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ランゲルハンス島奇譚 幕間(1)天使と悪魔
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パンドラに人払いをさせてから小一時間が経った。巨大な体躯を折り畳むようにしてカウンター席に座したランゲルハンスは隻眼で懐中時計を見遣ると小さな溜め息を吐く。
「もう間もなくいらっしゃると存じます」
酒瓶に囲まれた薄暗いカウンターの中で美女バーテンダーのパンドラが微笑む。
ハロゲンのスポットライトを遮る程背の高いランゲルハンスは鼻を鳴らした。
彼がもっと早く来ると踏んだのが間違いだった。血が通っていない娘であるパンドラと二人きりになるのは正直堪える。自らが創造したホムンクルスとは言え、二人きりで会話した事が無い。不肖の弟子であるニエならまだいい。アレは口が利けない上に師である自分を立てる。しかしパンドラは何を考えているのか今一つ分からない。
出直そうかと考えた時、重厚な木のドアが開いた。
現れたのは黒髪を滝のように流した痩躯の青年だった。彼は青白く光る不思議な瞳を眼窩に嵌めている。人払いする前に座していた客と同じ瞳だ。
「久し振り」青年は爛れた右手に包帯を巻く。
「お待ちして居りました」パンドラは青年に微笑む。
青年は微笑み返すとカウンター席に座そうとする。しかしハロゲンライトを遮る程の大男に気が付き、思わず声を上げた。
「……ハンス!」
ランゲルハンスは鼻を鳴らす。
破顔した青年はランゲルハンスの隣に座す。
「百五十年振りくらいかな? 会えて嬉しいよ! どうしてここに?」
「時間が出来たので待ち伏せをしていた。君は相変わらず骸のように細いな、ローレンス。食事は摂っているのかね?」
「と、摂ってるよ」ローレンスは眼を逸らした。
「日に幾度かね?」
ローレンスは口をもぞもぞと動かすと『気が向いた時だけ』と正直に答えた。
ランゲルハンスは苦笑する。
「動いているから良いものの、いざ動けなくなると以前のように無理矢理にでも食べさせなければならない。あまり心配をかけるな」
「……分かったよ。でも皆酷いよ。僕を見るなり挨拶よりも先に『ご飯食べているか』なんて聞くんだもの。僕は子供じゃないよ」ローレンスはパンドラからお絞りを受取ると手を拭き、顔を拭く。
「心配される内が華だ」ランゲルハンスは結露したジンのグラスを呷るとパンドラを見遣り、グラスを指差す。
グラスを下げるパンドラにローレンスはモヒートをオーダーする。
「……そうだね。心配されるって事は気に掛けて貰ってるんだもんね」
「私の他に心配する者がいるのかね?」
「うん。イポリトには随分心を砕かれたし、パンドラにも気を遣われるし、つい最近仲良くなった人間のおじいさんにも心配されるんだ」ローレンスは恥ずかしそうに微笑んだ。
「人間と親しくしているのかね?」
「うん。気のいいおじいさんでね、僕が閉め出しを喰らってアパートの集合玄関で座っていた所に声を掛けてくれたんだ。酒屋の店主なんだ。今日もここに行こうと想ったらおじいさんに捕まっちゃってさ、一時間程軽く飲みながら孫娘の話を聞かされたよ」
「ほう」
「やっぱり人間っていいね。命の時間が短いのが悲しいけど、触れ合ってると幸せになれる。僕、人間が大好きだ」
「……人間も良いが君の監視役の男はどうなんだ? パンドラから人情家だと聞いたが」
「……イポリトはいい相棒だよ。僕を心配してくれるし、ずっと付いて来てくれる。家族だ。……でも僕と同じく死神だ。太古の昔に生まれた僕よりも遥かに優秀だし、死神としての自覚がある。心が壊れないように無理の無い範囲で人間と付き合えるんだ。羨ましいよ……僕は初めの内は死神として人間と付き合っていても、いつの間にか自分も人間だって思い込んじゃうんだもの」
ローレンスは俯く。ランゲルハンスは溜め息を吐く。
「……それでまた傷つくのならば酒屋の老人との付き合いは止めるべきではないのかね?」
「……それはイポリトにも言われたよ。でも想うんだ。だからこそ死神として自覚を持って人間と付き合うべきだって。僕は今自分に挑んでるんだ」
カウンターにコルクのコースターが差し出される。ローレンスとランゲルハンスの前にモヒートとジンのグラスが置かれた。
ランゲルハンスはグラスを掲げると『君が自身に打ち勝つ事を祈って』と杯に唇を付ける。苦笑したローレンスは炭酸が発泡するグラスに唇をつけた。
「今の相棒とは何年来の付き合いなのかね?」
ローレンスはライトを仰ぐと青白く光る不思議な瞳をぐるりと動かして思案する。
「うん、と……多分百年に届くんじゃないかな? 前任、前々任と離れるのが早かったから割と長く続いてる方だよね」
「女遊びが派手なのだろう? 何処かで女性の腹を膨らませて世代交代しそうだが……」
「イポリトはそこら辺きちんとしてるよ。確かに派手だけど遊び相手は娼婦や好き者の女性だし、相手に迷惑掛けたくないって思いやってるんだ」
「死神の思想といい、女性に対する姿勢と良い君よりも彼の方が大人だな」
「そうなんだよ。年上として恥ずかしくなっちゃうよ」ローレンスは苦笑した。
すると重厚な木のドアが開いた。
姿を現したのは赤いライダースジャケットを羽織った厳つい男だ。ハロゲンライトの光を反射するブロンドが眼に眩しい。彼もローレンスと同じく青白く光る不思議な瞳を眼窩に嵌めている。
「イポリト!」ローレンスは腰を上げると歩み寄る。
「ん? ああ、じいさん来てたのか」イポリトは爛れた右手に包帯を巻く。
「うん。一緒に飲もうよ。僕の友達も居るんだ」ローレンスは席に座すランゲルハンスを見遣る。
ローレンスの視線の先を見遣ったイポリトの片眉が一瞬、ピクリと動く。しかし彼は軽く会釈する。ランゲルハンスは会釈の代わりに瞼を閉開した。
イポリトは包帯を解き直す。
「……いや、用事想い出したわ。野良ニャンコちゃんに餌やるの忘れてたわ。帰らにゃならん」
「……そう」
眉を下げるローレンスに背を向け、イポリトは店を後にした。
席に戻ったローレンスは小さな溜め息を吐く。
「ごめん。彼に悪気はないんだ。自分よりも遥かに大きな人を見るとトラウマを想い出すみたい」
「構わん。所属者に驚かれる事は多々あるからな。正常な反応だ。……しかし彼も私には劣るが逞しい方だろう?」ランゲルハンスはグラスに口をつける。
「そうだけどさ……彼は幼い頃、虐待されていたんだ。だから今でも自分よりも遥かに大きな相手には……ちょっとね」
「人にも神にも悪魔にもそれぞれ事情があるからな」
「助かるよ。そう言ってくれると」微笑んだローレンスは肩をすくめた。
溶けた氷がバランスを崩しグラスに当たる。
炭酸負けしたローレンスは口を手で覆うとゲップを吐いた。
「君は相変わらず胃が弱いな」
「うん。ゲップ出すのも一苦労だよ」
ローレンスは苦笑する。
「……ところで島の魂達はみんな元気にやってる?」
「魂も精霊も争い事をせずに平和に暮らしている」
「火あぶりで亡くなった高潔な大魔女は?」
「離れ小島に移り、製剤師をする傍ら動物に囲まれ楽しげに暮らしている」
「君が魂の消滅を止めた弟子の女性は?」
「相変わらずだ」
ランゲルハンスはグラスを呷った。
眉を下げたローレンスはランゲルハンスを見つめる。
「相変わらずって……前回君に聞いた時、なんだか楽しく無さそうな感じの事言ってたよね? あまり口を利いてあげてないようだけれども……」
「そうだな。滅多に指示を出さないし食卓を囲む事も少ない」
「一つ屋根の下に住んでるんでしょ? 家族でしょ? どうしてそんな仕打ちを続けるの?」
「追い出す為だ」
「どうして? 大昔、君はあの子を眼に入れても痛くない程に可愛がっていたじゃないか」
ランゲルハンスは深い溜め息を吐くと片手で隻眼を覆った。
「……無理だ。私とアレは師弟だ」
「そんなの関係ないだろ」
「例え師弟でなくとも無理だ。心からの言葉を他者に伝えようと想っても、心臓に取り憑いた貴奴はそれを許さない」
ローレンスは小首を傾げた。すると事情を知っている聡明なパンドラはローレンスに耳打ちした。
ローレンスは俯く。
「……そっか」
ランゲルハンスは長い溜め息を吐いた。
「でもさ……そこまで想っているなら愛を伝えたらどうだい?」
ランゲルハンスは手をずらし鈍色の隻眼でローレンスを見遣った。
「一人の人間を愛した事実こそが君のプライドじゃないのか? それにその女性は記憶を取り戻しても尚、君の許を離れないんだろ? 彼女も君を愛しているんだよ」
「そんな事疾うに知っている」
「だったら尚更伝えるべきだ!」
腰を上げ肉薄したローレンスはランゲルハンスの隻眼を見据える。ランゲルハンスの鈍色の瞳には瞳を潤ませた小さなローレンスが映る。
「僕は僕が運んだ魂だけじゃなくて君にも幸せになって欲しいんだ。誰も彼もが笑い合って暮らせる世界、それが君の島だろう? 君自身が幸福でなくて何が島主だ!」
「私は誰も幸福になど出来ない! 自身すらも!」
「心から愛する人が居るなんて幸せな事じゃないか! その上その人に愛されているなんて! 国も信仰も思想も血も姿も何の壁もないじゃないか! 君は応えるべきなんだ! 君自身の為に! その女性の為に!」
堰を切った涙が頬を伝う。ローレンスはそれを手で拭う。
「僕は……君が羨ましい。心から一人の人間を愛せる君が羨ましいんだ。それに……僕は君が大好きだ。あの時、友達になってくれた時から君が大好きだ。大好きだからこそ幸福を願わずにはいられない」
ローレンスは洟をすすると力なく席に座した。
パンドラは彼に水のグラスと替えのお絞りを差し出した。お絞りで顔を拭いたローレンスは想い切り鼻をかんだ。
「……ごめん。折角会えたのに楽しく飲めなさそうだよ、今日は。また出直すよ。言いたい放題言ってごめん」
グラスの水を呷ったローレンスは紙幣を置くと右腕の包帯を解いて席を立つ。
「……またね」
ドアノブに手を掛けたローレンスの背にランゲルハンスは声を掛ける。
「もし……もし君が」
洟をすすったローレンスは振り返る。ランゲルハンスがローレンスを見据えていた。
ランゲルハンスは言葉を続ける。
「もし君が島に来る事があれば……私は言葉ではなく違う方法で彼女に胸の内を明かす」
ローレンスは左手で涙を拭う。
「……それは本当?」
「……悪魔に二言はない」ランゲルハンスは鈍色の隻眼を閉じると徐に開いた。
「……死神の僕が君の島に流れ着くなんて余っ程の事だと想うけど……それでもちゃんと約束してくれるなら嬉しいよ。君が幸福そうに微笑するのを僕はずっと祈っているから」
ローレンスは涙を頬に伝わらせつつ微笑むと店を後にした。
ランゲルハンスは長い溜め息を吐くと氷が溶けて水だけになったグラスを呷った。
ジンの香りがする水は涙の味がした。
了
「もう間もなくいらっしゃると存じます」
酒瓶に囲まれた薄暗いカウンターの中で美女バーテンダーのパンドラが微笑む。
ハロゲンのスポットライトを遮る程背の高いランゲルハンスは鼻を鳴らした。
彼がもっと早く来ると踏んだのが間違いだった。血が通っていない娘であるパンドラと二人きりになるのは正直堪える。自らが創造したホムンクルスとは言え、二人きりで会話した事が無い。不肖の弟子であるニエならまだいい。アレは口が利けない上に師である自分を立てる。しかしパンドラは何を考えているのか今一つ分からない。
出直そうかと考えた時、重厚な木のドアが開いた。
現れたのは黒髪を滝のように流した痩躯の青年だった。彼は青白く光る不思議な瞳を眼窩に嵌めている。人払いする前に座していた客と同じ瞳だ。
「久し振り」青年は爛れた右手に包帯を巻く。
「お待ちして居りました」パンドラは青年に微笑む。
青年は微笑み返すとカウンター席に座そうとする。しかしハロゲンライトを遮る程の大男に気が付き、思わず声を上げた。
「……ハンス!」
ランゲルハンスは鼻を鳴らす。
破顔した青年はランゲルハンスの隣に座す。
「百五十年振りくらいかな? 会えて嬉しいよ! どうしてここに?」
「時間が出来たので待ち伏せをしていた。君は相変わらず骸のように細いな、ローレンス。食事は摂っているのかね?」
「と、摂ってるよ」ローレンスは眼を逸らした。
「日に幾度かね?」
ローレンスは口をもぞもぞと動かすと『気が向いた時だけ』と正直に答えた。
ランゲルハンスは苦笑する。
「動いているから良いものの、いざ動けなくなると以前のように無理矢理にでも食べさせなければならない。あまり心配をかけるな」
「……分かったよ。でも皆酷いよ。僕を見るなり挨拶よりも先に『ご飯食べているか』なんて聞くんだもの。僕は子供じゃないよ」ローレンスはパンドラからお絞りを受取ると手を拭き、顔を拭く。
「心配される内が華だ」ランゲルハンスは結露したジンのグラスを呷るとパンドラを見遣り、グラスを指差す。
グラスを下げるパンドラにローレンスはモヒートをオーダーする。
「……そうだね。心配されるって事は気に掛けて貰ってるんだもんね」
「私の他に心配する者がいるのかね?」
「うん。イポリトには随分心を砕かれたし、パンドラにも気を遣われるし、つい最近仲良くなった人間のおじいさんにも心配されるんだ」ローレンスは恥ずかしそうに微笑んだ。
「人間と親しくしているのかね?」
「うん。気のいいおじいさんでね、僕が閉め出しを喰らってアパートの集合玄関で座っていた所に声を掛けてくれたんだ。酒屋の店主なんだ。今日もここに行こうと想ったらおじいさんに捕まっちゃってさ、一時間程軽く飲みながら孫娘の話を聞かされたよ」
「ほう」
「やっぱり人間っていいね。命の時間が短いのが悲しいけど、触れ合ってると幸せになれる。僕、人間が大好きだ」
「……人間も良いが君の監視役の男はどうなんだ? パンドラから人情家だと聞いたが」
「……イポリトはいい相棒だよ。僕を心配してくれるし、ずっと付いて来てくれる。家族だ。……でも僕と同じく死神だ。太古の昔に生まれた僕よりも遥かに優秀だし、死神としての自覚がある。心が壊れないように無理の無い範囲で人間と付き合えるんだ。羨ましいよ……僕は初めの内は死神として人間と付き合っていても、いつの間にか自分も人間だって思い込んじゃうんだもの」
ローレンスは俯く。ランゲルハンスは溜め息を吐く。
「……それでまた傷つくのならば酒屋の老人との付き合いは止めるべきではないのかね?」
「……それはイポリトにも言われたよ。でも想うんだ。だからこそ死神として自覚を持って人間と付き合うべきだって。僕は今自分に挑んでるんだ」
カウンターにコルクのコースターが差し出される。ローレンスとランゲルハンスの前にモヒートとジンのグラスが置かれた。
ランゲルハンスはグラスを掲げると『君が自身に打ち勝つ事を祈って』と杯に唇を付ける。苦笑したローレンスは炭酸が発泡するグラスに唇をつけた。
「今の相棒とは何年来の付き合いなのかね?」
ローレンスはライトを仰ぐと青白く光る不思議な瞳をぐるりと動かして思案する。
「うん、と……多分百年に届くんじゃないかな? 前任、前々任と離れるのが早かったから割と長く続いてる方だよね」
「女遊びが派手なのだろう? 何処かで女性の腹を膨らませて世代交代しそうだが……」
「イポリトはそこら辺きちんとしてるよ。確かに派手だけど遊び相手は娼婦や好き者の女性だし、相手に迷惑掛けたくないって思いやってるんだ」
「死神の思想といい、女性に対する姿勢と良い君よりも彼の方が大人だな」
「そうなんだよ。年上として恥ずかしくなっちゃうよ」ローレンスは苦笑した。
すると重厚な木のドアが開いた。
姿を現したのは赤いライダースジャケットを羽織った厳つい男だ。ハロゲンライトの光を反射するブロンドが眼に眩しい。彼もローレンスと同じく青白く光る不思議な瞳を眼窩に嵌めている。
「イポリト!」ローレンスは腰を上げると歩み寄る。
「ん? ああ、じいさん来てたのか」イポリトは爛れた右手に包帯を巻く。
「うん。一緒に飲もうよ。僕の友達も居るんだ」ローレンスは席に座すランゲルハンスを見遣る。
ローレンスの視線の先を見遣ったイポリトの片眉が一瞬、ピクリと動く。しかし彼は軽く会釈する。ランゲルハンスは会釈の代わりに瞼を閉開した。
イポリトは包帯を解き直す。
「……いや、用事想い出したわ。野良ニャンコちゃんに餌やるの忘れてたわ。帰らにゃならん」
「……そう」
眉を下げるローレンスに背を向け、イポリトは店を後にした。
席に戻ったローレンスは小さな溜め息を吐く。
「ごめん。彼に悪気はないんだ。自分よりも遥かに大きな人を見るとトラウマを想い出すみたい」
「構わん。所属者に驚かれる事は多々あるからな。正常な反応だ。……しかし彼も私には劣るが逞しい方だろう?」ランゲルハンスはグラスに口をつける。
「そうだけどさ……彼は幼い頃、虐待されていたんだ。だから今でも自分よりも遥かに大きな相手には……ちょっとね」
「人にも神にも悪魔にもそれぞれ事情があるからな」
「助かるよ。そう言ってくれると」微笑んだローレンスは肩をすくめた。
溶けた氷がバランスを崩しグラスに当たる。
炭酸負けしたローレンスは口を手で覆うとゲップを吐いた。
「君は相変わらず胃が弱いな」
「うん。ゲップ出すのも一苦労だよ」
ローレンスは苦笑する。
「……ところで島の魂達はみんな元気にやってる?」
「魂も精霊も争い事をせずに平和に暮らしている」
「火あぶりで亡くなった高潔な大魔女は?」
「離れ小島に移り、製剤師をする傍ら動物に囲まれ楽しげに暮らしている」
「君が魂の消滅を止めた弟子の女性は?」
「相変わらずだ」
ランゲルハンスはグラスを呷った。
眉を下げたローレンスはランゲルハンスを見つめる。
「相変わらずって……前回君に聞いた時、なんだか楽しく無さそうな感じの事言ってたよね? あまり口を利いてあげてないようだけれども……」
「そうだな。滅多に指示を出さないし食卓を囲む事も少ない」
「一つ屋根の下に住んでるんでしょ? 家族でしょ? どうしてそんな仕打ちを続けるの?」
「追い出す為だ」
「どうして? 大昔、君はあの子を眼に入れても痛くない程に可愛がっていたじゃないか」
ランゲルハンスは深い溜め息を吐くと片手で隻眼を覆った。
「……無理だ。私とアレは師弟だ」
「そんなの関係ないだろ」
「例え師弟でなくとも無理だ。心からの言葉を他者に伝えようと想っても、心臓に取り憑いた貴奴はそれを許さない」
ローレンスは小首を傾げた。すると事情を知っている聡明なパンドラはローレンスに耳打ちした。
ローレンスは俯く。
「……そっか」
ランゲルハンスは長い溜め息を吐いた。
「でもさ……そこまで想っているなら愛を伝えたらどうだい?」
ランゲルハンスは手をずらし鈍色の隻眼でローレンスを見遣った。
「一人の人間を愛した事実こそが君のプライドじゃないのか? それにその女性は記憶を取り戻しても尚、君の許を離れないんだろ? 彼女も君を愛しているんだよ」
「そんな事疾うに知っている」
「だったら尚更伝えるべきだ!」
腰を上げ肉薄したローレンスはランゲルハンスの隻眼を見据える。ランゲルハンスの鈍色の瞳には瞳を潤ませた小さなローレンスが映る。
「僕は僕が運んだ魂だけじゃなくて君にも幸せになって欲しいんだ。誰も彼もが笑い合って暮らせる世界、それが君の島だろう? 君自身が幸福でなくて何が島主だ!」
「私は誰も幸福になど出来ない! 自身すらも!」
「心から愛する人が居るなんて幸せな事じゃないか! その上その人に愛されているなんて! 国も信仰も思想も血も姿も何の壁もないじゃないか! 君は応えるべきなんだ! 君自身の為に! その女性の為に!」
堰を切った涙が頬を伝う。ローレンスはそれを手で拭う。
「僕は……君が羨ましい。心から一人の人間を愛せる君が羨ましいんだ。それに……僕は君が大好きだ。あの時、友達になってくれた時から君が大好きだ。大好きだからこそ幸福を願わずにはいられない」
ローレンスは洟をすすると力なく席に座した。
パンドラは彼に水のグラスと替えのお絞りを差し出した。お絞りで顔を拭いたローレンスは想い切り鼻をかんだ。
「……ごめん。折角会えたのに楽しく飲めなさそうだよ、今日は。また出直すよ。言いたい放題言ってごめん」
グラスの水を呷ったローレンスは紙幣を置くと右腕の包帯を解いて席を立つ。
「……またね」
ドアノブに手を掛けたローレンスの背にランゲルハンスは声を掛ける。
「もし……もし君が」
洟をすすったローレンスは振り返る。ランゲルハンスがローレンスを見据えていた。
ランゲルハンスは言葉を続ける。
「もし君が島に来る事があれば……私は言葉ではなく違う方法で彼女に胸の内を明かす」
ローレンスは左手で涙を拭う。
「……それは本当?」
「……悪魔に二言はない」ランゲルハンスは鈍色の隻眼を閉じると徐に開いた。
「……死神の僕が君の島に流れ着くなんて余っ程の事だと想うけど……それでもちゃんと約束してくれるなら嬉しいよ。君が幸福そうに微笑するのを僕はずっと祈っているから」
ローレンスは涙を頬に伝わらせつつ微笑むと店を後にした。
ランゲルハンスは長い溜め息を吐くと氷が溶けて水だけになったグラスを呷った。
ジンの香りがする水は涙の味がした。
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