勢いよく開いた扉は風力で引きちぎられ、空の彼方へと吹き飛んだ。

 ちゃまはシートベルトを外し、荒れ狂う嵐の中へ脱兎のごとく走り出た。パニックで理性のタガが外れたのだ。

「くそっ!」

 前後の見境なく飛び出したちゃまは路上に突っ伏していた。ダイゴはイモリのように這い寄って、ぐったりとうなだれたちゃまを抱きかかえた。前方からは吹き飛ばされた葉や枝が次々と飛んでくる。

 ダイゴは一方の腕を行く手にかざし、もう一方でちゃまを引き寄せた。足を交互に動かして匍匐前進を続け、ようやく通り沿いの防風林にたどり着いた。

 木の影に隠れると同時に、乗っていたタクシーは横転し路肩へと吹き飛ばされた。ドアはひしゃげ、車体はへこみ、ウィンドウは割れ、もはや廃車も同然だ。

「危機一髪だった……。ちゃま、大丈夫?」

「うえええん」

 ちゃまは髪を振り乱し、大声を上げて泣き続けた。肩を震わせてしゃくりあげ、泥水と涙と鼻水で顔はぐしゃぐしゃだ。神経の高ぶりが、無限ループでフィードバックしている。

「ちゃま、ちゃま、落ち着け。林の中は安全だ」

「やめて、その手を離してよ」

 ちゃまはダイゴを振りほどこうと、必死にもがく。

「嵐に対する恐怖症か……。早くどこかに避難しないと」

 二〇二〇年代後半、台風や地震といった災害が日常茶飯事となり、各所に緊急避難所が建てられた。千葉県でも災害が増加しており、海辺には風や波よけのシェルターが設置されているはずだ。

「今動いては危険よ。風に飛ばされる」

「ちゃま! 正気を取り戻したのか」

 相手は、邪魔だといわんばかりにダイゴを押し戻した。髪を掻き上げ、ハンドタオルで汚れた顔を拭いている。

「私に触らないで」

「え……?」

「私はテルミ。この嵐は一過性だわ。このままここで風や雨が止むのを待つのよ」

「そうですか……」

 逆三角形の赤い交通標識が吹き飛ばされてきた。「止まれ」「STOP」と書かれている。

「いやだ、こわい、しぬ!」

 ちゃまが再度浮上した。危機的状況では理性よりも本能が優先する。

「もうすぐ嵐は終わる。僕がついているから大丈夫」

 ダイゴはちゃまを抱きこみ、外界の恐怖からシャットアウトした。心臓の鼓動が共鳴し、二人の間に暖かな一体感が生まれた。狂気で振り切れた感情の高ぶりは少しずつ鎮まっていった。

 安心も束の間、照明弾を思わせる激しい稲妻が雷鳴をとどろかせ、海沿いの街を照らす。

「いやあああああ」

 ちゃまはまたもや錯乱状態に陥った。ダイゴはちゃまとともに、ただひたすら嵐が過ぎ去るのを待った。
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