ランゲルハンス島奇譚 外伝(2)「もう一人の天使」

乙訓書蔵 Otokuni Kakuzoh

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二章

十一節

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 左爪先が小刻みに揺れる。

 判決の日、人で埋まる傍聴席に座していたレオは一人、貧乏揺すりをしていた。本来隣に座すべきザックは心労で倒れてしまった。

 傍聴席に座し、また通路を移動する者は口々に判決の予想を零す。普段、そんなノイズを気にしないレオは無責任で勝手な予想にさえ苛立っていた。

 質素な椅子に座したレオの視線は法廷を向いていた。……いや彼は睨んでいた。

 頭の片隅で声が響いた。無責任に太った伯父の声だ。『みっともない真似はやめろ』と忠告する。

 父を失い、家を失い、幼きレオは母の胸にさえ安らぎを求める事は許されなかった。貧乏揺すりをしている間は心が落ち着いた。伯父に『顔と若さに似合わぬ癖は直しておけ。困るのはお前だ』と幼い頃に矯正された。しかし敗色が濃いのにどうやって心を落ち着けられるだろうか。

 矯正した筈の貧乏揺すりしか安定剤がない事にレオは苛立った。黴臭い伝統に乗っ取り白いカツラと法服を纏った判事や弁護士にも、自分と法廷を隔てる木の柵にさえも……。

 ダメだ。気が狂って暴れそうだ。

 長い溜め息を吐いたレオは心を落ち着ける為、カフェで擦れ違った『風』の正体について考えを巡らせる。……優しくて心地の良い風が頭を撫でた、とザックは言っていた。しかし俺には軍人のように体格の良い男が通り過ぎたように見えた。ちら、と一瞬だが青白く光る不思議な瞳を嵌めていた。……そうだ。それこそ、親爺が死んだ日に現れたあの母子のような瞳だ。

「……死神」

 レオの口を突いて出た言葉に隣に着席していた傍聴人は振り返る。

 我に返ったレオは掌で口を覆うと咳払いする。傍聴人は暫し訝しげにレオを見詰めると何事もなかったように居住まいを正し、カバンから手帳を取り出した。

 溜め息を吐いたレオは再び考えを巡らせる。幾度となくあらゆる可能性を考えるが行き着く先は同じ答えになる。

 レオが唇を噛んでいると法廷が人の声で賑やかになってきた。

 メディアでもこの事件を大きく取り上げている。故に傍聴席や記者席は既に埋まっていた。

 電波時計を見遣ると丁度二時を指し示す。

 判決を見届ける者全員が着席する。警備員により重厚な木の扉が閉められる。話していた誰もが口を噤んだ。ノイズだらけの法廷が水を打ったように静まりかえる。舞台の役者は全て揃った。するとレオは背後で風が吹き抜けるのを感じた。扉が開いたのだろうか?

 振り返るがそこには誰もいない。法廷の外で佇む警備員が開閉したのだろうか? 傍聴席が全て埋まる程の法廷だ。席を確保する為に抽選をする程だった。対岸の火事を眺める野次馬ばかりだ。胸糞悪い。しかし数々の裁判に遭遇した警備員でさえ興味を持つのは吝かではない。

 再び法廷を見据えると刑務官に付き添われたボリスが被告人席に上がっていた。

 レオは表情を顰める。

 弁護席ではデスクに両肘を突き、手を組む弁護士が険しい表情をしていた。やれる事はやった。出す切り札も出した。しかし結果は変えられそうにない。一人の善良なる男の人生を奪ってしまう。……後悔と運命、そしてこの法廷の全てを呪う表情だった。

 ボリスを救えずに苦しむのは俺やザックだけじゃない。

 判事が開廷を述べる。奥歯を噛み締めたレオは傍聴席に背を向けたボリスを見据える。するとボリスの側に異質な男が佇むのが見えた。

 黒装束の男だった。黒い法服は判事も弁護士も纏う。しかし法廷関係者の風体ではない。黒いトレンチコートを纏った長い黒髪の男だった。酷く痩せている。エノキ茸のようだ。真後ろに男が佇むとボリスの体型が目立った。男と比べると中肉のボリスが肉付き良く見える。黒装束の男の右手は爛れていた。

 闖入者に驚いたレオは思わず短い声を上げる。

 しかし判事を始め、検察官や傍聴人達に睨まれる。

 レオは筋骨張った手で開いた口を抑えた。何故俺を睨む?

 判事がボリスに最後の質問をしている最中、レオは周囲を見渡す。しかし誰もボリスの背後に佇む黒装束の男について声を上げる者は居ない。

 何故皆男に気付かないのか? いや、居るのが当然と受け止めているのか? 関係者なのか? しかしそんな話、聞いた事が無い。今日までの法廷であんな男一度として見た事がなかった。あいつはボリスに何をする気だ?

 背から嫌な汗がふつふつと湧き出る。爛れた右手に巻き付けていただろう包帯をポケットに仕舞う男の背をレオは睨み続ける。

 すると視線に気付いたのか男が振り返った。レオは息を飲んだ。

 幼き日に見た母の顔を想い出した。男は青白く光る瞳を嵌めていた。隈が濃い両眼窩に青白く光る不思議な瞳を嵌め、包帯が解けた右手からは爛れた皮膚が覗いた。

 レオは一瞬で解した。彼は死神である、と。父に『死』を与えた母と同じ死神であると。

「死神! ボリスに何する!?」

 叫んだ瞬間、レオは席を立ち上がると柵をひらり飛び越えボリスに突進する。レオの暴挙に一同が眼を見開く。ある者は声を上げある者は言葉を失い、ある者は理解出来ずに笑い出す。驚いたボリスは思わず後退った。

 被告人席の側に控えていた刑務官が慌ててレオを取り押さえようとする。しかしレオはそれを振り払う。

「ボリス! 逃げろ! 死神はお前を殺るつもりだ!」

 刑務官に行く手を阻まれつつもレオは叫ぶ。必死だった。ボリスを殺されるかもしれない瀬戸際だ。普段囚人達の監督をする刑務官二人を振り払う程に人智を超えた力で彼は動いていた。

 力の限り足掻くレオの視線の先に死神は居ない。法廷の誰もが、レオが誰もいない場所へ暴言を吐いているようにしか見えなかった。

 一同を始め、判事もボリスもレオの奇行をまじまじと見詰め、ざわめく。

 右手の爛れた皮膚を空気に触れさせている間は姿が透過する。普通の人間には自らの姿は視認出来ない。死神の男は自分を視認するレオに驚いた。

 レオは刑務官の縛を振り切ると死神の男の襟首に掴みかかる。

 華奢な男は瞳を見開く。そして眉を下げるとレオの手を外そうと白い左手を伸ばす。

 レオはそれを許さず罵声を浴びせつつも幾度となく男を揺する。

 しかし周囲の者の視点ではレオは殺陣を独演しているようにしか見えない。いや殺陣ですらない。狂人そのものだった。

 刑務官だけでは埒が明かない。判事は警備員を呼ぶ。

 警備員三人と刑務官二人に取り押さえられたレオは法廷から引きずられて行く。レオは暴れ、ボリスに『逃げろ』と叫び続ける。

 法廷を後にする彼の青白く輝く不思議な片眼にはボリスと共に眉を下げ自分を見詰める死神が映っていた。

 法廷を追われたレオは数年後、弁護士として法廷に戻った。ボリスとザックから遠ざかりたく、我武者らに勉学に励んだ。無実の罪でボリスを奪われ心労により死んだザック、最愛のザックの死を知ったその日に獄死したボリス……二人の友人の死はレオには重過ぎた。レオは二人の全てから逃げた。法廷に戻ると刑事裁判を担当した。罪科の有無、刑期の長短を取り扱う方が戦い易いからだ。勝ち負けが明確に分かる。

 それに刑期を含む命のやりとりの現場に立ちたかった。特に終身刑を科すか否か、という場に居合わせれば死神に遭遇する確率が高まる。閉廷後、後を追いかければ捕まえられるかもしれない。しかしレオが法廷に臨んでもあれ以来死神に遭遇する事はなかった。

 仕事はやり辛いものだった。騒動を起こしたレオは有名になっていた。嫌がらせを幾度か受けたが毅然として跳ね退け法廷で勝負を挑んだ。

 マイノリティの権利を主張するよりも検察と睨み合い被告人を弁護する方が気は楽だった。存在を無視された権利に力を持たせるには莫大な労力と知力を要する。それ以上に死神の存在の証明は難しかった。

 刑事裁判を担当しても尚、レオは疲れ切っていた。

 法廷でしおらしい態度をとっていても接見の際に被害者を小馬鹿にする被告人も居る。僅かでも減刑されたいが為にレオに縋るのだ。依頼を受けた以上きっちりと仕事をこなしたが自分の生き方、そして被告人の生き方についてレオは常に疑問を抱いていた。

 俺は何を救いたかったのか?

 法廷で反省面を下げ、裏では赤い舌を覗かせる被告か?

 自分か?

 自分を救いたいなら何故刑事裁判へと逃げた?

 死神も見つからず、今ではどうでもいいとすら想っている。法と掟の女神のように眼が見えなければこんな想いはしなかったのかもしれない。

 ザックとボリスから逃げ、声無き者の声すら代弁出来なかった。……俺は何をしたかったのだろう。このままではいけない。……ザックとボリスに合わす顔がない。

 事務所を立ち上げて数年後、仕事が軌道に乗ると漸く自分の時間を作れた。毎月、ザックとボリスの墓参りをするようになった。

 同性故に籍を入れられなかった二人は別々のセメタリーに埋葬されていた。それを知ったレオは同じ墓地の隣同士に再埋葬してやった。

 血が繋がっている訳でも夫婦だった訳でもないが『家族』であったからこそ共に葬った。

 二人の墓にユリを手向ける度にレオは奥歯を噛み締める。

 やるせなかった。

 家族である二人を失っても、戦えない自分が酷く惨めだった。他者の命を奪う死神と視線が合ってもただその仕事を眺めるしか出来ない自分に腹が立った。何よりも『逃げた』自分が恥ずかしかった。

 長い溜め息を吐いたレオは踵を返す。すると人の声が微かに聞こえた。

 レオは耳をそばだてる。墓石の裏の茂みからだ。

 故意に足音を立て遠ざかった振りをしたレオは木陰に身を潜めて茂みを注視する。すると長いプラチナブロンドが見えた。少女の背中だ。どうやら踞っているらしい。具合が悪いのだろうか。声を掛けようとしたが少し様子を伺う事にした。

 少女は子猫の死体を芝に伸べていた。

 埋めるつもりなのだろうか? ペット可のセメタリーではないので埋めるなら止めなければならない。レオは眼を細め注視する。

 死後硬直が解けたであろう子猫の死体に少女は手を差し伸べると瞼を閉じた。

 その瞬間、レオは自らの眼を疑った。

 白眼を向き少女は小刻みに震えたかと想うと、老人とも男ともつかぬこの世ならざる者の声を上げた。余りにもしわがれた声を発するので何を言っているのか理解出来ない。

 鼻の頭や掌に沸々と湧いた汗、渇いた喉に貼り付いた舌根にも気付かずにレオは少女の『儀式』を見守った。



「それからだよ、イザベラに興味を持ったのは」

 昔話を紡ぐ間に用意したショットグラスを傾けレオは静かに笑む。彼はアメリアにもウィスキーが満ちた杯を差し出したがアメリアは首を横に振った。

 レオはショットグラスを呷る。

「彼女は救世主だ。彼女の力を利用する事で……声無き者の声を聴く事で自分も救われた。……ザックとボリスの声を聴いて貰おうと探した。しかし彼女の出生を知ると諦めた。余計な重荷を背負わせるからな。あの日の十字架は俺が背負っていれば良いだけの事だ」

 鼻を鳴らしたレオはグラスにウィスキーを注ぐ。

「一度はこの忌々しい瞳を潰そうと想った。だが彼女を死神から護るべく嵌めている。イザベラがいなければ俺の正義は成り立たない。だから死神である君を遠ざけようとした」

「……イザベラはあたしが死神だって知っているの?」

「いいや。余計な事を話すつもりは無い。……ザックが言っていたからね。『死神に愛されると何かを持って行かれる』って。正体を確信出来た頃はもう手遅れだった。……俺も死神に関わって人生の時間を随分と持って行かれたからな。知らない方が幸せな事もある」

 アメリアは黙した。

「セメタリーで出会った後、イザベラを尾行《つけ》てね。彼女が孤児院に居る事を知ったんだ。興味を持った俺は彼女の身辺を洗った。……ザックとボリスから逃げた俺に天罰があたったよ。イザベラは……ボリスの子供だった」前髪を搔き上げたレオは鼻で笑った。

 アメリアは瞳を丸くする。レオは苦笑を浮かべる。

「そりゃ俺だって驚いたさ。あれだけ仲が睦まじいにも関わらず女性のパートナーが居たとは、と呆れた。しかし不倫等その手の下衆なモンじゃなかった。同性愛故に籍も入れられない、社会保障も受けられない彼らとて心は同じだ。愛し合えば子供を欲すカップルは多く存在する。……俺が二人に可愛がられていのはきっとそんな理由だろう。……子供好きのザックに知られないようボリスは秘密裏に代理出産を頼んでいた。サプライズだったんだろうな。イザベラはボリスの娘だよ。ボリスが獄死した後に彼女は生まれた。引き取り手が無い故に孤児院に入れられた訳さ。これはイザベラも知らない話だ。俺が彼らから遠ざからなければもっと早く引き取れただろうに……。彼らを偲ぶ度に罪の意識に苛まされる」

「……いつか全てを話すの? それともザックとボリスの墓に連れて行くつもり?」アメリアは問うた。

 レオは曖昧な笑みを浮かべる。

「何故?」アメリアは問い返す。

「迷っている。……いや、未だに逃げているんだ。……いつか心の準備が出来たら彼らの墓に連れて行こうと想ったが、臆病な俺は結局逃げ切ってしまったな。仕事で必要なんてのはただの口実だ。イザベラにこれ以上仕事をさせるつもりは無いし、彼女が続けたいと言っても止めるつもりだ」

 アメリアは眉を下げた。

「逃げる事は必ずしも悪くはない。しかし逃げてはならない事もある。……俺は逃げてはならない事から逃げた。そして今も新たな問題から……」

 長い溜め息を吐いたレオはブロンドを掻き毟った

「そうやってまた逃げるの? イザベラはレオの為に命を削っているのよ」アメリアはレオを見据えた。

 鼻を鳴らしたレオは悲しげに笑みを浮かべる。

「手厳しいお嬢さんだ。……賢いイザベラは既に気付いているのかもしれない。……もう直ぐ彼女は死ぬ」

 アメリアの瞳が見開いた。彼女が問う前にレオは言葉を紡ぐ。

「出来損ないの死神の癖によくそんな事分かる、なんて想っただろうね。……ここ数年、彼女はゆっくりと体を悪くしている。生まれついて脚が悪かった。能力を使い出してから視力が落ちた。頻繁に眼をこする。最近免疫も落ちて来たのか床に伏せる日も多くなった。……そこに君がふらりと現れたんだ。死神に魅入られた。死期はもう近いのだろう?」

 アメリアは答えに窮する。人間に死期を伝えてはならないし、ましてや見習いの身だ。特定の個人の死亡予定時期なんて調べる術も無い。瞳をぐるぐると動かしたアメリアはやっとの想いで話題を変える。

「だったら……だったら、どうして打ち明けないの? イザベラは本心を隠す娘だけど、誰よりもレオの存在を望んでいるもの」

「……死神になり損ね、養父にもなり切れない俺が胸の内を伝える資格なんてあるか? 俺はそんな立派なモンじゃない」

「立場がどうのって話じゃない。分からず屋。言えるなら言いなさいよ」

 アメリアはレオを睨みつける。

「あたしだって……子供よ。イザベラと同じ。母さんだけの片親だったわ。……今は父さんと暮らしているけれども心が通じてないの。優しくしてくれても親切にしてくれても父さんはあたしを『何処かの大事な娘さん』としか想ってない。あたしが『父さん』と呼ぼうがどんなに慕おうがダメなの。……あたしから打ち明けてはならないって厳命されてるから」

 レオは眉を下げた。いつのまにか涙が滲んだアメリアは瞼を拭う。

「言える内が華よ。言葉にして伝えられる内が。……態度だけじゃダメな事だってあるんだから」

 アメリアの啜り泣きがリビングに響く。レオは長い溜め息を吐くと彼女の肩にブランケットを掛けてやった。

「……そんな勇気があればどんなにいいか」

 翌朝、アメリアはイザベラに挨拶もせずに彼女の家を後にした。
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