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黎明事変 序章「邂逅」
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夜の校庭は、ひどく静かだった。
街灯の光さえ遠ざかり、砂の上の影が沈むように重い。風が止まり、世界の呼吸がどこかで途切れたように思えた。紅は校庭の中央に立ち、その指先に宿る微かな震えを自分の一部として受け止めていた。
私――神原紅(かんばら くれない)の胸の奥はざわついていた。恐怖とも興奮ともつかない熱がまだ抜けきらず、紅はその揺らぎを抱えたまま、夜の静寂に身を置いていた。
そのとき、目の前の影がゆっくりと揺れた。人の形をしているのに、顔だけが最初から存在しない。 その“何もない場所”が――ふいに、笑うように歪んだ。影は、表情のない顔で――笑った。風も声もないのに、その黒い輪郭だけが愉しげに震えていた。
紅の体は、うっすらと赤い燐光を帯びていた。指先から伸びた爪は黒く硬く、夜気を裂くためだけに尖って見える。瞳だけが闇の中で赤く灯り、紅はさきほどまでの自分とはもう違うと理解した。
紅は影へ向かって踏み出した。一歩で距離が消え、鋭利に伸びた爪が夜気ごと薙ぎ払われる。空気が裂け、影の端が細く割れ、その黒が淡い光の粒へと変わって散った。光は砂の上に触れる前に消え、世界の奥へと静かに吸い込まれていく。
――怖いの?
問いが落ちた。誰かが言葉を発したわけではなく、耳でもなく、血の奥――もっと古い場所で響いた。
――壊れるのが、怖いの? それとも、“壊してしまう”ことが。
光の残滓が胸に貼りつき、紅の呼吸をかすかに揺らした。胸元へ向かって、影の黒い“腕”が一直線に伸びた。紅は身を捩ってそれを躱す。刃のような気配が髪をかすめ、夜気が震えた。踏み込み直し、紅は影へ爪を突き立てる。だが影もその腕を持ち上げ、黒い輪郭で爪を受け止めた。闇と闇がぶつかるような鈍い衝撃が、紅の指先に走った。
衝撃の痺れが指先から腕へと駆け抜け、紅は短く息を吸う。怖いのに、抑えきれない熱が喉までせり上がる。その高鳴りを――紅はもう、拒めなかった。
爪の先で触れるたびに影が震え、その震えが光となって夜へ散り、紅の視界を淡い残光で満たした。壊れる瞬間のほうが、世界はずっと美しい。紅は、その事実に胸を掴まれるような感覚を覚えた。
闇が裂け、光が溢れ、そのわずかな瞬間にだけ、世界が“本当の姿”を見せてくれる。だから怖いのに目を離せず、震えるのにもっと触れたくなる。
破壊の衝動と、その直前にだけ立ちのぼる痛いほどの美しさが、紅の中で同じ形をして静かに重なった。あぁ――世界は壊したくなるほど、美しい。その言葉が胸の奥でそっと鳴り、紅はゆっくりと息を吐いた。
光の粒がゆっくりと落ちていく。紅の呼吸も、それに合わせるように静かに落ちついていった。世界の輪郭が一瞬だけ遠のく。爪先に残った微かな熱が意識のどこかを柔らかく溶かしていく。ふ、と視界が滲む。夜の校庭が揺れ、音のない波のように静かに引いていく。
『戻っておいで。』
確かにそう聞こえた。それは、あの夜の夢で聞いた声だった。
――――――
――――
――
◇
草原の中、遠く夜明けの空が覗く。ただ光が霧のように生まれては消え、静かに広がっている。
次の瞬間、紅は気づいた。――これは、夢の底だ。白とも灰ともつかない粒子が、水面のような靄となって漂い、指先よりも静かな呼吸で世界を満たしていく。
胸の奥に、理由のないざわめきが生まれる。痛みとも冷たさともつかない震えが、吸う息と吐く息のあいだでわずかに形を変え、世界の静けさだけがその揺れを際立たせていた。
――誰かに、見られている。その思いが胸に触れた瞬間、鼓動がひとつだけ強く跳ね、夢の空気が薄い膜のように震えた。
そのとき――靄の奥で光がふっと揺れ、滲む輪郭が人の影として立ち上がった。幼い面差しの少年。額から伸びる小さな角。赤い光を閉じ込めたような瞳だけが、霧の世界の中で確かな灯火のように揺れている。
「ようやく、会えたね。……紅。」
名を呼ぶ声が落ちた瞬間、靄がひと呼吸ぶん震え、世界そのものが私の名前を覚えたようだった。紅は息を呑む。胸が、不意に痛んだ。
「……だれ?」
「今は名乗らない。いつか君も知るだろうけれど。いまはそう、呼ばれたのは、君だから。」
少年は微かに笑った。 その笑みは哀しみよりも静かで、懐かしさにも似た遠さを帯びていた。
「呼ばれた……?」
「そう。世界が君を見ている」
霧の奥で、鈴の音が細く揺れる。
「見られてしまえば、君は定義される。でも――それを、受け入れるんだ。」
その言葉は光の粒のように胸へ落ち、遠い記憶を思い出させる残響として余韻を残し、恐れと懐かしさが同じ形をして静かに胸を満たしていった。
耳元を風が撫でる。 世界が、ゆっくりと呼吸をはじめた。
◇
目を開ける。 そこは自室のベッドの上だった。白い天井が、曖昧な光を返している。 窓の外では鳥のさえずりが聞こえる。 けれど、その声もどこか遠い。
夢だった―― そう思おうとしたが、胸の奥にまだ熱が残っていた。
皮膚の下で、光がかすかに揺れているような感覚。 それは痛みでも、温もりでもない。 “存在が呼吸している”というだけの事実。
紅は手のひらを見つめる。 夢の中で光を掬った指先は、もう何の跡も残していなかった。
紅は手のひらを見つめた。
夢の中で光を掬った指先は、もう何の跡も残していなかった。
胸の奥に、あの声が微かに蘇る。
――「呼ばれたのは、君だから。」
その響きが、まだ耳の奥に残っている。
何かを思い出しかけて、紅は首を振った。
あの言葉の意味を考えようとすると、胸の奥がざらりと痛む。
「……呼ばれたのは、私……?」
呟いた声が、空気に溶けて消えた。
それが自分の声なのか、夢の残響なのかも分からない。
枕元の風鈴が、小さく鳴った。 ひとつの音が部屋の空気を撫でて、すぐに消える。
夏の風ではなかった。 どこか、夢の中と同じ鈴の音。
紅は机の上の時計を見た。 秒針が正確に進んでいる。 なのに、時間そのものがまだ目を覚ましていないように感じられた。
鏡の前に立つ。 髪を梳かす手の動きが、自分のものではないように思えた。 どこかぎこちない。 そして、鏡の奥に映る瞳の色が一瞬だけ揺らぐ。
赤い光の欠片が、瞳の底に残っていた。 それは夢の名残なのか、それとも――。
紅は目を伏せて、息をひとつ吐いた。 「……行かなくちゃ。」
鞄を手に取る。 ドアを開けた瞬間、冷たい風が頬を撫でた。 それは現実の温度だったはずなのに、 どこか、夢の延長のようにも思えた。
足音が廊下に響く。 音があることに、少しだけ安心した。 音が在る――それだけで、今は現実だと信じられた。
玄関の扉を開ける。 朝の光が、霧のように流れ込んできた。
外は白く、世界がまだ息を整えている。 紅は一歩、道路へ足を踏み出した。
◇
――朝霧の坂道。
紅はひとりで歩いていた。
同じ制服を着た生徒たちは霧の向こうで列をつくり、同じ方向を見て、同じ速度で、
同じ温度の笑みをこぼしながら、決められた朝の軌道をなぞるように進んでいく。
街の輪郭はまだ眠りの膜をまとい、家々の影は淡い霧の層へゆっくりと溶け込み、遠くから聞こえる笑い声だけが、白く冷たい空気の奥へ吸い込まれるように消えていった。世界がはっきりと目を覚ます前の、かすかな“予備呼吸”が、坂道全体を満たしていた。
その光景のただ中にいながら――紅だけは、霧の底に沈んだ別の時間の層をそっと踏みしめるように、ひとり静かに、世界から半歩だけずれた歩幅で坂を下っているように感じられてならなかった。耳へ届く音はほんの刹那だけ遅れて聞こえ、笑うタイミングは糸がわずかに緩むように合わず、言葉を出す前の空気は、紅が触れるより早く冷めてしまう。その“ほんのわずかなずれ”が、誰にも気づかれないまま、しかし確実に紅を日常の外側へ押し出す力となっていた。
(目立たなければ、気づかれない。誰も、このズレに気づかない。)
紅は無表情を保ったまま、隣の生徒の歩幅にそっと歩調を合わせた。この小さな作業は、気づけば習慣になっていた。まるで世界に対して「私は普通だよ」と、静かに言い聞かせる儀式のように。
孤立するのが怖いのではない。その奥に潜む、もっと鋭く、もっと言い当てがたい恐怖――自分の内側にだけ密かに鳴り続ける、他人とは重ならない“異質な音”を、誰かに気づかれてしまうことのほうが、はるかに恐ろしかった。
信号が青へ変わる。周囲の生徒たちが一斉に歩き出す。紅も、ほんの半拍遅れて足を踏み出した、その瞬間だった。
世界が、視界の端でわずかに歪んだ。
看板の文字は、誰かが透明な定規でなぞったかのように几帳面に整列しすぎており、建物の影はどれも“同じ角度で傾く”という不自然な共通性を帯びていた。まるで自然の気まぐれが消え、見えない設計者が世界を微調整している途中のような、奇妙な均整。
(……まるで、誰かがこの世界を決めつけているみたい。)
胸の奥で、気泡が弾けるような微かな跳ねが生まれた。紅は思わず振り返った。そこに、“影”が立っていた。
人のように見える。シルエットは確かに“誰か”だ。けれど――顔が、なかった。
目鼻のあるべき場所が良闇のように暗く曖昧で、その曖昧さがむしろ“こちらを見ている”という事実を強烈に突きつけてくる。瞬きをした一拍のあいだに、その姿は霧へ吸い込まれるようにふっと消えた。世界が、深く息をひとつ吸い込む気配がした。
紅は歩みを止めなかった。ただ、足元のアスファルトに流れる冷気を感じながら、坂の傾斜に従って静かに身体を預ける。そのとき――空の奥で、鈴の音が微かに、かすれるように響いた。……あの声が、まだ残ってる。
“呼ばれたのは、君だから。”
夢の残響のように、胸の深い場所に沈んでいた言葉が、霧を吸い込む朝の空気といっしょにふわりと浮かび上がる。私は、その呼び声に――応えるのだろうか。
風が吹いた。霧が割れ、朝の光が揺れながら差し込んでくる。その光は、どこまでも優しく、それでいて、どこか冷たい。触れた瞬間、紅の輪郭をそっとなぞるように透き通り、世界の奥から静かに視線が送られているような感覚だけが残った。
紅は目を細めた。
――まるで、その光そのものが、世界という名の巨大な瞳になって紅を見つめているようで。
街灯の光さえ遠ざかり、砂の上の影が沈むように重い。風が止まり、世界の呼吸がどこかで途切れたように思えた。紅は校庭の中央に立ち、その指先に宿る微かな震えを自分の一部として受け止めていた。
私――神原紅(かんばら くれない)の胸の奥はざわついていた。恐怖とも興奮ともつかない熱がまだ抜けきらず、紅はその揺らぎを抱えたまま、夜の静寂に身を置いていた。
そのとき、目の前の影がゆっくりと揺れた。人の形をしているのに、顔だけが最初から存在しない。 その“何もない場所”が――ふいに、笑うように歪んだ。影は、表情のない顔で――笑った。風も声もないのに、その黒い輪郭だけが愉しげに震えていた。
紅の体は、うっすらと赤い燐光を帯びていた。指先から伸びた爪は黒く硬く、夜気を裂くためだけに尖って見える。瞳だけが闇の中で赤く灯り、紅はさきほどまでの自分とはもう違うと理解した。
紅は影へ向かって踏み出した。一歩で距離が消え、鋭利に伸びた爪が夜気ごと薙ぎ払われる。空気が裂け、影の端が細く割れ、その黒が淡い光の粒へと変わって散った。光は砂の上に触れる前に消え、世界の奥へと静かに吸い込まれていく。
――怖いの?
問いが落ちた。誰かが言葉を発したわけではなく、耳でもなく、血の奥――もっと古い場所で響いた。
――壊れるのが、怖いの? それとも、“壊してしまう”ことが。
光の残滓が胸に貼りつき、紅の呼吸をかすかに揺らした。胸元へ向かって、影の黒い“腕”が一直線に伸びた。紅は身を捩ってそれを躱す。刃のような気配が髪をかすめ、夜気が震えた。踏み込み直し、紅は影へ爪を突き立てる。だが影もその腕を持ち上げ、黒い輪郭で爪を受け止めた。闇と闇がぶつかるような鈍い衝撃が、紅の指先に走った。
衝撃の痺れが指先から腕へと駆け抜け、紅は短く息を吸う。怖いのに、抑えきれない熱が喉までせり上がる。その高鳴りを――紅はもう、拒めなかった。
爪の先で触れるたびに影が震え、その震えが光となって夜へ散り、紅の視界を淡い残光で満たした。壊れる瞬間のほうが、世界はずっと美しい。紅は、その事実に胸を掴まれるような感覚を覚えた。
闇が裂け、光が溢れ、そのわずかな瞬間にだけ、世界が“本当の姿”を見せてくれる。だから怖いのに目を離せず、震えるのにもっと触れたくなる。
破壊の衝動と、その直前にだけ立ちのぼる痛いほどの美しさが、紅の中で同じ形をして静かに重なった。あぁ――世界は壊したくなるほど、美しい。その言葉が胸の奥でそっと鳴り、紅はゆっくりと息を吐いた。
光の粒がゆっくりと落ちていく。紅の呼吸も、それに合わせるように静かに落ちついていった。世界の輪郭が一瞬だけ遠のく。爪先に残った微かな熱が意識のどこかを柔らかく溶かしていく。ふ、と視界が滲む。夜の校庭が揺れ、音のない波のように静かに引いていく。
『戻っておいで。』
確かにそう聞こえた。それは、あの夜の夢で聞いた声だった。
――――――
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草原の中、遠く夜明けの空が覗く。ただ光が霧のように生まれては消え、静かに広がっている。
次の瞬間、紅は気づいた。――これは、夢の底だ。白とも灰ともつかない粒子が、水面のような靄となって漂い、指先よりも静かな呼吸で世界を満たしていく。
胸の奥に、理由のないざわめきが生まれる。痛みとも冷たさともつかない震えが、吸う息と吐く息のあいだでわずかに形を変え、世界の静けさだけがその揺れを際立たせていた。
――誰かに、見られている。その思いが胸に触れた瞬間、鼓動がひとつだけ強く跳ね、夢の空気が薄い膜のように震えた。
そのとき――靄の奥で光がふっと揺れ、滲む輪郭が人の影として立ち上がった。幼い面差しの少年。額から伸びる小さな角。赤い光を閉じ込めたような瞳だけが、霧の世界の中で確かな灯火のように揺れている。
「ようやく、会えたね。……紅。」
名を呼ぶ声が落ちた瞬間、靄がひと呼吸ぶん震え、世界そのものが私の名前を覚えたようだった。紅は息を呑む。胸が、不意に痛んだ。
「……だれ?」
「今は名乗らない。いつか君も知るだろうけれど。いまはそう、呼ばれたのは、君だから。」
少年は微かに笑った。 その笑みは哀しみよりも静かで、懐かしさにも似た遠さを帯びていた。
「呼ばれた……?」
「そう。世界が君を見ている」
霧の奥で、鈴の音が細く揺れる。
「見られてしまえば、君は定義される。でも――それを、受け入れるんだ。」
その言葉は光の粒のように胸へ落ち、遠い記憶を思い出させる残響として余韻を残し、恐れと懐かしさが同じ形をして静かに胸を満たしていった。
耳元を風が撫でる。 世界が、ゆっくりと呼吸をはじめた。
◇
目を開ける。 そこは自室のベッドの上だった。白い天井が、曖昧な光を返している。 窓の外では鳥のさえずりが聞こえる。 けれど、その声もどこか遠い。
夢だった―― そう思おうとしたが、胸の奥にまだ熱が残っていた。
皮膚の下で、光がかすかに揺れているような感覚。 それは痛みでも、温もりでもない。 “存在が呼吸している”というだけの事実。
紅は手のひらを見つめる。 夢の中で光を掬った指先は、もう何の跡も残していなかった。
紅は手のひらを見つめた。
夢の中で光を掬った指先は、もう何の跡も残していなかった。
胸の奥に、あの声が微かに蘇る。
――「呼ばれたのは、君だから。」
その響きが、まだ耳の奥に残っている。
何かを思い出しかけて、紅は首を振った。
あの言葉の意味を考えようとすると、胸の奥がざらりと痛む。
「……呼ばれたのは、私……?」
呟いた声が、空気に溶けて消えた。
それが自分の声なのか、夢の残響なのかも分からない。
枕元の風鈴が、小さく鳴った。 ひとつの音が部屋の空気を撫でて、すぐに消える。
夏の風ではなかった。 どこか、夢の中と同じ鈴の音。
紅は机の上の時計を見た。 秒針が正確に進んでいる。 なのに、時間そのものがまだ目を覚ましていないように感じられた。
鏡の前に立つ。 髪を梳かす手の動きが、自分のものではないように思えた。 どこかぎこちない。 そして、鏡の奥に映る瞳の色が一瞬だけ揺らぐ。
赤い光の欠片が、瞳の底に残っていた。 それは夢の名残なのか、それとも――。
紅は目を伏せて、息をひとつ吐いた。 「……行かなくちゃ。」
鞄を手に取る。 ドアを開けた瞬間、冷たい風が頬を撫でた。 それは現実の温度だったはずなのに、 どこか、夢の延長のようにも思えた。
足音が廊下に響く。 音があることに、少しだけ安心した。 音が在る――それだけで、今は現実だと信じられた。
玄関の扉を開ける。 朝の光が、霧のように流れ込んできた。
外は白く、世界がまだ息を整えている。 紅は一歩、道路へ足を踏み出した。
◇
――朝霧の坂道。
紅はひとりで歩いていた。
同じ制服を着た生徒たちは霧の向こうで列をつくり、同じ方向を見て、同じ速度で、
同じ温度の笑みをこぼしながら、決められた朝の軌道をなぞるように進んでいく。
街の輪郭はまだ眠りの膜をまとい、家々の影は淡い霧の層へゆっくりと溶け込み、遠くから聞こえる笑い声だけが、白く冷たい空気の奥へ吸い込まれるように消えていった。世界がはっきりと目を覚ます前の、かすかな“予備呼吸”が、坂道全体を満たしていた。
その光景のただ中にいながら――紅だけは、霧の底に沈んだ別の時間の層をそっと踏みしめるように、ひとり静かに、世界から半歩だけずれた歩幅で坂を下っているように感じられてならなかった。耳へ届く音はほんの刹那だけ遅れて聞こえ、笑うタイミングは糸がわずかに緩むように合わず、言葉を出す前の空気は、紅が触れるより早く冷めてしまう。その“ほんのわずかなずれ”が、誰にも気づかれないまま、しかし確実に紅を日常の外側へ押し出す力となっていた。
(目立たなければ、気づかれない。誰も、このズレに気づかない。)
紅は無表情を保ったまま、隣の生徒の歩幅にそっと歩調を合わせた。この小さな作業は、気づけば習慣になっていた。まるで世界に対して「私は普通だよ」と、静かに言い聞かせる儀式のように。
孤立するのが怖いのではない。その奥に潜む、もっと鋭く、もっと言い当てがたい恐怖――自分の内側にだけ密かに鳴り続ける、他人とは重ならない“異質な音”を、誰かに気づかれてしまうことのほうが、はるかに恐ろしかった。
信号が青へ変わる。周囲の生徒たちが一斉に歩き出す。紅も、ほんの半拍遅れて足を踏み出した、その瞬間だった。
世界が、視界の端でわずかに歪んだ。
看板の文字は、誰かが透明な定規でなぞったかのように几帳面に整列しすぎており、建物の影はどれも“同じ角度で傾く”という不自然な共通性を帯びていた。まるで自然の気まぐれが消え、見えない設計者が世界を微調整している途中のような、奇妙な均整。
(……まるで、誰かがこの世界を決めつけているみたい。)
胸の奥で、気泡が弾けるような微かな跳ねが生まれた。紅は思わず振り返った。そこに、“影”が立っていた。
人のように見える。シルエットは確かに“誰か”だ。けれど――顔が、なかった。
目鼻のあるべき場所が良闇のように暗く曖昧で、その曖昧さがむしろ“こちらを見ている”という事実を強烈に突きつけてくる。瞬きをした一拍のあいだに、その姿は霧へ吸い込まれるようにふっと消えた。世界が、深く息をひとつ吸い込む気配がした。
紅は歩みを止めなかった。ただ、足元のアスファルトに流れる冷気を感じながら、坂の傾斜に従って静かに身体を預ける。そのとき――空の奥で、鈴の音が微かに、かすれるように響いた。……あの声が、まだ残ってる。
“呼ばれたのは、君だから。”
夢の残響のように、胸の深い場所に沈んでいた言葉が、霧を吸い込む朝の空気といっしょにふわりと浮かび上がる。私は、その呼び声に――応えるのだろうか。
風が吹いた。霧が割れ、朝の光が揺れながら差し込んでくる。その光は、どこまでも優しく、それでいて、どこか冷たい。触れた瞬間、紅の輪郭をそっとなぞるように透き通り、世界の奥から静かに視線が送られているような感覚だけが残った。
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