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第一章 降龍の谷と盗賊王

第十六話 出陣

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「!!」

孟徳は、横たわっていたしょうの上で目を開き、突然起き上がった。
隣に寝ていた虎淵は、その物音に気付き、驚いて体を起こす。

「孟徳様…?どうなさったのですか?」

孟徳は暫く、黙って闇の虚空を見詰めていたが、
「いや…何でも無い…」
そう小さく呟き、再び牀の上へ横になった。
雨戸を叩く、騒がしい雨の音が耳に付き、睡眠を妨げる。
孟徳は、激しい胸騒ぎを抑えながら、強く目を閉じた。


翌朝雨は上がり、明るい日差しが、木々の葉に残る、無数の雨粒を輝かせていた。
呂興将軍の部屋へ通された奉先は、将軍の目の前にある高価な座卓の上に、濡れた二つの箱を無造作に乗せた。
それは、将軍が趙泌に褒美として渡した物であった。

将軍はその箱を眺めた後、何か言いたそうに奉先を見た。

「…首が必要なら、取って参りますが…?」
奉先は将軍が口を開くのを待たず、無表情に聞いた。

将軍は暫く黙考していたが、やがて口を開く。
「…いや、その必要は無い…」
それを聞くと、奉先はさっと立ち上がり、そのまま黙って部屋を出ようとした。

「孟徳が、このまちに居るそうだ…」

将軍の呟きに、奉先は立ち止まった。
眉宇の辺りにいぶかしさを漂わせ、肩越しに振り返る。

「そうか、お前は知らぬのか…麗蘭は、孟徳とあざなを改めたのだ。」
「…そうでしたか…」

奉先は少し眉を動かし、視線を足元へ落としたが、あまり感情を現さなかった。

「曹孟徳が、わしの命を狙っていると、あの趙泌という男が言っていた…」

「麗蘭殿が…まさか…!」

奉先は、有り得ぬという表情で顔を上げた。

「わしは奴を殺し損なったが、お前を処断したと思っているしな…わしを恨んでいるだろう。可能性は充分にある…もしそうなら、反逆罪で捕らえねばならぬ…!」

「お待ち下さい…!」
奉先はそう言うと、素早く将軍の前にひざまづいた。

将軍は鋭く目を上げ、低く言った。
「お前は、今はわしの義弟おとうと。元のあるじとはいえ、殺すのは忍びない…わしへの忠義を示せるか…?!」

「俺が行って、必ず此処を去るよう伝えます…!」

身を乗り出した奉先は、嘆願する様に言った。

「午後には、討伐軍を発する。それまでに戻らねば、補吏ほりかせる…!既に宿を押さえ、部下に監視させてある…いつでも捕らえる準備は出来ているぞ…!」

奉先は黙ってうなずき、直ぐ様立ち上がると、部屋を後にした。



孟徳と虎淵が泊まっている宿の前で、奉先は馬を降りた。
額に巻いた包帯を取り去ると、出血は止まっていたが、師亜に斬られた傷跡はくっきりと残っている。前髪を下ろして、傷跡を隠した。

その小さく古ぼけた宿を見上げると、入り口から、見張っていた配下の一人が現れ、二人が中に居る事を目で示した。
奉先は小さく頷くと、二階へ続く階段を登った。

「先生…?!何故、こんな所に…!」

階段の上で、虎淵と鉢合わせた。
虎淵は瞠目どうもくしたまま、立ち尽くしている。

「麗蘭殿は…いや、曹孟徳殿は居るか?」

重い口調でそう声を掛けられ、虎淵は、はっと我に返った。


孟徳と奉先は、部屋の中央に向かい合って座っていた。
狭い室内に漂う空気は、張り詰めたものであった。
入り口の近くに、不安そうな面持ちで虎淵が座っている。

「孟徳殿、今直ぐ故郷くにへ戻られよ…!」

先に口を切った奉先は、端的に告げた。

「ならば、俺と共にお前も帰るのだな?」
両腕を胸の前で組み、奉先を見据えながら孟徳は問い掛けた。

「俺は、もうあなたの配下では無い…!此処に残る…あなたと一緒に行く気は無い…!今は呂興将軍の義兄弟となり、一生、めいに従うと誓った。兄上が、ごくで俺は死んだと伝えたのは、心変わりした事を告げるに忍びないと判断した為だ…此処に居座っても、時間の無駄である…!」

奉先は、孟徳の目を真っすぐ見詰めながら答えた。

「それがお前の本心か…?俺に、嘘は通じぬぞ…!!」

孟徳は、鋭く刺すような眼差しを向ける。
その目を睨み返すと、奉先は感情を押し殺した様に言った。

「…孟徳殿、あなたは自分を中心に、この世界が回っているとお考えの様だが…それは思い上がりと言うものだ…!」

「俺は、あなたの御守おもりをする為、生まれて来た訳では無い…あの片田舎で子供たちを相手に、剣を教えるだけで一生を終える積もりも無い…あなたの元で出世は望めぬが、此処では違う…!将軍は、欲しい物を何でも与えて下さる。新たな名も頂いた…」

奉先は、強く淀みの無い口調で言った。

「呂布奉先…それが俺の名だ…!」 

成る程、奉先の身なりは故郷くににいた頃とは随分違い、小綺麗で上等な着物を身に付けている。
腰にいた剣は、見るからに高価なものであろう。見事な装飾が施されているのが見えた。
思わず孟徳は愁眉しゅうびを寄せ、やや悲しげに奉先を見詰め返した。
孟徳の目が赤くなって行くのを、奉先は無表情のまま見詰めた。

「…そうか、分かった…」

小さく呟くと、孟徳は視線を床に落とす。
唇を噛み締め、両手を膝の上で固く握った。

「では、昼までには此処を去られよ…馬が必要であろう。将軍が餞別にと、用意して下さった。表に繋いであるので、連れて行かれよ。午後には、討伐軍が城を出る。そうなれば城門は封鎖され、外へは出られなくなる。」

涙をこらえているのか、俯いたままの孟徳の姿を、じっと見詰めながらそう言うと、奉先は立ち上がった。

「内通者がいる…師亜の砦は、今日中に陥落するだろう…」
孟徳の横を通り過ぎる時、奉先は呟いた。

虎淵の前へ来ると、片膝を突いて顔を覗き込みながら言った。

「虎淵、お前も俺の所へ来ないか…?いつでも将軍に口添えしてやる…」
目を合わせる事をはばかっている虎淵の肩を、奉先は軽く叩き、再び立ち上がるとその部屋を出て行った。

宿の外へ出ると、見張りの配下たちが待っていた。
一刻いっこくしても立ち去らねば、取り押さえる…!」
凄みを漂わせた顔で言って来る男を、奉先は睨み返した。

「大丈夫だ…!」

そう言って一度振り返り、宿の二階の窓辺を見上げた。
やがて向き直ると、自分の馬に跨がり、直ぐ様走り出した。



日が中天に指し掛かる頃、呂興将軍が率いる兵たちが、城門を通過して行った。
大軍をようするその兵は、およそ一万。砦の兵数は、多くても三千に満たない。倍以上の数である。
今まで、小規模な局地戦は幾度か行われて来たが、著しい成果を上げる事は出来なかった。
自然の要害に護られた砦を落とすのは、容易では無い。

しかし、今回は確実に砦を落とすという、並々ならぬ決意が感じられる。兵たちにもその緊張感は伝わっており、砦へ向かう兵たちに弛緩しかんは一切見られない。

先陣を進むのは、二百の兵を五つの部隊で合わせた、千の歩兵である。
先ずは、その歩兵を敵に当たらせ、内応の者が内側から砦を開けば、後方の部隊を突入させる手筈になっている。

二百の歩兵を率いる陵牙りょうがは、意気揚々としていた。

「お前が副隊長に任命されて、本当に良かったぜ!俺たちは先鋒隊だ、誇らしいとは思わぬか!我らの戦いで、士気を上げねばならぬ!」
「ああ、だがあまり張り切り過ぎるなよ…!敵は手強い、地の利は彼らにある。」
そう言いながら、奉先は陵牙に馬を並べた。

奉先は、呂興将軍に頼み込んで、陵牙の隊と一緒に行く承諾を得た。
始めは渋っていたが、どうしても奉先が引かぬと判断すると、
「お前には、城を守っていて貰う積もりだったが…やむを得ぬ。だがお前には、わしの補佐も兼任して貰うぞ。戦闘になっても、砦への突入は禁ずる…!」
そう言って、奉先を陵牙の部隊に配属した。

陵牙は無邪気に喜んでいる様だが、結局の所この歩兵部隊は、ただの障壁しょうへきに過ぎない。敵を疲弊させる為の捨て駒となるだけだ。
やはり奉先は、陵牙を自分で死地へ送り込んでしまった事を後悔した。

何としても、陵牙を護り抜かねば…
陵牙の横顔を眺めながら、奉先はそう心に誓った。


狭い山岳の道を、孟徳と虎淵は馬で駆け抜けていた。
此処まで孟徳は何も語らず、虎淵も黙って孟徳に従って来た。
少し小高い丘へ上がって、孟徳は谷間を遠望した。
砦まではあと僅かの筈である。

「孟徳様が、あんなにあっさりと引くなんて、僕には意外でした…」
遥か遠くを眺めている、孟徳の背中に、虎淵は語り掛けた。

「…奉先の言った通り、俺は自分の事しか考えていなかった…あいつに、戻れぬ理由が有るなど、考えもしていなかった…将軍と俺とでは、天と地ほどの力差がある。今の俺では、到底将軍には敵わない…!俺はもっと、強くならなければ…!」

孟徳は、強い光をたたえた瞳を上げる。

「孟徳様は、先生の裏切りを、お許しになるのですか…?」

虎淵は少し、怒りを抑えた様に言った。
孟徳は振り返り、虎淵を見詰めた。

「何故、奉先が砦に内通者がいると、俺に知らせる必要が…?あいつは、あの砦に俺たちが居た事を知っていたのではないか?」

そう言われ、虎淵は、はっとした。

だから、孟徳様は何も言わず、砦を目指しておられたのか…!
孟徳様は、始めから先生の嘘を見抜いておられた…だがえて、あの場ではそれを追求せず、素直に受け入れた振りをなさったのだ…!
虎淵は、孟徳を見詰め返しながら感嘆すると共に、多少のわびしさを感じた。

孟徳様と先生には、僕などが入り込めない程の、固い絆がある…
それに孟徳様は、この数週間の内にすっかり大人になられた。
それに引き換え、僕は…
虎淵は目元に、憂いの影を落とす。

「虎淵、急ぐぞ!そろそろ、討伐軍が城を発している頃だろう…!」
そう言うと孟徳は、再び馬を走らせ、谷間へ下って行った。


砦へ辿り着くと、入り口の前で、まるで彼らが戻って来ると知っていたかの様に、玄徳の弟分である翼徳が待ち受けていた。

「よう、ちびすけ!やはり帰って来たな…!」

翼徳は、楽し気な笑い声を上げた。
「笑っている場合か…!玄徳は居るだろうな?!」
そう言いながら、孟徳は馬から飛び降り、虎淵と連れ立って砦へ入った。

砦の中は物々しい雰囲気であった。
武装した兵たちは、戦の準備の為、武器を手に忙しく走り回っている。
砦の奥へ行くと、玄徳が女子供たちを指示して、荷を取り纏め、砦の裏口を通して外へ逃がす準備が進められていた。

孟徳の姿を認めると、玄徳は微笑した。

「…良かった。お前に会わせたい人が居る…!」

「?!」

玄徳は、孟徳をいざなって一室へ案内した。

部屋の扉を開くと、明明が姿を現した。
そして、後ろを振り返る明明の先を見ると、部屋の奥には一人の少女が立ち尽くしている。

「玉白…?!」

孟徳は思わず目を見張った。

「孟徳…!!」

玉白は小さく叫び声を上げると、次の瞬間走り出し、孟徳の腕に飛び込んだ。
孟徳は、玉白の小さな体を強く抱き締めた。
「お前、一体どうして…?」
涙に濡れた顔を上げ、玉白はじっと孟徳を見詰める。

「奉先が、そのを連れて来たのだ…」

戸口に立つ玄徳が、二人の姿を見詰めながら言った。

「奉先が…?!」

振り返って玄徳を見上げながら、孟徳は驚きの声を上げた。
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