ランゲルハンス島奇譚 外伝(2)「もう一人の天使」

乙訓書蔵 Otokuni Kakuzoh

文字の大きさ
16 / 23
二章

九節

しおりを挟む
「泊まって行けば? 雨止んだようだけど日が落ちたから走り辛いでしょ?」服を纏い、ピンクのガウンを放ったイザベラは化粧水を付ける。

「んー……明日は予定が詰まってるから帰らなきゃ」バスタブから上がりマットで足を拭いたアメリアは乾燥機に掛けてあった白いガウンを羽織った。

「そう……」瓶のキャップを閉める手を止めたイザベラは俯いた。

「また遊びに来させて。レオが居ない時に」アメリアは悪戯っぽく微笑んだ。

 乾燥機に掛けていた服を着るとアメリアはイザベラとアドレスの交換をした。その際『友達じゃないからね』と念を押されたが、微笑んで頷いた。

「見送る」イザベラは洗濯機に立てかけていた杖を握った。

「大丈夫だよ。暖気するから時間かかる。湯冷めしたら風邪引いちゃう」

「家に招いたのは私。客を見送らなければ無礼でしょう?」

 アメリアは微笑む。

「少し元気出たみたいで良かった」

 イザベラは眉を寄せる。

「何? 急に年上ぶってムカつく」

「いつものイザベラに戻った」

 悪戯っぽく舌を出したアメリアは浴室を出ると階段をゆっくり下る。階下は玄関がある。一軒家にも関わらず浴室と玄関が割と近いお蔭で廊下を派手に濡らさずに済んだ。

 イザベラはアメリアの後を追うように手すりを片手で掴みつつゆっくり階段を下った。

 慣れた家の中とは言え杖を突くイザベラが気になる。アメリアは耳を澄まし階段を下る。規則正しい音が背後から響いていたが突如止まった。

 アメリアが振り返るとイザベラが目をこすっていた。

「どうしたの?」

「かすむ」手すりを掴んだイザベラは杖を握った手で瞼をこする。

「疲れ目? 本の読み過ぎ?」

「大丈夫。時々起こるヤツだから。直ぐに治まる」

「時々って……眼医者かかった方が良くない?」

「民間療法に頼るこの国じゃこれぐらいで行ったら笑われるだけ」鼻を鳴らしたイザベラは瞼から手を離すと、杖の先を階段に付けた。

 小さな溜め息を吐いたアメリアは前を向く。そして下ろうと右足を階段から離した。

 その刹那、鍵を差し込む音が玄関から響いた。

 驚いたアメリアは段を踏み外す。バランスを崩し階段を転げ落ちた。

「アメリア!」

 イザベラの叫び声が響き渡る。緋色の絨毯に覆われた階段にアメリアの体が打ち当たる。痛みを堪えたアメリアは手すりを支える木製の柵を片手で掴む。

 肉塊が階段を打ち付ける音が止んだと同時にイザベラの叫びに驚いたレオが玄関のドアを開けた。

 痛みに表情を歪めつつもアメリアは笑みを作り、親指を立てた。

 イザベラは胸を撫で下ろすが、瞳を丸くしたレオが階下に佇むのを見て眉間に皺を寄せた。

「怪我は?」ブリーフケースを放ったレオは階段を昇り、アメリアの側に寄る。

「だ……大丈夫です。勝手に上がってごめんなさい」身を起こしたアメリアは眉を下げた。

「私が上げたの。ずぶ濡れだったから」イザベラは段の下で屈むレオを見下ろした。

「友達を……捨て犬のように言うね」レオは苦笑する。アメリアは口をへの字に曲げた。

「友達じゃない。アメリアとは友達になるなってレオも言ったでしょう? それにもう帰る所。うるさいのが戻る前に帰そうとしてたのに不意打ちするんだもの」イザベラは鼻を鳴らす。

 苦笑を浮かべたレオはブロンドを搔き上げる。

「当人の前で……。馬鹿正直と言うか無礼と言うか」

「父親ぶらないで」

「はいはい」

 眉間に皺を寄せるイザベラと呆れ笑うレオを余所にアメリアは立ち上がろうとするが痛みに表情を歪めた。幸いな事に骨折や捻挫の痛みではない。しかし体中を打った。アメリアは奥歯を噛み締めて立ち上がった。
 それを眺めていたレオはアメリアを制した。

「無理に動かない方が良い」

「ただの打ち身です。大丈夫」

「表のバイクは君の?」

「はい」

「今日は泊まりなさい」

「でも……」アメリアは俯く。明日からまた仕事をしなければならない。それに自分を快く想わない者の家だ。長居しては迷惑になる。

「そんな体で高速に乗って首都へ戻るなんて危険だ。言う通りにしておきなさい」レオはアメリアを見据えた。

「……首都に家があるって……どうして」驚いたアメリアは顔を上げる。

「イザベラと移動する際に車窓から君を見かけたんだ。イザベラの知り合いだと知ってね。軽装だったし路地裏も知っている風だったから近くに住んでいるのだろうと想ってね」

「路地裏って」

「花束を持った長い黒髪の男性を引っ張って行っただろう? 渋滞に巻き込まれていたから見えたんだ」

「『見えた』んじゃなくて『見ていた』んでしょう?」イザベラが茶々を入れる。

 レオは両肩をすくめて悪戯っぽく微笑んだ。

 長い黒髪の男性、花束、路地裏って……。アメリアは青白く光る不思議な瞳をぐるりと動かし思案する。あの日の夕方の事だろう。

「ああ……。父さんか」アメリアは独りごちた。

 驚いたレオとイザベラは互いを見合わせると直ぐに視線を外した。

「お父さんだったのか……。随分と若いね」レオは苦笑する。

「よく言われます」

 レオは懐から名刺を取り出すとアメリアに差し出す。

「お父さんに連絡しなさい。今日はここに泊まるって。弁護士の家に泊まると言えば安心するに違いない」

「こんな時だけね。弁護士って職業が物を言うのは」イザベラは鼻を鳴らした。



 レオが用意した夕食を馳走になった後、アメリアはリビングでイザベラと推理ゲームをして過ごした。しかしイザベラの瞼が重い。暖炉の火に照らされた彼女は舟を漕ぐ。

 テーブルで書類を整理していたレオは『風邪を引く』とイザベラを起こす。しかしイザベラは余程眠いのか直ぐに瞼を下ろす。見かねたレオは彼女を抱き上げると寝室へ連れて行った。

 レオの背を見送ったアメリアは暖炉で揺らめく炎を見詰め、小さな溜め息を吐く。

 この国へ来て余所の家に泊まるのは初めてだな。……エスターおばあちゃんのお屋敷で眠った時でさえ泊まらなかったもの。だのにあたしに良い想いを抱いていないレオは泊めてくれた。

 あれだけ可愛がってくれたエスターは何故泊めてくれなかったのだろう。……こんな事を想うのは図々しい。だけど少しでも共に居たいのなら泊めても不思議ではない。『夜は仕事があるから』とエスターは必ずあたしを帰していた。……引退した大女優……高齢の女性が夜にどんな仕事をしていたのだろうか。

 ぼんやりと炎を見詰めていると、火が爆ぜた。

 驚いたアメリアは両肩を瞬時に上げる。

 すると背後からくすくす、と抑えた笑い声が響いた。

「まるで猫だ」レオの声が響く。

 振り返ったアメリアは眉を下げた。

「イザベラが君を好くのが分かるよ。彼女は猫が好きだからね」

 アメリアは唇を尖らせた。自分を疎ましく想う人間に泊まらせて貰っている以上、文句を言えない。

 レオはマントルピースの置き時計に視線を遣りつつソファに腰掛ける。

「疲れ易いみたいでね。最近は八時過ぎでも眠くなるらしい。『こんな時間に眠くなるなんてガキ臭くて嫌だ』と愚図っていた癖に君が居ると素直に寝た。助かるよ」

「精神的にも疲労してるんじゃ?」アメリアは問うた。

 髪を搔き上げたレオは瞳を伏せる。

「……仕事で失敗してね。それを引きずっているらしい。心が疲れると肉体にも影響する。体調が戻ればまた復帰出来るさ」

「そればかりとは想えません。このまま仕事を続けるとイザベラは命を落としかねない」アメリアはレオを見据えた。

 冷たく響く若い女の声にレオは視線を上げる。

「……色々と抜きで話したいって事かな? 死神のお嬢さん」

 アメリアはレオを睨みつけた。レオは足許を見遣り、ふと微笑んだ。

「……撤回するよ。猫じゃない。小さなライオンだ」

 アメリアは視線を外さない。やはりレオはあたしの正体を知っていた。しかしイザベラには話していないし、口外する気は今の所無いようだ。何を想って口外しないのだろうか。

「レオさん」

「レオ、でいいよ」レオは苦笑を浮かべる。

 アメリアは小さな溜め息を吐く。

「レオ。あなたはあの時……死体安置所に居た時あたしが見えていたの? 何故あたしの正体を知っているの? 何を想ってあたしの正体を黙っているの? どうしてイザベラからあたしを遠ざけようとするの?」

「ぼんやりとした娘だと思いきや、結構しっかりしているんだね」腕を組んだレオは喉を小さく鳴らして笑う。

「答えて!」アメリアは睨みつけた。

 真顔に戻ったレオはアメリアを見詰める。唇を震わせたアメリアはレオから視線を外さない。

 レオは穏やかな笑みを浮かべると左眼に手を充てがった。そして眼球を摘まむと指を外す。

 レオの左眼を見たアメリアは言葉を失った。レオはアメリアと同じ色の左眼を伏せ、指先に乗った密色のカラーコンタクトレンズを見下ろす。

「左眼だけの不完全な遺伝だ。俺は死神として半端者、人間としても異質な者なんだ」

 レオは昔話を紡いだ。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

処理中です...