駆け込んできた男

闇河白夜

文字の大きさ
1 / 1

駆け込んできた男

しおりを挟む
 一、

 私の祖父である巌(いわお)さんのアパートに彼が駆け込んできたのは、冬のある晴れた日曜の朝でした。警備員をしている巌さんは、彼とは同じ現場で何度かご一緒した顔なじみでした。玄関のドアを背に息を切らせる彼に驚き、「いったいどうした」と聞くと、彼は日に焼けて黒ずんだ広い額に汗をにじませて言いました。

「すみません白井さん、かくまってください」
「なんだ斎藤、追われてるのか?」
 巌さんに聞かれて、斎藤さんはうなずきました。
「いったい誰に」
「それが――」

 いったん言葉を切り、彼は巌さんを飛び出そうな目で見据えました。その顔には、深い恐怖の色がありありと浮かんでいました。尋常ではないものを見た顔です。
「それが――言いにくいんですが」
 また途切れ、しばらく黙るので、巌さんはますます不可解になって、ちょっと強く言いました。
「いったい、どうした。大丈夫だ、誰にも言わんから、遠慮なく言ってみろ」
「それが、そいつ――」
 彼はいったん唾を飲みこむと、吐き出すようにこう言いました。
「人間じゃないんです」



 巌さんが会社を定年退職したあと奥さんを亡くし、そののち警備の仕事に就いてから、もう十年になります。仕事は主に、この東京武蔵野周辺の工事現場での交通誘導ですが、デパートなど施設の警備も何度かやっているベテランです。
 一方の斎藤さんは、同じ会社で五年ほどやっている後輩で、以前近い現場で終わった帰りに、家に一度来てお茶したことがあるくらいの仲でした。ずんぐりした体型に似合う平べったい顔の真ん中に、小さな目鼻と口の収まった特徴的な外見の男性で、巌さんが現場に着くと、遠くからでも簡単に彼だと識別できました。といっても彼の話では、警備員をやっていると周りを良く見る癖がつくので、たとえ遠くても、知り合いならすぐ判別できるくらいにはなるそうです。



 尋常でない雰囲気なので、巌さんは、「そこじゃ寒いし、とりあえず中に入れ」と言いましたが、斎藤さんは「ここでいいです」と玄関口に立ったまま、彼を見据えています。
 これはますます普通でないと思いましたが、相手は怯えてはいても言葉はしっかりしているし、わりと冷静に見えたので、仕方なく、そのまま話を聞くことにしました。

「すみません、朝から押しかけて。ですが――」
 彼はそう言って、いったん足元に目を落とし、またこっちを見て、続けます。
「こちらしか、行くところを思いつかなかったもので。巌さんにしか相談できないんです、こんなこと。笑うかもしれませんが、どうか聞いてください。
 あ、どうぞ座ってください。けっこう長くなりますから。




 ……子供連れの幽霊の話、ご存知ですか? ああ、この辺りをやってると、噂は聞きますよね。
 夜中、建設現場の敷地を、小さい女の子の手を引いた若い母親が歩いてる背中を作業員が見て、子供連れの女性が、こんな時間に、それもこんな場所にいるのはおかしい、と思って声をかけると、女が立ち止まり、体をこっちに向けるんです。その額からは血がだらだらとあごまで流れていて、いきなり首を右にきゅうっとかしげるんですが、生きた人間には、まず無理なほどの急角度まで、まるで割り箸をぽきんと折ったように大きくねじ曲げて、そのまま氷のような目でじっと彼を見つめたんです。手を引かれている女の子もこっちを向きましたが、白い小学校の制服を着て、黒いベレー帽を被ったその下には、ただ黒い空間があるだけで、顔がなかったそうです。

 彼がぞっとして身を引くと、女はくるりと背を向けて、また子供と一緒に歩き出し、囲いの向こうへ行って見えなくなりました。彼は怖いのを我慢してそっちへ行きましたが、もうそこには誰もいませんでした。しかしそこは行き止まりで、外に出るところなんかないんです。
 やはり、そいつらは人間じゃなかったのです。

 最近、これと似た話がいくつも出て、同じように真夜中に親子連れが工事現場の近くを歩いていて、警備員が近づくと壁に消えていったとか、別の現場では、二人が掘った深い穴の中に入っていくのを見て、作業員が慌てて中に入ると、そこには泥の壁だけで誰もいなかった……なんてのもあります。

 そいつらにはいくつか共通点があって、女は白のワンピースに黒いスカートで額から流血していること、女の子は私立の小学校らしい白の制服姿で黒いベレー帽を被り、首から上がぽっかりと抜け落ちたようにまっ黒で、顔が見当たらないんです。
 また誰かに会うと、女は必ず首をありえない角度にまで右に大きくねじ曲げて、相手をただじっと冷たく見つめます。そんなことが、ここ一ヶ月のあいだに、それもこの武蔵野の付近で何度もあったっていう噂が流れて、夜勤の連中はみんな怖がってました。

 ……ええはい、私も見ました。そうです、追われてるってのは、そいつらに、なんです。どうしてかっていうと、その、私はそいつらのことを知っているからなんです。
 ……はい、よく知ってます。忘れようがありません。だって私が――」
 そこでいったん黙ると、目が険しい光を放ち、こう続けました。
「だって私が――
 そいつらを、殺したんですから」



 巌さんは聞いて耳を疑いましたが、相手は真剣な顔で変わらずに見据えていて、これは本当だろうと思ったそうです。彼が何か言う前に、斎藤さんがまた口をひらきました。

「ひと月前のことです。土曜の晩に友達の黒崎と――あ、知ってますか、あのお調子者の黒崎です。そのほかに三人ほどで、あいつの自宅でどんちゃん騒ぎしまして――周りが畑なんで大丈夫だったんですが――。
 その晩は泊まって、家までひと駅だったんで帰りました。寝なかったんですよね、なんか興奮が止まらなくて。バカですよ、どうせ次は日曜だし、そこで昼まで潰れてたって構わなかったのに。

 明け方、みんな寝ちまったのに私だけ起きてて、結局一睡もせずにアパートに帰ったんです。そこで寝ちまえばよかったんですよ。でも、まだ目が冴えてて、口直しにコンビニでジュースでも買ってこようってんで、そのまま駐車場に行っちまったんです。ほんとにどうかしてたんですよ。車にキーを入れた時点でヤバいって気づいたはずなんです。ここまで泥酔してハンドルを握るバカいねえだろって。でも、ちょっとそこまでだし、歩きたくないし、いいやって……。

 私のアパートが、○駅の裏山の近くにあって、周りは林ばっかで人気がないってのも、バカやった原因になっちまいました。誰も見てねえし、いいかって。魔がさしたってのは、ああいうときを言うんですね。

 私は車を路上に出して、すぐ先の十字路まで一気にアクセルを踏んだんです。両側が林で葉がわんさと茂ってて、見通し悪いんですよ。なのにカーブミラーもろくに見ないで突っ切ったんです。朝七時ごろでした。

 気がついたときには、目の前に女の驚いた顔があって、あっとブレーキを踏んだときは、前からドンと衝撃が来て車体が揺れて、女は宙を勢い良く飛んでました。
 それで――十字路の先の右側に廃屋があるんですが、その前にある塀の向こう側に、女が吸い込まれるように入って落ちました。女のほかにもう一つ、小さい人間が一緒にぽーんと飛んで、そこに入りました。
 俺はもうすっかり血の気が引いて酔いが醒めちまって、車を降りると、とりあえず十字路の真ん中に戻って周りを見回しました。ここは全方位の遠くまで見通せますが、誰もいません。

 次に俺がなにをしたと思います? これが市民の安全を守る警備員のすることかと、聞きゃあ誰だってあきれるはずです。
 俺は直ちに車に戻ると、バックさせて駐車場に戻しました。そして物置から箒を持ってきて、また十字路まで歩いて来ると、何食わぬ顔で路上を掃きはじめました。そのときも、まるで神に愛されているかのように誰も通らなかったんです。
 もともと、アパートの住人くらいしか通らないような寂しいところですけど、あそこは自分のほかには三人の親子が住んでるだけで、しかも日曜に早起きする連中じゃないくらいのことは知ってました。

 タイヤの跡を掃いて消したあと、また誰もいないのを確認してから、さっきの塀に近づきました。分厚いコンクリの塀で、高さは大人の頭くらいで、そんなに高くないんですが、かなり年季が入ってて、下半分が墨でも塗ったように黒ずんでました。その向こう側は廃屋の木造の壁で、これも古くて真っ黒です。塀と壁の間はせいぜい五十センチかそこらで、さっきの親子連れは、その隙間に飛び込んじまったんです。

 塀の上に手をかけて、身を引き上げて恐る恐る中を覗くと、思わずうっと声が出ちまいました。塀と壁の隙間の下に、女の横顔があって、片目が恨めしそうにこっちをじっと見上げてるんです。しかもよく見ると、白い足が頭のずっと上のほうにあります。つまり、ここに入ったとき、首が折れて、とんでもない方向にひん曲がったんです。立っている人間の頭を、ひょいと上下逆さにしたような感じの、本当に酷い状態です。
 塀の隙間だから影になっているはずですが、そのときはどういうわけか、中に上から日でも差し込んでいるように、横たわる女の全身がよく見えました。そして、その隣に、娘だと思しき子供が挟まっていましたが、うつ伏せの頭に、少女らしい柔らかそうな髪がくしゃくしゃに乱れているのが見えました。
 その頭の下に、なにかどす黒いものがねっとりと溜まっているのが見えてぞっとしました。血です。おそらく、落ちたときに顔を強く打ったんでしょう。工事現場で目撃された少女の幽霊の顔が真っ黒で見えなかったのは、激しく損傷したせいかもしれません」


 あまりの話に、巌さんはあっけにとられながら聞いていましたが、斎藤さんは気にしていないように、よどみなく話し続けました。口調は自分が怯えたところでは声を震わせますが、そのほかは酷い場面でも、わりと淡々と話していました。

「わたしはすぐに降りて、また周りに誰もいないのを確認すると、すぐに箒を持ってアパートに引き返しました。今からあの死体をどうこうして証拠隠滅するのは、出来ないことはないですが、かなり危険です。たとえアパートの連中が来なくても、ここは狭くてもいちおう駅までの通り道だし、塀のところで何かしているときに、誰かが自転車なんかで通る可能性はあります。
 さっき塀を覗いてるときに来てもおかしくなかったし、いや、本当は誰かが後ろを通り過ぎたのに、動揺していて気づかなかったかもしれない。そうなると、死体発見現場を覗いてる奴がいたってことになり、立派な容疑者になって、すぐ近くに住んでいる私なんか、あっという間に足が付くでしょう。もっと言えば、車ではねたときに、どこかからそれを見ていた者がいたとしても、おかしくありません。

 とりあえず、駐車場に戻って車を調べました。私の車は、その存在自体が奇跡でした。あれだけの衝撃を受けたにもかかわらず、ボンネットは近くでよく見ないと分からないほどのへこみしかなく、車体のどこにも傷ひとつありません。ぱっと見、なんの問題もないみたいに見えます。ただ色が青黒いので気づきませんでしたが、バンパーのところをよく見ると、点々と黒い血がついていたので、急いで洗剤を持ってきて、雑巾に付けて拭き取りました。

 そのとき、左のサイドミラーの辺りに、なにか異物があるのに気づきました。そっちへ行ってよく見ると、なんとミラーの柄から子供用の小さいバッグがぶら下がっていたんです。さっきあの子をはねたときに、その手から飛んで、ここに引っかかったんでしょう。よほど慌てていたのもありますが、なぜ今まで気がつかなかったんだろう、と不思議でした。

 でも、それは運転席と反対側だったってのと、あともう一つの理由がありました。そのバッグの色がえらく薄くてボロボロで、明らかに古い奴だったんです。たぶん元は綺麗なピンクだったのが、色あせて、汚れで黄色っぽくなって、ひき逃げ犯が言うのもなんですが、よく小さい女の子にこんなの持たせるな、と思うくらいに貧相で粗末でした。それを見ると、なにかあの子の荒んだ家庭環境がうかがえます。
 ただ、色はあせても住所と名前はボールペンではっきり書いてありました。もちろんミラーから外して、部屋の押入れにしまいましたよ。住所と名前だけスマホに保存してね」


 話はだいぶ長くなり、ここへ来て三十分は経っていましたが、斎藤さんは寒さを感じないかのように、ドアから冷気の入る玄関に立ったまま話し続けています。ふと、それに気づいたように後ろをちらと見ました。

「今は真冬ですから」と、また前を見て、ぞっとするようなことを言いました。「あの塀の中にほっといても、しばらくは腐臭はしないだろう、と思いました。それでそっちはとりあえず放置して、まずは死んだ母子の家まで行ってみたんです。駅の向こう側で、けっこう近所だったんですが、顔はたぶん知りません。ただ、尋常でない表情しか知りませんから、あんがい駅前なんかで見かけたことが、一、二度はあったかもしれません。

 家を見て、その暗いことに驚きました。古いとかボロいとかじゃなく、なにか全体の雰囲気が沈んでるんです。私の精神状態のせいだったかもしれませんが、家の白い壁がねずみ色に見えるくらいのもんで、門から塀から、どこから見ても、なにか不吉といってもいいほどの、胸の奥にぐっと来るような嫌な感じがしたんです。

 向かいの家の前を箒で掃いているおばさんがいたので、興信所の探偵を装って話しかけました。幸いグラサンとニット帽で変装してたんで、安心でした。
 話を聞いて、思わず胸が高鳴りましたよ。この家には奥さんと女の子と、旦那さんの三人家族がいるんだが、越してきた頃は仲のいい夫婦に見えたのに、ここ数年は旦那が荒れだして、怒鳴って奥さんを殴りつける音が毎晩のように聞こえるときもあった。子供の泣き声はしなかったけど、家の中でただじっと耐えているのかと思うと、不憫でしょうがなかったそうです。

 それで最近、ついに奥さんがキレたのか、娘を連れて家を出ては帰ってくる、というのを何度も繰り返した。うちに帰る、二度と戻らない、って奥さんの叫びも聞いた。すると旦那はおう帰れ、俺は知らん、と言い返す。今朝も、奥さんが娘を幼稚園に送る前に言い合いする声がして――娘さんは家から制服姿で出てくるので、けっこういいところに通ってるみたい――、そんなこんなで、とにかく不幸な奥さんなんですよ……と、そのおばさんはべらべら喋ってくれました。

 この家を出る。
 二度と戻らない。

 私が胸を高鳴らせたのは、まさにこの言葉を聞いたときでした。家から出たがっていたのなら、いきなりいなくなっても不自然ではない。
 ただ、こういう女に暴力を振るう男はたいてい女に依存してますから、いざ帰ってこないとなると慌てて探すとは思いますが、まずは女の実家からでしょう。それでいなければ、女の知り合いを片っ端から当たると思います。で、最後に警察です。調べても、駅の向こうの林に囲まれた僻地に建つ廃屋の塀の中に挟まっているとは、簡単には分からないでしょう。死体が見つかるまでに、長い時間がかかるはず。

 これが狙い目でした。ひき逃げは、事件から時間が経つほどに、タイヤの跡、車の破片などの証拠がなくなって、立証が難しくなると聞きます。まして私の場合はタイヤ跡は消したし、車にダメージもなく、破片も残っておらず、おそらく目撃者もいません。何ヶ月も経ってから、何かの偶然で死体が発見されても、私が犯人だと分かる証拠は何一つ残っていないでしょう。
(こりゃあいい!)
 私は部屋に帰ると、もう踊らんばかりに喜びました。俺は大丈夫、絶対に捕まらない。ほとんど確信しました。

 だから、その一週間後くらいに、母子の幽霊の話を耳にしたときは、肝の芯からぞっとしたもんです。最初はそんなバカなと信じませんでした。でも自分では見てませんでしたが、自分の住んでいる辺りの現場で目撃されてるってのが、すごく嫌な感じで。
 噂を何度も聞くうち、まさか本当にあいつらが私を探してうろうろしてるんじゃないかって、だんだんそう思いだして、いても立ってもいられなくなりました。



 そこで、バカな話ですが、ネットで信用できそうな霊能者を探したんです。その先生は、恨みが理由と分かっていれば、こちらの事情を話さなくても、霊を浄化してくれると言っていて、実際に会ってみると、何か怪しげな壺だのお札なんかを買わせて、料金を上乗せしてくるような悪質な業者と違い、信用できる感じだったんで、もう藁にもすがる思いでお願いしました。

 彼は母子の霊が現れたという現場の数箇所へ行って、最も霊の痕跡が強い場所から――強い怨念を持つ霊は、出た場所に霊気などの痕跡が残るそうです――次に現れる場所を予想して、そこで待ち構えました。空気の冷たい、月がこうこうと照る晩だったそうです。そこはやはり工事現場でしたが、その日は休工で、誰もいませんでした。彼は砂場を歩く母子にパワーを送り、その魂を浄化しました。

 彼によると、この世に恨みが残っていても、それを晴らす必要はないそうです。よく『殺人犯を死刑にしても空しいだけ』ってのを聞いたことありませんか? 殺し返したからって、犠牲者が戻ってくるわけじゃない。
 で、彼はあいつらに、こう言いました。

『どんな恨みがあるかは知らないが、相手を罰してあなた方と同じ立場にしても、なんにもなりません。それよりは、むしろ相手にざんげさせて、生涯にわたり償いをさせ続けるのが一番いいのです。私が必ずそうさせます、だから、どうか私を信じて、このまま安らかにお眠りください』

 なんてふうに説得したんです。その熱心な言葉が通じて、母子の霊は消えたというのです。
 実に簡単でした。もう怯える必要はなくなったんですから。いえ、もちろん反省はしますよ。あとでお墓が建ったら、手ぐらいはあわせに行くつもりでした。

 ただ、その話をされた直後は、さすがに信じられなかったんです。でもその先生は本当にいい人で、料金は効果があってからでいい、とまで言ってくれました。
 そしてそれから一週間、なんと、あれだけ周りを騒がせていた母子の幽霊が、ぴたりと現れなくなったんですよ! まったく最高の先生だ、とそのときは思いましたね。
 ええ、そのときは……」


 ここまで一気に話して一息つくと、巌さんは斎藤さんの顔が、しおれたように暗く沈んでいるのに気づきました。それはあたかも、夏の日に外がまだ明るいと思っていて窓を見ると、実は驚くほど真っ暗闇になっていたような、唐突なものでした。そこで巌さんは、話がいよいよ本題に入ったと感じました。

 斎藤さんは少しすると、押し黙っていた口をひらきました。その声にはうっすらと、ある種の覚悟を帯びた、かすかな震えがありました。


 二、


「昨日の私の現場、○○デパートだったんです。あそこは前にも何度か入って勝手が分かってるし、たまたま常駐だった人が急な事故で駄目になって、私が臨時で入ったんです。嫌なことが続いてたし、たまに施設だと気分が変わると思ったんで、こっちは大歓迎でした。

 昨日が一日目で、あそこは――白井さんも確か入りましたね、前に――、ええと四階まであって、フロアもそんなに広くないんで、警備員は一人で充分なところです。昼間はそこそこ来るお客に売り場の案内をしたり、けっこう楽しくやりました。現場があったかいってのは、真冬にはほんといいですよ。時間が経つのを忘れます。

 日も早く暮れて外が真っ暗になると、店を閉めて私だけになりました。でもデパートの夜の見回りは、わりと気持ち悪いもんでしょう? 懐中電灯の光の中に、わっとマネキンの顔が出ると、ぎょっとしますよね。でも、そのときは自分の問題は解決してるし、なんの心配もいらないと思ってるから、もう口笛まで吹いて気楽に歩いてました。
 あれが起きるまでは……」


 彼の声は次第に低く重く、その小さな目と平たい顔に、うっすら恐怖の色がさしてきました。
「夜中の二時過ぎだったと思います。二階の婦人服売り場の隅々まで周って、次に三階に上がろうと思ったときです。フロアの奥にいたとき、いきなり背後のずっと遠くから、『カタカタカタ』という耳障りな金属音が聞こえてきて、思わず振り向きました。どうも売り場の真ん中からしているらしいんで、急いで行ってみました。
 近づいて音が大きくなると、これはどうもあれだな、とすぐ分かりました。しかしそれだとおかしい、ありえない、と思いながら、音のしている前に着いて、音を間近で聞くと、やはりそうだと確信しました。

 懐中電灯でさっと照らしました。ぎょっとしましたよ。思ったとおり、くだりのエスカレーターが勝手に動いて、上からステップをこっちにどんどん送っているんです。青黒い踏み板が、カタカタとうるさい機械音を立てて動いているのが、下からはっきりと見えます。もちろん、そんなはずがないんですよ、電源は全部落としてるんですから。あるいは勝手に動くような、何かほかの原因があったかもしれません。
 でもそのときは、そんなことを考える余裕がありませんでした。私は、ただただ嫌な気持ちになると、次に一気に悪い予感でいっぱいになって、その場に棒立ちになりました。

 私はエスカレーターの前に立って、降りてくる板の上に広がるどす黒い闇を、じっと見上げていました。そこに確実に何かがいるんです。気のせいじゃありません。あの黒い空間の向こう側に、背筋がぞっとするような、気味の悪いものが立っている。そういう気配が確実にあるんです。
 それは嫌でも、あのことを思い出させました。私がやった最悪のことです。でも、それは済んだことのはず。なぜ今さら。いや、もしかしたら、やはり駄目だったのでは。そうだ、やっぱり成仏などしておらず、あいつらは同じように俺を探していて、いよいよここへ――。

 恐怖と同時に、苛立ちが起きました。んだよ、あいつ、ちゃんと収めたんじゃねえのかよ。金だって払ったろうが。あのインチキ野郎。

 でも、いくら霊能者を恨んでも、もう遅いことがすぐに分かりました。踏み板の一番上に、いくつもの白くて細いものがひょこっと現れました。叫びそうになったのに声も出ません。ただ見上げて、それを食い入るように見つめていました。それは女の足と、脇に並ぶ小さな子供の足でした。それは『カタカタカタ』と鳴り続けるエスカレーターの上から、ゆっくりと降りてきます。白いひざが見え、黒いスカートが出て、それは徐々にこっちへ近づいてきます。

 私は一歩もそこを動けず、ただ息を呑んでそっちに電灯を向けたまま、飛び出そうな目で見つめるだけでした。女の腰の辺りが現れたとき、隣で手を引かれる女の子の首から上が見えましたが、噂どおり、両サイドに垂らすお下げの間に顔はなく、塗りつぶしたように真っ黒で、その上に白いベレー帽が浮くように乗っているだけでした。
 女が降りてくるにつれ、『カタカタカタ』いう音も次第に大きく、その響きに刺すようなまがまがしさを帯びてきました。それは二人の恐ろしい怨念の叫びに聞こえました。

 ついに女の胸が見え、首が見え――両側に垂らす髪の間に、蝋みたいに真っ白なあごがぬっと出ました。固く閉ざす口元が見えて、鼻が見えると、私はもう、全身がただ凍り付いて、ぶるぶる震えていました。相手の目を見たくないと思いましたが、目を閉じようとしても無理でした。ステップの音が『ガタガタガタ』と轟音になって、私に両側からなだれ込んできました。まるで海にいる未知の巨大生物の歯が鳴っているようです。大口をあけて今にも食いちぎろうとするかのようです。
 ついに女の目が見えました。しかし、それは刺すように冷え切った目ではありましたが、思ったほどのおぞましさは感じませんでした。
 二人が私の二メートルほど手前に来ると、いきなりエスカレーターがぴたっと止まりました。

 死んだような静けさが辺りを包み、女は私の向けるライトのぼうっとした光の中で、しばらく私と向き合っていました。
 と、不意に女の口元が大きく吊りあがり、目じりがぐっと下がって、悪意むき出しに、にやりと笑ったのです。私は凄まじい恐怖で縮み上がりました。その瞬間、女は自分の首をぐにゃりと大きく右に捻じ曲げ、ほとんど九十度の角度になって、ちぎれそうにぶらぶらさせながら、その逆さまの顔から、恨めしい上三白の目で、こっちをじっと見つめたんです。
 それは私が廃屋の塀の隙間を覗いたときに見た、あの姿そのものでした。

 それを見たとたん、私は絶叫してその場を駆け出しました。一階の従業員通路に飛び込み、必死に出入り口の扉に鍵を差し込んでいるときも、後ろにあいつらが迫っていることは分かっていました。私は死ぬ思いで外に出て、走りました。そのとき、白井さんのお宅がここから近いことを思い出して……
 それで、その、こうして来てしまったんです。

 今思えば、エスカレーターがあんなに大きな音を立てるはずがないんです。あれじゃ、まるで工場の機械がフル回転する音です。あれはたぶん、あの母娘の放つ凄まじい怒りだったんじゃないでしょうか。あれでは、今さらどんなことをしても、到底許してなんかもらえないと思うんです。

 白井さん、どうしたらいいでしょう。もう俺、どうすりゃいいか、まるで分からないんです」




 一部始終を聞いた巌さんは、さすがに驚きましたが、いったん目を閉じて考えてからひらくと、「自首しなさい」と言いました。
「こうなったら、もう罪を償うしかない。でなきゃ、そいつらはずっと追ってくる。これから警察に行こう。俺も出来るだけ証言するから」

 それを聞いて、斎藤さんはたちまち、まっ蒼になりました。
「け、警察の中にだって、あいつらは入ってきますよ! もっといい霊能者の先生じゃなきゃ、奴らをどうこうなんて――」
「ちがう、君の誠意を見せるんだ」と言い聞かせるように、「心から反省して手をあわせないと、相手は納得しない。相手をどうこうするんじゃなく、向き合わなきゃいかん。恐ろしいだろうが――」
「そりゃ恐ろしいですよ! あれを見てないから分からないんだ! あの、あいつの顔、目……」
 思い出して身を震わせます。
「あんなのを、また拝むなんて、冗談じゃない!」
「いいから、落ち着け」
 度を失う後輩を、巌さんはなんとかなだめようとしました。
「許してもらうよう、彼女たちにお願いする以外に、君に出来ることはないんだ。いや、出来なくたっていい。それでも精一杯やるんだ。それで通じなきゃ、それまでだ。
 とにかく頑張れ、俺もついてる。一緒に謝ろう。な?」


 そう言って手を差し出したそのとき、斎藤さんの目が大きく見開きました。振り向いた巌さんは、あるものを見て、背筋が凍りつきました。部屋の奥の窓に、逆さになった女の血まみれの顔が張り付き、恨めしそうな目でこっちをじっと見つめていたのです。顔は逆さなのに、下には両肩がはっきりとあります。首が大きく下に捻じ曲がっているのです。

「うわあああああやつが来たあああ来たあああああ!」
 斎藤さんは絶叫し、ドアから外に飛び出しました。あっと追ったときは遅く、彼は街道を走ってきたトラックにはね飛ばされ、向かいのマンションの壁に「ばん!」と叩きつけられて、ずり落ちました。


 人が集まってくる中、巌さんが近づいて見ると、彼は目をむいて血の海に横たわっていました。現場で軽い交通事故は何度も見ましたが、人が死ぬところは初めてで、それはあまりにも恐ろしい光景でした。

 でも一番ぞっとしたのは、死体の首が壁に激しく打ち付けられて、上下逆になるほどに凄まじく捻じ曲がっていたことです。(終)
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

意味が分かると怖い話(解説付き)

彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです 読みながら話に潜む違和感を探してみてください 最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください 実話も混ざっております

だんだんおかしくなった姉の話

暗黒神ゼブラ
ホラー
弟が死んだことでおかしくなった姉の話

意味が分かると、分からないと怖い話【体験談+】

緑川
ホラー
ショートショートの寄せ集め。 幻想的から現実味溢れるものなど様々、存在。 出来の良し悪しについては格差あるので悪しからず。

(ほぼ)5分で読める怖い話

涼宮さん
ホラー
ほぼ5分で読める怖い話。 フィクションから実話まで。

意味がわかると怖い話

邪神 白猫
ホラー
【意味がわかると怖い話】解説付き 基本的には読めば誰でも分かるお話になっていますが、たまに激ムズが混ざっています。 ※完結としますが、追加次第随時更新※ YouTubeにて、朗読始めました(*'ω'*) お休み前や何かの作業のお供に、耳から読書はいかがですか?📕 https://youtube.com/@yuachanRio

女子切腹同好会

しんいち
ホラー
どこにでもいるような平凡な女の子である新瀬有香は、学校説明会で出会った超絶美人生徒会長に憧れて私立の女子高に入学した。そこで彼女を待っていたのは、オゾマシイ運命。彼女も決して正常とは言えない思考に染まってゆき、流されていってしまう…。 はたして、彼女の行き着く先は・・・。 この話は、切腹場面等、流血を含む残酷シーンがあります。御注意ください。 また・・・。登場人物は、だれもかれも皆、イカレテいます。イカレタ者どものイカレタ話です。決して、マネしてはいけません。 マネしてはいけないのですが……。案外、あなたの近くにも、似たような話があるのかも。 世の中には、知らなくて良いコト…知ってはいけないコト…が、存在するのですよ。

意味が分かると怖い話【短編集】

本田 壱好
ホラー
意味が分かると怖い話。 つまり、意味がわからなければ怖くない。 解釈は読者に委ねられる。 あなたはこの短編集をどのように読みますか?

処理中です...