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マリアンヌ編
前編-2
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この世に、氷獄が顕現したのかと錯覚するほどに冷たく、凍てついた空気が場を支配していた。
「―――と、いうことでして」
「なるほど。もうそこまで調べてはついていたのですか。いつものことながら、さすがはヴァネッサですね」
至極落ち着いた、春の陽気を思わせるような口ぶりでありながら、なぜか周囲には雪と言わず氷が舞っていそうな空気が漂っている。魔力値0、その手の感受性もとことんまで疎いはずのマリアンヌですら錯覚するほどの感覚は、ここ数年間覚えもないものであり、それだけ彼の中で感情が荒れ狂っているだろうことが身にしみてわかった。
カタカタと小さく震えているルクレティアは可哀そうだが――――そんな荒れ狂う氷の嵐に向かい、これまでの経緯をはっきりとした口調で説明しているヴァネッサのことを思うとフォローすらできない。
荒れ狂う氷の嵐の幻覚をまき散らす魔王の言葉を正面から受け止める正妃の姿勢に怯えは微塵もない。だが、時折上ずった声がこぼれ出たり、ほんのわずかに早くなっている区長などの乱れから、はっきりと彼女が今どういう状況なのかを示していた。
――――ヴァネッサ様でも、陛下の前では緊張することあったんだ。
どちらかと言えば「夫婦」というよりかは「戦友」という言葉がしっくりとくる二人でだった。魔王軍にて長年の経験を積んでいたヴァネッサには、言葉に出さずとも相手の意図をくみ取ることに長けており、そういう意味で彼女は魔王にとって最適の妻だった。
戦場を社交界と変えても常に人気者であり続ける彼女のことを思うと、いつもいつも自分の足りなさを指摘されているようで奴隷と言う身分とも相まって、常に一歩も二歩も引いていたマリアンヌは身をつまされるようだった。
これは明らかに、自分が被るはずだったものだ。それが今、彼女に向かっている、という時点で、マリアンヌ自身の心には動揺が走っており、それをどうにかせねば、と気ばかりが急く。
だがしかし、今回マリアンヌは、ヴァネッサを巻き込んだ。そして、たまたまではあったもののルクレティアをも巻き込み、そしてマリアンヌ自身の意図とは少し離れた事態になっていたのもまた事実であり―――そもそもの話をするのであれば、ヴァネッサを頼った時点でダメであったのだという結論へと達していた。
「それで今回の件を、私に伝えてくださらなかったのはどうしてですか?」
「私がそう願ったからです」
「っ――――マリア!!」
「くる」と待ち換えていた質問が来るや否や手を上げたマリアンヌに非難の声が上がる。無論、それはヴァネッサの上げたものであったのだが、正妃である彼女が声を荒らげることはそうそうあることではなく、そちらのほうにマリアンヌが軽く驚かされた。
同時に、隣でルクレティアが服の裾を掴んで引っ張る。こちらを心配しての行動だということは彼女の心情を読み切らずとも判断できたものの、その手をやんわりと外し、マリアンヌは静かに魔王の前へと歩み出ていた。
「ほぅ」
「驚いた」と言わんばかりの感情を込めた魔王がソファから立ち上がる。こつこつ、と小気味の良い音を響かせながら近づいてくる足音に隣のルクレティアが喉の奥で悲鳴を飲み込んでいるのがはっきりと分かった。
マリアンヌのまっすぐ目の前まで来て、その足音がぴたりと停止する。
おそらく、ではあるものの目の前にいるだろう偉丈夫を思い浮かべ、マリアンヌはその顔があるだろう方向へと顔を向けた。ほぼ見上げると言っても過言ではないほど、真っすぐに背筋を伸ばして見つめるその先にはきっと彼がいる。そして、彼もまたこちらを見ているのだろう、と思った次の瞬間、彼が動いた。
「「マリア!!」」
すっと冷たい、手のひらが肌に触れる。急に彼が触れてきたのは、マリアンヌの首、であった。
片手だけでその細い首元を覆った彼の手のひらは、マリアンヌのそれよりもよほど大きく、マリアンヌは内心では少しだけ驚かされた。
――――肌、ガサガサ。
昔はもっとつやつやとした手のひらをしていたものだった。あまり剣術は得意ではない、と拗ねたような口調でのたまい、「今日も訓練を抜け出してきた」とはっきり豪語していたはずの御曹司も15年過ぎれば、変わるものだと思い知らされたのだが、このままだと自分の首が締まることになる。
「私が、陛下に話を持って行かないように、正妃様にお願いを申し上げました」
―――だが、そんなこと知ったことか。
今更脅しでどうこうなる関係でもないし、もし仮にそうなったとしても後悔はない。ましてや、マリアンヌは今年で30歳になる。今はまだ若々しいものなのだが、10年、20年もすれば容色の衰えははっきりと外見に出てくるだろうし、種族の違いも、寿命の違いも実に残酷なものだとしか言いようがない。
「どうせ殺されるなら彼の手で」などという甘ったれたことも言わないし――――そもそも、言う必要もないだろう。
――――手が震えている、そもそも、触れた指先が冷たい。
それがそういう意味のことなのか、分かってしまいすぎているマリアンヌはただただまっすぐに魔王の裁可を待った。
―――要するに、魔王は自分が爪はじきにされたことに憤りを感じているだけであり、自分の与り知らぬところでマリアンヌの命が消えるところだった事実が許せないだけだ。
それを望んだのがマリアンヌだったという事実と、マリアンヌが今生きているという事実。
そのどちらを彼が選ぶのかは言うまでもなかった。
急激にがっと抱き寄せられ、マリアンヌは少し驚いたものの悲鳴を飲み込んで、そのまま彼に引き寄せられた。遠くで女性二人が自分の名前を呼ぶ声を聴きながら、マリアンヌの意識はゆっくりと闇の中へと沈み込んでいった。
「―――と、いうことでして」
「なるほど。もうそこまで調べてはついていたのですか。いつものことながら、さすがはヴァネッサですね」
至極落ち着いた、春の陽気を思わせるような口ぶりでありながら、なぜか周囲には雪と言わず氷が舞っていそうな空気が漂っている。魔力値0、その手の感受性もとことんまで疎いはずのマリアンヌですら錯覚するほどの感覚は、ここ数年間覚えもないものであり、それだけ彼の中で感情が荒れ狂っているだろうことが身にしみてわかった。
カタカタと小さく震えているルクレティアは可哀そうだが――――そんな荒れ狂う氷の嵐に向かい、これまでの経緯をはっきりとした口調で説明しているヴァネッサのことを思うとフォローすらできない。
荒れ狂う氷の嵐の幻覚をまき散らす魔王の言葉を正面から受け止める正妃の姿勢に怯えは微塵もない。だが、時折上ずった声がこぼれ出たり、ほんのわずかに早くなっている区長などの乱れから、はっきりと彼女が今どういう状況なのかを示していた。
――――ヴァネッサ様でも、陛下の前では緊張することあったんだ。
どちらかと言えば「夫婦」というよりかは「戦友」という言葉がしっくりとくる二人でだった。魔王軍にて長年の経験を積んでいたヴァネッサには、言葉に出さずとも相手の意図をくみ取ることに長けており、そういう意味で彼女は魔王にとって最適の妻だった。
戦場を社交界と変えても常に人気者であり続ける彼女のことを思うと、いつもいつも自分の足りなさを指摘されているようで奴隷と言う身分とも相まって、常に一歩も二歩も引いていたマリアンヌは身をつまされるようだった。
これは明らかに、自分が被るはずだったものだ。それが今、彼女に向かっている、という時点で、マリアンヌ自身の心には動揺が走っており、それをどうにかせねば、と気ばかりが急く。
だがしかし、今回マリアンヌは、ヴァネッサを巻き込んだ。そして、たまたまではあったもののルクレティアをも巻き込み、そしてマリアンヌ自身の意図とは少し離れた事態になっていたのもまた事実であり―――そもそもの話をするのであれば、ヴァネッサを頼った時点でダメであったのだという結論へと達していた。
「それで今回の件を、私に伝えてくださらなかったのはどうしてですか?」
「私がそう願ったからです」
「っ――――マリア!!」
「くる」と待ち換えていた質問が来るや否や手を上げたマリアンヌに非難の声が上がる。無論、それはヴァネッサの上げたものであったのだが、正妃である彼女が声を荒らげることはそうそうあることではなく、そちらのほうにマリアンヌが軽く驚かされた。
同時に、隣でルクレティアが服の裾を掴んで引っ張る。こちらを心配しての行動だということは彼女の心情を読み切らずとも判断できたものの、その手をやんわりと外し、マリアンヌは静かに魔王の前へと歩み出ていた。
「ほぅ」
「驚いた」と言わんばかりの感情を込めた魔王がソファから立ち上がる。こつこつ、と小気味の良い音を響かせながら近づいてくる足音に隣のルクレティアが喉の奥で悲鳴を飲み込んでいるのがはっきりと分かった。
マリアンヌのまっすぐ目の前まで来て、その足音がぴたりと停止する。
おそらく、ではあるものの目の前にいるだろう偉丈夫を思い浮かべ、マリアンヌはその顔があるだろう方向へと顔を向けた。ほぼ見上げると言っても過言ではないほど、真っすぐに背筋を伸ばして見つめるその先にはきっと彼がいる。そして、彼もまたこちらを見ているのだろう、と思った次の瞬間、彼が動いた。
「「マリア!!」」
すっと冷たい、手のひらが肌に触れる。急に彼が触れてきたのは、マリアンヌの首、であった。
片手だけでその細い首元を覆った彼の手のひらは、マリアンヌのそれよりもよほど大きく、マリアンヌは内心では少しだけ驚かされた。
――――肌、ガサガサ。
昔はもっとつやつやとした手のひらをしていたものだった。あまり剣術は得意ではない、と拗ねたような口調でのたまい、「今日も訓練を抜け出してきた」とはっきり豪語していたはずの御曹司も15年過ぎれば、変わるものだと思い知らされたのだが、このままだと自分の首が締まることになる。
「私が、陛下に話を持って行かないように、正妃様にお願いを申し上げました」
―――だが、そんなこと知ったことか。
今更脅しでどうこうなる関係でもないし、もし仮にそうなったとしても後悔はない。ましてや、マリアンヌは今年で30歳になる。今はまだ若々しいものなのだが、10年、20年もすれば容色の衰えははっきりと外見に出てくるだろうし、種族の違いも、寿命の違いも実に残酷なものだとしか言いようがない。
「どうせ殺されるなら彼の手で」などという甘ったれたことも言わないし――――そもそも、言う必要もないだろう。
――――手が震えている、そもそも、触れた指先が冷たい。
それがそういう意味のことなのか、分かってしまいすぎているマリアンヌはただただまっすぐに魔王の裁可を待った。
―――要するに、魔王は自分が爪はじきにされたことに憤りを感じているだけであり、自分の与り知らぬところでマリアンヌの命が消えるところだった事実が許せないだけだ。
それを望んだのがマリアンヌだったという事実と、マリアンヌが今生きているという事実。
そのどちらを彼が選ぶのかは言うまでもなかった。
急激にがっと抱き寄せられ、マリアンヌは少し驚いたものの悲鳴を飲み込んで、そのまま彼に引き寄せられた。遠くで女性二人が自分の名前を呼ぶ声を聴きながら、マリアンヌの意識はゆっくりと闇の中へと沈み込んでいった。
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