ここはチルアウトゾーン

闇河白夜

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プロローグ 深夜のビル

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 ここはチルアウトゾーン。アホでマヌケで不幸だが、限りなく優しく温かい人たちが住む世界……。




 俺ぐらい不幸な奴はいない、と芦沢一樹(あしざわ かずき)は人生を呪っていた。そりゃそうだ。このオフィスビルしかない孤島のような都心の一角にあるライブハウスで、スムーズジャズのライブを観たあと、街路のベンチに座って一服して感慨に浸ってたら、いきなり後ろからケツのポケットに差した財布を抜き取られ、しかもその犯人の後姿が、どう見ても十歳くらいのツインテの小学生の女の子! で、慌てて追ったら、どこぞのビルのあいているガラス戸の中に入られて、脇の階段を駆け上がった先の壁にあった丸時計の針が、なんと終電間際の時間をさしていた。これが不幸でなくて、なんだというのか。
 だが、もうこうなっては仕方ない。すべきは、あのガキを捕まえて、財布を取り返すことだけだ。

 一樹は警備員に出くわして捕まる危険も忘れ、階段を怒とうのように十階ほども駆け上がると、そこは最上階、おそらく屋上に通じる階段の入り口に――そのツインテのガキは、しれっと立っていたのだった。
 一瞬ストップした彼に、少女はやや小首をかしげ、ハの字眉のすまなそうな顔で言った。
「……やっぱ、怒ってる……?」
「あたりまえだろーがあああ――!」
 ついカッとなって出た怒鳴り声が聞こえたのか、はるか下からイラついた野太い声が響いてくる。
「……また、この前の泥棒か!」
「……野郎、今度こそ首の骨へし折ってやる! 問答無用だ!」

(じょ、冗談はヨシコさんですよ……!)
 一樹は恐怖に縮み上がった。説明すれば分かってもらえるような気配がみじんもない。捕まったら、本当に首を折られて人生終わりかもしれん。
 慌てていると、階段の少女が真顔で言った。
「逃げたほうがいいと思うよー」
「おめーのせいだろうが!」
 大声だすと聞こえるが、出たものはしょうがない。仕方なくガキの手を握って、屋上の階へあがる。扉は、やはりあかない。
(もうダメだ、殺される……!)
 そう思ったが、まだ望みはあった。そうだ、だいたい、なんでこのガキを連れてきたかといえば、つかまったら頭をかいて、「すいませんねー、こいつが入っちゃって、つかまえてたんすよ。いやもうほんと、お騒がせしましたぁ、てへぺろ」と舌を出すためだったのだ。そうか、だから無意識にこんな奴の手を引いて上ったのか。意外にやるじゃん、俺。
 そうだ、こうなったらもう、こいつに全ての罪をなすり付けるのだ。はっ、というか、なすりつけるもなにも、もともとこいつが全て悪いんだから、それで正しいんじゃねえか。
 それでも下からドスドスいう足音が上がってくると、恐怖で失禁しそうになった。ガキはというと、全ての悪の根源のくせに、平気そうな真顔で階段の下を眺めている。そこからは、正義の人殺したちの怒鳴り声が、地割れの底から這い上がるマグマのように響いてくる。
「……今度こそ逃がしゃしねえ! おい、まず俺がこいつを顔面に一発食らわすから、次はお前、足に一発頼むぜ!」
 カーン! という金属音がこだました。手すりを叩いたのだ、たぶん鉄の警棒で。
「おお、任しとけ! なあに、足の一、二本折ったって、どってことねえよな! 殺さなきゃいいんだからな!」
「おお、言い訳なんか聞くなよ、あんときゃ、それで逃げられたんだからよ! なにほざこうが、構わねえで半殺しだ!」
「おお、半殺しだ!」
 カーン! カンカーン!
(こ、ここはどこの地獄ですか……?)
 一樹は泣きたくなった。ここまで不幸だと、逆に笑えてくる……わけがない。

「……ねえ、ちょいと、お兄さん」
「うるせえよ、『ちょいと、お兄さん』って、おいらんかよ!」
 呼んできたガキに怒鳴ると、ガキは扉に小さい両手をついて言った。
「これ、あくかもしんない」
「えっ」
 ためしに押すと、確かにドア全体がわずかに動く。古くなっているのか、付け根の辺りがガタついているようだ。長期間、あけていない感じなので、錠がさびているのかもしれない。一樹と少女は扉の前に並び、両手をついて思いっきり押した。下からはガンガンと階段を駆け上がってくる音が迫る。
「だ、ダメだ、あかねえ」
「がんばんなさいよ! 最後まで、あきらめちゃダメよ!」
 全部おめーが悪いのに、なに励ましてんだよ! と思ったが、突っ込んでる暇はない。
 ついに追っ手は、この階まで来たらしい。
「ちっくしょう!」

 一樹は、こん身の力をこめて体当たりした。足音がやかましく数歩で階下に近づき、でかい図体の人間二人の影が現れたとき、扉は急に大きくひらき、冷たい夜の外気が入った。それと入れ替わりに男と少女が外に飛び出したが、屋上に出ても捕まるだけではないのか、とか考える余裕はなかった。というか、そんな考えはいっさい浮かばなかったし、実は外に出てからも、その心配をすることは、未来永劫、なかったのである。

 なぜなら、二人が出た場所は、高いビルの屋上ではなかった。そこは、夜ですらなかった。周りは真昼間の広大な荒地で、彼らはその真ん中にぽつんと立っている一個の掃除用具入れ、その奥行きが一メートルもない狭い木製の倉庫の戸をあけて、出てきたのである。下は明らかに地面だし、本当はそこがビルの上で、そういう構造になっている、とかいう気配はみじんもなかった。倉庫の中を見ても板張りの壁しかなく、外に出て周って見ると、自分らが今出てきた場所は、完全にただの狭い掃除用具入れだった。ビルのビの字もない。
 そもそも、今さっき夜中だったのに、上には太陽がさんさんと輝く、明るい真昼なのだ。まるで突然、違う場所へワープでもしたとしか考えられなかった。それも時間がまるで違うということは、少なくとも日本ではない。どこか遠い異国の地へ来てしまったのだ。


 一樹はがく然としてその場に膝をついたが、もっとショックを受けたのは連れの少女だった。さっき扉の前にいたときの威勢はどこへやら、目を見開いたままうつむき、頬を涙がボロボロ落ちてきた。
「……ど、どうしよう。私のせいで。ううっ、ごめんなさい。ごめんなさい……」
 途切れ途切れに言い、小さな両手で顔を覆っておえつするので、一樹はやりきれなくなった。月並みだが、泣きたいのはこっちだよ、と思った。
 だが、ここで一緒に泣くわけにはいかないし、そうなるほど子供でもなかった。彼は少女の前に行き、しゃがんで頭に手を置くと、目を閉じて言った。
「……もういいよ。悪いと思ってんなら、それでいい」
「で、でも、ここがどこだか分かんないし……うっ、うっ」
「なんでこうなったか分かんないけど、さっきの奴らからは逃げられたんだし、まあ助かったってことさ」と苦笑する。
「とりあえず、ここがどこだか調べないとな。ほら」
 そう言ってハンカチで涙を拭いてやると、少女が上目でおずおずと聞いた。
「お、怒ってないの……?」
「ああ」
 確かに怒りは不思議なほど治まり、静かな心地さえしていた。さっき屋上の扉を押しまくって体を動かしたせいで、すっきりしたのかもしれない。彼はふと、さんさんと輝く太陽を見上げた。
 しかし、とんでもないことになったな。
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