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第七章 魔王の暴政と小さき恋の華
第八十四話 竹林に潜む危機
しおりを挟む長安を発ってから二日、山間に広がる美しい沢で飛焔を休ませ、川の水を飲ませながら、奉先は出発した日の事を思い出していた。
貂蝉と俊は、今頃どうしているであろうか…
貂蝉は、あれから彼と口を聞いてくれなくなった。
王子師の屋敷へ向かう為、貂蝉と俊の二人を車に乗せて行ったが、相変わらず彼女は無言で不機嫌なままであった。
話を聞いた子師は、
「そうですか。難しい歳頃だ、彼女の気持ちも分からぬでは無い…」
そう言って苦笑を浮かべ、良く整えられた顎髭を撫でる。
「一時の情に流され、あの子を連れ帰ったのは…やはり間違いだったのでしょうか…」
後悔を滲ませ項垂れる奉先を、子師は目を細めて見詰めた。
「確かに…奉先殿のそれは、優しさではなく甘えだ。愛おしい相手に同情するのは、人として当然の事。だがそれには、勇気と覚悟が必要だ…どれ、此処は一つ、わしに任せて奉先殿は心配せず行かれると良い。」
「はい。司徒殿、どうぞ宜しくお願いします。」
奉先は子師に深く頭を下げ拱手した後、屋敷を去ると、そのまま長安を離れたのである。
司徒殿が、後は任せろと言っておられたのだ…心配する事は無い。
奉先は顔を上げ、遠く長安の方角に広がる澄んだ蒼天を眺めた。
屋敷で奉先を見送った後、子師は貂蝉と俊の居室を訪れた。
俊は大人しく、子師が手渡した書物を机に広げて、書写に励んでいる。
貂蝉を見ると、彼女は部屋の隅で膝を抱え、じっと蹲っていた。
「彼の事を、まだ怒っているのかね?貂蝉…」
「………」
子師は、彼女の細い肩を優しく撫でながら声を掛けた。
「奉先殿は、お前を大切な妹の様に思っているのだ。お前を愛し、護ってやりたいと願っているだろう。もう許して挙げなさい。」
すると貂蝉は俯いたまま、肩を震わせ答えた。
「あたしは、奉先の妹なんかじゃない…!」
「ああ、そうだな…だが家族であろう?」
「………」
子師は俯く貂蝉を見下ろし、表情に少し憂いの陰を落とす。
「…思い通りにならぬ事に苛立ちを覚えているのは、何もお前だけでは無い筈だ。きっと奉先殿も、今のお前と同じ思いを抱えていたのでは無いか…?」
その言葉に貂蝉は少し顔を上げ、訝しげな眼差しで子師の顔を見上げた。
「彼には、他に好きな女がいたのであろう…だが、前へ進む為に新たな出会いを求める決意をしたのだ。それを分かってあげろと言われても、お前にはまだ難しい事であろうが…」
優しい瞳で語り掛ける子師を見詰める貂蝉は、やがて瞼に大粒の泪を浮かべた。
「子師様、あたし…奉先を困らせる様な事はしないって約束したのに…!どうしよう、奉先はきっと、あたしの事を嫌いになってしまったわ…!」
途端に、貂蝉は声を上げて泣き出してしまった。
「うわあぁぁぁーんっ!」
泣きじゃくる貂蝉の肩を抱き寄せ、子師は胸に顔を埋める彼女の頭を、優しく撫でて慰めた。
「よしよし、泣くのはお止し。奉先殿は、お前を嫌ったりはしないから安心しなさい。彼が戻ったら、笑顔を見せてあげれば良い…!」
零れ落ちる泪を拭いながら、貂蝉は頻りにしゃくり上げている。
その様子を、俊は筆を空中で静止させたまま、ただ心配そうに見詰めていた。
日が中天に差し掛かった頃、小さな竹林の中を飛焔に跨がりゆっくりと進んでいた奉先は、先程からずっと付き纏っている何者かの不審な視線を感じていた。
飛焔もそれを感じているらしく、頻りに耳を峙たせている。
相手に感付かれぬ様、辺りを伺い見たが、静かな竹林の中は草木がざわざわと風に揺らめいているだけで、その姿は何処にも見えない。
どうやら、我々の後をつけている様だな…
奉先は飛焔の首筋を優しく撫でながら、彼の脚を止めず進み続けた。
とその時、突然竹林の中を強い一陣の風が吹き抜けたかと思うと、黒い大きな影が林から飛び出し、いきなり彼らに襲い掛かって来た。
激しく嘶いた飛焔は咄嗟に、襲い来る影を躱そうと跳び上がる。
それと同時に、飛焔の背から飛び降りた奉先は、腰の剣を抜き放ち、その影を両断しようと閃光を走らせた。
しかし、影は素早く彼の攻撃を躱して後方へと飛び退る。
地面に着地し、顔を上げた奉先はその影を睨み据えた。
そこに蠢く巨大な影の正体は、吊り上げた目を鋭く光らせる一頭の大きな虎であった。
グルルル…ッ、と低い唸り声を発し、虎は鋭い爪を地面に突き立てて体勢を低く構えながら、こちらを睨み返している。
一瞬でも隙きを見せれば、途端に飛び掛かって来るだろう。
奉先は視線を逸らさず、虎の注意を自分の方へ引き付けながら、飛焔に動かぬよう手で合図を送った。
柄の長い方天戟か弓矢であれば、遠距離から攻撃を仕掛ける事が出来るが、彼の手には剣身が然程長くは無い宝剣が握られているだけである。
虎は巨体であり、流石の奉先でもその剣の一撃で斃せるとはとても思えなかった。
だが、迷っている暇は無い。
次の瞬間、奉先が飛焔の尻を手で強く叩いて彼をその場から立ち去らせると、予想した通り、虎は飛焔が走り出すのとほぼ同時に、奉先に向かって飛び掛かって来た。
虎の飛躍力は想像より遥かに速く、高かった。
鋭い爪で襲い来る前脚を剣で斬り付けようとしたが、虎の皮膚は鎧の様に固く掠り傷程度である。
虎はそれを物ともせず、振り下ろした爪で奉先の左肩を切り裂いた。
「くっ……!」
血が流れる肩を押さえながら、虎の巨体を躱し、振り返って再び剣を構える。
地面に着地した虎もまた、直ぐ様こちらを振り返り、
グオオオオッ!!
と大きく雄叫びを上げ、ぎらりと眼光を光らせながら再び跳躍した。
今度は鋭い牙を剥き出しにして襲い来る。
奉先は地を蹴って虎の懐へ飛び込み、心臓を狙った。
が、剣先が届くより早く、虎は大きな前脚を横へ薙ぎ払い彼の体を思い切り弾き飛ばす。
飛ばされた奉先の体は、勢い良く近くの木にぶつかり、木の根元へ倒れ込んだ。
背中を強打して思わず息が詰まる。
それでも奉先は苦痛に耐えながら体を起こし、木に凭れ掛かって剣を構えようとした。
鋭い牙で虎が再び雄叫びを上げ、彼にじりじりと近付いて行くと、突然二人の間に飛焔が飛び込んで来た。
鬣を逆立てた飛焔は、赤い目で鋭く虎を睨み付け、激しく脚を踏み鳴らして威嚇する。
だが、流石の飛焔も虎が相手ではどう考えても分が悪い。
「飛焔、止せ…!」
奉先が叫んで飛焔に手を伸ばそうとした時、虎は鋭い爪を振り上げ、飛焔に襲い掛かった。
次の瞬間、林の中を高速で何かが横切ったかと思うと、飛焔に飛び掛かった虎が突然、弾かれる様にその場へ横倒しになってしまった。
「!?」
見ると、虎は頭に矢を受けて絶命している。
興奮する飛焔を宥めながら辺りを見回すと、竹林の奥から次第に人影が浮かび上がって来た。
「お若いの、危ない所だったな。」
そう言いながら構えた弓矢を下ろし、彼らの前へ歩み寄るのは一人の青年である。
「俺はずっと、この人食い虎を追っていてな…やっと斃す事が出来たよ。」
彼はそう言って倒れた虎の側へ片膝を突き、虎の様子を伺い見た。
奉先は肩の傷を押さえ、彼の姿を黙って見詰めていたが、やがて
「俺たちを、ずっとつけていたあの視線は…虎のものでは無かった…」
と、青年の背中に向かって語り掛けた。
青年は肩越しに振り返り、少し目元に微笑を浮かべる。
「俺たちをつけて来たのは、あんただな。俺たちが虎に襲われるのを、待っていたのであろう…?」
「ふふ、バレていたか…ああ、その通りだ。あんたたちを囮に使わせて貰った。」
青年は悪怯れる様子も見せず答えると、立ち上がって奉先に歩み寄り、黙って着物の袖を破いて奉先の肩の傷に押し当てた。
「あんた、この辺りの者では無いな…何処から来た?」
青年は傷を手当てしながら問い掛ける。
「長安からだ…」
「へえ、一体何をしにこんな所まで来たんだ?この辺りじゃ、余所者は歓迎されないぜ…」
「人と会う約束をしている。」
「ふうん、何て奴だ?」
「厳氏と言う方だ。」
それを聞くと、青年は顔を上げて眉を顰めた。
「まさか…厳氏の娘を貰いに行くのでは無いだろうな?」
「その方を、知っているのか?」
「知っているも何も…!その娘は、見合いをした男たちが忽ち逃げ出す程の気性の荒さで、その上かなりの醜女らしい。悪い事は言わぬから、行くのは止めておけ!」
青年は笑い、怪我をした肩を布で強く縛ってから軽く彼の肩を叩いた。
「それに…」
と、彼は続ける。
「厳氏の住む邑は、数日前に盗賊団に襲われ、邑の娘たちは皆奴らに連れ去られてしまったそうだ…行っても無駄であろう。」
「……!?」
奉先は、驚きを隠せない表情でその話を聞いていた。
それから暫し黙考すると、
「そうか…」
と小さく呟き、
「その盗賊団の根城が何処にあるか、知っているか?」
青年を振り返って、そう問い掛けた。
「おい、あんたまさか…娘を救いに行こうってんじゃ無いだろうな?!」
驚いた青年は、瞠目して奉先の顔を見上げる。
「そこへ案内する事が出来るか?」
「…ああ、だが…止めておいた方が良い!奴らは黒山賊の残党で、頭目は相当の手練れだ!たった一人で、しかもそんな傷では相手に成らぬぞ…!」
青年はそう言って彼を引き留めようとしたが、奉先は宝剣を腰の鞘に仕舞い、着物の汚れを払って身支度を整えると、飛焔の首を撫でながら再び青年を振り返る。
「…案内出来るのか?」
「あ、ああ…仕方が無い。あんたに怪我を負わせたのは俺だしな、連れて行ってやるよ…!」
青年は苦笑し、自分の頭を掻きながらそう答えた。
「俺は、天水から来た。姜子牙と言う。」
「姜…子牙…?」
青年が名乗ると、奉先は少し眉を顰める。
それを見て、青年は白い歯を見せて笑った。
「ははは、そうさ。あの太公望、呂尚と同じ名だ。」
奉先は故事に余り明るくはないが、その名は知っていた。
『 太公望 呂尚 』
“殷(商)”の帝辛(紂王)を倒し、“周”を立てた、周の創始者武王(姫発)と、その父である姫昌(文王)に仕えた、歴史上最も有名な軍師の一人である。
七十万もの大軍を擁する殷軍を相手に、姫発を補佐し、「牧野の戦い」に於いて見事にこれを打ち破った事は余りにも有名な話であった。
「俺は、奉先。呂奉先だ…」
少し訝りつつも自分の名を名乗り、奉先が拱手すると、彼も礼を返し、
「最強の軍師を手に入れたんだ。俺に任せて置くと良い…!」
そう言って、姜子牙は再び大きく笑って自分の胸を強く叩いた。
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