やさしいとんかつ

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厳しさと冷たさ

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 人間なんて社会なんて冷たい。辺りを見渡すとスマホを握ったまま歩く人の群れが、信号が変わるたびに一斉に動き出す。ここにいる誰もが他人に興味がないだろう。耳にはイヤホンをしており全ての音を遮断している。人間同士それぞれ見えないガラスの窓があるように思える。
 その窓が開く事はなく、周りで大きな声を出して話していても、常識から外れた事をしていても誰も一切反応する事はない。例え困っていたとしても。

 そんな冷たい群衆の中に消えそうなぐらい薄い存在感である俺が音もなく静かに紛れ込んでいた。会社に行くまでの道のりは重く、気持ちが悪い。常に心の中に何か潜んでいるように思える。少しでも気を抜けばその何かが吐きそうな気がするほどに。

 俺はある派遣会社に勤めている。数年前では、正社員として別の会社に勤めていたが人間関係に疲れ、いつでも逃げる事の出来そうな派遣会社に鞍替えした。社会という概念は冷たくて息苦しい。

  働いていれば、自慢、悪口、嫉妬、競争心、差別などプラスよりもマイナスの感情が至る所に溢れている。そんなドス黒い物に浸かっている内に俺の心は白から黒へと汚れていった。社会の中で生きる事に対しての苦しさを感じるようになっていた。人間なんて社会なんて冷たい物だ。分かっていても分かりたくないし、そうであって欲しくないという気持ちが僅かながらに残っているが今は風前の灯だった。





 連休の初日、目が覚めても布団から起き上がれなかった。
 仕事に行かなくていいのに、体は重く何かをしようという気持ちに中々なれない。布団にくるまり部屋の天井を眺める。折角の休みにも関わらず何かをする気力はなく、休日は何もせずに終わる事が多い。


 「……このままじゃダメだ」



 俺は気晴らしにどこか出掛けようと決意した。財布とスマホ、それに車のキーだけを持ってマンションを出た。
 行き先は決めなかった。都会の悍ましい何かから逃げるように車を走らせた。これは現実逃避でもあった。
 雑草のように生えているビルの谷間を抜け、高速道路に入る。流れる景色を見ていると、胸の中にたまっていた何かが少しずつほどけていくようだった。

 やがて高速を降りると、視界は一気に開けた。田んぼが広がり、稲穂が風に揺れている。遠くには山並み。都会では聞こえなかった鳥の声が、窓越しに届いた。自分が住んでいる国の景色や雰囲気が素晴らしかった事を少し感じた。

 行き先もない走行中に時計を見ると、すでに午後二時を回っていた。

 「腹、減ったな……」

 遅い昼食を取ろうと周囲を見回すが、目に入るのは古びた家並みばかりでコンビニすら見当たらない。

 仕方なく車を進める。腹の虫が鳴くたびに、少し焦りが募る。都会では選択肢が多すぎて迷うことはあっても、食べる場所に困ることはなかった。だが地方では、時間を逃せば何もないのだ。ここに来て無計画過ぎた自分の行動に怒りを感じた。



 食べ物がありつけるなら、どんな場所でも入るつもりで運転していると、道端に小さな看板が目に入った。
 「食事処 たそがれ」
 白いペンキは剥がれ、木の板も色あせている。少し抵抗はあったが空腹の俺はその古びたお店に入る事にした。
 お店の入り口の隣には狭い砂利の駐車場があり、そこに車を停めた。車から出た俺は改めて、目の前に見える古びた平屋の建物を観察した。瓦屋根はところどころ欠け、壁には時間の染みが刻まれている。

 入り口には小さな引き戸。ガラス越しに中の様子は見えない。古びたこのお店に不安が高まる。営業しているのか、見た感じお客さんが居るようには思えない。高まる不安の中、俺は賭けのような感覚で入り口のドアの取っ手を掴み左に引いた。

 カラン――。
 小さな鈴の音が静かな店内に響いた。



 中は薄暗く、窓際のテーブルが四つほど。壁には色あせたメニュー札が並び、テレビは消えたまま。時計の針の音がかすかに聞こえるほど、静まり返っていた。

 「いらっしゃい」

 奥から現れたのは、背の曲がった老人だった。
 白髪まじりの頭に割烹着。細い体に似合わぬほど、声ははっきりしていた。
 顔には深い皺が刻まれているが、その笑みは柔らかく、都会では感じた事のない"何か"を感じかけていた。

 「……食事、大丈夫ですか?」

 「ええ、まだやっとりますよ。どうぞお好きな席へ」

 促されるまま席に座ると、テーブルの上には手書きのメニュー表が置かれていた。紙は黄ばんで角が丸くなっている。

 「カレーライス」「親子丼」「ラーメン」――どれも昭和の頃から変わっていないような料理ばかりだ。
 そして、その中に「トンカツ定食」とだけ、素朴な字で書かれた一行があった。

 「トンカツ・・・・・・ひとつお願いします」

 俺自身なぜそれを選んだのかわからなかった。だが、口が勝手にそう言っていた。

 老人はにこやかにうなずき、ゆっくりと厨房へと消えていった。



 静まり返った店内に、やがて油の温まる音が微かに響いた。ジュワッ、と油が弾ける。
 その音を聞きながら、俺は窓の外を眺めた。小さな畑があり、風に揺れる赤い彼岸花が見えた。都会では決して見かけない景色だった。

 「……なんか、懐かしいな」

 都会で暮らすようになり、1人で暮らしが長い俺は食事に関してはコンビニか外食チェーンばかり。味よりも速さや楽さ、腹を満たすことだけが優先されていた。

 だが今は違う。
 厨房から漂ってくる香りに、心の奥がじんわりと温まっていくのを感じる。

 都会で過ごすうちに硬くなっていた自分の心が、少しずつほどけていく。そんな不思議な感覚だった。



 やがて老人が盆を手に戻ってきた。

 「お待ちどうさま。トンカツです」

 皿に盛られた黄金色の衣は、光を受けて輝いている。横には千切りキャベツとレモン。味噌汁の湯気がほわりと立ち上り、漬物の香りが鼻をくすぐる。

 俺は思わず息をのんだ。無意識に唾液が溢れ出る。今にも食べたいと思える食事を見たのは数年ぶりだった。食欲が刺激され腹がキツく締まるのが分かる。胃袋もこのトンカツを求めている。

 「……いただきます」

 箸を持つ手が震えた。都会での食事では決して味わえなかった感覚。
 この一皿が俺の中にずっと籠っていた何かを変えてくれそうなそんな予感がしていた。

 「人の優しさ」--それが、確かにここにはあった。都会の冷たい環境や息苦しさに囚われて閉じこもっていた俺にノックするように。
 俺はまだ一口も食べていないのに、なぜかそう確信していた。
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