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第五章 虎狼の牙と反逆の跫音
第五十九話 趙夫人
しおりを挟む暖かい日差しが降り注ぐ街道を、奉先は飛焔に跨がり、ゆっくりと進んでいた。
まだ少し風は冷たいが、柔らかい花の香が漂う心地の良い午後、奉先が向かったのは雒陽城内の片隅に佇む一件の屋敷である。
屋敷には、飛焔が厩舎を脱走し、街中を荒らし回った時、車に乗っていたあの婦人が住んでいるらしい。
助けられた礼がしたいと、彼女の住む屋敷へ招かれたのである。
自分の失態で巻き起こした騒動の為に、感謝を言われるのは心苦しかったが、折角の好意を無碍に断るのも申し訳無いと思い、彼は婦人の申し出を受ける事にした。
奉先の後ろには、従者として高士恭も馬で同行している。
やがて屋敷の門が見えて来ると、そちらから一人の青年が走り寄って来た。
「呂奉先様、お待ちしておりました!今日はお越し頂き、誠に有り難うございます。奥方様も、大層喜んでおいでです!」
彼はあの時、車を御していた青年である。
嬉しそうに顔を綻ばせ、奉先と飛焔の前に立つと深々と頭を下げた。
それから飛焔を見上げ、彼は些か驚きの表情を見せる。
「こ、この馬は…あの時の?」
そう言って、思わずたじろいだ。
「この馬は飛焔だ。心配無い、もう人は襲わぬ。」
奉先は飛焔の背からひらりと舞い降り、笑って彼の肩を叩いた。
それを聞いて、青年は安堵の表情を浮かべると、
「申し遅れましたが、僕は趙夫人にお仕えしております、陳公台と申します。」
そう言って奉先に向かって拱手し、爽やかに微笑んだ。
彼は士官先を求め、故郷の兗州を離れてこの雒陽へやって来たのだが、彼の家系は裕福な家柄では無かった為、朝廷や宦官へ上納する金に事欠き、結局官職に就く事が出来なかった。
「財産も無く、路頭に迷っていた僕に救いの手を指し述べて下さったのが、奥方様だったのです。奥方様がいなかったら…僕はもうとっくに死んでいたでしょう。」
奉先と士恭を屋敷へと案内し、広い庭を歩きながら公台は語った。
「奥方様は、とても愛情の深いお方です。それに高貴な家柄の出で、今は庶民として暮らしておいでですが、今は亡き先帝"桓帝"の寵妃でいらっしゃったのです。」
それを聞いて、奉先は稍気後れした。
「その様な方の所へ、俺みたいな田舎者が行っても大丈夫かな…?」
「大丈夫ですよ、あなたは今や立派な武人でしょう!自信を持って。」
不安な表情で振り返り、小声で囁く奉先の肩を、士恭は笑いながら力強く叩く。
屋敷の広間には宴席が設けられ、夫人の娘、雪月が美しい舞を披露し、侍女たちが音楽を奏でて彼らをもてなしてくれた。
やがて美しい紅梅色の着物を身に纏った趙夫人が現れ、奉先と士恭の前に膝を突いて丁寧に礼をした。
「ようこそおいで下さいました。本日はどうぞ、存分に楽しんで下さいませ。」
夫人は艶のある唇で柔らかく微笑む。
彼女の年齢は四十に近いが、張り艶のある肌は透き通る様に白く、美貌の持ち主であった。
かつて、これ程美しい女を見たのは、曹家の青蘭様ぐらいであろう…
奉先は彼女の美しさに暫し見惚れ、返事を返すのも忘れてしまった。
すると隣に座した士恭に肘で突かれ、はっとして礼を返すと、趙夫人は口元を着物の袖で隠しながらくすくすと笑った。
「奉先様のお故郷は、どちらですか?」
宴も酣となった頃、夫人は奉先の隣で微笑を湛えて問い掛けた。
「沛国譙県より参りました…が、生まれは何処だか分かりません。俺は、 曹家の主、曹巨高様に幼少の頃拾われ、育てられました。」
奉先は包み隠さず、そう答えた。
「左様でございましたか…不躾な事をお尋ねし、申し訳ございません。」
夫人は少し驚きの表情を見せ、姿勢を正して詫びたが、
「いえ、構いません。俺の方こそ、卑賤の身でこの様なもてなしを受けるとは、身に余る光栄です…!」
奉先は慌ててそう答え、夫人に笑顔を返した。
夫人は再び微笑し奉先を暫し見詰めると、やがて口を開いた。
「失礼のついでに…一つお願いを申し上げても宜しいでしょうか?」
「?」
多少の戸惑いを覚えたが、奉先は黙って小さく頷き、夫人の言葉を待った。
「実は…私は、もうすぐ雒陽を離れる積もりです。相国の董仲穎は、私に自分の妾になるよう、しつこく迫っております…このままでは、家族や屋敷の家人たちにも被害が及びます故、そう決断致しました。」
夫人は瞼を下げ、伏し目がちに囁く様に語る。
相国が欲しがるのも、良く分かる。
その表情は更に艶やかさを増し、目を見張る程に美しかった。
「それで、俺に何を頼みたいのです?」
「はい…お願いしたいのは、従者の公台の事です。あの子は、とても賢く忠義心もごさいますが、私はこのように身を窶しております故、財産も少なく…あの子の力になってやれません。ご迷惑でなければ、奉先様の元へ置いてやって頂けないでしょうか?」
そう言って顔を上げる夫人の瞳は赤みを帯び、涙を浮かべ潤んでいる。
奉先は暫し、夫人の潤んだ瞳を見詰めていたが、やがて微笑を浮かべながら答えた。
「分かりました。公台殿の事は、どうぞご心配なさらず。」
それを聞いた夫人は涙で頬を濡らし、そっと彼の手を取って両手で包み込む。
夫人の白く細い手は柔らかく、温かい。
母親を知らぬ奉先にとって、母の温もりというものは想像も出来なかったが、これこそがそうなのではないかと、ふとそう思った。
夫人が屋敷を去る日の朝、彼女の柔らかい手を強く握り締め、涙を流して強く頭を振った公台は、奉先たちと共に雒陽に残る事を拒んだ。
「公台、これはあなたの為ですよ。あなたの才を、天下の為に使わねば成りません…!」
「僕は、もう士官などどうでも良いのです…!奥方様の側に居られれば、それだけで構いません…!」
「公台…」
夫人は目を細めてその姿を見詰めると、腕で涙を拭う彼の肩をそっと抱き締め、優しく囁いた。
「私には、幼くして手放した男児がおります…その子はもう生きてはいないでしょうが、あなたをその子だと思って、今日まで見て来たのです。これからは、自分の為に生きるのですよ…!」
暫く俯いたまま噎び泣いた公台は、やがて膝を折って夫人の前に跪くと、止めどなく溢れる涙で濡れた瞳を上げ、夫人を見上げて拱手し深く頭を下げた。
「それでは奉先様、公台の事をどうぞ宜しくお願いします。」
夫人はそう言って、見送りに訪れていた奉先を振り返って微笑み掛けた。
「ご夫人、道中お気を付けて。」
奉先は夫人に向かって拱手し、公台の肩を支えて立ち上がらせると、並んで夫人を見送る。
夫人は何度も振り返りながら車へ乗り込み、先に乗り込んだ娘の雪月の隣に腰を下ろした。
「お母様、弟が居たなんて話…私には、して下さらなかったじゃないの?それに、その子は皇帝の…」
「…もうずっと昔の事よ。忘れなさい…」
静かに娘の言葉を遮り、夫人は御者に出発の合図を送って車を前進させた。
その時である。
「止まれ…!趙夫人であるな。何処へ行かれる?!」
通りの向こうから、突然黒い集団が現れ、夫人の乗る車の前を塞いだ。
その集団は仲穎の軍隊である。
やがて兵士たちの間から、馬に跨がる仲穎が姿を現した。
「趙夫人…わしに無断で、雒陽を離れる積もりか?わしの命に従わねば、罪人として捕らえねばならぬぞ…!」
仲穎は車上の夫人を鋭く睨み付け、低く感情を押し殺した声で告げる。
「相国、私はあなたの元へは行きません!あなたの物になるぐらいなら、今此処で死んだ方がましです…!」
夫人は車上で立ち上がり、仲穎を睨み返す。
その勇猛な姿に気を呑まれ、兵士たちは呆気に取られて夫人を見上げた。
仲穎は口元を歪めてふてぶてしく笑いながら、目を細めて夫人を見詰める。
「怒った顔も実に美しい…!そなたを、何としても我が物にするぞ…!」
仲穎はそう言うと、兵士たちに命じて夫人の車を取り囲ませた。
「お、お母様…!」
夫人の足元には、恐怖で怯える雪月の姿がある。
雪月は涙を浮かべて母の後ろ姿を見上げた。
兵士が戟を構え、車に近付こうとした時、兵士の戟は突然、宙へ高く跳ね上げられた。
「!?」
兵士たちが狼狽え後方へ身を引くと、彼らの前には剣を握った奉先が立っている。
「奉先!貴様、何の積もりだ…!」
仲穎は怒りを露にしながら怒鳴った。
「相国の方こそ、婦人一人の為に兵を差し向けるとは、どういうお積りか!」
構えた剣を横に薙ぎ払い、奉先は仲穎を睨んで言い返す。
「その女は、わしの女だ!捕らえて連れ帰る!」
「夫人は、相国の元へは行きたく無いと言っておられる!無理矢理連れて行くと申すなら、俺が相手になる…!」
馬上の仲穎は強く歯軋りし、苛立ちながら奉先を睨んだ。
「貴様…わしに刃向かえば、死罪だぞ…!」
だが、奉先は臆する様子を見せず剣を構え、仲穎を睨み返している。
取り囲む兵士に、仲穎が攻撃の合図を送ると、兵士たちは一斉に奉先に襲い掛かった。
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