私のともだち

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私のともだち

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 だいたい一年くらい前からだと思う。キャラ設定間違ったかな、と思い始めたのは。
 いまはもう苦しい。笑ってるけどイライラする。ズバズバ言うけどその度ごとにドキドキしている。まわりの人たちを騙して私という個体の生きやすい環境を作ろうと目論んでいたのに、作り上げた環境の維持に予想外の労力と精神力が必要で正直クタクタだ。
 心折れそう。

「なー、夏音(かのん)。どう思う?」
 昼休み。一つの机に弁当を二つのっけて向き合っている私たち。対面で箸を揺らしながら暖簾(のれん)が何か言っている。私は完璧な笑顔で暖簾の言葉の意味を探った。ああもう。こいつのしゃべり方ほんとイライラする。頭が悪いのが滲み出してる。会話ってのは相手に情報を伝えるためのものなんだからまずは要点を伝えるべきだ。現にいま、あんたは私に質問してるんでしょ? 問いの内容を先に言わないで、私にどんな答えを求めるって言うんだ。
 そう思うけどおくびにも出さない。笑顔で問う。
「何があったの?」
「なんかさぁ……。ヌー子に言われたんだよ。『絵のモデルになってほしい』って」
 ほうれん草のおひたしをクチャクチャ茎わかめみたいに噛みながら暖簾が言う。
「これってさあ……、やっぱ、そうだよなあ」
 笑顔のまま心の中でキレる。指示代名詞だけでしゃべんな。
 私は察しがいいからこいつが何を言いたいのかだいたいわかるけど、たったこれだけのやり取りでこいつの将来が暗いってのが透けて見えてしまう。はなから高校生活が終わるまでの付き合いって決めているから何とか許せるけど、もしこいつとこれから先もずっと一緒にいろって誰かに言われたら私どうするだろう。こいつが泣くまで殴るかもしれない。こいつのせいで溜まった今までの鬱憤をはらす意味も込めて、力いっぱい殴るかもしれない。
 つまりこいつはこう言いたいのだ。「絵のモデル」なんかにかこつけてるけど、結局それって俺が格好いいってことで、つまり、クラスカースト最底辺のヌー子が、男子の部最上位のこの俺に告白しようとしてるってことであるから、それは実にけしからんことであると。
 それを私に言わせたいのだ。
 心の中で「キモ過ぎるんだよ死ね」って呟きながら笑顔で言う。
「ヌー子がのっくんと会話できただけでも奇跡だよね」
「だろ? びっくりしたもん俺。誰に話しかけてんのかな、独り言かなって思ったら俺のこと見てるんだもん。ヌー子が」
「キモいね」
 お前が。
「だよなぁ。何様だって感じだよな」
 お前がな。
「ムカつくよね」
 まあ、私もだけど。
「はあ」
 暖簾が私に聞かせるために大げさなため息をついて、それから顎を机にくっつけて上目づかいになって私を見た。暖簾が私に何かを求めるときにする仕草だ。三か月こいつに付き合って、こいつの生態は完全に把握した。
 私を三秒くらい見つめてから媚びるように微笑んで暖簾が言う。
「だからさぁ、夏音、代わりに行ってきてくんね?」
 思わず「は?」と声を荒げそうになった。それを理性で飲みこんで、小首を傾げて「ん?」に変える。
「だからさ、俺が行くと波風立つじゃん。ヌー子といっしょにいるところとか見られたくないし」
 だとして何で私が代わりに行くことになるんだよ。
「女同士なら大丈夫だろ?」
 何が。ちくしょう。流れと私のキャラ的に断れない。これ、できた彼女として、私は笑顔で肯かなきゃならないパターンだ。
 くそ。聞きたくない。
 けどしかたない。
「どこで待ち合わせなの?」
「なんか、滝」
 こいつの語彙はどうなってんだ。高校二年生だろ。ちゃんと固有名詞を口にしろ。
「どこの?」
「湯河原の先の、なんかマンションみたいな名前の」
「不動滝?」
「そうそれ」
 死ね。神さまと私に自分の無知を謝ってから死ね。

 私は性格が悪い。知ってる。自覚がある。まわりに人は集まるけど友達はいない。知ってる。気にしてない。友達は綻びのもとだと思ってるから。付き合いの深い人間が増えればそれだけリスクが増す。もめるリスク、傷つくリスク、傷つけるリスク。めんどくさい。
 だから、結構早めに上っ面だけで生きることに決めた。たぶん中三くらいの時。それからはクラスが変わるたびに試行錯誤を重ね、より高ステータスで、より低リスクの立ち位置をずっと探ってきた。法則も見つけた。成績上げたり体育祭で頑張ったりするのは効率が悪い。マストなのは、第三者から常に高い評価を受け続けること。でもそれは、教師や同性のクラスメイトじゃ弱い。男子がいい。学校のカーストで上位にいる男子が常に私を「最高」って言っていれば、私はさしたる努力をしなくとも「最高」のラベルを手に入れられる。それを知った。人格がどうとか能力がどうとかじゃなく、高評価を得るためには誰といっしょにいるかが大事なのだ。
 だから私はしかたなく暖簾と付き合っている。暖簾っていうのは私の脳内での彼の名前。何言ってもまったく響かないし、空気や雰囲気にすぐなびくし、そのくせその「なびくこと」がアイデンティティみたいなところがあるから暖簾。頭悪そうな響きなのも気に入ってる。
 ついでに解説しておくとヌー子ってのはヌートリアに顔が似ているもさったいクラスメイトの女子のこと。名前は何だっけみんな公然とヌー子って呼んでるから思い出せない。
 ヌー子の名前が出た以上、ヌー子のクラスでの立ち位置も説明しておかないといけない。
 ヌー子は言ってみればいじめられっこ的な存在。「的な」って言ったのは、「いじめられっこ」の条件をたぶんヌー子が満たしていないからだ。ヌー子は誰にも相手にされない。誰かと一緒にいるところなんか見たことない。いじめるためには絡まないといけないけど、ヌー子はとにかく絡みづらいのだ。
 どんよりと淀んだ空気みたいな女子。それがヌー子。
 高校生くらいになると、いじめの質って変わってくる。子どもの頃のいじめって、強い個体が弱い個体を排除するって感じのすごく生物学的なわかりやすいいじめだった。ほらあの、メジナとかいう魚を複数匹水槽に入れておくと、必ず一匹はいじめられる魚が出てくるんだっていうヤツ。そのいじめるヤツをとりのぞいても、今度はまた別の個体がいじめっこに変わるんだってヤツ。「じゃあ、いじめられる側をとりのぞこう」ってしてみても、結局また新しいいじめられっこが必ず発生するっていう、全国の教育関係者の胃にストレスで穴を開けさせそうな生物学的事実。あれとか如実だと思う。だって魚に思いやりとか友情とかないだろうし、心理的に複雑な何かが働いて結果としていじめてるなんてことはありえないわけだし。魚の世界は生存戦略の力学に従って明確に動いている。子どものいじめってそれに似ている。シンプルだから残酷で、容赦なく仲間外れにしていく。
 それがだんだん変わってきた。いま、こうしてヌー子が誰にも相手にされないで、クラス全員でからかう時だけピックアップされて利用されるのは、ヌー子が生物学的に弱い個体だからじゃなくて、ヌー子がどこにも属していないからだ。
 クラスカーストの利点は、上下の間で接点がないってことだ。同じ身分の人間同士なら争いも少ないし、互いを思いやることもできるし、共通の敵だって持てる。だから上手く回る。最底辺の人が可哀そうなんて声もときおり聞くけど、それって大きなメリットを見逃してない? って思ったりもする。最底辺の人間だってクラスの中に複数いるんだ。ということは、同じ最底辺同士つるめるってことで、最底辺には最底辺なりのコミュニティができる。つまり、「一人っきり」って最悪の状態は避けられるようになっているのだ。
 畢竟、クラスカースト制度は、「孤立を避ける」という指針に基づいて構築された、自己防衛のためのシステム。
 なのに、ヌー子はそれに属していない。だから対応に困るのだ。そうなると、結論として誰もが「ヌー子との接触を避ける」ことになる。つまり、ヌー子と絡めない。それがますますヌー子を孤立させる。しかも、不思議なことにヌー子は自らそういう環境を作り出しているきらいがある。
 その証拠にヌー子の携帯電話はいまだにガラケーだ。その理由を私は何となく察している。
 誰にもアドレスを聞かれないようにするためだ。
 つまり、ヌー子と絡むのは、とてもとてもめんどうくさいのだ。

 そして、そんなヌー子を積極的に、「下の方のものさし」として活用しているのが、私と暖簾。暖簾の方は、直接いじめには加わらないけど遠巻きにニヤニヤ見ているタイプ。遠くから「かわいそうだろやめろよ」とか言いながら、椅子から絶対に立ちあがらないタイプ。なんでコイツ人気あるんだ? 顔だってパーツが整ってるだけで、よく見ればアホ面だってわかる。目とか濁ってるし未来とか見えてないし、ちっさくて澱んだ世界にどっぷり浸かってそこの王様になって喜んでるだけだ。
 もう一人、女子の部代表のクズが私。ものさしは相対評価だから、下の値が大きければ大きいほど、相対的に上のものさしの値も大きくなる。ええまあ、自覚があります。ヌー子を下げると私の立ち位置が上がるんです。彼もきっと同じ。知ってます。
 自覚あるんで、そこを責められてもノーダメです。



   2

 一度家に帰ってから行くことにした。この辺りには高校がないから制服でうろうろしてると目立つし。滝とか神社とかってジメジメしてて制服とかじっとりしそうで嫌だし。
「ねー、ママ。不動滝ってどう行くの?」
 めずらしく夕方から家にいたママに聞いてみた。せんべいを齧りながら、まじまじと私の顔を見て、それからすごく不思議そうに言われた。
「え何で? 何で不動滝? あんたが?」
 言葉の端々にいろいろ感じるけどめんどくさいので触れない。
「ちょっと人と会う約束があるんだよ。どんな場所? どうやって行くの?」
 ママが顎に人差し指を当てて天井を見ている。
「んー。あのね、小さいけどね、いい感じの滝があるのよ」
「いい感じってどんな感じ?」
「滝の左に身代り不動尊があってね、右に出世不動尊があるの。二つのお堂に滝が挟まれてるのよ」
 言いながら胸を張って「すごいでしょ」とか言う。いやそれ、滝を挟むように後から作っただけだよって思ったけど言わなかった。
「でね、お茶屋もあってなかなかに濃いのよ」
「何が」
「マイナスイオンが」
 ああそうなんだ。ママはそういうの感じ取れるんだすごいね。
 ママから得たもにゃもにゃした情報によると、湯河原駅からバスで二十分くらいで、そこから歩いて滝まで向かうんだって。近いようで遠い場所で実は行ったことなかった。学校とも反対方向だし。用事がなきゃ行くような場所じゃないし。
 そして神さまと私って、なんかすごく遠い気がするんだ。行ったらバチとか当たりそうで。

   *

 二つのお堂をつなぐ小さな橋が真正面に見えている。
 真っ赤な欄干にひじをついて、地味な女子生徒が滝を見ていた。あれ? この欄干、私赤いって思ったけどもしかしてサビなのか? あいつ、制服のひじのとこいまどうなってんだ?
 私はジメジメが嫌で制服を避けたのに彼女はもろに制服姿だ。
 制服の背中の不釣り合いにでっかいリュックからスケッチブックがはみ出してる。
 とりあえず声をかけた。
「あー。ヌー子?」
「あ……」
 ヌー子が振り向いた。肩に少しだけかかっている黒髪が揺れて投網みたいに広がった。そこにキラキラ謎の粒子がまつわりついて、それを見てなぜか私はマイナスイオンを考える。たぶん枝毛に水滴がくっついて謎の発光現象を起こしたんだと思うけど。
「あの……。あれ……?」
 私を見て盛大にきょどっている。私はさらりと答えた。
「のっくんなら来ないよ。来るわけないじゃん」
「あ……」
 水しぶきがすごい。こんな小さな滝なのに、この水量ってすごくない? 足元コケとか生えてるし、ヌー子の髪はマイナスイオンでぬらぬらだし。
 これはきっと、私のほんの少し脱色したロングヘアーだってもうしばらくするとヌー子と同じ状態になる。それは嫌だ。避けたい。帰り道、誰にも会えなくなるのもめんどうだし。
 親指で来た道を示した。アメリカ映画の「表出ろ」みたいに。
「あのさ。ちょっとここ湿度すごくない? すぐそこに茶店あったじゃん。あそこ」
「……?」
「いや、そこで話そうって言ってんだけど」
 ヌー子がひょこひょこ付いてくる。クラスで目撃するときはそんなに感じなかったけど、この子ちっさいな。予想以上に小動物っぽいな。行動も生態も。
 茶店の真っ赤な唐傘の下のベンチ。そこに横に並んで腰かけて、一瞬だけヌー子と見つめあった。
「なんか飲む?」
「……ここ、お抹茶か甘酒しか置いてないけど」
「じゃあ私甘酒で。ヌー子は」
「あ……。お抹茶」
 飲み物が届くまで無言で、届いてから同時に一口すすって、「ふう」と息をついたら落ち着いた。ヌー子が縁側のおばあちゃんみたいな姿勢で厚手の湯呑みを両手に包んでいる。斜め上、謎の樹木を眺めている。
 たぶん一分くらい、そのままじっとしていたと思う。ヌー子がベンチに置いたスケッチブックの上に手を乗せて、私を見て、「それで……?」と聞いてきたからようやく思い出した。根本のところでどうでもいいと思っているから危うく何しに来たのか忘れるところだった。今日の私は暖簾の代理人なのだ。
 顔を作って言う。
「てか、何? のっくん呼んで、何がしたかったのあんた」
 ヌー子がスケッチブックの上で手のひらをカサリと動かした。何も言わない。
「答えなよ」
 またスケッチブックを撫でた。ようやく口を開く。「あの……。モデルに」
「は? 何の?」
 ヌー子がすごく不思議な表情を浮かべた。恥じているような、興奮しているような、言ってみれば、当人にじゃなく友達に、好きな人の名前を告げるときのような顔。
「え何?」
 ヌー子が無言でスケッチブックを私に差し出してきた。私は意味がわからずとりあえずそれを受け取って開く。スケッチブックの真ん中あたりのページを開いたら、そこに暖簾がページをぶち抜いて立っていた。黒いマントに身を包んでいる。足元のあたりに白い枠があって、そこに「魔王」って書かれていた。魔王の顔が暖簾だ。暖簾の斜め四十五度のキメ顔だ。
「ぐは」
 変な声が出てしまった。やばいコレ抑えられない。ページをめくる。謎の力で主人公の遥か上空に浮かんだ暖簾が、真下にいる主人公に向かって「かかってこおい!」と叫んでいた。主人公が、「いや降りてきて!」って叫び返している。「角度的に顔すら見えないんだけど!?」
 吹き出す。これ、異世界物に擬態したギャグ漫画だ。
「何これ……」
 もうダメだ。
「あはははは! 何これ! 何これ超ウケるんだけど! 暖簾が! 暖簾がラスボスに!」
 めちゃくちゃ笑った。こんなに笑ったの小学校以来なんじゃないか。ページをめくる。面白いよこれ。なんだこれ面白いよ。隣でヌー子が頬を赤く染めて私を見ている。ヌー子の漫画を読んでいる私を、手料理を食べる彼氏を見る目で照れながら見ている。
 一通り読み終わったあと、甘酒を飲みほして私はヌー子にスケッチブックを返した。もう笑いすぎてお腹痛い。ていうか目尻に涙浮いてる。
「はー。すっごい笑った。ヌー子すごいじゃん。才能あるよあんた」
 ヌー子がまた照れている。膝に乗せたスケッチブックをなでている。
「魔王にぴったりだと思ってて……」
 ヌー子がぼそりと言った。それだけでまた私は吹き出す。
「ぶは! じゃあ何? もしかしてこういうこと!? 悪役のモデルがのっくんだから、のっくんの顔を間近で見たかったってことなの!? それだけなの!?」
 ヌー子が真っ赤な顔をスケッチブックで隠した。隠したまま肯く。「……うん」
 笑ってしまった。
「うっわー! いいよそれ! 超いいよヌー子! じゃあ何? 全部あいつの一人相撲だったってこと? うわダサっ! 究極にダサっ! いやあいつね、ヌー子に告られるって思って、私に『断ってきてくれ』って頼んだんだよ! 何あいつダッセー! 超自意識過剰! 間抜け面が見たかっただけじゃん! 恥ずかしいぞこれ! 猛烈に恥ずかしいやつだぞこれ!」
 笑いながらヌー子の肩をバシバシ叩いていたら、ヌー子がスケッチブックで顔の下半分を隠したまま私におずおず言ってきた。
「怒らないの……?」
 笑いすぎの涙を指でぬぐいながら素で答える。「え何で?」
「だって彼、あなたの彼氏……」
「彼氏って言うな」
 瞬間に、怖い顔になっていた。何だこれ。どうして今、私、仮面が外れてるんだ。どうしてさっき、「彼をそんなふうに扱うな」ってちゃんと怒れなかったんだ。
 戸惑う。口が勝手に動いてしまう。
「あんなの好きでもなんでもないから」
 何でだ。嘘がつけない。
「人気があるからいっしょにいるだけだから。あんなの、高校生活が終わると同時にお払い箱だから」
 言うな。心の中をばらすな。これは言っちゃいけないこと。私の心の中の声だ。
「あんなのが私の彼であってたまるか。バカにしないで」
 ヌー子がびっくりした顔をしている。スケッチブックを胸に抱いたまま呟くように言った。
「そうなんだ」
 ちがうって言え、私。
「そう」
 ああ。認めちゃったよ。もうダメ。もう誤魔化せない。もう嘘がつけない。何なんだこれは。何なんだこいつは。何なんだこの居心地の良さは。
 いつの間にか、日が傾き始めていた。私は背中に腕をついて胸を広げて空を見ている。ヌー子が隣にいて、私の話を聞いている。ああもういいや。敗北宣言だ。なんか止めらんないし。私、何もかもヌー子に話したくなってる。
「ヌー子ってさ」
「うん」
「もっと話しづらいんだと思ってた。みんなのこと避けてるみたいだし」
 ホントはちがう。ヌー子がみんなを避けてるんじゃなくて、めんどくさいから、みんながヌー子を避けてるんだ。ホントは知ってる。
「みんなからなんて呼ばれてるか知ってんの?」
「……知ってる」
「まーそうだよね。さっきから私もそう呼んでるし」
「…………」
 黙ったままだ。だから追い打ちをかけるように言ってやった。
「顔も生態もヌートリアに似てるからヌー子」
 最後に「だって」って付ければ伝聞になる。なのにそうしなかった。だって私もヌー子のこと、いままでずっとそう呼んできたし。基本、遥か上から見下してるわけで、そのスタンスは変わらないわけだし。
 ていうか、名付けたの実は私だし。
「ホントの名前、何ていうんだっけ?」
「……有沙」
「ゆさ?」
「そう。近藤有沙」
「へー」
 無言になった。会話の続きが思いつかない。
 まるまる一分くらい無言の時間が過ぎた後、有沙がおそるおそるって感じに聞いてきた。
「譲原(ゆずはら)さんは、自分の名前、……好き?」
 はじめて聞かれたそんなこと。ちょっとだけ戸惑いながら答える。
「ううん。まあ、どっちかっていうと好きかな」
「どうして夏音なの?」
 なにその質問。どうして私は私なの? って聞くかふつう。
 なぜか首の後ろに手をやりながら私は答える。
「いやさ、家の親が花火好きでさ」
「?」
「話したくないなぁ……。要するに、うちのパパとママが出会ったのが花火大会の夜だったんだよ」
 すごくゆっくりと有沙が笑顔に変わっていった。同時に頬も赤くなっていく。
「ああ……」
 なんでか私も照れてしまった。赤くなるな顔。有沙が一言一言を噛みしめるようにして言う。
「花火が弾ける音……。だから夏音」
 顔を赤くしたままそっぽを向いて声だけで認める。
「そ」
「素敵」
「いやいや。こっ恥ずかしいよこれ。どんだけ頭の中花畑なのかなって思うよ」
「ううん。素敵」
 ちゃんと私を見ていた。有沙が続ける。「羨ましいくらい」
 なんでか真正面から有沙の顔が見られない。
「有沙ってのも、まあ、いい名前だと思うけど。響きとか格好いいし」
「ありがとう」
「由来とかあんの?」
「知らない」
「聞いたことないの?」
「由来じゃないけど、お母さんが前に、アリサって付けたかったのって言ってた。けど、そんな外国人みたいな名前は駄目だっておばあちゃんが言ってユサになったって」
「あ……」
 なんか聞いちゃいけなかったかな。「そうなんだ」
「そうなの。だからかな、ときどき、すごく酔っぱらってる時とか、お母さんたまに私のことアリサって呼ぶの」
「へえ」
 お母さんすごく飲むんだ。そして酔っぱらうんだ。
 手の中の空っぽになった甘酒のカップを揺らしてみる。もう一杯くらい何か飲んでもいいかもって、さっきから私はずっと思っている。
 有沙を見る。有沙のちっさな両手に包まれた湯呑み。妙に似合うな。だんだん、ヌートリアって言うか、呪いで外見が若いまま歳だけとったおばあちゃんみたいに見えてきた。
 名残惜しさをベンチに残して私は立ち上がった。左手だけベンチに伸ばして、五百円玉といっしょに空のカップをそこに置く。
「じゃあ私行くわ。なんか……」
 勝手に口が開いていた。自分でも何言おうとしてるのかよくわからない。
「悪かったね」
 あれ? 何で謝罪してんだ私。急に恥ずかしくなる。なんか有沙の顔が見れない。
 有沙が、「あ……」と、意図の不明な声を上げた。
「あのさ」
 立ち止まって言った。どうしても聞いておきたかった。
「またここに来たら、有沙、いるの?」
 振り返ったら夕日の中で、有沙が眩しそうに微笑んでいた。
「いるよ。毎日私は、ここにいるよ」

   *

 夕食はママと一緒だった。これも結構珍しい。
「ママは食べないの?」
「昼にせんべい食べ過ぎちゃった」
 私のカレーライスの隣にコーンサラダの皿を置きながらママが言った。
「なんかねえ、二匹の狸が見つけたんだって。温泉を」
 理解不能だ。何言ってんだこの人。
「え何? 何の話?」
 自分は食べないって言うのに私の対面に腰かけて、あご肘の姿勢でニヤニヤしながら私を見てる。なに? 何なの? 明確に意図を伝えてほしい。
「不動滝行ったんでしょ? 茶店あったでしょ茶店。そこの足湯、あんた入んなかったの?」
 ああ。そういうこと。うんちくを語りたいのか。
「え。入らなかったけど。何? 聞いてほしいの?」
 ママがニヤリと笑った。
「あんたが急にお不動さんに行くとか言い出したからさ、ママも調べちゃった。郷土愛に目覚めたのかと思って」
 ぜんぜんちがうけど。
「聞く?」
「えー。まあ……、手短に」
 行儀悪く片肘ついて、サラダをフォークでパリパリ突き刺しながら私は言う。なんでかこういう時、少し不機嫌な感じを出してしまう。別に不機嫌じゃないのに。なんでだろう。
 ママが話してくれた昔話は、要約するとマジで最初にママが言った通りだった。要するに箱根の山奥に住んでいた雄の狸が狩人に弓で射られて、逃げてきた湯河原の地で温泉を見つけてそこで傷を癒して、同じように湯治をしていた雌の狸と結ばれたっていう話。しかもその二匹の狸は底なしのお人好しで、人間にケガをさせられたっていうのに、人に化けて旅人の前に現れては、「向こうにいい温泉があるよ」って教えてくれたって伝説。
 えー、と思う。
 透明の皿の中、ミニトマトをフォークでコロコロ転がしながら言う。
「納得いかない」
 狸思いっきり人語で話してるし。
「なにが? 狸が人と話してるとこ?」
 ムッとする。ちょっとだけ心読まれた。私がムッとするとママはなぜかちょっと勝ち誇った顔になる。それもムカつく。
「気にしないの。昔話なんてそんなもんなんだから。あんたは若いのにちょっと頭固いのよ」
 ムッとした顔のまま言う。
「そこじゃない。なんで狸は人間に弓で射られたのに人間に温泉の在り処を教えてあげるわけ? サルカニ合戦の方がまだしっくりくる」
「最近のサルカニ合戦は最後、サルとカニが仲良しになるみたいよ」
「最終的にみんなで温泉をシェアするにしても、きちんとした謝罪か復讐は必要なんじゃないの? ケジメとして」
「きちんとした復讐ってなによ。怖いわねあんた」
「人ってそんな簡単に人を許せるもんじゃないよ」
「言うわね高校生。ママはそう思わないけど」
「ママは幸せだから」
「じゃああんたは幸せじゃないの?」
 答えに詰まった。
「たぶん」
「なんで」
 むくれる。言語化できない。けど、毎日イライラしてるからきっと私は幸せじゃないんだと思う。それだけは確実だ。
 ママがニヤニヤしている。なんか腹立つから言ってやった。
「娘が幸せじゃないって言ってんのに何その態度」
 まだニヤニヤしている。
「大丈夫よう。ママはね、あんたは幸せに成ってないだけだと思うのよ」
「成ってないってなにさ」
「成ろうと思えば成れるってことよ。自分で止めてるだけ。がんばれよう。高校生」
 ミニトマトに敵意を突き刺してやった。何だよそれ。ムカつく。
 ママにはわからないんだよ。現代に生きる若者の生きづらさなんて。



   3

「え何これ。くれんの?」
 上目気味に私を見ながら有沙がコクンと肯いた。五歳児か。そしてなんで無言。
 萌木色の和菓子が私のてのひらの上にちょこんと乗っかっている。そのまま無言の時間数秒。
「え? なに? いま食べろってこと?」
 有沙がまた無言で肯く。私、苦笑いしながら爪楊枝でプツンと皮を破って芋羊羹を口に運んだ。前歯で契りとって奥歯で噛みしめる。ほんの一かけら口に含んだだけなのに、口の中が一気にお芋になった。焼き立ての焼き芋をホクッと噛んだときみたいだ。口の中でホロッと崩れるやつ。
 お。
 飲みこんでから、舌でくるっと唇を舐めた。いいね。
「おいしいなこれ」
 有沙がやっとしゃべった。「でしょ? おいしいでしょ? おいしいよねやっぱり」
 すごくうれしそう。そして今度はサーモスを傾けてちっさな器にお茶を注ぐ。
 また無言で差し出してくる。
 目で尋ねる。飲めって?
「うん。口の中に羊羹が残ってる状態で飲んでみて」
 今度は声に出して答えられた。また一かけらを爪楊枝で口に運ぶ。舌に触れてひんやりする。咀嚼して体温で少しだけ温まる。そこにお茶を流し込んだ。口の中の芋の香りをほうじ茶の少しだけ薬っぽい香りが被って一瞬だけ隠して、その後に互いに「おれがおれが」って感じになって、その後で手をつないで仲直り。ほうじ茶の滋味に芋の甘味。芋の強い自己主張をほうじ茶がいい感じに抑えている。なるほどなるほど。いくらでも食べたいって感じじゃなく、ゆっくり味わって食べたいって感じのほっとする味。飲みこんだあとの、吐き出す「ふう」って息が幸せな味。
「どう?」
 有沙が感想を求めてくる。私は爪楊枝をくわえたまま目玉をぐるんと動かして有沙を見た。なんか悔しい。いままでスルーしてきたジャンルのおいしさだ。こういう味もあるんだ。なんかじんわり幸せを感じさせるような味。
 嘘がつけない。
「悔しいけど、満たされた」
「でしょ!?」
 すごく大きな声。有沙が私に身を乗り出してくる。有沙からこんな大きな声が出るなんて知らなかった。有沙がこんな顔するなんて知らなかった。なんだよ。ほっぺた真っ赤にしてすごくうれしそうじゃん。笑ってんじゃん。
「うれしい。私ね、この組み合わせが最強だと思ってたの。だから、誰かに確かめてほしいってずっと思ってて……」
 有沙が顔をうつむけた。目の下を折り曲げた指で拭っている。うそ。なんで? なんで泣いてんの?
「うれしい」
「え何で泣くの? 意味わかんないしなんか怖いんだけど」
「ごめんなさい」
「何の涙?」
「うれし泣き」
 呆れる。「あ、そう」

 今日、私は罪悪感を抱えたままここに来た。今日の午後のホームルームで、有沙がクラスで激しくいじられたからだ。その原因の一端が、確実に私にあったからだ。
 私は暖簾に嘘をついた。
「ヌー子、来なかったよ」
 暖簾はアホ面を浮かべたあと、急にニヤニヤしだした。
「怖気づいたのかな? やっと理解したんじゃね? 自分と俺とじゃ釣り合わないってか、ステージが違うってことにさ」
「いやたぶん、そういうんじゃないと思うよ」
 ちゃんと否定したのに伝わらなかった。暖簾は有沙のステータスをさらに下げるため、「身の程をわきまえず告ろうとしてきた上、直前で怖気づいてバックレた痛いヤツ」という中途半端な情報を、真偽不明のまま微妙に内容をぼかして仲間たちに伝えた。そうした伝聞は人から人に伝わるうちに曖昧だった細部が妄想と期待で埋められて、拡がりきる頃にはゆるぎない真実に変わる。ヌー子は痛いだけでなく、自己認識も歪んでいる危ないヤツってことになった。
「いやー。ちがうと思うなあ。ほらあの子、そんな積極性持ち合わせてないもん。告白とかそんな度胸、ないと思うんだよ」
 マイノリティな意見て弱い。私が言うからみんな一応聞くふりだけはしてくれるけど、抑止力なんて無いに等しかった。だって私の意見はつまらないほうの意見だから。場が盛り下がる方のコメントだから。
 ホームルームのテーマは文化祭の出し物で、やる気がなく、且つしゃしゃり出ることを大罪だと認識しているクラスメイトたちは誰も案を出さなかった。シンとする空気の中、暖簾が手を挙げて言ったのだ。
「僕は、もっと近藤さんを知りたい」って。
「だから、近藤さんに、もっとクラスのみんなと積極的に関わって欲しいと思う」
 聞いた瞬間に理解できた。暖簾らしい手法だ。表向きこう言っておけば、その言葉を誰も額面通りに受け取らないにしたって言い訳が立つ。からかうために、困らせるために言っているって誰もがわかっているのに、「良かれと思って」って逃げることができる。
「だから、近藤さんを信頼して、出し物の企画を近藤さんに一任してみたいと思うんだ。みんな、どうだろう」
 実に暖簾らしい。今日の追加情報で有沙の立ち位置は地に落ちた。どんなにいじっても、どんなに馬鹿にしてもリスクゼロのサンドバッグに認定されたのだ。だから誰も異を唱えない。担任だってそんなのわかってるけど、めんどくさいから何も言わない。
 ホント、全員死ねばいいのに。
 私を筆頭に。

 有沙が何も言わないから、私は居た堪れない。
 自分から言っていた。
「あのさ……。あいつらバカだから。関わらなくていいから。悩むだけ損。知らんぷりするのが正解だから。ほっとけばいいんだよ。期限が迫れば勝手に向こうから別の案出してくるって」
 言ったら有沙が意外そうに目を丸くした。しばらく考えてから、「あー」と口の中で細い声を出して、それからゆっくり微笑んだ。
「立ち向かえって言われるかと思ってた」
 今度は私が目を丸める番だ。でも実際は眉をしかめたんだけど。
「え何で? 立ち向かえるわけないじゃん。そんなん、クマに出会ったら戦えばいいのにって言ってるのと同じじゃん」
「…………」
「何? 何その表情」
「……なんか嬉しい」
「何が? 気持ちわる」
 唇がニュッと丸みを帯びた気がした。
「有沙、なんで笑ってんの?」
「笑ってないよ」
「笑ってたって。なんかこう、唇がニューってなってたもん」
「笑ってないって」
「なんで頑なに認めようとしないかな。まさか、笑顔見られたのが恥ずかしいの?」
「…………」
「わあ。まさかの図星」
 私まで笑ってしまった。バカにするんじゃなく誤魔化すんじゃなく、ちょっと気持ちがわかるから同じ顔になったんだと思う。愛想笑いじゃなくてほんとに笑う時って、図らずもホンネが漏れ出しちゃった時なんだ。本気の笑顔を見られるのって、心の中を覗かれてるみたいで恥ずかしい。
「ていうか、『あの』とか『ねえ』じゃなくて、ちゃんと私の名前呼びなよ」
 有沙が、「バレてたんだ」という感じに軽く目を見開いた。舌先で唇を湿して、ストローくわえるくらいに小さく開く。
「なんて……?」
「何でもいいって」
「じゃあ……、譲原さん?」
「固いよ」
「じゃあ……、夏音さん」
「もう少し砕こう」
「夏音ちゃん」
 笑ってしまった。「もう一歩行ってみようか」
 有沙が唾を飲みこんだ。
「か、夏音」
 耳に馴染まないけど、有沙の声は鈴の音みたいで呼ばれるのは悪い気がしない。
 いつの間にか笑っていた。
「明日までに、噛まずに呼べるよう練習してきなね」



   4

 有沙と話をするには、湯河原の駅前からバスに乗らなきゃいけない。学校で毎日会っているのに、有沙と自由に話をするのは不可能だからだ。私は私の身を守らなきゃいけないし、有沙は有沙で、学校での自分像ってものがあるはずなんだから。
 バスに揺られながら否定する。
 嘘だ。有沙にビジョンなんかない。理想があるから像が浮かぶんだ。在校中一秒たりとも自分を表に出さないよう努力している有沙に理想像なんかない。あったらいいなって、私がそう思っているだけだ。
 こないだ、茶屋で滝を見ながら有沙とお茶をした。前みたいに二人横に並んで座って。
 ママから聞いたいらない情報を有沙にシェアした。なんか二匹の狸が温泉見つけたって民話。
「知ってた? 湯河原って湯治場でもあったんだってさ」
 有沙の素の顔。
「湯治って?」
「長い間温泉に逗留して傷とか病気とか治すんだよ」
「おじいちゃんみたい」
「癒されたい」
「おじいちゃんみたい」
「うんまあ。たぶん、私、心はおじいちゃんなんだと思うや」
 未来とか見てないし。基本、現在にも期待してないし。そんなの老人だけの特権だ。
 あのとき有沙に相談された。
「何したらいいのかなぁ」
「え何が」
「文化祭」
「いやだから、いいんだって考えなくて。あんなの気にしなくていいんだって」
「でも」
「お人好しだなぁ……。私ならギリギリまで引っ張ってむしろあいつらを焦らせてやるのに。それでいよいよって時になって、『水飴屋』とか微妙な案出して奴らを混乱させてやるのに」
「私にそんな度胸はないよ」
「開き直っちゃえばいいのに」
 有沙に笑われた。
「それ、夏音が言うの?」

   *

 そして今日は私の番だ。有沙みたいに調和の美学は目指せないから、こっちはインパクト重視で行く。爆弾みたいな刺激と、ほかに何にも考えさせないガツンとした満足感で攻める。
 バス停から走ってきたからちょっとまだ息が整っていない。ハアハアしたまま油紙をガサガサ開いて、フワッと湯気が立ち上るのを確認して安心した。そのまま有沙に差し出す。
「さ。ガブッと」
 有沙のヤツ、大口開けるのが恥ずかしいらしくて戸惑ってる。私はやきもきする。これはね、一分一秒が命なんだよ。コロモがね、サクッといける瞬間は短いの。花の命といっしょなの。有沙の戸惑いをかき消すために、私は自ら率先して実践することにした。有沙に油紙を渡してもう一つをビニール袋から取り出す。バナナ剥くみたいに大胆に油紙ひっぺがして、そのままライオンの食事みたいに齧り付く。口の両側にコロモを溢れさせながら、一口でコロッケ半分にするのが礼儀ですって感じに潔く。そして顎を上げて噛む。噛む。胡椒が香る。あんまり噛み続けないで無理やり飲みこむ。喉がちょっとヒリヒリする。けどこれがウマい。
 半分になったコロッケを飲みほした杯みたいに誇らしげに示して、「ん」と促した。
 有沙が私を見て、半分になったコロッケを見て、それから目をつぶって口を開けた。はじめて歯医者さんにきた子どもみたい。そのまま顔の方を動かしてコロッケに齧り付いた。バクッって感じに。私はドキドキしてくる。有沙の小さな顎が上下に動いている。なんでかまだ目を閉じてる。熱かったのか、「ふぁ」とか言いながらちょっとだけ口を開けた。また閉じて、目も閉じたまま飲みこむ。
 勢い込んで尋ねた。「どうよ!?」
 目を閉じたまま、有沙が叫ぶようにして言った。
「おいしい!」
 よっし。でもちょっと違う。揚げたてサクサクのコロッケはね、おいしいんじゃないんだよ。ウマいんだよ。
「ソースとか付けてないのにすごく味がしっかりしてる! それにね、すごくお芋がホクホクして――」
「いやそういうのいらない。ウマいでいいんだよ。コロッケの味はそれが最大の賛辞」
 有沙がきょとんとしている。「そうなの……?」
「うん。だからやり直し。残り半分を一気に口に入れて……。行くよ」
 有沙と同時に大口開けて、残り半分を口の中に押し込んだ。クルミをため込んだリスみたいになりながら、ちょっと口の中火傷しつつ噛む。噛む。飲む。
 同時に叫ぶように言った。
「ウマい!」
 そして同時に笑い出した。「あははははは」

 私が有沙に提案したのは、ウエイター及びウエイトレス指名制の喫茶店だ。単なるコスプレ喫茶じゃ芸がないし、どうせならクラスの連中に一泡吹かせてやりたかったから。
「まずね、プロフィールシートを作るんだよ。そこに有沙がクラス全員の似顔絵を描く」
 有沙がびっくりしている。目を丸くしてそれから言った。
「私、描けるかなぁ」
「描けるよ。それで、全員にあだ名も付ける。これは私の仕事」
 有沙がクスリと笑った。受け入れてくれるかな。私の提案、有沙の心にちゃんと届くかな。
「でね、次にそこにプラスして設定を乗せるの。たとえばさ、有沙のイラスト見てお客さんが暖簾を指名したとするじゃない。そしたらね、暖簾はお客さんが選んだ設定に基づいて接客しなきゃならないの。そういうルールなの」
「どんな?」
「実は性別が逆とか」
「あはは」
「徹夜三日目とか」
「なるほど。そういうふうにキャラクター性を付加するんだ」
「そ。実は絶食一週間で、客に出す食べ物に飢えてるとか」
「あははは」
「それをね、自分のキャラクターを保ったまま演じさせるわけ。きっとウケると思うんだよ。お客さんもだけど、たぶん最も面白がれるのは私と有沙だと思うんだ。腹抱えて笑えるよ。あいつらがバカやる姿を合法的に見れるんだもん」
「おもしろい」
 口の中で言っている。「誰も嫌な思いしないし」
 そこは同意しかねるけど、私だって有沙がどういう人だかわかってきている。有沙は単純に相手を痛めつけるような作戦は好まない。こういう形なら、きっと心から笑ってくれると思うんだ。
「どうよ」
「うん。いいかも」
 さっそくスケッチブックを開いて、有沙が暖簾の絶妙な間抜け顔をさっと描いた。これもう私のスイッチだ。条件反射みたいに笑ってしまう。
「あははははは! そう、そんな感じのイラストプロフに描いてくんだよ。ウケるってこれ。絶対ウケるって!」
 有沙が自信なさげに「そうかなぁ」と口の中で呟いている。
 私はあっけらかんと「そうだよ」って断言する。自分のことは何一つ自信がないし、暗中模索で五里霧中すぎて常に溺れかけているけど、自分以外の人のことならわかる。これはいい。有沙は大丈夫な人だ。
「私が保証するって。いいセンスしてるよ有沙。大丈夫」
 そしたら有沙の頬が赤く染まった。桜の木の下で告られた少女みたいになって、私を見ないでボソリと言った。
「ありがとう。夏音」
 へへ。
 なんだろう。私、嬉しいかも。



   5

「やば。なんかちょっと楽しいかも。私、実はこういうの好きかも」
 茶店の軒先で有沙のスケッチブックにあだ名を書き込む。有沙はすごくて、宣言した通り、本当に三十人分の似顔絵を描いてきた。どれも見事に特徴を捉えていて、別に変顔とかしてないのに似てるってだけで笑える。声まで聞こえてきそうだった。
「じゃあ宮下くんは?」
「あー。あいつ、根暗なのに無理やり明るいキャラ装ってるからね。んー。あれかな。『楽屋で一人になったときの芸人』。鏡に向かって『おれの笑いはこれでいいのか?』とか自問自答してそうだからねあいつ」
「あははは」
「次は……、あー。さちっぱか。さちっぱは見た目大学生みたいだけど、心の中は五歳児だからね。オバケとか死ぬほど怖がるんだ。だからまあ、んー。『精神的幼稚園児』とか」
「あはは。ぽいね」
 有沙の指がスケッチブックの上を滑る。その指が次の顔を指して固まった。「あ……」
 次は近藤有沙だった。有沙がすごく微妙な顔をしている。笑ってるみたいな恥じているみたいな。有沙が自分で描いた似顔絵はデフォルメされた口裂け女みたい。実際はそこまで前髪長くないのに、髪で顔を隠して口元だけ妖怪みたいににんまりさせてる。有沙がうつむいている。何も言わなくなった。
 私は「ふむ」と思う。残念だ。私に絵が描ければいいのに。そしたら全力で、有沙の持ってる素材の味を表現してやるのに。
「銅でメッキされた金メダル」
 有沙がきょとんとした顔になった。次の瞬間に、ほろほろと顔を崩して笑顔になる。
「ありがとう」
「なにが? 褒めたんじゃなくてどっちかってと叱咤だよ今の。もったいないっての」
 声に出さずに呟いた。私は金メッキされた銅メダルだってのに。
 クラスの半分くらいに名前をつけてから、お茶を頼んで小休止することにした。
 今日は私がお抹茶を頼む。有沙は甘酒。
 似合わない。
「有沙さ。毎日ここに来てたのって、ホントは絵の練習じゃないんじゃない?」
 空を見上げて、私はアホみたいな顔のまま有沙に尋ねた。ずっと気になっていたことだ。
 有沙は口元を微妙に弛めたけど何も言わない。
「何しに来てたの?」
「夏音に会いに来てるんだよ」
「ううん。その前。ずっと来てたんでしょ?」
 有沙が笑顔の余韻で口を曲げたまま黙り込んだ。ゆっくりとペンをベンチに置いて、目を下に向けて、それから首も下に向けた。閉じたスケッチブックの上に右手を置いて私に言う。
「ちゃんと笑い飛ばしてくれる?」
 私は少しだけ真顔になる。
「ん。まあ、おもしろけりゃね」
「わかった。話すね」
「ん」
「あのね……。私……、お不動様に渡しに来てたの」
「え何それ。意味わかんないんだけど」
「ここのお不動さん、身代り不動だから」
「だから意味わかんないって」
 空笑いして誤魔化したけどそれだけで理解できた。きつい。有沙は、あの学校で過ごす毎日が死ぬほど嫌だったのだ。失くしたい記憶の連続だから、それを無かったことにするために、有沙は毎日ここにお参りしていた。毎日ここに来て、最悪な今日という日を、毎日お不動さんに丸投げしていたのだ。いじめられてるのは私じゃない。みんなに笑われたのは私じゃない。それはぜんぶお不動さんが引き受けてくれる。だから私は私じゃない。
 有沙は唇だけを曲げて、微笑みみたいな顔をつくっている。私はすごくつらい。
 喉がぎゅっと締まる。何だこれ。泣くな私。
「そうかあ」
「うん。引いたでしょ」
「大丈夫。引かないよ」
 だめだ。
 私を私たらしめている仮面がぐしゃぐしゃになる。喉がぎゅうぎゅう鳴ってひっくり返りそうだ。
 声をしぼり出した。
「そんなの……。みんな渡しちゃったら、空っぽになっちゃうじゃん」
 有沙が笑っている。
「あはは。そうかもね。でもほら、私、空っぽになりたかったんだ」
 ムリだ。
 内側から湧き出す液体のせいで瞼が閉じらんない。有沙に見られている。
 ごめん。有沙。
 みんな、自分が生き残るために必死だ。だから何をしても仕方ないって思っていた。誰だってそうなんだから、上手く生き抜くことが大切で、弱い人に情けをかけるなんておこがましいって思っていた。食べるために殺す獲物は仕方のない獲物だ。生きるためにすることは許されることだ。そう思っていたけど、私は楽な道を選んでいただけだった。ひどい目に遭わせた分、自分を嫌いになればつり合いが取れるって都合よく解釈していた。
 全部、私の罪だ。
 有沙に許してくれなんて言えない。取り返しがつくなら、お不動さま、私の今までの楽を取っ払って、有沙の苦と取っ換えてください。でもそんなことできない。元のままきれいに取り返しのつく事なんて、タイムマシンでもできない限り、この世の中に一つだってないのだ。
「でもほら、夏音に会えて、いまの私は楽しいよ。うれしいよ」
 私はずるい。
 有沙の胸に顔を埋めた。身勝手だって言われてもいい。加害者が被害者の胸で泣くなんておかしいって罵られても構わない。
「楽しい文化祭にしようよ」
 有沙は未来を語ってくれる。取り返しのつかない過去をつつくんじゃなく、どうにかなるかもしれない未来を語ってくれる。
 そこに私は救われる。
 鼻をぐしぐしさせたまま私は言った。
「私のあだ名、決めたわ。やっぱ私クソ虫だ。クソ界のエリートだ」
 有沙が私の頭に手を置いた。おばあちゃんみたいに撫でてくれる。
「そんなことない」
 ああ。
 有沙はなんて優しい。
「許して」
 有沙が私の背中をさすってくれた。耳元で小さく言う。
「うん。大丈夫。許す」
 バケツの水みたいに、有沙の言葉が私の胸をざあっと洗った。



   6

 暖簾が「そろそろみんなに企画を説明してくれないかな」ってニセモノのさわやかな笑顔で言って、今日のホームルームの議題が決まった。
 有沙が立たされて、六十個の目が被告人に突き刺さる。弁護人を装った検事の暖簾が偽の笑顔のまま続けた。「近藤さんらしい企画、期待してるから」
 五秒くらい固まってから、有沙は語った。不動滝で私と考えた企画。クラスのみんなのプロフィールシートを用意して、キャラクター設定をお客さんが自由に選べる精神的コスプレ喫茶。つっかえつっかえだったけど有沙は語った。クラス全員に聞こえるように、ゆっくりと、丁寧に。
 語り終えてもシンとしていた。何のリアクションも無い空間ってイバラ。有沙は立ったまま、誰の声もないから座ることすらできない。
 居た堪れなくて、私が何か言おうと思った。舞台に立たせるだけ立たせて、あとは放置ってどんだけだ。はじめから嫌いだったけど、暖簾のことが嫌いを越えてもう憎い。
 それでも最初に口を開くのは、決定権を持った暖簾なんだ。
「いや何その企画? 聞いてないんだけど」
 有沙が目を泳がせている。掠れた声でやっと言った。
「あの……、一任すると言われました」
「いやそんなの知らねえし。何勝手に進めちゃってんの? みんなどうよ? どう思うこの企画」
 聞こえてきた。「ない」「滑ってるって」「ありえなくね」
 暖簾の振った旗にみんなついて行く。煮えそうだ。何言ってんだこいつら。まさか最初から、有沙が何を提案してきても、「ない」で一致団結するつもりだったのか? 何もかも全部、有沙をクラスからハブるためだったのか。
 耐えられそうになかった。椅子を蹴って立ち上がろうとしたその時、
「成功させてみせます」
 有沙が言った。
 まっすぐに暖簾の目を見つめて。
「必ず盛り上げます。集客の方法も考えてきました。例年の来客者の客層もリサーチ済みです。昨年までで話題になった出し物の調査も済ませています。絶対に盛り上がるんです。約束します。みなさんきっと楽しめる。楽しい文化祭に、私がしてみせます」
 半分腰を浮かせたまま、私は固まっていた。有沙がクラスのみんなと闘っている。暖簾を押しのけて、クラス全員に近藤有沙を見せている。
 暖簾が少しだけ声を上ずらせて言った。腰が引けている。
「お前、何言って……」
 私も立ち上がっていた。
「私も、確約します」
 暖簾が、信じられないものを見る目で私を見ている。
「え……。夏音……?」
「有沙と私の二人で考えた企画です。絶対に成功します。大丈夫。いままで一度でも、譲原夏音が失敗したことある? 私が滑ったこと、一度だってありますか?」
 完全に勢いだった。これしかない。暖簾は私の生きるための道具。使ってやる。それがどんなに汚い行為だとしても、有沙と私が生き返るために、使えるものは何でも、使い切ってやる。
「のっくん。どうなの? 私の提案だよ? 受けるの? 受けないの?」
 どんどん語尾を強めながら言ってやった。賭けだ。暖簾がビビるか、私に乗るか。
 すごい静寂だった。三十以上の人間がいる教室が物音一つしない。暖簾の喉の鳴る音まで聞こえてきそうだった。
「ば……」
 暖簾の口が開いた。額から汗が垂れる。
「ばかだな。冗談だよ。最初から俺は、ヌー子の企画、いい企画だって思ってたんだ」

   *

「有沙、やるねぇ」
 滝を前に、体育座りの有沙が私を見ている。「そう……?」
「びっくりした。そんで、格好よかった」
 尻が冷たい。やっぱりこの場所、マイナスイオンでじっとりしてる。

 一人じゃないなら、もしかしてクマにだって、立ち向かえるのかもしれない。
 一人になるのが怖すぎて固まっていたけど、一人にならないってわかっているなら叫ぶことだってできるのかもしれない。

「夏音もすごかった」
 頬がヒクつく。マジどうしよう。後先考えずに行動するのって怖いな。でも無茶苦茶すっきりするな。
「はは。どうしよう。『確約する』とか叫んじゃったよ」
 でも言うほど後悔してない。むしろ何だこれ。すごく気持ちいい。今ならどんなに大きな声だって出せそう。空にだって届きそう。
「うわああ! ごめんなさい神さま! 私が最もクソなのにー!」

 日が暮れきるほんの少し前に、茶店に駆け込んだ。
 「もうお店、終わりなのだけど」という店員さんに頼み込んで甘酒とお抹茶をゲットする。
 これから始まるのに、すでになんだか奇妙な達成感。山の頂上で飲むコーヒーみたいに、意識を空に飛ばしたまま互いの飲み物を無心で啜る。
 二人並んで息をついた。
 なんでか言っていた。
「二匹の狸はさぁ……。どうして人間なんかに秘密の温泉を教えてあげたんだろね。なんで許しちゃうかな」
 有沙が私じゃなく、夕暮れの空を見ながら答えた。縁側のおばあちゃんの姿勢で。
「たぶん……、二匹だったからじゃないかなぁ」
 そう言って湯呑みを抱いたまま、眠そうに大口を開けてあくびをした。くわあって猫みたいなあくびだ。
「ああ」
 妙に納得してしまった。そういうもんかもね。温泉で傷が治ってもう痛くなくて、それで隣にいる人と、「いい湯だねえ」とか言って夜風に当たって、いっしょにご飯でも食べればもう怒れない。隣にニコニコした幸せそうな人がいるのに、自分だけ延々と誰かを憎み続けるなんてすごく疲れそうだ。できそうにない。
「ねえ有沙」
 眠そうな声が返ってくる。
「んんー」
「あのさ。ここでの私との時間ってさ」
「んー」
「お不動さんに、渡しちゃうの?」
「んーん」
 有沙がまたあくびをした。もごもご答える。「渡さないよ」

 私も何だか眠くなる。
 傷が癒えたら湯治は終わる。

 私たちには、友達がいる。


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