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3話 記憶の欠片と沈黙の誘い
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「こんにちは、リリー。そっちの君は……」
リリーを見る甘やかな瞳が瞬時に冷え、鋭く射抜くような視線をヴィンセントはセドリックに向ける。凍てついた眼差しに、セドリックはごくりと唾を飲み込むと、震える唇を叱咤しながら声を絞り出す。
「……俺は、第一魔法騎士団所属のセドリック・モンターニュと申します。遠方よりお越しの殿下にお目にかかれ、大変光栄に存じます」
剣から手を離すと、騎士らしく胸に右手を当て、深々と頭を垂れた。ヴィンセントは黙ってその挨拶を聞き終えると、じっとセドリックのことを頭の先からつま先まで観察する。
気まずい沈黙が続いた後、不意にヴィンセントは纏う雰囲気を和らげた。
「よろしく、セドリック。よければ俺にもリリーのように気軽に話してくれないか」
「え、えっと……それは…………」
薄く唇を引き延ばして笑うヴィンセントの言葉に、セドリックは困惑しリリーに助けを求めるように視線を送る。リリーは心の中でため息を吐きながら、彼のために前に出る。
「ヴィンセント殿下、お戯はおやめください。セドリックの立場もお考えいただけると幸いです」
「リリーにそう言われてしまっては仕方がないね。セドリックも困らせてすまない」
王族の謝罪にセドリックは「いえ、俺は……」と言いながら視線を彷徨わせる。いつもの余裕そうな態度とは違い、困惑と動揺が隣にいるリリーにも伝わってくる。
リリーはセドリックのことを気にかけながら、目の前の男のことを考える。
――どうして、このタイミングでヴィンセント殿下がここにきたのかしら。それに、私たちの話はどこまで聞かれていた……?
全身を緊張で包み、警戒心を剥き出しにするリリー。その姿に、彼は愉快そうに喉の奥で笑みを転がした。
「そんなに警戒しないで、リリー」
「……私は、ヴィンセント殿下とどこかでお会いしたことがありましたか?」
「うーん、どうだろう。会ったことがあると言えばあるし、ないと言えばないかもね」
はぐらかすような言い方にリリーは瞳に鋭い光を宿す。はっきりとしない態度にモヤモヤとした気持ちになるが、ヴィンセントが一歩踏み出してきたことで意識が持っていかれた。
「リリーが覚えていなくても、俺は覚えているよ」
何を――と考えていると、彼はどこか影のある笑みを浮かべた。
「「物語」を飛び出し、少女は新しい人生を歩み始める」
その言葉にリリーは大きく目を見開く。なぜヴィンセントが「物語」の話をしたのか。彼は「物語」について何か知っているのだろうか。
リリーが口を開くよりも先に、庭園の入り口から男が現れた。
「殿下、こちらにいらしたのですね」
「あぁ、ガレス。何か用だった?」
「用、というより、殿下の護衛騎士なのでおいていかれると困ります」
「あはは、確かにそうだ。でも、ここにリリーがいたからさ」
ヴィンセントは少しだけ体をずらしてリリーとセドリックがガレスに見えるようにする。すると、ガレスは少しだけ首を傾けて、探るような瞳で二人を観察する。敵意を測るようなものではなく、ただ好奇心に満ちた眼差しだった。
「……あぁ、殿下がよく話されていた令嬢ですか。お目にかかれて光栄です」
ガレスは姿勢を正すと、騎士らしく礼をする。
「彼はガレス・レイヴハート。俺の護衛騎士で、あまり表情は変わらないけど感情豊かなやつだよ。ガレス、こちらがリリー、そして護衛のセドリックだ」
「こんにちは、ガレス様」
「ガレスで結構です。というか、名前よりも家名で呼んでくれた方が俺の精神衛生上も助かります」
ヴィンセントの顔を伺いながらガレスは乱暴に頭をかく。リリーは戸惑いを浮かべた表情を見せるが、それ以上ガレスが言葉を発することはなかった。
「それで、ガレスは俺を呼びにきたのか?」
「いえ、殿下の姿が見えなくなったので探しにきただけです。まぁ、定期連絡の時間ではありますが」
ガレスは腰につけていた懐中時計を開くとヴィンセントに見せる。その時計を見てヴィンセントは「ああ、そんな時間か」と呟いたが、リリーの方を見て名残惜しそうな表情を見せる。
「今日くらい遅れても、問題ないだろ」
「どうですかね。殿下の外出の条件を破られたら、あの方はどう思われるか」
明るく笑うヴィンセントにガレスは時計をポケットにしまいながら淡々と話す。あの方、という言葉にヴィンセントの顔色が曇り、一瞬嫌そうに顔を顰めた。
「あの人は少し過保護なんだよ」
「過保護、ですか。それよりも、リリー様に対してご執心なんじゃないですか? 殿下の話よりも――」
「ガレス」
和やかに話していた二人だが、ガレスがリリーの名前を出したところでヴィンセントは冬の冷気のように冷たい眼差しを見せる。その視線を真正面から受けたガレスはわずかに目を見開いたかと思うと、「失言でした」と言って謝罪の意味を込めて頭を垂れる。
「――誰が、私にご執心なのですか?」
二人のやりとりをそばで聞いていたリリーはすかさず尋ねる。しかし、振り返ったヴィンセントは張り詰めるような雰囲気を一変させ、人の良さそうな笑みを浮かべてリリーを見る。
「なんでもないよ、リリー。気にしないで」
隠された、とリリーは気がつく。自分のことを話すのに、詳細を語ろうとしないヴィンセントに少しだけ嫌な気持ちになる。
まるで、自分の知らないところで大きい何かが蠢いている、そんな感覚がして気持ち悪さすら感じる。
「ごめんね、リリー」
些細な不満を抱えていると、それに気がついたのかヴィンセントが謝ってくる。そして、リリーの柔らかな髪をひと撫ですると、内に秘める感情を隠すように目尻を下げて微笑む。
「今はまだ話せないけど、ちゃんと君に話すから。全部、これからのことも、これまでのことも」
許しを乞うような声色にリリーはなぜか何も言えなくなる。本当なら、食い下がってでも彼の知っていることを洗いざらい吐かせたいところだった。
「……ヴィンセント殿下は、どうして――?」
「それは、俺がリリーのことを愛しているからさ」
ヴィンセントはリリーの困惑する気持ちを分かった上で、愛しさを滲ませた笑みを浮かべる。その笑顔をリリーは見たことのあるような既視感を覚える。それがいつのことなのかはわからない。太陽の光に照らされた、命の煌めきが満ちる世界で、その笑顔の持ち主とリリーは――。
そこまで考えて、リリーはハッと意識を現実に戻す。掴みかけた記憶の欠片は気がつけばずっと遠くに行ってしまう。その様子を見ていたヴィンセントは変わらず微笑むだけだった。
「さぁ、そろそろ俺たちは行くね。また、会いに行くね、リリー」
ヴィンセントは呆然とするリリーに手を振ると、何事もなかったようにガレスを伴って庭園から去っていく。その後ろ姿を見送りながら、リリーは混乱する頭で必死に考える。
「……なんだったんですかね。リリー様?」
二人の姿が完全に見えなくなるとセドリックは詰めていた息を吐き出す。そして、緊張で震えそうになる体を押さえ込みながらリリーの方を向いた。
その瞬間、リリーは張り詰めていた糸が切れたようにその場に座り込む。突然のことに狼狽えたセドリックが、リリーの容体を確認しようとして、目を見開く。驚いたような表情を浮かべるセドリックに、リリーがきょとんとした顔を見せると、彼は思わずといったように口を開く。
「リリー様、どうして泣いてるんですか?」
「……え?」
セドリックの焦りと心配を含んだ言葉にリリーは自分の頬に手を伸ばす。すると、冷たい感触が手に伝わった。リリーはセドリックの言葉通り、涙を流していた。
「……どう、して? なんで」
――なんで、ヴィンセント殿下のことを考えると胸に苦しさが広がるの?
ヴィンセントの姿を心の中で浮かべるだけで、きゅうっと胸が締め付けられる。これまでの人生で一度も感じたことのない感覚にリリーはどうしていいかわからず黙り込むしかなかった。
何も話さず涙をこぼし続けるリリーにセドリックは困惑しながらも、その背中をそっと撫でる。そこから伝わる温もりは優しかったが、リリーの求めている温かさとは少し違った。その些細な差異が余計にリリーに深い悲しみを与える。
――私は、彼のことを知っているの?
その疑問の答えを持っているであろう男は、もうリリーの目の前にはいなかった。
*
華麗に飾り立てられた、贅を尽くした部屋の中。華麗な装飾も今は冷たい棺のようだった。締め切られた暗い部屋の中で、カーテンの隙間からわずかに差し込む光だけが、彼を照らしている。
ルイスは一人で使うには大きすぎるベッドの上で蹲っていた。
初めて自分で選んだ人――ジュリエットに裏切られ、何を信じればいいのかわからなくなる。
ただ、より良い明日を信じて進んだだけだったのに、ルイスの手元に残ったのは父から向けられた失望の視線だけだった。
「どうして、俺は……」
これまでルイスは勉学、剣の鍛錬などあらゆることにおいて努力をしてきた。自分で選ぶことのできない人生だったが、それでも父や国民の期待に応えられるのであれば、それでもいいと思っていた。
リリーとの婚約も、二人が幼いときに決められた、いわば血統を繋ぐためのものだった。
リリーは幼い頃から美しく、また、物怖じしない人だった。自分が間違っていると思ったことは必ず指摘するし、絶対的な自信を持ち合わせていた。だけど、それが似合うだけの努力ができる人でもあった。
幼い頃はそんなリリーのことを尊敬していたし、彼女とならきっとうまくやっていけるだろうと思っていた。
だけど、ある時を境にリリーの態度は一変した。
まるで人が変わったように、驕りを身に纏い、人を見下すような眼差しを向けるようになった。身分など関係なく分け隔てなく付き合っていたのに、いつしか社交界でも権力の強い人とばかり繋がるようになり、ルイスのことですら時折、鋭い視線で見ることがあった。
何度か彼女に苦言を言ったこともあったが、リリーはルイスの言葉なんて届いていないように、態度を改めることはなかった。
心が疲弊し、リリーに愛想を尽かし始めたときに出会ったのが、ジュリエットだった。
春の日差しのような微笑みを浮かべ、ルイスへの好意を隠さなかった彼女に、ルイスの心が傾いていくのも早かった。
だけど、王子としての立場を忘れたことはなかった。この恋が結ばれることがないことも、頭では理解していた。
リリーが思い出したようにルイスの行動を責め立てるまでは。
「……はは、結局正しいのは彼女だったってことか」
グシャリと前髪を乱雑に掴む。彼女が正しかったという結果に、胸の奥がざわめく。そこにあるのは後悔ではなく、悔しさだった。
あの日、いくら言ってもルイスの言葉には耳を貸さなかったのに、リリーはルイスが自分の言う通りにして当然かのような態度を見せた。
ジュリエットは危険だ、と進言したリリーの言葉をルイスは鼻で笑い飛ばした。それが、間違いであったことは、今のルイスの現状が物語っているが。
「どこで、間違えてしまったのか……それとも、ずっと無駄だったのか……」
膝を抱きしめながら、胸の奥の嗚咽を必死に閉じ込める。涙を流せば余計に惨めな気分になる気がした。
「あなたは、何も間違えていません」
「……!?」
誰もいない部屋にルイス以外の声が響き、驚いて顔をあげる。その声は、柔らかく、しかし血の気のない氷のような響きだった。
視線の先、窓のそばには黒いマントに身を包み、顔を隠した誰かが立っていた。
「貴様、何者だ……!」
ルイスは身構えながら外に控えている護衛の兵士を呼ぼうとする。しかし、それよりも先に謎の人間は手に持っていた杖を掲げる。
「閉ざせ、音なき帳よ――《ヴェール・オブ・サイレンス》」
謎の人間が詠唱し終えると、全ての音が一瞬で吸い込まれたように消えた。外から聞こえていたざわめきも、ルイスの呼吸の音すら全てが飲み込まれて、ただ重苦しい沈黙だけがその場に残る。
しまった――と思ったときには全てが遅かった。
謎の人間は掲げていた杖をゆっくりとルイスに向ける。まるで、いつでもあなたを殺せますよ、と言うように。
ルイスは張り詰めた沈黙の中、感情を押さえつけるように唾を飲み下した。
「あなたは、何も間違えていません――間違えたのは、真実を見抜けなかった世界の方なのですから」
緊張から顔を強張らせるルイスにその人物は歌うように告げる。ルイスは何が言いたいのか、相手の意図が分からず怪訝そうな表情を浮かべた。
「「物語」に縛られた悲しき人生――その一生を終わらせ、あなただけの、あなたが主人公の「物語」を手に入れましょう!」
謎の男は杖を持っていない方の手をルイスに差し出す。その態度や言葉から、ルイスがその手を取ると確信しているようだった。
「さぁ、今度はあなたが世界を変える番です」
ルイスは見えない顔の下で、その人物が愉悦をたたえ、何かを企むような笑みを浮かべているのが見えた気がした。
世界を変える――その言葉が、音の消えた部屋にゆっくりと沁み込んでいった。
リリーを見る甘やかな瞳が瞬時に冷え、鋭く射抜くような視線をヴィンセントはセドリックに向ける。凍てついた眼差しに、セドリックはごくりと唾を飲み込むと、震える唇を叱咤しながら声を絞り出す。
「……俺は、第一魔法騎士団所属のセドリック・モンターニュと申します。遠方よりお越しの殿下にお目にかかれ、大変光栄に存じます」
剣から手を離すと、騎士らしく胸に右手を当て、深々と頭を垂れた。ヴィンセントは黙ってその挨拶を聞き終えると、じっとセドリックのことを頭の先からつま先まで観察する。
気まずい沈黙が続いた後、不意にヴィンセントは纏う雰囲気を和らげた。
「よろしく、セドリック。よければ俺にもリリーのように気軽に話してくれないか」
「え、えっと……それは…………」
薄く唇を引き延ばして笑うヴィンセントの言葉に、セドリックは困惑しリリーに助けを求めるように視線を送る。リリーは心の中でため息を吐きながら、彼のために前に出る。
「ヴィンセント殿下、お戯はおやめください。セドリックの立場もお考えいただけると幸いです」
「リリーにそう言われてしまっては仕方がないね。セドリックも困らせてすまない」
王族の謝罪にセドリックは「いえ、俺は……」と言いながら視線を彷徨わせる。いつもの余裕そうな態度とは違い、困惑と動揺が隣にいるリリーにも伝わってくる。
リリーはセドリックのことを気にかけながら、目の前の男のことを考える。
――どうして、このタイミングでヴィンセント殿下がここにきたのかしら。それに、私たちの話はどこまで聞かれていた……?
全身を緊張で包み、警戒心を剥き出しにするリリー。その姿に、彼は愉快そうに喉の奥で笑みを転がした。
「そんなに警戒しないで、リリー」
「……私は、ヴィンセント殿下とどこかでお会いしたことがありましたか?」
「うーん、どうだろう。会ったことがあると言えばあるし、ないと言えばないかもね」
はぐらかすような言い方にリリーは瞳に鋭い光を宿す。はっきりとしない態度にモヤモヤとした気持ちになるが、ヴィンセントが一歩踏み出してきたことで意識が持っていかれた。
「リリーが覚えていなくても、俺は覚えているよ」
何を――と考えていると、彼はどこか影のある笑みを浮かべた。
「「物語」を飛び出し、少女は新しい人生を歩み始める」
その言葉にリリーは大きく目を見開く。なぜヴィンセントが「物語」の話をしたのか。彼は「物語」について何か知っているのだろうか。
リリーが口を開くよりも先に、庭園の入り口から男が現れた。
「殿下、こちらにいらしたのですね」
「あぁ、ガレス。何か用だった?」
「用、というより、殿下の護衛騎士なのでおいていかれると困ります」
「あはは、確かにそうだ。でも、ここにリリーがいたからさ」
ヴィンセントは少しだけ体をずらしてリリーとセドリックがガレスに見えるようにする。すると、ガレスは少しだけ首を傾けて、探るような瞳で二人を観察する。敵意を測るようなものではなく、ただ好奇心に満ちた眼差しだった。
「……あぁ、殿下がよく話されていた令嬢ですか。お目にかかれて光栄です」
ガレスは姿勢を正すと、騎士らしく礼をする。
「彼はガレス・レイヴハート。俺の護衛騎士で、あまり表情は変わらないけど感情豊かなやつだよ。ガレス、こちらがリリー、そして護衛のセドリックだ」
「こんにちは、ガレス様」
「ガレスで結構です。というか、名前よりも家名で呼んでくれた方が俺の精神衛生上も助かります」
ヴィンセントの顔を伺いながらガレスは乱暴に頭をかく。リリーは戸惑いを浮かべた表情を見せるが、それ以上ガレスが言葉を発することはなかった。
「それで、ガレスは俺を呼びにきたのか?」
「いえ、殿下の姿が見えなくなったので探しにきただけです。まぁ、定期連絡の時間ではありますが」
ガレスは腰につけていた懐中時計を開くとヴィンセントに見せる。その時計を見てヴィンセントは「ああ、そんな時間か」と呟いたが、リリーの方を見て名残惜しそうな表情を見せる。
「今日くらい遅れても、問題ないだろ」
「どうですかね。殿下の外出の条件を破られたら、あの方はどう思われるか」
明るく笑うヴィンセントにガレスは時計をポケットにしまいながら淡々と話す。あの方、という言葉にヴィンセントの顔色が曇り、一瞬嫌そうに顔を顰めた。
「あの人は少し過保護なんだよ」
「過保護、ですか。それよりも、リリー様に対してご執心なんじゃないですか? 殿下の話よりも――」
「ガレス」
和やかに話していた二人だが、ガレスがリリーの名前を出したところでヴィンセントは冬の冷気のように冷たい眼差しを見せる。その視線を真正面から受けたガレスはわずかに目を見開いたかと思うと、「失言でした」と言って謝罪の意味を込めて頭を垂れる。
「――誰が、私にご執心なのですか?」
二人のやりとりをそばで聞いていたリリーはすかさず尋ねる。しかし、振り返ったヴィンセントは張り詰めるような雰囲気を一変させ、人の良さそうな笑みを浮かべてリリーを見る。
「なんでもないよ、リリー。気にしないで」
隠された、とリリーは気がつく。自分のことを話すのに、詳細を語ろうとしないヴィンセントに少しだけ嫌な気持ちになる。
まるで、自分の知らないところで大きい何かが蠢いている、そんな感覚がして気持ち悪さすら感じる。
「ごめんね、リリー」
些細な不満を抱えていると、それに気がついたのかヴィンセントが謝ってくる。そして、リリーの柔らかな髪をひと撫ですると、内に秘める感情を隠すように目尻を下げて微笑む。
「今はまだ話せないけど、ちゃんと君に話すから。全部、これからのことも、これまでのことも」
許しを乞うような声色にリリーはなぜか何も言えなくなる。本当なら、食い下がってでも彼の知っていることを洗いざらい吐かせたいところだった。
「……ヴィンセント殿下は、どうして――?」
「それは、俺がリリーのことを愛しているからさ」
ヴィンセントはリリーの困惑する気持ちを分かった上で、愛しさを滲ませた笑みを浮かべる。その笑顔をリリーは見たことのあるような既視感を覚える。それがいつのことなのかはわからない。太陽の光に照らされた、命の煌めきが満ちる世界で、その笑顔の持ち主とリリーは――。
そこまで考えて、リリーはハッと意識を現実に戻す。掴みかけた記憶の欠片は気がつけばずっと遠くに行ってしまう。その様子を見ていたヴィンセントは変わらず微笑むだけだった。
「さぁ、そろそろ俺たちは行くね。また、会いに行くね、リリー」
ヴィンセントは呆然とするリリーに手を振ると、何事もなかったようにガレスを伴って庭園から去っていく。その後ろ姿を見送りながら、リリーは混乱する頭で必死に考える。
「……なんだったんですかね。リリー様?」
二人の姿が完全に見えなくなるとセドリックは詰めていた息を吐き出す。そして、緊張で震えそうになる体を押さえ込みながらリリーの方を向いた。
その瞬間、リリーは張り詰めていた糸が切れたようにその場に座り込む。突然のことに狼狽えたセドリックが、リリーの容体を確認しようとして、目を見開く。驚いたような表情を浮かべるセドリックに、リリーがきょとんとした顔を見せると、彼は思わずといったように口を開く。
「リリー様、どうして泣いてるんですか?」
「……え?」
セドリックの焦りと心配を含んだ言葉にリリーは自分の頬に手を伸ばす。すると、冷たい感触が手に伝わった。リリーはセドリックの言葉通り、涙を流していた。
「……どう、して? なんで」
――なんで、ヴィンセント殿下のことを考えると胸に苦しさが広がるの?
ヴィンセントの姿を心の中で浮かべるだけで、きゅうっと胸が締め付けられる。これまでの人生で一度も感じたことのない感覚にリリーはどうしていいかわからず黙り込むしかなかった。
何も話さず涙をこぼし続けるリリーにセドリックは困惑しながらも、その背中をそっと撫でる。そこから伝わる温もりは優しかったが、リリーの求めている温かさとは少し違った。その些細な差異が余計にリリーに深い悲しみを与える。
――私は、彼のことを知っているの?
その疑問の答えを持っているであろう男は、もうリリーの目の前にはいなかった。
*
華麗に飾り立てられた、贅を尽くした部屋の中。華麗な装飾も今は冷たい棺のようだった。締め切られた暗い部屋の中で、カーテンの隙間からわずかに差し込む光だけが、彼を照らしている。
ルイスは一人で使うには大きすぎるベッドの上で蹲っていた。
初めて自分で選んだ人――ジュリエットに裏切られ、何を信じればいいのかわからなくなる。
ただ、より良い明日を信じて進んだだけだったのに、ルイスの手元に残ったのは父から向けられた失望の視線だけだった。
「どうして、俺は……」
これまでルイスは勉学、剣の鍛錬などあらゆることにおいて努力をしてきた。自分で選ぶことのできない人生だったが、それでも父や国民の期待に応えられるのであれば、それでもいいと思っていた。
リリーとの婚約も、二人が幼いときに決められた、いわば血統を繋ぐためのものだった。
リリーは幼い頃から美しく、また、物怖じしない人だった。自分が間違っていると思ったことは必ず指摘するし、絶対的な自信を持ち合わせていた。だけど、それが似合うだけの努力ができる人でもあった。
幼い頃はそんなリリーのことを尊敬していたし、彼女とならきっとうまくやっていけるだろうと思っていた。
だけど、ある時を境にリリーの態度は一変した。
まるで人が変わったように、驕りを身に纏い、人を見下すような眼差しを向けるようになった。身分など関係なく分け隔てなく付き合っていたのに、いつしか社交界でも権力の強い人とばかり繋がるようになり、ルイスのことですら時折、鋭い視線で見ることがあった。
何度か彼女に苦言を言ったこともあったが、リリーはルイスの言葉なんて届いていないように、態度を改めることはなかった。
心が疲弊し、リリーに愛想を尽かし始めたときに出会ったのが、ジュリエットだった。
春の日差しのような微笑みを浮かべ、ルイスへの好意を隠さなかった彼女に、ルイスの心が傾いていくのも早かった。
だけど、王子としての立場を忘れたことはなかった。この恋が結ばれることがないことも、頭では理解していた。
リリーが思い出したようにルイスの行動を責め立てるまでは。
「……はは、結局正しいのは彼女だったってことか」
グシャリと前髪を乱雑に掴む。彼女が正しかったという結果に、胸の奥がざわめく。そこにあるのは後悔ではなく、悔しさだった。
あの日、いくら言ってもルイスの言葉には耳を貸さなかったのに、リリーはルイスが自分の言う通りにして当然かのような態度を見せた。
ジュリエットは危険だ、と進言したリリーの言葉をルイスは鼻で笑い飛ばした。それが、間違いであったことは、今のルイスの現状が物語っているが。
「どこで、間違えてしまったのか……それとも、ずっと無駄だったのか……」
膝を抱きしめながら、胸の奥の嗚咽を必死に閉じ込める。涙を流せば余計に惨めな気分になる気がした。
「あなたは、何も間違えていません」
「……!?」
誰もいない部屋にルイス以外の声が響き、驚いて顔をあげる。その声は、柔らかく、しかし血の気のない氷のような響きだった。
視線の先、窓のそばには黒いマントに身を包み、顔を隠した誰かが立っていた。
「貴様、何者だ……!」
ルイスは身構えながら外に控えている護衛の兵士を呼ぼうとする。しかし、それよりも先に謎の人間は手に持っていた杖を掲げる。
「閉ざせ、音なき帳よ――《ヴェール・オブ・サイレンス》」
謎の人間が詠唱し終えると、全ての音が一瞬で吸い込まれたように消えた。外から聞こえていたざわめきも、ルイスの呼吸の音すら全てが飲み込まれて、ただ重苦しい沈黙だけがその場に残る。
しまった――と思ったときには全てが遅かった。
謎の人間は掲げていた杖をゆっくりとルイスに向ける。まるで、いつでもあなたを殺せますよ、と言うように。
ルイスは張り詰めた沈黙の中、感情を押さえつけるように唾を飲み下した。
「あなたは、何も間違えていません――間違えたのは、真実を見抜けなかった世界の方なのですから」
緊張から顔を強張らせるルイスにその人物は歌うように告げる。ルイスは何が言いたいのか、相手の意図が分からず怪訝そうな表情を浮かべた。
「「物語」に縛られた悲しき人生――その一生を終わらせ、あなただけの、あなたが主人公の「物語」を手に入れましょう!」
謎の男は杖を持っていない方の手をルイスに差し出す。その態度や言葉から、ルイスがその手を取ると確信しているようだった。
「さぁ、今度はあなたが世界を変える番です」
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アスター公爵令嬢エステルは、夢をみる。それは先を映す夢。
ある日、夢をみた。
この国の未来を。
それをアルフレッド王太子に相談する。彼女を愛して止まない婚約者に。
彼は言う。
愛する君とぼくの国のためなら、未来を変えるのも仕方なくない?
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