飛翔英雄伝《三國志異聞奇譚》〜蒼天に誓う絆〜

第九章 中原の覇者と魔王の片鱗

第百八話 黒山軍の張飛燕

その頃、兗州えんしゅう陳留ちんりゅう郡へ戻っていた曹孟徳は、袁本初からの要請を受け、袁公路撃退の構えを見せていた。

長安から帰還する時、孟徳は体に重傷を負っていたが、共に長安を脱出した医師の華佗かだ(元化げんか)の治療により、陳留郡に辿り着いた頃にはすっかり傷も癒いえていた。

「孟徳殿、これに懲こりて、今度からは我々の忠告を良く聞いて頂きたい…！」

長安での話を聞いた楽文謙がくぶんけんは、大きな溜め息を吐つきながら彼に向かって言った。

「ああ、そうだな。今回ばかりは、俺も少しは自重せねば成らぬと思ったよ…」

彼の帰りを待っていた配下の将たちを前に、孟徳は苦笑を浮かべて頷うなずく。
暦こよみの上では既に秋である。
河北かほくでは過ごし易い季節となり、開け放たれた窓の外に広がる明るい陽射しの中、南へ向かう鵯ひよどりの群れが羽ばたいて行くのが見える。
その様子を眺めながら、華元化げんかは微笑を浮かべて孟徳に問い掛けた。

「孟徳殿は以前、強い頭痛に悩まされておられたが、近頃は如何いかがですかね？」
「はい、雒陽らくように居た頃、先生が処方して下さった薬のお陰で、強い痛みは抑えられております。」
「然様さようですか。しかし、薬は余り乱用しては成りませんぞ。身体からだが慣れて来ると、次第に効き目が無くなってしまいます…」

「わかりました。出来るだけ控ひかえるように気を付けます。」
孟徳は微笑を返して答えたが、元化は少し眉宇びうの辺りを翳かげらせる。
そんな彼に膝を進め、

「先生さえ宜しければ、暫く此処へ留まっては頂けませんか？」
孟徳は元化に、やんわりとだが側にいて欲しい事を願い出ると、元化は頬を綻ほころばせて大きく頷うなずき、

「それは有り難い。お言葉に甘えて、暫く此処に置かせて頂きます。」
そう答え、孟徳に深々と礼を返した。


同じ頃、いよいよ南陽を出発した袁公路は、兗州陳留郡へ向けて侵攻を開始していた。
高唐こうとう県の劉玄徳、平原の単経ぜんけい、発干はつかんの陶謙とうけんらと連携し、本初と孟徳の連合軍を包囲する計画である。

所が、曹操軍の強靭きょうじんな青州兵の活躍により彼らの包囲は打ち破られ、更には後方を劉表りゅうひょうに撹乱され糧道りょうどうを絶たれると、袁術軍は逆に劣勢に陥おちいってしまった。

この時、公路は曹操軍を完全に侮あなどっており、先の戦で黄巾軍と戦っていた彼らの軍は疲弊していると考え、青州せいしゅう兵を手に入れ軍事力が強大になっているなどとは夢にも思っていなかったのである。

劣勢を挽回ばんかいする為、今度は陳留郡、匡亭きょうていに部下の劉詳りゅうしょうを派遣して曹操軍を攻撃させたが、これも敢あえ無く撃破されてしまう。

この匡亭での戦で、袁術軍を相手に奮闘したのは孟徳の最年長の従兄弟いとこ、曹仁そうじん(子孝しこう)であった。
子孝は袁術軍の多数の兵を討ち取り捕縛ほばくするなど、この戦で名将としての片鱗へんりんを見せた。

その後、援軍に向かった公路の軍も敗走させられ、袁術軍は一旦封丘ほうきゅうまで撤退。
追撃する曹操軍に対して守りを固めたが、襄邑じょうゆう、大寿たいじゅ、寧陵ねいりょうといずれの戦場でも連敗を重ね、遂に南陽を捨て、揚州ようしゅう九江きゅうこう郡にまで敗走する事となった。

そこで公路は、先まず邪魔な揚州刺史の陳温ちんおんを殺害し、その混乱に乗じて揚州を乗っ取ると、揚州一帯を事実上彼の支配下に置いたのであった。


陳留郡へ向かっていた奉先の軍勢だが、孟徳が袁公路と交戦中であった為、彼と出会う事は叶わず、中原ちゅうげんで再び流浪した。
そんな彼の元へ現れたのは、呂奉先が行く宛が無く彷徨さまよっているという情報を掴んだ袁本初からの使者であった。

その頃、本初は黒山軍こくざんぐんの張燕ちょうえんと戦っており、彼らの力を借りようと考えたのである。
使者は、袁本初に協力し共に黒山討伐に向かってくれるなら、彼の兵たちの面倒を見ても良いという本初の言葉を伝えた。

「是非ぜひも無い。直ぐに、本初殿の元へ向かうと伝えてくれ。」

その話しを二つ返事で快諾かいだくした奉先は、早速、部下に返書を書かせて使者に持たせた。
兵たちは皆、長い放浪生活で疲弊ひへいしており、身重みおもの雲月に長時間の移動は辛つらく、一刻も早く休ませてやりたい。迷っている暇は無かった。

直ぐ様兵を率いて冀州きしゅうへ向かい、常山じょうざんで黒山軍と対峙たいじしている袁本初の元へと赴おもむくと、本初もまた彼らの到着を喜び、手厚く饗もてなしてくれた。

「奉先殿、良く来てくれた！貴殿きでんが居れば、これで百人…いや、千人力りきとなるだろう…！」
本初は機嫌良く笑い、彼に向かって拱手きょうしゅする奉先の肩を叩く。

奉先が彼と面会したのは、この時が初めてである。
流石さすがに名門と呼ばれる袁家の御曹司おんぞうしだけの事はあり、本初は眉目秀麗びもくしゅうれいな美男子で、快闊かいかつさを感じさせた。
奉先は彼に好印象を抱いたが、公路の時の事もある。同時に、警戒しておく必要性を強く感じていた。

張燕は、約一万余の精兵と数千の騎兵を有ゆうしており、抜群ばつぐんの機動力きどうりょくと統率力で兵を指揮し、その俊敏しゅんびんさから『張飛燕ちょうひえん』と渾名あだなされる事もあった。
袁本初は、幾度と無く彼らを攻撃したが歯が立たず、黒山軍討伐はここまで思う様な成果を挙げられていない。

敵の概要がいようを伝え聞いた奉先は、早速仲間たちと偵察ていさつに出掛け、軍法会議を開いて作戦を練った。

本初が出撃の準備を整え待っていると、奉先が自ら兵を率い、愛馬飛焔ひえんに跨またがって現れた。
それを見た本初は、驚きに我が目を疑った。

「奉先殿、その兵力で黒山軍を相手に戦うつもりか？！」

奉先が率いるのは数十騎の兵と、同じく数十騎を率いた数名の将たちだけである。

「大軍を擁ようしては迅速じんそくさに欠ける。相手は機動力も高く、此方こちらを常に翻弄ほんろうしてくるであろう。ならば、兵を極限まで減らし、錐きりで穿うがつが如く攻撃を仕掛けるのが良策である。」

それに対し、本初は首を捻ひねって眉を顰ひそめる。

「しかし、そう上手く行くであろうか…？」
内心、本初は彼の浅知恵あさぢえを嘲笑あざわらっていた。
呂奉先は、確かに一騎当千いっきとうせんの猛将との誉ほまれが高く、あの董仲穎を斃たおした男でもある。
とはいえ、張燕の精兵を破るのは容易たやすい事とは思われなかった。

奉先の側近には、成廉せいれん、字を爽直そうちょく、魏越ぎえつ、字を伯卓はくたくと言う二人の勇将がいる。
二人は共にまだ若く、それぞれ健将けんしょう、驍将ぎょうしょうの名で呼ばれ、常に奉先の左右に侍はべる謂いわば護衛の様な存在であった。
本初の心配を余所よそに、奉先は彼らと共に数十騎の兵を率いて出撃し、張燕の堅陣けんじんを急襲した。

陣の周りには高い牆壁しょうへきが張り巡らされ、深い塹壕ざんごうが掘られている。
更にその周りには、沢山の拒馬きょば(移動可能な馬防柵)が連なって並べ置かれていた。

奉先は赤兎馬せきとば飛焔に跨がり柵に駆け寄ると、勢い良く飛焔を跳躍ちょうやくさせる。
その跳躍力は想像を遥かに超えるもので、飛焔は宙を飛ぶが如く駆け、一気にそれらを飛び越えてしまった。

張燕の陣に飛び込んだ奉先と飛焔は、大混乱に陥おちいる敵陣の中を駆け巡って荒らし回り、爽直と伯卓らもそれに続き、数十騎の兵で張燕軍に突撃した。
彼らは、その度たび敵将の首を斬っては脱出するという事を一日に何度も繰り返し、張燕軍に壊滅的な打撃を与えたのである。

その攻撃は正に「錐で穿つが如く」であり、この時、張燕の兵たちは

「人中に呂布あり、馬中に赤兎あり。」

と語って、彼らに称賛しょうさんと畏怖いふの念を抱いた。

この奉先たちの活躍により連戦する事十余日、遂に張燕軍は破られ、彼らは黒山軍を離散させる事に成功したのである。
袁本初は勝利を喜び、約束通り彼らに新しい宿舎を与え、兵糧ひょうろうも分け与えてくれたのであった。

沢山の果物の実を包んだ風呂敷を手にぶら提さげ、奉先は足取りも軽やかに、雲月の寝所を訪れた。
雲月は牀しょうに腰掛け、大きくなったお腹の上で、赤児の為の産着うぶぎを縫っている。
雲月の膝の上で風呂敷を広げ、中から何やら赤黒い小さな実を取り出すと、

「雲月、見てくれ。本初殿から頂いたのだ。これは茘枝れいし(ライチ)と言う実で、妊婦に良い栄養を含んでいるらしい。」

そう言って、奉先はその革を剥むいて彼女に差し出す。
雲月はそれを見ると、ふふっと笑い、それを手に取って口に運んだ。
奉先はその姿をうっとりとした眼差しで眺め、雲月のお腹を優しく撫でながら、お腹の胎児に語り掛けた。

「お前が男なら、文遠の息子の義兄弟に…女なら許嫁いいなずけにしよう。」
すると、それを聞いた雲月は眉を顰ひそめる。

「“許嫁”にするのは賛成しないな…女なら、結婚相手は自分で決めさせてやりたい。」
「そうか、そうだな。だが文遠の息子なら、きっと気に入るさ！」
奉先はそう言って笑うと、今度は彼女のお腹に耳を押し当てた。

黒山軍を冀州から排除し、曹孟徳が袁公路を揚州まで撃退した報しらせも届いている。
後顧こうこの憂うれいを断った袁本初は、幽州へ逃げた公孫伯圭を討伐する為、全兵力をそちらに向ける事を決断した。
公孫伯圭は交戦の末、遂に幽州の劉伯安を捕縛ほばくし、朝廷に讒言ざんげんしてその一族を処刑させていた。

だがこの時、配下の田豊でんほうや沮授そじゅ、郭図かくと、審配しんぱいといった彼の参謀さんぼうたちから、呂布軍の処遇について不安の声が上がった。

「呂奉先は黒山討伐での戦功を誇り、図々ずうずうしくも食糧や兵力の補充を求め、我々を軽視しております。このまま冀州に残して置けば、きっと殿の隙きを狙って城を奪おうとするでしょう…！」

確かに、呂布軍の兵と袁紹軍の兵との間では時折揉もめ事が起こっており、呂布軍側は黒山討伐での袁紹軍の脆弱ぜいじゃくさを嘲笑ったり、掠奪りゃくだつ行為を働くなど、その素行の悪さが度々たびたび取り沙汰ざたされていた。
それに長安の李傕りかく、郭汜かくしらは呂布の首に高額な懸賞金を掛けている。
参謀たちは、これ以上呂布を匿かくまう事は、袁紹軍にとって得策では無いと訴えたのである。

「分かった。呂奉先には、然しかるべき措置を取り計らおう…」
本初は配下たちに大きく頷うなずいて見せた。

夕刻、調練ちょうれんを終えて飛焔を馬房へ入れた後、宿舎の居室へ向かっていると、廊下の向こうから俊しゅんが走って来る。

「主様あるじさまと二人で話しがしたいと、高士恭しきょう様が…居室へお通ししています。」
「士恭が？…分かった。」
奉先は俊の肩を軽く叩き、ほんの少し訝いぶかりながらも居室へと向かった。

居室には小さな燭台しょくだいの灯あかりが部屋の隅に灯ともっているだけで、中は薄暗い。
その薄暗い中に士恭が一人佇たたずんでいたが、いつもの彼とは様子が違って見えた。

「士恭、どうした…？」
問い掛けると、士恭は漸ようやく視線を上げて彼の顔を見る。

「奉先殿…！貴方あなたの首、貰もらい受ける…！！」

言うが早いか、士恭は佩はいた剣を抜き放ち、一瞬にして間合いを詰めると奉先の首を狙って刃やいばを一閃いっせんさせた。

室内の空気は一瞬小波さざなみ立ち、燭台の小さな炎が微かすかに揺れ動く。
士恭の瞳にその灯りが映り込み、赤く燃えた。

「………っ！！」

士恭の剣は、奉先の喉元でぴたりと止まっている。
奉先は眉一つ動かさず、士恭の瞳を見詰め返してた。

「どうした、斬らぬのか…？」

すると、士恭は大きく溜め息を吐つきながら剣を下ろし、素早く鞘に戻す。

「はあーー…奉先殿…！俺が刺客せっかくなら貴方の首は今頃、確実に胴体を離れ床に転がっていたでしょう…！」
「お前が刺客など、有り得ぬではないか！」
奉先が笑って答えると、

「奉先殿の首には、高い懸賞金が掛けられているのです。仲間とは言え、油断は禁物きんもつですぞ…！」
そう言って目を吊り上げ、士恭は険しい表情を浮かべる。

「お前が刺客ならやむを得ぬ…斬られる事は不可避ふかひであろう。だが、お前を斬るよりは余程よほどましだ。」

目を細めて微笑する奉先を見詰めると、士恭は自分自身に言い聞かせる様に言った。

「奉先殿…俺は貴方に斬られるなら、それで本望です…！例え、貴方に裏切られる様な事があっても、恨うらみに思ったり憎んだりする事は決して無い。俺は一生貴方を信じ、付き従う積りだ…！これは貴方の為ではない…自分自身の為にそうするのです…！」

「お前の信条しんじょうとは複雑だな…だが、自分に厳しいお前らしい。」
奉先はそう言って、ふっと笑うと、
「そうだ…！」
と、突然何かを思い出した様に手を打って、部屋の隅に置かれた箱を開け中を探し始める。

「渡したい物があったのだ…」
そう言いながら振り向いた彼の手には、鮮やかな浅緑あさみどり色の生地きじに金糸きんしで模様が付けられた見事な婦人用の着物がある。

「これをお前に…いや、お前の妻に贈ってやってくれ…！」
奉先は思わず苦笑し、大きく首を振って士恭に差し出した。

「こ、こんな高価な物を頂くわけには…！俺の妻は地味な女なので、勿体無もったいない。それは奥方様に…」
「いやいや。それこそ、雲月は女物の着物を殆ほとんど着ないのでな。」
「然様さようですか…それなら、遠慮なく頂きます。」
士恭は少し嬉しそうに顔を綻ほころばせ、着物を彼の手から受け取った。

「お前が着たければ、それでも構わぬぞ…！」
「ま、まさか…！そんな事しませんよっ！」
赤面した士恭が、慌てて首を激しく横に振る。
それを見ると、奉先は笑いを堪こらえ切れず思わず吹き出した。

すっかり日が落ち、辺りに暗闇が迫った頃、闇に紛まぎれた黒尽くろづくめの人影が、宿舎を囲む塀へいに取り付いた。
その影は壁を軽く飛び越え、塀の上から中の様子を伺うかがう。
宿舎には煌々こうこうと明かりが灯されており、中から兵たちの騒ぎ声や歌が聞こえていた。

「どうやら、宴会を開いているらしい…」
塀の上の男が、振り返って仲間たちに小さく耳打ちをする。
男たちは皆、それぞれ手に武器を握っている。

「それは良い。相手は、天下無双てんかむそうの呼び声高い呂布だ。酔い潰つぶれた所を襲おうではないか…！」

仲間たちは大きく頷うなずき合い、見張りの者を残して再び闇の中に身を潜ひそめた。