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二章
五節
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今日は悲しい話を聞いた一方で嬉しい事があった。提案した式場の装飾が新婦に気に入られ一発でOKを貰えた。仕事を評価されるのは嬉しい。初めての事だった。
今日はフォスフォロがベッドを使う番だ。クチバシ医者はカウチに座してピューロで花の装飾の案を練り直していた。ベッドから寝息が聞こえる。
もっと気に入られたい。仕事にやり甲斐を感じた。クチバシ医者はランプシェードの下でペンをとる。しかし疲れていたので意識が朦朧とする。瞼が重い。
クチバシ医者は瞳を閉じた。夢へ引き込まれていった。
オリーブの樹が生い茂る広場でクチバシ医者は項垂れていた。頬を伝った涙が地面を濡らす。どうやらまたマスクを着けていないようだ。
今日も散々だった。昨日も散々だった。一昨日も一昨々日もずっとずっと……。これからも尚、苦しみが続く。それでも責務を果たさなければならない。例え生を弄ばれても。自分だけに課された使命なのだから。
長い溜め息を吐き、顔を上げると白い子猫が佇んでいた。広場に顔を出しては餌を与えていた。母猫を亡くした子猫だ。家で世話をしてやりたいが多忙で責任が取れないと、飼うのを諦めていた。クチバシ医者は涙を拭うと子猫に手を差し出した。
「おいで」
子猫はにぃ、と鳴くと近寄る。クチバシ医者は子猫を抱き上げると頬に寄せた。子猫は嫌がるでもなく喜ぶでもなく、身を任せる。クチバシ医者は濡れた頬で子猫の体温を感じ、小さな溜め息を吐いた。
「……君は暖かいね。小さな心臓が一生懸命動いてる」クチバシ医者は頬から離した子猫を見つめる。
琥珀色の大きな瞳の子猫はにぃ、と鳴いた。
「偉いね。昨日も一昨日も懸命に生きて。こんなに小さいのに。僕とは大違いだ」クチバシ医者は子猫の耳の裏を掻いてやる。子猫は気持ち良さそうに眼を細めた。
クチバシ医者は子猫を地に下ろすと、懐から餌を取り出し子猫に差し出した。しかし子猫は食べない。
「……お腹空いてないの?」
クチバシ医者を見上げる子猫はにぃ、と鳴く。
胸に暖かいものが広がるのをクチバシ医者は感じた。今まで餌を食べる為に来てくれていると想っていたが、そうではなかった。僕に会う為に来てくれたんだ。友愛を感じたクチバシ医者は子猫を再び抱き上げた。
「ありがとう。友達でいてくれたんだね」
子猫はクチバシ医者を見つめた。琥珀色の大きな瞳に小さなクチバシ医者が映る。
「……本当は君に名前を付けて一緒に暮らしたいんだ。でも君は僕よりも先に死んでしまう。僕は君の死を受け止められそうにないんだ。……僕はとても弱虫で腕に抱えているもので一杯一杯で……だから……ごめん」
クチバシ医者は洟をすする。瞳が潤む。ダメだ。友達の前で泣くなんて。
子猫はにぃ、と鳴くとクチバシ医者の指を舐めた。
「……弱くてごめんね」
涙を流したクチバシ医者は溜め息を吐くと顔を上げた。
広場の一番大きなオリーブの老木の下では男達が集まり哲学や文学を論じ、その側では子供達が追いかけっこをして遊んでいる。クチバシ医者は涙で滲んだ視界で眺めた。
「……僕も皆と同じだったら。同じだったら……皆と楽しく話したり仕事をしたり、君とも一緒に居られたんだろうな」
二週間程でニエはワイナリーから戻った。毎年大荷物と自分を乗せる馴染みのケンタウロスのコードバンに賃金とワインを渡して帰した。荷物を運びドアを開けようとした。予想はしていたが今年もランゲルハンスはまだ帰宅していないようだ。施錠されていたのでポケットから鍵を取り出してドアを開ける。
テーブルを調べたが毎年ある筈のメモ書きが無い。不安になり、向かいのクチバシ医者の店へ向かうとランゲルハンスの行方を尋ねた。クチバシ医者は『今年も山に籠る』としか聞いてないと答えた。お辞儀をしたニエは店を出る。すると入り口でフォスフォロに会い、軽く挨拶された。ちょっかいを出されると思ったがそれだけだった。
例年とは一点だけ違うランゲルハンスの行動にニエは怯えた。このまま先生が戻らなかったらどうしよう。大きなカウチに座し、唇を噛み締める。しかしランゲルハンスを信じた。何か事情があってメモを書かなかったのだろう。二度と裏切ってはいけない。最愛の男の片眼を奪った事を思い出し、片眼が解け込んだ胸を強く押さえた。
ニエはランゲルハンスの為に夕食を用意した。しかし帰らなかった。茜ブドウの収穫日程により毎年ニエの帰宅日は異なる。ランゲルハンスはそれを見透かすように帰宅する晩には必ず戻る。しかし今年は違った。夕食を片付けたニエはベッドではなく、大きなカウチに身を委ねた。革の香りと共に最愛の男の香りが漂う。大好きな香りに包まれて眠った。
今日はフォスフォロがベッドを使う番だ。クチバシ医者はカウチに座してピューロで花の装飾の案を練り直していた。ベッドから寝息が聞こえる。
もっと気に入られたい。仕事にやり甲斐を感じた。クチバシ医者はランプシェードの下でペンをとる。しかし疲れていたので意識が朦朧とする。瞼が重い。
クチバシ医者は瞳を閉じた。夢へ引き込まれていった。
オリーブの樹が生い茂る広場でクチバシ医者は項垂れていた。頬を伝った涙が地面を濡らす。どうやらまたマスクを着けていないようだ。
今日も散々だった。昨日も散々だった。一昨日も一昨々日もずっとずっと……。これからも尚、苦しみが続く。それでも責務を果たさなければならない。例え生を弄ばれても。自分だけに課された使命なのだから。
長い溜め息を吐き、顔を上げると白い子猫が佇んでいた。広場に顔を出しては餌を与えていた。母猫を亡くした子猫だ。家で世話をしてやりたいが多忙で責任が取れないと、飼うのを諦めていた。クチバシ医者は涙を拭うと子猫に手を差し出した。
「おいで」
子猫はにぃ、と鳴くと近寄る。クチバシ医者は子猫を抱き上げると頬に寄せた。子猫は嫌がるでもなく喜ぶでもなく、身を任せる。クチバシ医者は濡れた頬で子猫の体温を感じ、小さな溜め息を吐いた。
「……君は暖かいね。小さな心臓が一生懸命動いてる」クチバシ医者は頬から離した子猫を見つめる。
琥珀色の大きな瞳の子猫はにぃ、と鳴いた。
「偉いね。昨日も一昨日も懸命に生きて。こんなに小さいのに。僕とは大違いだ」クチバシ医者は子猫の耳の裏を掻いてやる。子猫は気持ち良さそうに眼を細めた。
クチバシ医者は子猫を地に下ろすと、懐から餌を取り出し子猫に差し出した。しかし子猫は食べない。
「……お腹空いてないの?」
クチバシ医者を見上げる子猫はにぃ、と鳴く。
胸に暖かいものが広がるのをクチバシ医者は感じた。今まで餌を食べる為に来てくれていると想っていたが、そうではなかった。僕に会う為に来てくれたんだ。友愛を感じたクチバシ医者は子猫を再び抱き上げた。
「ありがとう。友達でいてくれたんだね」
子猫はクチバシ医者を見つめた。琥珀色の大きな瞳に小さなクチバシ医者が映る。
「……本当は君に名前を付けて一緒に暮らしたいんだ。でも君は僕よりも先に死んでしまう。僕は君の死を受け止められそうにないんだ。……僕はとても弱虫で腕に抱えているもので一杯一杯で……だから……ごめん」
クチバシ医者は洟をすする。瞳が潤む。ダメだ。友達の前で泣くなんて。
子猫はにぃ、と鳴くとクチバシ医者の指を舐めた。
「……弱くてごめんね」
涙を流したクチバシ医者は溜め息を吐くと顔を上げた。
広場の一番大きなオリーブの老木の下では男達が集まり哲学や文学を論じ、その側では子供達が追いかけっこをして遊んでいる。クチバシ医者は涙で滲んだ視界で眺めた。
「……僕も皆と同じだったら。同じだったら……皆と楽しく話したり仕事をしたり、君とも一緒に居られたんだろうな」
二週間程でニエはワイナリーから戻った。毎年大荷物と自分を乗せる馴染みのケンタウロスのコードバンに賃金とワインを渡して帰した。荷物を運びドアを開けようとした。予想はしていたが今年もランゲルハンスはまだ帰宅していないようだ。施錠されていたのでポケットから鍵を取り出してドアを開ける。
テーブルを調べたが毎年ある筈のメモ書きが無い。不安になり、向かいのクチバシ医者の店へ向かうとランゲルハンスの行方を尋ねた。クチバシ医者は『今年も山に籠る』としか聞いてないと答えた。お辞儀をしたニエは店を出る。すると入り口でフォスフォロに会い、軽く挨拶された。ちょっかいを出されると思ったがそれだけだった。
例年とは一点だけ違うランゲルハンスの行動にニエは怯えた。このまま先生が戻らなかったらどうしよう。大きなカウチに座し、唇を噛み締める。しかしランゲルハンスを信じた。何か事情があってメモを書かなかったのだろう。二度と裏切ってはいけない。最愛の男の片眼を奪った事を思い出し、片眼が解け込んだ胸を強く押さえた。
ニエはランゲルハンスの為に夕食を用意した。しかし帰らなかった。茜ブドウの収穫日程により毎年ニエの帰宅日は異なる。ランゲルハンスはそれを見透かすように帰宅する晩には必ず戻る。しかし今年は違った。夕食を片付けたニエはベッドではなく、大きなカウチに身を委ねた。革の香りと共に最愛の男の香りが漂う。大好きな香りに包まれて眠った。
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