飛翔英雄伝《三國志異聞奇譚》〜蒼天に誓う絆〜

銀星 慧

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第八章 江東の小覇王と終焉の刻

第九十二話 青白い月光

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彼がゆっくりとまぶたを開くと、そこには薄暗く狭い幕舎の天幕が目に入る。
「殿、起きておいでですか?」
幕舎の外から呼び掛ける声に、彼は体を起こしながら「ああ、」と小さく返事を返した。

嫌な夢だ…

「顔色が優れぬご様子ですね…心労が溜まっておいでの様です…」
幕舎へ入って来た程徳謀ていとくぼうはそう言って、青白い顔で項垂うなだれる孫文台そんぶんだいを心配げな眼差しで見詰めた。

「近頃よく夢にうなされてな…」
「夢、ですか…?」
なにただの夢だ…心配無い。」

雒陽らくようで『伝国璽でんこくじ』を拾ってから、彼は度々不吉な夢を見る様になっていた。

「その夢とは、如何様いかような?」
「そうだな、はっきりとは覚えておらぬが…深い霧の中を、一頭の巨虎きょこ彷徨さまよっている。やがてその虎の前に、童女を連れた母親らしい美しい女が姿を現すと、虎はたちまち彼女たちに襲い掛かり、その肉を喰らうのだ…それから先は、良く思い出せぬ…」
文台は深い溜め息を吐くと、両手で自分の頭を強く押さえた。

「それは不吉な…やはり、あの『玉璽ぎょくじ』が原因ではないでしょうか?」
「ふっ…お前に、“玉璽の呪い”の話しを聞いた所為せいであろうな…」
そう呟くと、文台は首を振って小さく笑う。

「殿、夢と言うのは、過去や未来の出来事を示唆しさするものです。以前呉夫人ごふじんは、月が懐に入る夢を見て、伯符はくふ様を身籠みごもりました。そして、太陽が懐に入った時は、次男の仲謀ちゅうぼう様を身籠ったでは有りませんか。あれは一層いっその事、袁公路えんこうろに渡してしまっては如何でしょう?」

「それは成らぬ。あの欲深い袁公路に渡せばどうなるか…公路は『天の加護を得たり』と、きっと自ら“皇帝”などと称し、ぜいの限りを尽くそうとするに違い無い…!」

顔を上げて、心配そうに彼を見詰める徳謀を振り返ると、文台は自分の荷を手元へ引き寄せ、中から取り出した小さな包みを徳謀の前に差し出した。

「わしに何かあれば…これを、必ずさくに渡してくれ。」
「策」とは彼の長男、伯符の名である。
すると徳謀は、包みを押し返し、

「それは、殿が自ら若様わかさまに渡すべきです…!」
と、彼にしては珍しく険しい表情を浮かべる。

「ああ、分かっている。だからこそ、お前に持っていて欲しいのだ。袁公路は、わしが密かに玉璽を持ち逃げしたと疑っている。このままでは、見付かるのは時間の問題であろう…」
「……分かりました。では、私が預かり隠しておきます。」
徳謀はそう言って、ようやく彼の手から包みを受け取ると、それを自分の懐の中へとしまった。


夜を迎え、辺りには小雨が降り始めていた。
すっかり孫堅軍に包囲された襄陽じょうよう城が陥落かんらくするのは、最早時間の問題である。
そこへ、偵察隊の兵が現れ文台に報告した。

黄祖こうそが城を抜け出し、敗残兵を掻き集めている模様です。」
「やはり…城の兵数が少なく、援軍も望めぬ状況に到って動きを見せ始めたな。黄祖自ら危険をおかして外へ出るとは、余程の窮地きゅうちに追い込まれている事に他ならない…!」

 文台は直ぐに武将を呼び集め、黄祖を急襲する策を練った。
そして、程普らに城を包囲させたまま、自身は密かに兵を率いて敵の退路を断ち、黄祖の兵を急襲する作戦に向かったのである。

文台の読みは正確で、奇襲作戦は見事に成功を収めた。
退路を遮断されてしまった黄祖は止む無く峴山けんざんへ逃げ込み、そこへ身を潜めた。

黄祖が捕らわれれば、劉表りゅうひょうは降伏せざるを得ない。
これでこの戦いは終わる…

黄祖を捕えるべく、部隊を分散させ山狩りを行う事にした文台は、
「地の利は敵にある。敵の策にはまらぬよう、焦らず慎重に捜索を行うのだ。」
そう命令を下し、部下たちを峴山へと向かわせた。

やがて雨は霧雨へと変わり、雲の間から降り注ぐ青白い月明かりで、峴山の周辺には幻想的な光景が広がった。
山道の入口付近に数名の側近を従え、馬上で待機していた文台は、ふと霧の中から此方こちらへ向かって来る人影がある事に気付き目を凝らした。

やがてその姿は、はっきりと見て取れる距離にまで近付いて来る。
見れば、髪や着物を乱したまま覚束おぼつかない足取りで歩いているのは、一人の女であった。

嗚呼ああ…将軍様…!」

女は文台の姿を見ると、途端に瞳を潤ませ彼の足元へと走り寄ったが、武器を構えた部下たちが直ぐに女の前をふさいだ。

「待て、武器は持っておらぬであろう。」
そう言って文台は馬を降り、今にも倒れそうな女の肩を支える。

「この様な夜更けに、一体何をしている?!」
文台が問い掛けると、女は赤くらした目を上げて彼を見詰め返した。

月明かりに浮かぶ女の肌は恐ろしい程に白く、ひそめた眉宇びうかげりは西施せいしの如く美しい女である。
その妖艶ようえんな美しさに、文台は思わず息を呑んだ。

「山の向こう側に住む父が病で倒れたと聞き、娘を連れて山を越えようとしたのですが…途中で道に迷ってしまい、山へ逃げ込んで来た兵たちに見付かって、捕らえられてしまいました。逃げ出す途中で娘とはぐれ…娘はまだ…」
女は嗚咽おえつし、その場に泣き崩れた。

「殿、その様な女は捨て置きましょう…!」
部下はいぶかしがって、女を彼の前から引き離そうとしたが、女は抵抗し、つくばって必死に文台の足にすがり付こうとする。

「将軍様、どうか…娘を探し出して下さい…!将軍様!」
「ええい、黙れ!静かにしないと斬り捨てるぞ…!」

「止めないか!」
見兼ねた文台は、剣を振り上げる部下を制し女をかばった。

「し、しかし…!」
「大丈夫だ。おびえているではないか、無闇むやみに民を傷付けては成らぬ…!」
部下は不満な表情を浮かべたが、文台はそう言って彼らをいさめる。
そして女に向き直ると腰を落とし、彼女の細い手を取って強く握り締めた。

「心配するな、一緒に娘を探してやる。」

そう言って文台が微笑を浮かべると、女はたちまち大粒の泪をこぼし、文台に向かって何度も稽首けいしゅを繰り返した。

只の偶然とはいえ、彼にはその美しい女が、夢で見た童女を連れた母親に良く似ている様に思え、このまま彼女を見捨てる気にはどうしてもなれなかった。
こうして、数名の側近とわずかな手勢を引き連れた文台は、黄祖の潜む峴山へと足を踏み入れたのである。

深い霧が立ち込める森の中を慎重に進んで行くと、やがて前方のもやの中に何者かの気配を感じ、文台は部隊を静かに停止させた。
わずかな月明かりだけが頼りである。それはほとんど、本能的な彼の直感と言っても良い。
暫し様子をうかがっていると、靄の中を移動している敵兵らしき姿が次第に浮かび上がって来る。
目を凝らして良く見れば、それはまぎれも無く黄祖の兵たちであった。

何としても此処で黄祖を捕らえねば…!

文台ははやる気持ちを抑えて部下たちに手で合図を送ると、頃合いを見計らって一斉に敵に襲い掛かった。
まさか此処で文台の兵と遭遇するとは、敵も予想だにしていなかったのであろう。
突然もやの中から現れた文台の兵に驚き、完全に統率を失った黄祖の兵たちは蜘蛛くもの子を散らすかの如く逃げ惑った。
彼らの慌てようを見れば、この先に伏兵を配しているとはとても思えないものである。

文台は黄祖一人に狙いを定め、そのあと猛追もうついした。
追い付かれまいとする黄祖は、森の中を必死になって馬で直走ひたはしる。

あと僅かで追い付こうと言う時、突然、文台の視界に白い影が飛び込んだ。

「?!」
思わず馬の手綱たづなを引き絞り、その場で馬を停止させる。

彼の目の前には、青白い月の光を浴びて浮かび上がる白い童女の姿があった。

あの女の娘か…?!
彼は咄嗟にそう思ったが、この様な場所に一人たたずむ姿に、言い知れぬ違和感を感じた。
今まさに、目の前を黄祖と兵たちが駆け抜けたばかりである。彼らがその娘の存在に気付かぬ筈は無い。

「お前…っ」

言い掛けた時、胸に激しい痛みと衝撃を感じ、文台は我に返った。
見下ろすと、胸に矢が突き立っている。

その矢が何処から放たれたのか、彼には全く気付けなかった。
次の瞬間、木々の間から無数の矢が飛来し、彼の体を貫いて行く。

文台の体は馬上で弾かれる様にしてり、そのまま馬の背から転落して冷たく湿った地面に激しく叩き付けられた。

倒れた文台はゆっくりと首を回し、息も絶え絶えになりながらも童女の方へ視線を向けた。
そこに立ち尽くす童女は、無表情なまま彼を見下ろしている。

その時、文台は悟った。

あの女も娘も、既にこの世の者では無かったのだ…

二人は既にこの森で殺され、彷徨さまよ怨霊おんりょうとなった。
彼女らの怨霊は、“玉璽の呪い”に引き寄せられて彼の前に姿を現したのである。

「くっ…かはっ…!」
文台は童女に向かって何かを言おうと口を動かしたが、肺に溜まった血が口から溢れ出て声が出せない。
彼は血溜まりに仰向けで倒れたまま、見下ろす童女の亡霊に血塗ちまみれの腕を伸ばした。

だが、童女の姿はやがて、彼の震える手の先で煙の様にその場からき消えてしまった。

嗚呼…そうであった…
薄れ行く意識の中、彼はの続きを思い出していた。

虎に襲われた母娘おやこは、たちまち龍に姿を変えて虎を喰い殺したのである。

龍に喰われたその虎は、自分だったのだ…

文台は、信じられない程重くなった自分の体を起こそうと気力を振り絞り、自らの血溜まりの中で必死に地面を掻いて体を引きった。

さくに…策に、伝えなければ…!

「…はぁ、はぁ…っ」
冷たい地面をう度、自分の体温を奪われて行く様な感覚におちいりながらも、彼は懸命に前へ進もうとしたが、やがて体の自由が失われ視界がせばまって行く。

重い瞼をこのまま閉じれば、二度と開く事は出来ないであろう。
だが、最早それにあらがう力は残っていなかった。

あの玉璽は…呪われている…

遂に力尽き、文台は冷たい地面の上でそのまま動かなくなってしまった。
風に揺らめく木々の間から青白い月の光が降り注ぎ、冷たくなった彼の体を静かに照らし出していた。



「殿が自ら、黄祖の兵を追って行っただと…?!」
「はい、仲間の兵が確かに文台様の姿を目撃したそうです。」
伝達兵の報告に、徳謀は眉をひそめた。

「それで、殿は?」
「まだ分かりません。」

胸騒ぎがする。
彼は振り返って、峴山を遠望しながら一抹いちまつの不安を感じていた。
文台の死の知らせが届いたのは、それから数時間が経った夜明け前の事である。

文台の兵たちは森で黄祖らに遭遇し追撃を行ったが、伏兵に急襲され部隊は全滅。
文台自身も討ち取られた上、遺体は劉表の配下らに持ち去られていた事も判明した。

「何と言う事だ…!」

信じられないその報告に徳謀は青褪あおざめ、卒倒そっとうしそうになった。

部隊が全滅した事で、最早真相を知る手立てだては無い。
あの女も娘の姿も、その後誰一人見た者は居なかったのである。

襄陽攻略はあと一歩の所まで来ていたが、総大将を失った事で全軍の士気は低下し、兵たちの間に動揺が走ると、そこから一気に瓦解がかいを始めた。
幹部の武将らが集まって軍法会議を開いたが、このままでは収集が付かないと判断し、襄陽からの撤退を余儀よぎなくされたのであった。

襄陽からの撤退ののち、文台から恩を受けたと言う桓階かんかいと言う者が劉景升の元を訪れ、彼は身の危険を承知の上で文台の遺体の引き取りを願い出た。
景升は彼の行為を“”であるとたたえ、その申し入れを受諾し遺体の引き渡しを行った。

その後、軍権は文台の甥、孫賁そんふんが引き継ぐ事となり、孫賁は孫堅配下の将らを引き連れ、寿春の袁公路傘下さんかに入ったのである。

孫文台は、黄巾党の反乱の時からその勇猛さを発揮し、その後の戦にいても常に鋭い判断力と統率力をもって輝かしい功績を挙げて来た。
そんな彼が、この襄陽の戦いでは、戦に不慣れな黄祖をあなどっていたのか、伏兵を見抜く事が出来ず判断力に欠け、軽率な行動によって命を落としたとは信じ難い事であった。


しかしその真相は誰にも分からず、ただ青白く輝く冷たい月だけが、彼の全てを見詰めていたのである。

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