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四章

9☆

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「俺、おれは……?」

 この問いに、何と返す? 言えばどうなる。刹那、何処かで聞こえた気がしたんだ。幼い子供の泣き声が。

「わっ」

 だから魔女の肩を掴み、浴槽へ押しやった。勢いで湯があふれ、タイルを叩く音がする。

 内側に閉じこもり、自分自身に語りかけた。

 ――大丈夫、もう泣くな。俺は決してこの欲求を他人に、世界に共有したりしないから。心配するな、大丈夫。イーライと二人で手を取り合って、我慢すること、諦めること、それに人生の全てを捧げてきたんだ。だからもう、泣かなくていい。

 未だ深く刻まれたままの傷、記憶の欠片を俯瞰し眺める。

 大丈夫、俺は冷静だ。求めればどうなるか知っているさ。そう、止まらなくなる。欲があふれて、理解してもらいたくなって……名前を呼びたくなる。それだけは絶対に嫌だ。それで誰かを傷つけるくらいなら、自分が傷つくくらいなら。俺は何も求めはしない。

 魔女を押しやったまま歪む湯面を睨み、この口から飛び出そうになる言葉を、思いを、歯を食いしばって耐えた。

 だからほら。大丈夫、大丈夫、泣かないで。

「ははっ……!」

 そうしてようやく衝動を抑えきり、重く溜まった息を吐き出す。合わせて身体から力を抜くと、何故か手で視界を覆われた。

 意図が読めない、魔女の濡れた手から伝う雫の感触に怯える。腕を掴んで止めさせようとして。

「やめっ……!」

「……ごめんね、傷つけないって言ったのに。私は結果を急ぎすぎた」

 柔らかな手が作る暗闇、穏やかな声音。自分の状態、心境との温度差にこれ以上の言葉を失う。

「孤独な魔女は傷だらけ。そんな魔女を、優しい君は放っておけないんだ。ただそれだけ」

 宥めるように囁かれる言葉。そっと指で唇をなぞられた。

「これは魔女がしたいこと、君の望みじゃない。大丈夫だよ。そんな風になるのなら、そんな顔をするくらいなら、君はそこから出なくていい」

 ――今は。と呟かれた吐息が間近に迫って、諦めていた期待に胸が張り裂けそうになった。

「……っ」

 そうしてやっと与えられた唇の柔らかな感触。渇いた心に、キラキラと星が散った気がした。

「アルトス。……おくち」

 口端、唇と何度かついばまれ、開口をねだられる。応えて薄く口を開けば、優しく唇を合わされた。しっとりと吸い付かれ、下唇の内側を舐められる。僅かに触れた唾液が、好ましいくらいに甘い。

 これがキスというものなのか。

 どうして良いかわからず、目を閉じされるがままにしていると、唇を離された。

「舌、出して。力は入れずに柔らかく。そのままお互いの舌先をくすぐるの。……できる?」

 手で視界を覆われたまま、何も考えず小刻みにこくこくと頷いた。甘い口付けが再開される。

 恐る恐る舌先が触れ合って、快感に似たくすぐったさが広がる。ずっと憧れてきた行為。今までにないぐらい胸に何かが満ちて、きっと湯のせいだ。どんどん頬が火照るのを感じた。

 魔女の舌、吸い付いてくる唇。いとも簡単に翻弄され、合間合間に漏れる無意識の喘ぎ。

「ん、……ぁ……、は……、ぁっ……」

 すると含み笑った魔女の唇に舌を挟まれ、ゆっくりと吸われ始めた。自分からも吸い付きたくなって、辛うじて我慢する。

「ぁ、ぁ、ぁっ……」

 ――きもちいい……。

 舌先までねっとりと。味わうように堪能され、唇が離れた。

「あ……」

 ……もっと。

「ふふ、上手だね。いい子」

 あやすように褒められて、渇いた心に何かが沁み入る。

「……はぁ……」

 だからなのか。ただの呼吸のつもりで吐いた息が、驚くほどとろけていた。

 喉を鳴らし焦れながら次の要求を待っていると、手が離される。不思議に思って瞬いて見れば、魔女はドアへ顔を向けていた。

「残念。アレがこっちに来ちゃう」

「アレ……? あっ」

 魔女が言う“アレ”は一つしかない。すぐさま頭が切り替わり、手足の末端に血液が巡る感覚がした。腕を伸ばし蛇口をひねれば、シャワーを通して温かな湯が頭上に降り注ぐ。

「俺の陰に隠れていろ」

 これが逃げ場のない風呂場で打てる最善手だ。念のためドアに背中を向け、浴槽のフチに腰掛ける。魔女が股の間に移動してきた。

「アルトス様」

 予告通りノック音が響き、ドアを隔てたすぐそばで従者の声がする。

「イーライ、どうした?」

 少しの違和感も感知されないよう、シャワーを止めることはしない。

「ご報告したいことがございます。地下の工房の件ですが」

「何かあったのか?」

「はい」

 視線を下げれば見えない顔がこちらを見上げ、小首を傾げていた。小動物のようだ。自然と手が伸び、安心させるため頬を撫でてやる。ついでに落ち着いてきた股間を手で隠した。

「何故かアルトス様の下着が一枚、作業台の上に置いてありました」

「――はぁっ!?」

 完全に忘れていた下着の存在。あまりの衝撃でフチからずり落ちそうになるが、踏ん張る。

「ど、どうしてそんなものが……!?」

 思わず顔をしかめ、片手で目元を覆い天井を仰いだ。降り注ぐ湯が、慰めるように肌を撫でていく。

「やはりアルトス様のご懸念どおり、屋敷内に魔女が潜伏している可能性がございます。そのため暫くの間メガネの使用頻度を増やしますが、ご了承いただけますでしょうか」

 やらかした。最悪の展開だ。突然の下着の出現により、魔女の存在を完全に気取られた。この提案を安易に拒否できない。

「……そうだな。そういう理由なら仕方ない」

 自責の念か、魔女が俺の左膝に頭を打ち付け始める。だとしてもやめろ、音を立てるな。額を親指で押して止めさせると、魔女は太ももに頭を預けてきた。

「ではもう少し地下を調べてまいりますので、御用があればエールをお呼びください」

「わかった」

 従者が立ち去る音がして、震えていた魔女は急に謝り始める。

「うわあぁ! ごめん! 枕はちゃんと持ってきたけど、下着のことは忘れてた……!」

「いや、俺も失念していた。五分で髪を洗って出るぞ。イーライが地下を改め終えるまでに、寝室か書斎に逃げて今後の方針を考える」

「任せて!」

 手を上げた魔女が指先をくるくると回すと、洗髪剤と石鹸が勝手に泡立てられ渦巻き、一瞬で全身洗い終わった。脱衣所に出て身体を拭いていると、濡髪も一瞬で乾く。

「便利だな」

「魔女だからねっ」

 得意げな魔女はその場でターンをし、回り終わる頃には着替え終わっていた。それは胸の下に装飾を兼用したベルトが巻いてある、最初の頃に着ていた黒ワンピースだった。

「それ、締め付け辛くないか?」

 こちらも着替え終わって、問う。

「え? あ、うーん。でももうこれしか無いし。オシャレでしょ?」

「似合っているとは思う」

 他意はない。視線を逸らした先に、ガラスの水差しが置いてあった。従者だ。嬉しい心遣いに感謝しつつ、被されていたグラスを手に取り注ぎ、口に運ぶ。

 適度に冷やされた水が心地よく喉を通り過ぎ、胃に落ちていった。

「私にも頂戴」

 それを良しとし、水を注ぎ直す。無言でグラスを渡そうとして、拒否された。

「そのグラスに私が口を付けて、アレが何も感知しないと言える?」

「洗えばいいだろ」

「洗ったことに気付かれて何か勘ぐられる可能性は?」

「……ないとは言えない、か」

 なるほど? そう言われたらそうなのか……?

 魔女への評価を改める。どう水を与えようか斜め下に視線を向けると、魔女は笑った。

「ほら、口移ししかないよね?」

「は? 不衛生だろ」

「私は気にしない。はやくぅ、アレが帰ってきちゃう」

 魔女への評価を元に戻した。最初からこれが狙いだったとしか思えない。半眼で睨むとおのが唇を指差し口を開閉――は、や、く――と動かしている。

「……」 

 見えないなりに後頭部へ左手を差し込めば、その感触は返ってくる。サラサラとした指通りの真っ直ぐな髪。長さは鎖骨くらいまでか。

「これは俺が望んだことじゃない……」

 グラスから水を含むと、求められたとはいえ自ら唇を合わせた。柔らかな感触に密かに鼓動が跳ねて、ゆっくりと流し込んでやる。

「んふふ」

 嬉しそうに魔女の喉が鳴って、心が湧いた。与え終わって唇を離すと、またねだられる。

「もう一口」

「……わかった」

 繰り返し口移しで水を与え、何となく舌を伸ばすと……待ち構えていたように舌先をくすぐられた。

「ん……、ふ……」

 覚えたばかりの行為。そちらに集中してしまい、口が戦慄く。そんな戯れのせいで僅かに水がこぼれ、魔女の白い指がそっと拭ってくれた。

「……っ」

 それを心地いいと感じ、不覚にも半身が勃ち上がる。だからバレないよう僅かに腰を引いて唇を離し、この行き過ぎた行為に区切りをつけた。

「もう良いだろ」

「んはぁ……」

 不必要なくらい悩ましげな吐息。きっとわざとだ。思わず抱き締めたくなるが――ゆっくりと手を離す。未練なんてない。

「お風呂上がりのお水、サイコーっ」

「それは良かった」

 そう、これくらいなら余裕で耐えられるんだ。大丈夫。すぐに魔女から離れ、水差しを元の位置に戻す。深呼吸をしていると背中をつつかれる感触がして、振り返った。

「アルトス。一応説明しておくと、私はご飯を食べなくても平気なの。でも栄養を摂れば傷の治りも早まるみたいで……」

「それなら摂取しない選択は無いな。量は約束できないが、どうにかして食料の調達も考える」

 大丈夫、慣れ合わないし心も寄せない。これは孤独な魔女へ施しを、この手が届く範囲で与えているだけ。そんな解釈で思考を止め、魔女の唇を見た。

 だってそうだろう。今は、今だけは。こいつは俺の庇護がなければ糾弾されて死んでしまう、俺だけの――。

「……移動するぞ。抱えてやるから、こい」

 しゃがんで、両手を広げる。

「ふふ、やったぁ!」

 嬉しそうに体重を預けられ、鼻孔をくすぐる花の香り。何となく、回した腕に力を込め、より身体を密着させた。

 今だけは、こいつは俺だけの。

 ――籠の中の、小鳥なんだ。
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