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第八章 江東の小覇王と終焉の刻

第九十八話 荀文若の策

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荀文若じゅんぶんじゃくが黄巾の指導者たちの元へと向かってから、およそ半月が経とうとしていた。

その間も黄巾軍は苛烈かれつに彼らの居城きょじょうを攻め立てており、黄巾の兵たちは皆、彼らの合言葉とも言うべき「中黄太乙ちゅうこうたいいつ」の言葉を叫びながら、死を恐れず城壁をじ登って来る。
孟徳は少ない兵力ながらも、押しては引くたくみな用兵術を駆使くしし、何とか敵の猛攻をしのいでいると言う状況であった。

「孟徳殿、これ以上待っても無駄でしょう…!あの者はきっと、既に殺されているか、そうでなければ逃げ出したに違い無い!」
軍議の場で、しびれを切らした楽文謙がくぶんけんが言うと、隣の李曼成りまんせいもまた、深刻な面持ちで孟徳を見詰めて言った。

「孟徳様…このままでは、この城がちるのも時間の問題かと思われます。ご決断下さい…!」
「………」
強く眉根を寄せる孟徳は、苦悶くもんを目元に浮かべつつ静かに瞼を閉じた。


『孟徳殿…もし私が戻らず、早期に黄巾軍との決着をお望みであれば、どうぞこの策をお取り下さい。』


居城を去る時、文若はそう言って孟徳に小さく丸めた一通の書簡を差し出した。

『私は、此処へ来るまでに黄巾軍について自分なりに調査し、有効な攻撃手段を考えて参りました。』
『その様な策が有りながら、何故言わなかった?』
『これは、有効な攻撃手段ですが、実行するとなれば、互いの兵に甚大じんだいな被害を受ける事は必至…それでも、孟徳殿が早期決着をお求めであれば、是非ともお使い頂きたい。』
『………』
孟徳は、差し出された書簡を手に取り暫しそれを見詰めた。

荀文若は、豫州よしゅう潁川えいせん潁陰えいいん県の出身で、祖父は荀子じゅんし十一世の孫に当たるとされる、名門“荀家”の生まれである。

戦乱を避け、一族の者と共に故郷を出ると、冀州きしゅう韓馥かんふくに招かれ彼の元へと向かったが、そこへ辿り着いた時には、冀州は既に袁本初えんほんしょによって奪われていた。

この時、彼の兄弟や同郷の辛評しんひょう郭図かくとらが本初に仕えており、文若も上賓じょうひんの礼を以って彼に迎えられたが、本初は大業を成す人物の器では無いと判断し、彼の元を去ってしまった。 
やがて、孟徳が東郡太守として派遣されて来た事を知り、此処までやって来たのである。

従って、彼は孟徳の部下となってまだ日が浅く、彼の配下や幕僚ばくりょうたちとの友好関係を築けていなかった為、彼を信用している者は少なかった。
だが、にわかに瞳に笑みを浮かべ、柔らかく微笑を返す文若の顔を見上げた孟徳は、

『分かった。これは最終手段に取っておこう。文若、俺はお前を信じて待っている…!』

受け取った書簡を強く握り締め、爽やかにそう答えたのであった。

確かに、最早一刻の猶予も無い…
孟徳は強く瞼を閉じたまま、苦悶の表情で唇を噛み締めた。

我々の兵数を考えても、文若が提示した奇襲作戦を実行するには限界の数であろう。作戦を実行するには今しか無い…!

やがて、かっと瞼を開き、会議の広間へ集まった部隊長たちの顔を見渡すと、文若から手渡された書簡を掲げて見せた。

「この書には、文若が我々に授けた最終手段と言うべき奇襲作戦の方法が書かれている…!この策を用いれば、一朝いっちょうにして黄巾軍を破る事が出来るであろう…!」

それを聞くと、部下たちの間から響動どよめきが上がったが、反対意見を持ち出す者は誰一人居ない。
皆、危険を承知の上で黄巾軍との最終決戦に挑む覚悟が出来ているのである。

その彼らの顔を見て、孟徳はわずかに目元に微笑を漂わせたかと思うと、おもむろに広間の入口に立てられた篝火台かがりびだいに歩み寄り、突然、文若からの書簡をその火の中へ放り込んだ。

その光景に、再び大きな響動きが上がる。
呆気に取られた文謙は、暫し瞠目どうもくしたままであったが、はっと我に返って声を上げた。
「孟徳殿、一体どういうお積もりですか…?!」

「俺は彼を信じると誓い、彼もまた俺を信じて危険に身を投じたのである。今、文若はたった一人で黄巾軍と戦っている。我々が彼を信じず、攻撃を仕掛ければ、彼は立ち所に捕らえられ殺されるであろう…!」

「しかし孟徳様、我々にはもう時間が有りません…!文若殿が此処へ戻って来ると言う保証も無いのですよ?!」
更に曼成も前へ進み出て、孟徳に迫った。

「相手を疑い、裏切られるのは必然。相手を信じ、裏切られるのであれば、それは運命さだめである…!」

孟徳は燃え盛る炎を瞳に映し、自分自身に強く言い聞かせる様に答えた。
その姿に、最早誰一人反論する者は無く、皆表情を曇らせてただ俯くだけであった。

それから更に十日が過ぎ、兵糧も既に底を突き掛け、彼らは気力だけで何とか持ちこたえていると言う状態にまで追い込まれていた。
前線に立って敵の猛攻を防いでいた孟徳は、必死に兵たちを励ましたが、力尽きた兵たちは次々にたおされて行く。

「孟徳様、此処は我々が食い止めますゆえ、撤退の準備を…!」
曼成が、倒れた兵を抱き起こそうとする孟徳に走り寄り、彼の腕を強引に引いてその場から連れ出そうとした。

「駄目だ、俺はまだ退けぬ…!」

孟徳は血と泥で汚れた顔を腕で強くこすり、赤い目を上げて曼成を睨んだが、側に居た文謙は構わず、孟徳のよろいを掴んで強引に彼を歩かせ、部下たちにその身を預けた。

貴方あなたを此処で死なせる訳には参らぬのだ!俺は、虎淵こえんに合わせる顔が無くなる…!さあ、早く孟徳殿を此処からお連れしろ!」
部下の兵たちは孟徳を護衛しながら、城の脱出口へと向かった。
狭い通路に差し掛かり、兵たちに引きられる様に走っていた孟徳だったが、

「待てっ…!」

と、突然その場に立ち止まり、兵たちの足を停止させた。

先程まで聞こえていた「中黄太乙」の掛け声が、いつの間にか聞こえなくなっている。

狭い通路を引き返した孟徳は、この状況にざわめいている兵士たちを押し退け、城門の方へ向かって走った。
城壁を見上げ、そこに佇む文謙と曼成の姿を見付けると彼らに走り寄る。

「攻撃が止んだ…黄巾軍が退却を始めている…」
文謙は城壁から、次第に遠ざかる黄巾軍の旗影きえいを眺め呟いた。

やがて、彼らの居城に夕暮れの明かりが射し込み始めた頃、黄巾軍から数名の指導者たちが面会を求めにやって来たと言う。
その報告を受けた孟徳は、直ぐに彼らを招き入れ、自ら面会に向かった。

広間に現れた黄巾の指導者たちの中には、何と文若の姿があった。
彼はすっかりやつれた様子であったが、しっかりとした足取りで歩き、孟徳の顔を見るとわずかに笑顔を見せる。
その姿に思わず瞳を潤ませ、孟徳は彼に駆け寄るとその体を強く抱き締めた。

「文若、良く戻って来た…!お前を信じて、待っていたのだぞ…!」

孟徳に抱きすくめられ、文若も青い瞼に泪を浮かべ声を震わせる。

「私を信じ、よく今まで待っていて下さいました…!」
そう言うと、文若は素早くその場に両膝を突き、孟徳を見上げて拱手きょしゅした。

「曹孟徳殿…!貴方こそ、私が待ち望んでいた真のあるじです!この荀文若、身命しんめいして、孟徳殿に一生の忠誠を誓います!」

たちまち文若の瞳から大粒の泪があふれ出し、青白い彼の頬を濡らす。
孟徳は彼の肩を強く掴み、同じ様に泪を流した。

黄巾軍の指導者たちは、始めは文若の話しに一切耳を傾ける事は無く、くまで孟徳らの無条件での降伏を迫り、決して妥協だきょうを認めなかった。

その為、文若は彼らに捕らえられ、十日余りも獄に監禁されてしまったのである。
その間も、文若は必死に孟徳と和睦わぼくする事の利を彼らに説き続けたのであるが、時が経つにつれ、彼も絶望感を覚える様になって行った。

時間が掛かり過ぎている…
孟徳殿は、きっと仲間たちに迫られ、奇襲作戦を行うであろう。そうなれば、これ迄の努力も無にする…私の命運も此処までとなろう…

文若は、薄暗い獄の中で深く項垂うなだれ、自分の無力さにさいなまれた。
しかし、時が経っても奇襲作戦が行われる事は無く、文若は闇の中でにわかに希望の光を見たのである。

何としても、黄巾軍を説得して見せる…!
我が身の危険をかえりみず、諦める事無く訴え続ける彼の姿勢に、遂に黄巾の指導者らは心を動かした。

「曹孟徳は、良く配下の心を掴んでいる様だ。」
「確かに、我々が黄巾軍を続ける以上、朝敵ちょうてきで有り続ける事は有益とは言えぬであろう…」
次第に彼らは堅固けんこな態度をやわらげ、遂にある一定の条件の元、孟徳と和睦する事を認めたのである。

その条件とは、必ず王朝の腐敗を取り除き、貧窮ひんこん農民達の生活を安定させる事。青州黄巾軍を、青州兵のみの軍団として存続させる事。青州兵が仕えるのは曹操一個人であって、目的を達成した時点で自由に解散させる事などである。

孟徳は、その条件の数々を必ず守ると約束し、此処に青州兵三十万を自軍に取り込む事に成功したのであった。
のちに、

魏武ぎぶの強、これより始まる』

と言われる程に、曹操軍の中でも選りすぐりの青州兵は最強を誇り、孟徳の覇業をたすける事に大きく貢献した。曹操軍にいて、その役割とは極めて重要性が高かったのである。


東郡の守備を荀文若と陳公台らに任せ、孟徳は一度、陳留郡へと戻った。
陳留郡には、従兄弟いとこ夏侯惇かこうとん(元譲げんじょう)、夏侯淵かこうえん(妙才みょうさい)らが兵を集めて待っている筈である。

兗州えんしゅう刺史となった孟徳は、年長の従兄いとこである夏侯元譲を東郡太守に任命する事を考えていたが、それに対して周囲の者たちからは疑問の声が上がっていた。

元譲は、まだ十代の若い頃「師を侮辱した」と言う理由で、人を殺した事があると言われている。
その為、周りの者は皆、彼を非常に気性の荒い人物だと言って恐れていた。
しかし孟徳の見る所では、彼は然程さほど荒々しい人物とは思えず、それ処か実に穏やかな性格に見えた。

孟徳の従兄弟には、曹子孝しこうや曹子廉しれんの様に勇猛で武勇に優れた人物が多い為、武闘派な印象が強かったが、元譲は学問も良く出来て正に文武両道ぶんぶりょうどうであった。

「元譲、お前には東郡太守となってもらって、東郡の統治とうちを任せたい。」
居室に元譲を呼び寄せ、そう告げると彼は、

「…分かった。」
とだけ短く答え、あっさりとそれを受け入れた。
そして部屋を出て行こうとする元譲に、孟徳が呼び掛けた。

「元譲、師を侮辱した男を殺したと言う話は本当か?」

すると彼は立ち止まり、静かに振り向いて孟徳をじっと見詰めて答えた。

「人の噂と言うのは、尾やひれが付くものだ…」

結局、彼は否定も肯定もしないまま歩き去り、その後ろ姿を眺めた孟徳は、

「あいつは、いくさ向きでは無いな…」
そう呟いて小さく苦笑した。

早速、任地へおもむいた元譲は、地元の住民たちを良く慰撫いぶし、長老らに敬意を示した為、直ぐに人々から慕われ善政を行った。
その報告に、孟徳は自分の目に狂いが無かった事を内心喜んだのであった。

また、元譲は人を見る目が非常に高く、現地で知り合った韓浩かんこう(字を元嗣げんし)と言う者を登用し自分の部下に加えたが、彼は良く元譲を補佐し、その後も孟徳と元譲を支え続ける事となる。


よく晴れた日の午後、楽文謙と李曼成は孟徳に呼び出され、彼の居室を訪れていた。

「え?!…今、何と?!」
文謙の驚きの声が室内に響き渡る。

「そう言う訳だから、文謙、曼成、お前たちには俺の留守を守っていて貰いたい。」
「留守をお守りするのは構いませんが…」
曼成もまた、困惑した表情で孟徳を見詰める。

「孟徳様、お一人で長安ちょうあんへ向かわれるのは、危険ではありませんか…?!」

「大丈夫だ、心配ない!単独の方が目立たぬし、長安へ潜り込む方法は既に考えてあるのだ…!」
彼らの心配を余所よそに、孟徳は明るい笑声を放ってそう言った。

「孟徳殿…あの男に、会いに行く積りか?」
「………」

文謙のその問いには答えず、孟徳はただ微笑を浮かべて彼を見詰め返すだけであった。


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