ランゲルハンス島奇譚 外伝(2)「もう一人の天使」

乙訓書蔵 Otokuni Kakuzoh

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一章

四節

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 事件から二日後の自宅謹慎の日、それは起きた。アメリアがトイレに入った時の事だ。

 ショーツを下ろした瞬間、彼女は愕然とした。クロッチが鮮血で汚れていた。

 月例行事が始まるにはまだ早い。つい二週間前に終ったばかりだ。

 心臓が早鐘を打つ。脳内で響く鼓動に思考を阻まれつつ、丸めたトイレットペーパーを股に当てると鮮血が滲んだ。

 どうして? どうして? 今までこんな事一度もなかったのに。アメリアの青白く光る瞳から涙が溢れ出る。

 きっとあの時男に下腹を蹴られた所為だ。子宮に当たった可能性がある。あの日からずっとお腹が痛かったもの。アメリアは唇を犬歯で噛み締めた。

 手当を終えたアメリアは締め付けられる胸を抱き、誰もいないリビングのソファに座した。自室に戻るのは心細かった。小さな空間で踞れば骨壺の底に押し込められた頭蓋骨のように、心が割れる気がした。誰かが隣にいれば少しは気が楽になったかもしれない。出血を相談出来れば安心出来たかもしれない。しかしこんな事言えない。こっそり医者に行けば事情を説明しなければならない。診せなければならない。嫌な想いをまた噛み締めなければならないのは辛い。

 しかし放って置く訳にはいかない。自分の体だもの。次の世代を残さないと死神は死を認められない。死の切っ掛けを与え、また魂の尾を体から切り離す仕事を永遠にしなければならない。

 アメリアの瞳から涙が溢れ出す。

 ……状況を把握しなきゃいけない。分からないのは恐い。分からないまま誰かを傷付けるのは恐い。でも最悪の結果を聞いて不幸の縁に立たされるのはもっと恐い。

 ──僕には子供が居ないからね。

 ローレンスのあの日の言葉がアメリアの脳内で甦った。

 人の死に関わる仕事を厭うが故に『自分の直系の子孫にはやらせたくない』と子孫を残さないローレンスの胸中はどんなものなのだろう。深く愛した者の存在を忘れ、人が死に絶えるまで人を導き、ハデスに仕えるローレンスはどんな気持ちなのだろう。

 アメリアは小刻みに震える。

 それを知るのも今の自分の体を知るのも恐かった。

 洟を啜り、膝を抱いていると玄関のドアが開く音がした。暫くするとリビングに書籍を抱えたローレンスがやって来た。

「ただいま。あれ……? イポリトかと想ったらアメリアだ。どうしたの? 出掛けるって言ってなかったけ?」

 穏やかに笑む青白い顔を見た瞬間、涙を塞き止めていたアメリアの下瞼が決壊した。

 幾筋も頬を伝う涙にローレンスは狼狽える。

「どっ……どうしたの? どうしたの、アメリア?」

 腰を屈めて顔を覗くローレンスにアメリアは首を横に振る。

「な……何でもないです」

「どうしたのアメリア?」ローレンスは眉を下げる。

 アメリアは涙を拭う。この間あれだけ庇って貰ったのにこれ以上迷惑なんて掛けられない。

「本当に……大丈夫です。何でもないんです」

「大丈夫なんて……そんな顔じゃないよ。話してくれないかな?」

 アメリアは首を横に振る。

「ハデスに何か言われた?」

 アメリアは首を横に振る。

「イポリトに?」

 アメリアは首を横に振る。長い髪が彼女の濡れた頬に掛かった。

「……苦しいだろうけど話して欲しいんだ。何か力になれるかもしれない」

 アメリアは首を横に振る。こんな事話せない。ましてや……この人には。

「……そっか。じゃあ落ち着くまで側に居ていいかな?」

 ローレンスは子供の頭を撫でるようにアメリアの頭を撫でようとした。

 視界に手の影が射した瞬間、アメリアの胸にあの日のローレンスの言葉が突き刺さった。

 ──僕には子供が居ないからね。

「あたし……子供じゃない!」眼を見開いたアメリアはローレンスの手を振り払った。

 驚いたローレンスは瞳を見開く。部屋は水を打ったように静まり返り、二柱は互いの見開いた瞳を見詰め合う。

 アメリアは声を失い戦く。

「あ……」ローレンスは手を引っ込めた。

 いつまでも状況を打開出来ない自分、大切な者に当たった自分を恥じたアメリアは家を飛び出した。



 行く宛のないアメリアは地下鉄のサークル線に乗っていた。

 シートの端に座し俯いた彼女の周囲では目紛しく人が乗降する。電車は地下を走っているが車内は同じ風景に留まらない。しかしアメリアは微動だにしない。人が行き交い時間が経過しても彼女の時間は止まったままだった。

 全てを考えるのが嫌になった。腹を蹴られた事、優しい師に辛く当たった事……。想い出すだけで胸が締め付けられ吐き気を催した。アメリアは思考の糸を切った。

 すると生きているけれども死んでいる、死んでいるけど生きている……自分でもよく分からない状態に陥った。ただそこにあるのは絶え間なく生命活動を継続する人体だけで、乖離した魂は細いへその緒のように自分の器に頼りなく繋がっている。……このまま意識が消えてしまえばいいのに。

 二時間も乗っていると車内を巡回する乗務員に声を掛けられた。『車庫に入るので居りて欲しい』と。よろめきつつも立ち上がったアメリアは降車する。そしてプラットフォームのベンチに腰掛けた。

 プラットフォームを後にするトリコロールの車体を見送っていると、眼前の風景を杖が両断した。

「こんばんは」

 声を掛けられたアメリアは顔を上げる。目前に佇んでいたのは先日の老婦人だった。

「……こ、こんばんは」

 消え入りそうな声でアメリアが返事をすると老婦人は微笑む。

「また会えて嬉しいわ、私の天使さん。隣に座っても?」

 独りになりたい、と想っていた。しかし秋に吹き抜ける夜風のようにしっとりとした声音にアメリアは安心する。彼女は小さく頷いた。

 老婦人は杖を支えに腰を下ろす。骨が浮き出た手をグリップから離すとパイプをにぎった。グリップの飾りが鈍く光る。シルバー製のフクロウの飾りグリップだ。

「貴女を探していたの」老婦人は俯いたアメリアの顔を覗く。微かにザクロのコロンが香った。

「……先日はすみませんでした」足早にその場を離れた非礼をアメリアは詫びた。

「謝らないで。助けたのに謝るなんておかしい話よ。お礼を押し付けようとしたおばあちゃんが悪いの」

「……お金は……受取れません」

 老婦人はシトリン色の大きな瞳を瞬かせると微笑み溜め息を吐く。

「誤解させてごめんなさいね。ハンカチに包んでいたのは薬なの。……ほら貴女、泥棒にお腹を蹴られたでしょ? 心配だったの。大丈夫?」

 驚いたアメリアは顔を上げた。見ていたんだ。……それで心配してくれてたんだ。なのに『お金』だと思い込んで無碍に断ってしまった。

 微笑みつつも自分を案じる優しい老婦人にアメリアの涙腺は熱を帯びる。鼻を腫らしたアメリアは涙が出ないように両手で目頭を押さえた。

「おばあちゃんの所為で恐い思いをさせてしまったわね。ごめんなさい」

 アメリアは首を横に振る。喉の奥がツンと痛くなり声が出ない。

 老婦人はアメリアの背を撫でた。

「あたし、を、探してた、ですよ、ね?」涙を堪えるアメリアは声を振り絞り問うた。

「どうしても気になって。嫌な事を想い出させてごめんなさい」

 アメリアは首を横に振る。

「顔……見た、安心した。ありがと、御座います」

 微笑んだ老婦人はアメリアの頭を撫でる。

 憔悴するアメリアを宥めた老婦人はエスターと名乗った。その名の通りシトリン色の瞳は星の輝きのようで、高齢にもかかわらずシャンとした背筋は帚星の軌跡のように真っ直ぐだった。年齢を重ねた面立ちはただ年月を過ごしていた訳では無い事が一目で分かる。皺こそ刻まれているものの表情には知性と美が染み渡っていた。

「いつもは車で移動しているのだけど、あの日は運転手が暇を取っていたから久し振りに地下鉄に乗ったの」

「……そうだったんですか」

「もう一度貴女に……天使みたいなアメリアに会いたくてこの駅で待っていたの」

 顔を上げたアメリアは周囲を見渡す。タイル地の壁に貼り出された駅名看板は先日の駅と一緒だ。

「あの日と同じ駅……」

「時間あるかしら? 家でお礼をしたいの」

 アメリアは首を横に振る。

「そんな資格は……あたしにはありません。それに天使でもありません」俯くと下腹が見えた。不正出血を想い出した。

「お礼を受けてくれると嬉しいんだけど……ダメかしら?」

 エスターはアメリアの小刻みに震える拳に手を添えると両手で包み込んだ。

 ほんのりと温かい小さな手に包まれたアメリアの胸がじんわりと温かくなった。頬を染めたアメリアは戸惑う。

「あの……そ、の。えっと……」

 もぞもぞと膝をすり合わせるアメリアにエスターは微笑む。

「美味しいお茶とお菓子を用意したの。ちょっとだけでも召し上がってくれると嬉しいわ」

 はにかむアメリアは一度だけ頷いた。

 地下鉄から地上に出ると、目前に横たわる大通りには黒いファントムが停まっていた。エスターの姿を視認した老年の運転手はファントムから出ると白い手袋を嵌めた片手を胸にお辞儀をする。

「待たせましたね。セイリオス」忠実な運転手にエスターは微笑むとアメリアを見遣った。

 リムジンを見詰めるアメリアの大きな瞳は更に見開いていた。イポリトが観ていた映画に登場する車に似てる。あたしが生まれる……ううん、母さんが生まれるずーっと前の映画。思わず『かっこいい。乗ってみたいな』って言ったら『一台で家が買えるぞ。金持ちから盗って来るか』って冗談飛ばしてた。富豪が乗るくらいなんだし、エスターさんの身形もかなり上品だし……もしかしてとんでもない家……ううんお屋敷に招かれるのかな?

 口を開き惚けたアメリアにエスターは淑やかに笑った。

「古い車だから驚かせちゃったわね」

「凄い車……お金持ちの車。ドア開けるのが恐いくらい。あたし馬鹿力だから壊しちゃったらどうしよう」アメリアは手で口を覆った。

 すると静かに笑んだセイリオスは恭しく後部座席のドアを開ける。アメリアの頬は瞬時に上気した。
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