悪女と呼ばれた令嬢の真実 -断罪フラグをへし折ったら、別の物語が始まりました-

豆茶

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5話 一時の平穏

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 事前に知らされていたように正午ぴったりにヴィンセントはやってきた。


 隣国の王子の急な来訪に、屋敷中ひっくり返したような騒ぎになり、リリーもメイド達に全身を文字通り磨かれた。浮き足立つ使用人たちにリリーは曖昧に笑って、なすがままになる。父も兄も屋敷にはいなかったからまだ良かったが、二人がいたらと考えて、すぐに想像するのをやめる。


「やぁ、リリー。今日もとても可愛らしいね」
「こんにちは、ヴィンセント殿下。先日よりお変わりなくお過ごしでしょうか」
「あぁ、うん。俺は変わらずだ。リリーも変わりないか?」
「はい、お心遣い感謝いたします」


 ヴィンセントの言葉にリリーは小さく頷く。すると、彼はリリーの体を上から下まで余すことなく確認し始める。

 今のリリーは落ち着いた色合いの上着に、綿密な刺繍が施された清楚なワンピースに身を包んでいる。彼女が持ち合わせる衣服の中で一等良いものをメイドたちに勧められ、今に至る。

 一方で、ヴィンセントは襟元に金糸の飾りをあしらった絹のシャツを着ており、堅苦しい正装ではなく、普段着に近い格好だった。
 顔の整った人が着ると、何でも似合うのだな、とリリーは頭の片隅で思う。

「今日はリリーの貴重な時間をくれてありがとう。君にとっても良い日になるように、俺がちゃんとエスコートしてあげるから」


 ヴィンセントはリリーの手の甲にそっとキスを送った。突然の行動にリリーの思考は止まり、次の瞬間には顔を真っ赤にする。無礼とか考えるよりも前に手を振り払おうとしたが、彼の力が強くできなかった。
 ヴィンセントはリリーの行動を予測していたのか、上目遣いで見上げるとイタズラが成功した子供のように無邪気に笑った。


 その表情から、リリーは彼に揶揄われているのだとようやく理解し、余計に恥ずかしくなる。貴族の挨拶として、手にキスを贈られることは何度かあったはずなのに、こんなに恥ずかしい行為だとは思っても見なかった。観測者として「リリー」を見ているだけではわからないことが今のリリーにはたくさんある。


 ――よく、「リリー」はこんなことに平然としていられたわね。


 貴族の令嬢として粛々に受け入れるべきなのだろうが、リリーがその挨拶になれるのは当分先のようだった。

 ヴィンセントを放置していろんなことを頭の中で考えていると、突然彼が笑い出す。



「あはは、リリーって本当にかわいいね!」

「……え、あっ!」


 握られた手を突然引っ張り上げられたことで、リリーの体がヴィンセントの方に傾く。ヴィンセントは倒れ込んできたリリーの体をしっかりと抱き止めると、背中に手を回して体を密着させる。


 わずかな呼吸すら感じる距離に迫ったヴィンセントの面差しを、リリーは息を呑んで見上げた。聞こえてくる心の高鳴りは、リリーのものか、それとも彼のものだったのか。


「こんなふうにリリーと話せる日が来るなんて! 俺は今、すごく幸せだ!」


 その笑みはあまりにも無邪気で、リリーの胸の奥が痛いほどきゅっと縮む。そして同時に思った――なぜ、彼はこんなにも純粋な気持ちをリリーに向けてくれるのか、と。

 その気持ちはもしかしたら「リリー」に向けられるものだったのではないかと思うと、リリーの上を向いていた気持ちは少しずつ下降していく。

 どこまでもまっすぐなヴィンセントの顔から目を背けるように、気持ちに合わせて視線が下がる。だが、彼はそれすらも予測したように、追いかけるようにリリーの顔を覗き込む。



「リリー、笑って。きっと、君を幸せにしてみせるから」



 春の日差しのように暖かくて柔らかい笑顔。リリーは心の底から溢れてくる愛おしいという気持ちを抑えるようにグッと唇を噛み締める。


「ヴィンセント殿下……私は――」


 リリーが口を開き、言葉を紡ごうとした時、二人のそばに人が現れた。



「お熱いところ申し訳ございませんが、そろそろ移動したほうが良いかと」



 濃紺の髪に、白濁したような瞳を宿す男――ガレスが腰に下げた懐中時計と二人を交互に見比べながら発言する。

 ガレスの登場にリリーはようやくここがまだ、屋敷の入り口であったことを思い出した。そして、ヴィンセントの向こう、馬車が控えているところでこちらを見ている使用人たちの生暖かい視線に気づくと、顔を赤くしてわなわなと体を震わせた。


「――っ! は、離れてくださいっ!」


 恥ずかしさからヴィンセントの体を力強く押すと、彼は案外にもあっさりとリリーから離れた。だけど、面白おかしそうにくすくすと笑い続けている。

「かわいいリリーも拝めたし、そろそろ行こうか」

 目尻に溜まった生理的な涙を拭いながらヴィンセントはリリーに話しかける。ヴィンセントは先ほどの自分の言葉を有言実行するようにリリーに手を差し伸べる。

 リリーは羞恥心に苛まれながらも、小さく息を漏らすとその手に自分の手をそっと重ねる。

 いちいち恥ずかしくて仕方がなかったが、その手に伝わる温もりはなぜか手放しがたかったから。




 *




 ヴァレリア王国は大きく分けて三種類の区域に分けられる。政治と王族の居所を担う中枢区、貴族や騎士が暮らす貴族区、そして庶民が生活を営む平民区。細かい区分けもあるが、大半の人はこの三種類の分け方に沿って暮らしている。


 リリーが暮らすのは貴族区の中でも中枢区に近いところで、中枢区に近くなるほど家の格式は高くなる。アンネット家は侯爵の家系で、アルシア王国とは別の隣国との国境付近に広大な領地を所有していた。そして、リリーの父シャルルは第一から第三まである魔法騎士団の最高顧問に就いており、国の中では重要人物でもあった。


 その娘であるリリーも、ルイスと婚約を結ぶほど位だけで言えば揺るぎない立場にある。それは隣を歩くヴィンセントにも言えることで、むしろリリーよりももっと大事にされるべき人物だ。二人の身分を考えれば、平民区を自由に歩き回ることなどできない――はずだった。


「リリー、あそこの露天に美味しそうなものが売ってるよ」


 ヴィンセントはリリーの手を引いて慣れたように人混みを歩き回っていた。その護衛にはガレスと数名の騎士が平民の格好をして担っている。その人数は侯爵令嬢と某国の王子の安全を確保するには全く足りていない。

 リリーはヴィンセントに繋がれていない方の手に嵌められた銀色の指輪を見つめる。その指輪は馬車の中でヴィンセントに渡された魔道具であった。



「流石に、お忍びとはいえ俺たちが何もしないで街を歩いてたらまずいかなって。俺の国で作った姿を認識できなくなる魔道具だよ」
「……魔道具って、そんな貴重なもの受け取れません」
「大丈夫、大丈夫。俺の国は魔鉱石もたくさん取れて、魔道具の開発も盛んだから」


 あっけらかんと笑うヴィンセントにリリーはそういう問題じゃないと肩を落とす。

 魔道具は魔鉱石に直接魔法式を刻み込んでできる、魔力が少なくても使用できる画期的なアイテムだった。だが、魔鉱石が取れる地域が少ないことと、魔法式を刻むという繊細な工程を通る都合上、一般的に普及しているものではなかった。

 そんな魔道具をヴィンセントは何事もないようにリリーの指に通す。その貴重さを考えると、途端に自分の手が重たくなるようだった。

「俺のことは認知されてなくても、リリー、君は違うだろ? リリー侯爵令嬢にたくさんの護衛がいたら……庶民の人たちも萎縮しちゃうだろなぁ」

 ヴィンセントは肩唇を吊り上げて笑う。リリーがその指輪を受け取らないわけにはいかないように、退路を絶たれた気分になった。


「――それに、あんまり他のものに邪魔されたくないしな」


 一瞬、ヴィンセントは感情を消し去るように表情を閉ざし、微かな声で呟く。しかし、その声は馬車の揺れる音でリリーには届かなかった。

「まぁ、とにかく! 今日は存分に楽しもう、リリー!」

 空気を変えるようにヴィンセントはリリーに笑いかける。その穏やかな表情に曇りはなく、先ほど見た姿はリリーの思い違いなのかもしれないと感じた。



 道中でそんなやりとりをした二人は、今、平民区の中でも人通りが多い露天通りにやってきていた。

 「リリー」の時、彼女は夜会や貴族同士のお茶会ばかりに顔を出していたから、平民区をゆっくりと歩くことはなかった。用事があって通る時も、「リリー」は外の景色を少し見て不機嫌そうにするだけで、ここに来ることも嫌そうに見えた。

 彼女が平民区をよく思っていないのは、貴族とは違い身分が低い彼らを見下していたからだろう――そう、ずっとそう考えていた。だが、リリーとしてここに来て初めて「リリー」の気持ちがわかった気がした。


 街に暮らす人々は、お互いに助け合って生きている。露天に並ぶ美味しそうな食事に、活気あふれる街の雰囲気、そして仲睦まじい家族の営み。彼女の前で繰り広げられるものは、貴族の令嬢として生きるリリーとは縁遠い世界だった。

 特に、両親の手を握り、幸せそうに笑う子供の様子を見ていると、心の底に少しの羨望の念が湧き上がる。それは「リリー」が馬車の窓から彼らを見ていた時に感じた痛みでもあった。


 貴族としての自分に不満はない。だけど、「リリー」もきっと、幸せそうな家族に憧れを抱いていたのではないだろうか。


 ――今となっては、もう、わからないことだけど。


 「リリー」をずっと見てきたはずなのに、「物語」を抜け出すことしか考えていなかったリリーは、彼女のことを何も知らないということにようやく気がついた。


 ――こんな気持ちになるのなら、もっと「リリー」のことを知ろうとすればよかった。


 ヴィンセントが露天で何かを話しているのを見つめながら、リリーは「リリー」のことを考える。


 ――彼女を「物語」の一部として……ただの悪女だと決めつけていたのは、私も同じだわ。


 そのことに気がついて、リリーは自分のことが恥ずかしくなる。彼女のことを知ろうとしないのは、決められた役割でも、「物語」を一生懸命生き抜いた彼女に対する冒涜だとすら感じる。


「リリー? 顔色悪いけど、大丈夫か?」


 片手に食べ物を握りながらヴィンセントが心配そうにリリーの顔を覗き込む。突然近づいた彼の顔にリリーは驚いて思わずのけぞった。

「……あ、はい。私は問題ないです」

 どこか曇りのある笑みを浮かべるリリーに、ヴィンセントは「嘘だね」と彼女の心見透かすような瞳を向ける。


「リリー、俺らはまだ会ったばかりで、俺は君の信頼を得るには至っていないかもしれない。だけど、どうか、俺の前でだけは自分の気持ちを偽らないでくれないか?」
「私は……自分の心を偽ったことなんて…………」

「それも嘘だ。俺からすれば、君はずっと見えない何かに縛られているように見える。もちろん、君の境遇やこれまでのことをとやかくいうつもりはない。でも、その何かは、君の未来を縛るほど、恐ろしいものではきっとないよ」



 深海を思わせる青の瞳が、きらりと煌めいた。リリーはその瞳に囚われたように息を呑む。


「楽しいことをたくさんしよう。大切なものをたくさん作ろう。一冊の本なんかじゃ、収まりきらないほどの思い出を作ろう。一人じゃ不安なら、俺がそばにいる。リリーの「物語」を脅かす奴がいるなら、俺が剣となって「空白」のページを切りひらこう」


 彼の言葉はリリーの胸の内に新しい風を吹き込むようだった。

「…………どうして? なんで、ヴィンセント殿下は、そこまで私を……?」

 思わずこぼれた疑問にヴィンセントは一瞬悲しそうに顔を歪める。だが、すぐに優しく、慈しむような微笑みを浮かべた。その眼差しをリリーはどこかで見たことがあるような気がした。


「君を、愛してるからだよ。ずっと、ずっと――たとえ、世界が巻き戻ったとしても」


「それは、どういう……!」


 ヴィンセントの持つ秘密の核に触れられる、とリリーが彼に手を伸ばした時、少し離れたところからいくつもの悲鳴が聞こえてきた。

 その声にリリーはハッとして意識を向ける。

 リリーの目の前では同じように戸惑う民衆がいた。その隙間を縫うように悲鳴の上がった方から人々が逃げてくる。

 異常事態が起きた、と認識したリリーは状況を確認に行こうと動き出したところをヴィンセントに止められた。

「リリー、俺たちはここにいよう。……ガレス、状況を確認しに行ってくれ」
「承知しました。くれぐれも、無理はないでくださいね」

 いつの間にかそばに控えていたガレスがヴィンセントとリリーの顔を交互に見ると、走ってその場を離れていく。

「トマス、アルベール。二人はリリーのことを守れ。マルコとカイルラは俺のそばに」

 逃げまどう人々の合間を縫うように、名前を呼ばれた人物が現れる。格好は庶民のものだったが、腰に下げている剣や立ち振る舞いから護衛の騎士だとすぐにわかった。

 「何があったかわかるか?」とヴィンセントが尋ねると、マルコと呼ばれた騎士が口を開く。

「詳細まではわかりません。ただ、遠目で見た感じ、誰かが刃物を振り回しているようです」

 マルコの報告にヴィンセントは眉を顰める。

「認識阻害の魔道具があるから、よっぽど目をつけられることはないと思うが……」
「今は、ここから離れるのが良いかと」

 マルコの反対に控えていたカイルラが進言する。ヴィンセントも同じことを考えていたのか、彼の言葉に小さく頷くとリリーの方に向き直る。

「リリー、すまない。せっかくの時間を、台無しにしてしまって」
「いいえ、殿下のせいではありませんから。それに、我が国の不祥事に巻き込んでしまい、申し訳ありません」
「それこそ気にしないで……よし、じゃあ、移動を――」





「どこにいくのぉ?」





 得体のしれぬ気配を帯びた、ゾッとするような女の声がそばで聞こえた。と思ったら、リリーは誰かに手を引かれていた。



 一瞬のことにヴィンセントも護衛の騎士たちの反応も遅れる。


 誰よりも早く回復したヴィンセントが焦ったようにリリーに手を伸ばしたが、その手は届かず、リリーと女は混乱に揺れる群衆の海に呑まれていった。
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