婚約者を喪った私が、二度目の恋に落ちるまで。

緋田鞠

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 ギュンター・ファルクについて調べさせていた者が、北の辺境伯領から戻った。
 ファルク男爵は領地を持っておらず、辺境伯の家臣として、辺境伯領内に屋敷を賜っているのだそうだ。
 彼の調査報告は、マティアスがこれまでに収集した情報とまとめて、私に報告された。
 手元には、それなりの厚みとなった報告書がある。
「レニ。一つ、質問をしてもいいですか?」
 いつもの晩餐後の時間。
 ソファに腰を落ち着けたレニにそう問うと、彼女は不思議そうな顔をした。
 屋敷に来て三ヶ月。
 こけていた頬に丸みが出て、きめの細かい肌は潤っている。
 屋敷の中だけで生活していたからだろう、肌は抜けるように白い。
 この家に来て、体力作りの為に侍女と庭を散策する事もあるようだが、そこはアネットが率いる我が家の侍女だ。日焼け対策は万全らしい。
 庭師が少しずつ増やしている花に気づいて、喜んでいる、とアネットの方が嬉しそうに報告していた。
 まだまだ痩せ過ぎではあるものの、骨が浮いて見えるような事もなくなった。
 侍女達が念入りに手入れしているお陰か、栗色の髪にも艶が出て来た。
 リアーヌ嬢のように人目を惹く派手な色合いこそ持たないが、レニは整った顔立ちをしている。
 普段、レニと接する事のないマティアスが、偶然、図書室を訪れた彼女と行き合った際に、
「マルグリット様…」
と小さく呟いていたから、推測通り、彼女は母親似なのだろう。
「はい、ジークムント様。何でございましょうか?」
「貴方の婚約者だった、ギュンター・ファルク殿についてなのですが」
「…あの方は、ファルク様と仰ったのですね」
 レニの返答に、愕然とする。
 仮にも婚約者だったと言うのに、名すら知らされていなかったのか。
 元より虚偽だと思ってはいたが、リアーヌ嬢はやはり、嘘を吐いていたようだ。
「一度、お会いした事はあるのですが、ご挨拶も出来ないままでしたので…存じ上げている事は殆どないのです。お役に立てず、申し訳ございません」
 私の沈黙に何を思ったのか、レニは申し訳なさそうに言葉を継ぐ。
「一度しか、会った事がないのですか?」
「えぇ。父に突然呼び出されて、一度、お会いしました。何の為に呼ばれたのかも判らないまま、応接間に向かったのですが、あの方は、『話が違う』と仰って、直ぐに席を立ってしまわれましたから、お顔もしっかりと拝見しておりません。その後、父に、私の婚約者なのだと聞きました」
 自己紹介すら出来ていないのであれば、それは『会った』とは言えない。
 貴族の関係性は、互いの紹介から始まる。
 ただ、顔を合わせただけでは、事にならないのだ。
 レニは、小さく溜息を吐いた。
「婚約者と言うからには、嫁ぐのだろう、と思っていたのですが、特に嫁入り準備が始まったわけではありません。垣間見たお相手の様子から、話が流れたのだな、と思っていた所に、訃報を伺いました。お葬式にも参列しておりませんので、薄情なようですが、あの方がお亡くなりになったと言う実感も乏しくて…」
 結婚直前の婚約者を亡くした。
 私とレニの、唯一の共通点は、だが、これ程に実態が異なっている。
「貴方に一つ、謝らなくてはならない事があります」
「ジークムント様が、私に、ですか?」
「はい。私は貴方に黙って、ギュンター・ファルクと貴方の婚約が何故結ばれたのか、何故、ファルク殿は亡くなったのか、調べさせていました」
 レニは、戸惑うように首を傾げた。
「ジークムント様は、必要と思われたから調査なさったのでしょう?」
「えぇ」
「でしたら、私が謝罪を受けるべき立場とは思えませんが…」
「レニ。貴方には、私と一緒に、調査報告に目を通して欲しいのです」
「一緒に、ですか?」
「えぇ。…結婚する際にも申し上げた通り、貴方は今、アーベルバッハ家の女主人と言う立場です。これまでは、我が家に馴染む事を優先して頂きましたが、今後は、私の隣で社交の場に出る事もあります」
「あぁ…」
 レニの顔に、納得の色が広がった。
「私は、これから社交界に出る上で、何故、ファルク様と婚約が結ばれ、彼がお亡くなりになったのか、経緯を承知しておく必要があるのですね?」
 やはり、レニは聡い。
 その上、華やかではないかもしれないが、美しい顔立ちをしているのだ。
 まともに養育され、教育を受けていれば、立派な淑女として、望む縁談が得られただろうに。
 それを思うと、胸が苦しくなる。
「そう言う事です」
「判りました。でしたら、よろしくお願い致します」

***

 ギュンター・ファルクとバーデンホスト侯爵家の縁は、ギュンターがリアーヌ嬢と知り合った事で生まれた。
 ファルク家は北の辺境伯の陪臣で、代々、辺境伯家に仕えている。
 ギュンターは三男である為、家を継ぐ事はない。
 学院を卒業して一年。
 王宮への登用試験も、騎士団の入団試験も落ちた彼は、故郷にいる幼馴染で商家の娘カトリン・クルマンとの結婚を決める。
 クルマン家の商う支店の一つを任せて貰う事を条件に、婿入りを決めたギュンターが、貴族生活最後の思い出作りとして参加した夜会で声を掛けたのが、一歳年下のリアーヌ嬢だった。
 リアーヌ嬢は、華やかな赤毛と輝く緑の瞳で、今年社交界デビューしたご令嬢の中での注目株。
 学院でも目立っていたリアーヌ嬢に魅入られていたギュンターは、恥は掻き捨てとリアーヌ嬢にダンスを申し込み、一曲、踊る事が出来た。
 後日、領地に戻ろうとしていたギュンターの元に、バーデンホスト侯爵から手紙が届く。
 「娘が貴殿に恋をしたと言うので、前向きに縁談を検討しては貰えないか」。
 手紙を受け取ったギュンターは、有頂天になった。
 バーデンホスト家の娘と言えば、リアーヌ嬢の事だ。
 返事は早くに欲しい、と急かされた彼は、父親に相談する事もなく二つ返事で縁談を了承し、故郷の幼馴染に、婚約破棄を申し入れた。
 そして、バーデンホスト家で婚約者との顔合わせとなるわけだが、そこで引き合わされたのは、リアーヌ嬢ではなく、レニ。
 レニはその日、突然の呼び出しに、使用人から貰った着古しのお仕着せを着ていたらしい。 
 後日、私と顔合わせする時には、急拵えとは言え、リアーヌ嬢のお下がりのドレスを着ていた事を思うと、恐らく、バーデンホスト侯爵は、レニが普段、邸内でどのような服装で過ごしているのかすら、気にした事もなかったのだろう。
 ウルリーケ夫人もリアーヌ嬢も、昼間であっても夜会のような盛装をしていたから、勝手に、貴族女性とは、いつ呼び出しても問題のない服装でいる、と思い込んでいても不思議はない。
 現れたレニを見て、ギュンターは、「話が違う」と中座したものの、彼は既に縁談を了承済み。
 爵位の差から、ギュンター側から破棄する事も不可能だった。
 その為、予定にはなかった夜会に参加し、
「バーデンホスト侯爵に、本意ではない縁談を押し付けられた!レニ・バーデンホスト嬢とは一体、何方なのだ?社交界に顔を出した事もない方との縁談など、到底、承服しかねるが、我が家はしがない男爵家。お断りする事が出来ない。私には、故郷に結婚を約束した恋人がいると言うのに、何たる横暴か…!」
と、涙ながらに訴えたのだ。
 多くの貴族は、日々に退屈している。
 その中で飛び込んで来た醜聞だ。
 リアーヌ嬢が目立っていただけに、バーデンホスト家が絡んだ醜聞は、人々の好奇心を掻き立てた。
 そんな彼等に、ギュンターは、ある事ない事吹聴する。
 曰く、
「愛しているのはカトリンだけ」
「お断りしても、聞く耳を持ってくれない」
「そもそも、一度も言葉を交わした事のないレニ嬢との縁談など、受け入れるわけもない」
 言うだけ言って、ギュンターは姿を消す。
 彼も言うように、相手は侯爵家なのだから、ギュンターの口封じなど、容易だからだ。
 その夜会に参加していたのはリアーヌ嬢だけで、バーデンホスト侯爵夫妻はいなかった。
 好奇に駆られた人々に、リアーヌ嬢は涙ながらに、
「お姉様がギュンター様を見初めて、諦めるよう説得しても聞いてくださらなくて…お父様も、心苦しく思いながら、ファルク様にお願いしたのです」
と訴えた。
 学院に通わず、社交界に出てもいないレニの存在など、誰も知らなかった。
 だが、リアーヌ嬢は、で表に出られないレニを、バーデンホスト侯爵が不憫に思い、彼女の要望を拒めないのだと、それとなく、言葉に織り交ぜて人々に知らしめる。
「お姉様は、とても、外に出られる方ではなくて…」
と、困ったように言うリアーヌ嬢の言葉に、ある者は、病弱なのだと理解し、ある者は、我儘なのだと理解し、ある者は、心の病気なのだと理解した。
 そして、リアーヌ嬢の涙に、ギュンターだけではなくバーデンホスト家も被害者と認識され、唯一人、レニが加害者とされてしまったのだ。
 以上、ギュンターの学院時代の友人である某子爵家令息の証言。
 彼はギュンターと親しくしていたが、リアーヌ嬢との縁談だ!と舞い上がり、周囲に散々自慢した上に、手紙一枚で故郷の恋人との婚約を破棄しておきながら、相手がリアーヌ嬢ではないと判った途端、掌を返したように被害者面をしたギュンターを見切ったらしい。

 続いて、元婚約者のカトリン・クルマン嬢の証言。
 彼女は両親と共に、ギュンターと生活する為の準備を進めていた。
 支店の開店準備と結婚式の準備とで忙しくしていた中に届いたのが、一方的に婚約破棄を通知する手紙。
 詳細な説明はなく、
「婚約はなかった事にして欲しい」
とだけ、書かれていたのだそうだ。
 訳が判らず、ファルク家を訪れると、ファルク男爵に、
「ギュンターに、格上の侯爵家から縁談が持ち込まれた。立場上、お断り出来ない」
と説明される。
 クルマン家は、平民だ。
 泣く泣く承服し、カトリン嬢の次の縁談について考え始めた所に、憔悴しきったギュンターが現れる。
 彼は、
「騙されていた」
「本当に愛しているのはカトリンだけだと、判っているだろう?」
「クルマン商会にとっても、貴族の伝手は大切だろう。もう一度、やり直してもいい」
と必死に主張したが、ギュンターが話せば話す程、カトリン嬢の気持ちは冷めていった。
 騙されていた、と言うので、詳しく聞き出すと、縁談相手が、ギュンターが思っていたご令嬢ではなかった、と言う話だった。
 つまり、カトリン嬢ではない別のご令嬢との結婚を妄想した結果の婚約破棄ではないか。
 何が、爵位の差で断れない、だ。
 カトリン嬢は商家の娘。
 見切りをつける時には、きっぱりとつける。
 カトリン嬢に手酷く振られたギュンターは、詳細も聞かずに縁談うまい話に飛びついた馬鹿者として実家に戻る事も出来ず、追われるようにして故郷を出て行った。
 クルマン商会は、北ではそれなりに名の知れた商会の為、ファルク男爵は息子ではなく、商会との縁を取ったのだ。

 最後の証言は、北域の騎士団員のものだ。
 北域と隣国を繋ぐ旧道には、途中、切り立った崖の上を通る狭い箇所がある。
 余りに事故が多い為、深い森を苦労して切り開いた新道が、現在、使われている道だ。
 旧道を使用する者は殆どおらず、時折、関所越えを嫌うならず者が利用する位で、定期的に騎士団が巡回している。
 それは、長雨の続いた後だった。
 漸く見えた晴れ間に、巡回に赴くと、崖が一部、崩落している現場に出くわした。
 周辺に荷物が散乱していた事から、崖下及び下流を捜索。
 ギュンター・ファルクの遺体を発見する。
 幸いにも、顔は原型を留めており、父親のファルク男爵が確認を行った。
 ギュンターが肩に掛けていた鞄には、装飾品が幾つか入っていた。
 それらは、ファルク家の家宝として大きな夜会で夫人が身に付ける一揃えやら、夫人が嫁入りの時に持って来た首飾りやらで、状況から、ギュンターは隣国で装飾品を売り払って生活資金にしようとしていたと思われた。
 だが、当然、ファルク家にとっては醜聞だ。
 気づかないうちに盗み出されていた装飾品が無事に手元に戻った事もあり、ファルク男爵は息子の窃盗について、騎士団に口止めした。
 だが、ギュンターが遺体で見つかった事、所持品に装飾品があった事までは、隠す事が出来なかった。
 その結果、ギュンター・ファルク、装飾品、と言うキーワードから、彼が別れた恋人に贈る為の指輪を、後生大事に握り締めていた、と言うロマンス好きな人々が好む噂に仕上がったのだ。

***

 レニは、私の隣でじっと、調査報告に目を通した。
 読み終えてから、感情の読めない顔で、軽く首を傾げる。
「…父は…何故、私とファルク様の縁談を望んだのでしょう?」
「それは…」
 『家から出て行ってくれるなら、相手は誰でも良かった』。
 レニは、バーデンホスト侯爵を慕う様子は見せないが、実の父だ。
 彼の言葉をそのまま伝えていいものか躊躇すると、レニは淡く笑った。
「きっと、理由などないのですね。あの家から早々に出る事を、望まれていたと言うだけなのでしょう。あのままでは、私がバーデンホスト家を継ぐ事になったでしょうから」
 最近、法の授業を受けたレニは、直ぐに気が付いたようだ。
「リアーヌ様が婿を取ると聞きましたから、確かに、私が家にいては困ったでしょうね。…ジークムント様、申し訳ございません」
「レニ?何故、貴方が謝るのですか」
「ジークムント様は、イルザ様との思い出を大切に過ごされていたと言うのに、私を引き受ける羽目になったではありませんか」
 困ったように、けれど、やはり、淡い笑みを浮かべたままのレニ。
「…いいのです。私は、これでもアーベルバッハ家の当主。そして、現在、アーベルバッハ家の直系は私しかおりません。いずれは、結婚しなくてはなりませんでした。そのお相手が貴方だった事に、感謝しておりますよ」
 混じり気のない本音だった。
 レニは、私を必要以上に避ける事はない。
 けれど、踏み込んで欲しくない線は、きちんと弁えている。
 彼女と過ごす時間は、居心地の良いものだった。
 何よりも、仕事を離れ、興味ある分野について存分に語れると言うのは、考えていた以上に心を解放するものだ。
 出会い方さえ違えば、良い友人になれた事だろう。
 いや、今も。
 肩書こそ夫婦だが、私達の実態は、友人のようなものだと思うのは、驕りだろうか。
「ですが…どうやら、私は一度も社交の場に出ていないと言うのに、随分と評判が悪いようです。このような悪評の立った女を妻の座に据えていては、ジークムント様の評価に関わりましょう」
 彼女は、私から見れば苛酷な環境で育ったと言うのに、自分よりも周囲の気持ちを慮る。
「いざとなれば、私は修道院に入りますので、問題が起きる前にお話しくださいね?」
 レニは、家庭教師に教わるまで、修道院に貴族女性の駆け込み寺としての機能がある事を、知らなかった。
 神と言う存在すら知らなかったけれど、もし、強引な婚約の前に修道院に送ってくれていたのなら、ギュンター様は、お幸せになれたでしょうに、と、ぽつりと呟いた姿が忘れられない。
「言ったでしょう、レニ。私は、結婚相手が貴方で、良かったと思っていますよ」
「そう、ですか…」
 レニの頬が、うっすらと染まった。
 滅多に表情を変えない彼女の珍しい顔に、思わず、目が釘付けになる。
「私も、ジークムント様の家族になれて、嬉しいです」
 そう言って、レニは、柔らかく綻ぶように微笑んだ。
 『家族』。
 レニに、「家族として大切にする」と宣言したのは私だ。
 レニの言葉が嬉しいのに、何かが心に引っ掛かり、私は、密かに首を傾げた。
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