あなたにたべられたい

いちや

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間章

間章1

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(レティ視点)

「ジェド?」

 コンコン、というノックのあと返事はなく、ためらった末に仕方なく、ドアノブをひねると扉はあっさりと開いてしまった。
 平日の昼間であればここだろう、と思って訪ねたわけだが、残念ながら書類が山となって埋もれている執務室にその主の姿はなかった。ついでに言うと、その彼の補佐をする執事の姿すらもなく、彼女、レティーシア・マーリナこと、レティは拍子抜けしたような表情を浮かべる。

 ―――どこへ行ってしまったのだろうか。

 人族の世界も魔族の世界も暦の上ではそう変わった風習はない。さすがに祝祭日などに変わりはあるものの、日常的なサイクルはほぼ同じで、1週間のうち6日間は勤勉に働き、のこる1日は安息日として仕事を休んだりしつつ、ゆったりとくつろいで過ごす。
 だがしかし、今日は安息日ではなく平日だ。つまり、通常ならば仕事の日なのだ。にもかかわらず、この屋敷の主、ジェド・バルバスが休みを取っていたのは、ここのところ不規則に勤務をしていたから、という理由でのことだった。このところ、安息日も関係なしにぶっ続けで仕事をしているから忙しいのだろう、とレティもなんとなくで察していたのだが、そこへきて反動のように休みをとる、と宣言した彼は、少しでもレティと穏やかな時間を過ごそうという姿勢を見せてくれていた。

 せっかくの連休の初日ではあったのだが―――いや、むしろ連休の初日だからこそ、午前中は二人してだらだらとベッドの中で過ごしてしまった―――というか、レティの場合、ベッドから一歩も外に出ることができなかったため、それに付き合ってジェドも寝室から出ずに過ごしてしまったわけである。曰く「ようやくの休みだから」と紅の瞳ストロベリーアイの持ち主は、どこか逆に嘘くさいほどの爽やかな笑みを浮かべて、昨夜、レティの寝室へとにじり寄り―――明け方までナニをしていたのかは言うまでもない。
 とりあえず、レティにしてみれば、そのまま気が付いたら朝だったわけで、寝不足も当然、という状況だった。朝まで喘がされて喉は痛いは恥ずかしいわ。けれど、避妊に関するあれこれはせねば、とジェドの手を借りつつ、避妊の魔法薬を飲んだりしていて朝は過ごし、どうにかベッドから這い出てきた時間になってようやく朝食を兼ねた昼食。その後は元気なら散歩程度に出歩こうという話だったのだが、食事中にもレティがうつらうつらとしていたところを見かねたメイド頭権限により、その予定はキャンセル。とりあえず「昼寝をしよう」ということになり、気が付けばこんな時間だった。
 なお、同じような条件であるはずの―――いいや、その前日まで仕事一色でレティよりも睡眠時間が極端に危ういはずの男はぴんぴんとしており、睡眠不足の陰りもなかった。元の体力が違うとはいえ、あまりにも非常識なレベルでの化け物っぷりである。

 何時間眠っていたのやら、とレティが寝ぼけつつ、ぼさぼさになった髪を整えた頃になってようやく彼の姿がないことに気づいたものの、なぜか屋敷はがらん、としていてやけに人の気配が薄い。時間を確認すればまもなく夕暮れ時。いつもなら買い出しだの夕食の準備だのとメイドが忙しい時間帯でもあったので、なんとなく誰かを呼び出すのも気が引けて、とりあえず彼がいつもいるところ……と、執務室までやってきたわけだが、そこにいつもの主の姿はなく、レティは途方に暮れたような表情になってしまった。

 レティが一人きりになる時間、というのは存外ない。貴重な人族である、という事もさることながら、「未来のバルバス家の嫁」という立場が明確となった今、その護衛に人が付き纏うのは当然のことである。もっともそんな事情がなかったとしても、元から「可愛いもの」が好きで過保護なメイドたち一同は何やかやと理由をつけてレティの傍にいることが好きであるため、レティが一人になるのは就寝前のひと時ぐらいであった。
 そして、最近ではそのひと時にすら、誰かがいることが増えた。
 筆頭は無論、この屋敷の主であり、レティの恋人(本人曰く未来の夫とのこと)だが、彼は仕事でいないことも多いためそんなときにはこっそりと仲の良いメイドや、サニアについてもらって眠っている。理由は単純明快―――そうしないと、魘されたりしてよく眠れないから、である。
 はっきり言って、ここ数週間、レティはどこか不安定であった。原因ははっきりと診断が下りているわけでもないのだが、その直前にあったバルバス邸襲撃事件で間違いない。

 そんな爪痕を少しだけ残した事件からすでに3週間。徐々にレティの精神も回復しており、今となってはその影も薄れつつあったのだが、それでもあの事件以降、屋敷からティアナの姿は消えたし、未だに屋敷にいるメイドたちがピリリとした空気を纏っていることがある。
 だからこそ、寝起きのレティが求めたのは絶対的な庇護者であるジェドだったわけだが、もしかすると、部屋に残っていた方がよかったのかもしれない。

 ―――前回のように何かあったのかもしれない。

 すぅっと血の気が引く感覚を思い出して肌が粟立つ。今更ながら勝手に動いてしまった自分の行動を省みて、まずかったのかもしれない、と思って、挙動不審になりつつ、気が付けばそっと執務室の中へと隠れてしまっていた。
 ぱたん、と部屋の扉を閉じれば、その部屋の中には彼の香りがわずかに残っていた。

 本人曰く、特別な香水はつけていないらしいのだが、長年軍属である彼は常に汗の匂いには悩まされているようで、制汗剤やら臭いを吸収するいくつかの薬などは使用しているようで、たまに真剣な顔で匂わないか尋ねてくることもある。レティにしてみれば汗の匂いであっても、長年同居している家族ともいうべき男性の香りは、それだけで安心できる材料なのだが、それをそのまま伝えたところ、メイドたちに窘められたことがあったため、以降は表に出さないようにしている。

 けれど、安心できるのだ。
 すぅ、と胸いっぱいに空気を吸い込む。大量の紙とインクの香りに交じって、ジェドの香りがするのを感じとり、ほっと安堵を滲ませたため息が零れた。

 書類が山になっている状態だったので、机の方まで近寄ることはやめておいたのだが、不意に地面に落ちている紙が気になって拾いあげる。その時に、紙面に書かれている内容を斜め読んだ。何かの収支計算らしいびっしりと数字の書かれた報告書は、どこの山から落ちてきた者かの判断はつかず、とりあえず、適当な山の上に乗せるよりかは明確にそれと分かるように机の上に置こうとした、その時だった。

「ど、れい……解放……?」

 机の上に置かれた紙の一枚が目に飛び込んでくる。その内容も見た―――見てしまったレティは、手にした紙をぱさり、と地面に再び落としてしまった。


 * * * * * * * 


(リタ視点)

 部屋を訪ねたらお嬢様がいなかった―――。

 間違いなく、お嬢様は昼寝をしていたはずである。絶対にそれだけは間違いない。
 ひとまず、ベッドへと素早くにじり寄り、リタはそのベッドの温もりがまだ残っていることを確認し、次に、トイレを確認しに行った。が、そこにも少女の姿は影も形もなく、その瞬間にリタの顔から表情が消えた。
 素早く通信用魔術を起動し―――寸前で起動を破棄、次いで起動したのはリアルタイムで相手とやり取りするための別の術式だった。
 メッセージでのやりとりは、隠密性が高く、相手の状況を確認する手間を省いて送ることができるため何かの作業をしながら仕事をしているメイドたちにとって標準の連絡手段だ。が、しかし、今回はすぐさまレスポンスが欲しい。そのために魔力消費だなんだと言ってられるような状態ではなく、リタは少々正気を失いながら術式を起動していた。
 相手が通信しても大丈夫な状態かどうかを確認するのももどかしく、つながるや否や、食い気味に叫ぶ。

「サニア様、お嬢様が部屋から消えました!」

 リタの上げる悲鳴のような声に、リアルタイムで繋がっている向こう側の空間で息をのむ音がはっきりと聞こえた。同時にそれより奥でもう一人、誰かの気配がした。不味い状況で通信してしまったか、と思ったのだが、すぐさまその奥にいるのが執事長、タウゼントであることが分かり、ほっと息を吐き出す。

「待ってください。お嬢様の位置を確認致します」

 念のため、という位置づけだが、お嬢様には奴隷であることを示すと同時に誘拐などを防ぐための奴隷専用の術式が埋め込まれている。通常であればそれは奴隷が主に逆らうことがない様に、と奴隷の精神をも犯すレベルでの術式が埋め込まれることすらあるものなのだが、ことお嬢様に関しては、そのような術式は無用の長物である。では、なぜそんな物騒な代物が残っているのかと言うと、主な用途としては、お嬢様を溺愛して憚らない男、ジェド・バルバスが、常にお嬢様の位置把握したいがためだけに残しているのである。本来なら奴隷専用の術式はその主である旦那様にしか使用できないのだが、この邸内において旦那様に次ぐ地位にいる執事長にはその代理権限が与えられており、有事には彼女の位置を探索することができるようになっている。
 サニアと一緒にいたのが彼であった幸運に感謝すると同時に、何とも言えない時間に焦燥感が募る。何より、リタの魔力量はそうそう多くないので、少しでも早く回答を、と願った直後に、返答が帰ってきた。
 どうやら彼女は旦那様の執務室に向かっているようだ、とのことであり、すぐにタウゼントがお嬢様の回収に向かう、とのことだった。

 ―――何事もなくてよかったぁ。

 術式を切った途端、どっとした気疲れよりも、安堵がまず沸いてくる。もう3週間も前の話になるわけだが、例の襲撃事件以降、お嬢様はどこか不安定であり、リタにとってはそのことが何よりも心配でならなかった。
 たまにそこにいるはずもないティアナのことを探すような視線に気づくたびに、気をそらすべく最近の流行のドレスやらスイーツの話題やらでごまかしていたリタだったが、その回数も徐々に少なくなり、ティアナがいないだけでいつものルーチンが回るようになると、それはそれでなんだかリタの胸の方が軋むような、奇妙な感覚に悩まされるようになっていた。
 セリム曰く「それが普通の感覚だよ」とのことであり、彼のお墨付きがあるので、リタは深く悩まずに済んでいるものの、それでもたまに、彼女は何をどう間違ったのだろうか、と思いを馳せることがある。決して悪い子ではなかったのだが、同時にお嬢様に対する態度は一貫して「人族の奴隷」に対するものであり、そうそう良いものでもなかった。

 ―――真相はきっと分からないままだ。

 セリムは真相を知っていながら言葉を濁している。本人曰く、「上からダメだって言われているから」という、そのままの回答に思わず頬が引きつったものの、おそらくだが、それが彼にできる最上級の誠実な回答なのだと理解し、それはそれで致し方なしと諦めた。
 サニアに聞けば、詳しい情報を教えてくれるのかも知れなかったのだが、なんとなく表をなぞるだけの回答しか返ってこない気がしていて、リタはそれ以上の追及をしないことにしたのだ。

 胸にもやっとした思いを抱えつつ、とりあえず、部屋を整え始める。ほんのわずかに乱れていたベッドを整え、部屋の換気を終えるころ、タウゼントに連れられたお嬢様が部屋に戻ってきた。

「お嬢様」
「勝手に出ていってごめんなさい……」

 しゅん、としているところが、分かりやすい彼女の様子に―――けれど、いつもとは違う何らかの違和感を感じて後ろの男を仰ぐと彼は首を横に振る。「後は任せます」というメッセージに違和感を覚えつつ、ハンドサインで「了承」と伝えると、彼は無言で部屋を退いていった。

「旦那様でしたら途中で仕事に行かれて―――」
「うん。タウゼントさんに聞いたの」

 「仕方ないよね、お仕事だもの」と無理をして笑みを作る少女の顔を、さりげなく、けれど少しの反応も逃さぬようにしっかりと見たものの、その様子がおかしく見えて、リタはすぐさまサニアにも一報を入れておいた。

「悪い夢でも見ましたか?」
「う……ううん」

 「大丈夫」と気もそぞろな様子で返され、ますます胸がざわめく。だがしかし、彼女が求めたのは、自分ではなく、旦那様だった。だとしたら、ここで自分があまりあれこれと彼女を詰問することはあまりよくないのではないだろうか。
 気持ちとしては、彼女の持つ、どんな悩みにだって乗ってやりたいところではあるのだが、それはメイドとしての領分を犯すものであり、彼女の望むことではないのかもしれない―――と思うと、思わず二の足を踏んでしまった。

 ―――いや、でも、せっかくの休日に目が覚めて恋人がいなかったらこんなものかしら……?

 例えば自分で考えてみる。せっかくの休みの日のデート中、もしセリムが唐突に仕事だとかで放りだされてしまったら……?

 ―――財布だけ奪ってとっとと仕事に行かせるわね。

 内容によってはそのまま一緒に仕事の方へ急行することもあるとは思うものの、基本的にリタは一人が苦にならない性格だし、観劇など二人で見ることが前提のデートでなければそのまま一人でのショッピングなどを楽しんでしまうだろう―――情け容赦なく、セリムの財布を使って。

 リタとお嬢様の性格が一致しないことなど当たり前なのに、自分に置き換えて考えだしてしまったことを心の中で詫び、再度彼女の様子を注意深く見守っていると、不意に彼女が面を上げた。

「リタ、は……」
「はい」
「…………わ、たしを食べたいと思ったことある?」
「…………………………」

 ―――常に、頭から食べてしまいたいほどに愛している……いいや、むしろ、目に入れても痛くないほどに愛している。

 というドン引きな即答はひとまず隠しきり、リタは軽く咳払いする。
 どういう意味の質問なのかと考えあぐねて、そのお嬢様の傍へとよると、彼女は少しだけ震えていた。

 ―――どうしよう、どうしよう。お嬢様が可愛い。

 セリムにドン引きされようと一向に構わないリタだが、お嬢様にドン引きされた瞬間に死を考えたくなるので、とりあえず、言葉は喉の奥へとぎりぎりのところで飲み込む。
 問題はお嬢様が今何を考えていて、何に対する回答を欲しているのか、である。そこに自分の欲望を混ぜてはならない、とリタは自分の気持ちを奥底へと沈めきった。

 こほん、と小さく再度咳払いし、彼女の質問をもう少し一般的な形に変えてみる。

「それはつまり―――つまり、私が人族を食べたいと思っているか、という質問でしょうか?」
「う、ん……」
「―――正直に申し上げますと、私は人族の生気を食べたことがございません。なので、食べたいと思ったこともありません」
「……そう、なの?」
「大昔の話になりますが、この魔族の領地は作物の一つも育たない不毛の地だったと聞きます。ですからこそ、魔族たちには今食べているような食事ではなく、他の手法での―――糧を得るための術が、どうしても必要であったのだと聞いております」

 人族の住まう大地は元から肥沃な土地であったが、魔族たちが住まう大地は、元々が塩に塗れた酸性の土壌であり、作物は生えた端から枯れていくような有様だった。そもそもからして天候不順な土地では、土質も柔らかなものではなく、乾いた砂と岩に覆われたおおよそ「農業」とは無縁の土地だったのだ。
 その大地を少しずつ少しずつ改良し始めたのが1代目の魔王であり、育てる作物そのものを改良し始めたのが5代目の魔王。そして、魔属領でとれる上質の鉱石と交換に森の民たちとの交易を始めたのが8代目の魔王であり、そうやって魔族たちの食生活は本当に少しずつ少しずつ改善されてきた。
 今でこそ、通常の木も、作物も生える大地は当然のものとして受け入れられているものの、この大地が手に入るまでに魔族が費やしたのは数百年以上もの年月であり、牧畜などをはじめとする技術も含めると、軽く千年以上の年月をかけて、魔族たちは自分たちの食生活を改善し続けてきた。

 リタが習った魔族の国の史実の上では、「農業」が普及するまでの魔族たちの食生活の中心は、その土地でとれる数少ない動植物だったが、それを狩りつくすと生きていけなくなることを理解していた彼らは、土地を転々と移動する生活様式をとっていたのだが、それが故に様々な種族間での争いが絶えなかったのだと言われている。
 魔族の間に実力至上主義が根強いたのもこの時期であり、基本的に魔王が世襲制ではなく、現代魔王を討伐しての徹底した実力主義に基づいているのも、すべては力がなければ生きてすらいけない生活が基盤だったため、というのは広く知られている史実だった。

 そして、農業が普及するにつれて徐々に一定の領地に留まることを始めた魔族たちだったが、当初はそれでもとれる収穫量はごくわずかであり、人口が増えるにつれてジリ貧へと追い込まれた。土壌が改善し収穫量が増えても、それ以上に人口が伸びてしまった結果、8代目の魔王が国の主導できちんとした形の交易を始めるまでは、隣領の肥沃な大地を求めての各地での略奪・侵略行為が表立って行われており、そのあたりから人族の間で魔族の残虐性が広まったのだと言われている。
 当時の魔族たちは人族の土地における農業にも疎く、領地を奪ったところで土地を荒らすことしかできなかった。結果、奪い尽くしたところで、その土地を活かすことすらもできない魔族は、ただただ周囲の国から奪うだけの鼻つまみ者となってしまった、というのが魔族の歴史である。
 そこに政治的な話や宗教的な要素もまざりこんで、人族と魔族との間には、お互いがお互いを奴隷とする慣習ができ、それが今も細々と続いてしまっている。

 無論、リタはその時代を生きてはいなかったため、それがどこまで真実を含むものなのかは分からない。
 けれど、リタ自身、幼い頃から育った農村ではひもじい思いはたくさんしてきたし、弟たちを生き永らえさせるために隣人の食料を奪うしかなかったのだとすれば、そうしたことに手を染めていた可能性もあると考えている。だからこそ、今よりもひどい環境で暮らしてきたという先祖を思うと、それは誇れた行動ではなかったものの、他にどうすることもできない状況だったのではないかと思ってしまう。
 けれど、過去は過去だった。
 未だに古くから住まう種族たちの中には単純に食事により得られる生気よりも、生きた動植物から奪う生気のほうが瑞々しく、力が伸びるのだと主張する者もいるのだが、今となってはあえて人族を限定して食らう必要はまったくないと断言できる。それがどれほど甘美な魅力にあふれるものであったとしても、リタにとって人族とは、お嬢様のことであり、尊い存在でしかなかった。

 ―――お嬢様はここまで可愛らしいのに。本当に食べたら死んでしまう。

 夜ごとお嬢様を食べている旦那様を思い出すと、それはそれで心配になるのだが、たとえ彼女が人族の奴隷で、その生気が食料として知られていたものでなかったとしても、結局のところ、旦那様はお嬢様を愛していたのではないだろうか、と思う。
 リタ自身がそうだと思うからだ。
 彼女が例えば魔族の一令嬢だったとしても、この気持ちはきっと変わることなく、自分は彼女に仕えたと思う。

「お嬢様は、私たちが恐ろしいですか?」
「………」

 ぶんぶん、と首を横に振る彼女の琥珀色の瞳に溜まっているのは大粒の涙だった。

「不敬ではありますが、私にとってお嬢様は愛すべき……妹、のような存在だと思っております」

 彼女が、その昔いたという姉と不仲だったことは知っているのだが、それでもリタにしてみれば、彼女は自分が郷里に置いてきた妹とほぼ同い年の少女にしか思えない。無論、実の妹と比べることもできないほどに可憐で純粋で儚くて―――と言いだせばキリがないほどだが、リタにしてみればどれだけ頑張ってみても彼女は「食料」としてなり得なかった。

「り、たぁ……」

 涙腺が決壊した彼女が抱き着いてくるのは予想のうちにあったので、それを難なく抱き留め―――内心では快哉を叫びつつ、至急サニアへとSOSを送った。

 ―――お嬢様を、私が、押し倒す、前に!

 「助けて」という渾身の力を込めたメッセージの後、呆れたような表情でやってきたサニアの姿に、リタは心の底から感謝を告げたのであった。


 * * * * * * * 


(セリム視点)

「随分、入れ込むのですね」
「悪いか?」

 即座に返ってきた回答に静かに首を横へと振り、セリムは「いいえ」という態度を明確に打ち出しておいた。
 先ほど部屋を出ていった茶の髪の青年、あれは今からでも伸びる逸材だとセリム自身思っている。

 ―――大体、具体的な目標があるやつ程伸びる。

 それが惚れた女のことであるのなら猶更、というのがセリムの持論である。が、しかし、上司が彼に肩入れしているその理由はと言うと、少なくとも彼の将来性を鑑みたから、という理由でないことは明白であった。
 こそこそと少し緊張気味に彼のことに気を配っていたのは何度となく彼の世話を焼かされた身としては当然分かっている。

 最初は彼と上司との関係を少々疑ってすらいたのだが、ほどなくしてセリムも気づいた。

 琥珀色の瞳が、同じだ、と。

 彼の名前はニコル・マーリナ―――より正しくはニコラルウス・マーリナと言ったはずだ。
 そして、上司の溺愛する少女の名前は、レティーシア・マーリナ。

 実のところ、「マーリナ」という姓だけでは確定できなかったのだが、執事長のタウゼントの隙を見て、改めて彼女の経歴を確認したところ、はっきりと彼が彼女の兄であることが判明した。加えて、彼は彼女に残されたたった一人の血縁でもある。

 マーリナ家、というのは10年前に魔族領の隣に位置していた国の中期に栄えた家系である。今となっては滅んだその国は、ほぼ自滅のような形で滅び、目ざとくその瞬間を狙っていた国に速やかに吸収合併されてしまった。
 贅沢の限りを尽くして日々享楽にふけっていた王侯貴族たちに侵攻を防ぐ手立てはなく、ほぼ抵抗らしい抵抗もなかったようだ。そもそも民衆の反感を買っている貴族たちが多いということもあって、私刑のような形で命を失った貴族らも多かったらしい。

 そして、そのような形で殺された貴族の一人として彼女の父の名が連なっている。
 彼女の父は、どうやら真正のクズ、と言われるような人物であり、妾の数だけでも片手にあまるほどだったようだ。一夜限りのお相手および気に入った娼婦の数まで入れると際限がない。
 最終的に認知した子供の数は、辛うじて10人を少し超えるぐらいのようだったが、手切れ金と共に捨てた母子は追いきれなかったこともあり、報告書の上でも詳細が不明となっていた。
 その最期は隣国へと逃げ出す間際に民衆に見つかってしまい、そのまま何百人という狂った民衆により私刑にあったとされている。

 一方で彼の正妻である女はなんとか隣の国まで逃げおおせることができたらしいのだが、それも自分の子どもを捨て駒として使用してのことだったとの記載があり、その捨て駒扱いにされた子どもたちはというといずれも非業の死を遂げていた。そんな風に逃げおおせたはずの女も、最終的には自国での争いを嫌った隣国の有権者の手によって闇へと葬られており、目も当てられない有様だった。

 そして、彼女の実の母と残る姉は、隣国との国境で侵略者たちによって捕らえられた後、暴虐な主を失って喜び狂う民衆を抑えるための材料とするためだけに公開処刑されたことになっている。

 ―――ある意味、旦那様に拾われたことは幸運だったとは思うのだが。

 本当に一番最初にこの報告書を読んだ時は、どうにもこうにも家族との縁の薄い少女を、遠い自分と重ね、何とも言えない気持ちになったものだった。セリム自身、天涯孤独、とまでは言わないものの、両親が一度に死んだこともあって親類縁者との縁も薄く、リタがいなければ完全に世間から孤立していたが、それも13歳になってからの話だ。
 たった5歳でそのような境遇にあった少女とは、どのような人物なのか、と思ったものだった。もっとも彼女自身は逆に物心つく前から家族とは縁の薄い生活をしていたためかさほど苦にしていた様子はなかったわけだが、ここ最近「結婚式の時にどうしよう」と頭を抱えて悩む上司の姿を見る度に「あ、やっぱり家族っているんだ」と若干ずれた方向での認識を得ていた。
 とりあえず、そもそも「結婚式」をやるのか、とその時点から話を始める必要があるように思うのだが、そのあたりは執事長とメイド頭が二人して頭を悩ませているところなので、セリムはあまり関わらないようにしている。

 そんな彼女に、たった一つの縁が戻ってきた。

 本来なら彼女の母や姉と共に国境で侵略者たちによって処刑されていたはずでありながら、その後「生死不明」となっており、生存も死亡も確認のとれなかった彼女の兄、ニコラルウス・マーリナ。

 これが物語だったなら、「ああ、うん。よくあるやつ」かもしれないのだが、そのまさかのまさかだ。よりにもよって「奴隷」として、兄妹揃って魔属領にいたとなると、さすがにまず驚きが来る。
 そもそも、人族の奴隷はそろそろ珍しい、といっても過言ではないレベルでの代物となっているわけだが、基礎的な能力の違いにより、魔族たちから見た人族というのは非常に脆く危うい存在であり、何かの拍子に死んでしまった―――いや、殺してしまった、という事故もよくある。
 人族の「子供」が、「奴隷」として、「10年生き延びた」、という話を聞けば、まずその奴隷の主はよっぽど気の長い人物であり、慎重にその奴隷を取り扱っていたのだろうな、という予想が来るのだが、よりにもよって彼女の兄、ニコルと名乗った彼が育ったのは自己中心的および残虐非道で有名なロイウェル侯爵家である。
 直接の主が「ロイウェル家の至宝」と謡われる高潔な少女であったことは幸いだが、それでも並大抵の根性がなければ生き延びてこれなかっただろう。先ほどの青年を思い出すと、ぱっと見では侮ってしまいそうになるのだが、それだけはなるまい、と肝に銘じる。

 ―――リタにいつ言おうか。

 お嬢様の兄が生きていた、なんて話をしたら、即座に詳細を求められるに決まっているのだが、当の本人が与り知らぬ情報をセリムがばらしてしまった日には、その日のうちに、速やかに旦那様の手により絞首刑の台の上に立たされるに決まっている―――いや、その前に普通に魔術で氷漬けか火あぶりにされて一巻の終わりである。下手をしたらお嬢様の耳に入らぬうちに、とリタだって巻き添え確定である。

 そんな事情もあって、こほんと咳払いした後、改めて彼をどうするつもりなのかを伺い立てていた。

「………」
「旦那様?」
「……………どう、切り出したらいいと思う?」
「は………………?」

 ―――ジェド・バルバス、困惑。

 どんな作戦でどんな危機に陥ろうとも沈着冷静に大胆不敵な策に出ると有名な男の弱り切った声に、セリムも言葉を無くしていた。
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