婚約者を喪った私が、二度目の恋に落ちるまで。

緋田鞠

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 さて。
 その後の話をしようと思う。
 エリマル・ロットマンは、刑が執行される前に、獄死した。
 医師の所見によると、頭の血の道が切れていたようだ。
 ロットマンが兄の死に関わっていたと判明して、刑の内容について改めて検討している最中さなかの事だった。
 死と言う結末を迎えた事に変わりはないが、従兄上は、処刑せずに死なせてしまった事を悔いていた。
 従兄上には、私がラファエルとロットマンから聞いたイルザの思惑を全て打ち明けた。
 その上で、従兄上と兄が、何処まで真実を知っていたのかを尋ねると、暫く沈黙した後に、
「…そこまでの悪と気づいていたら、お前に恨まれようが、何が何でも引き離していた」
と、ポツリと呟いた。
 従兄上達は、私がイルザを紹介した時の、彼女の表情に違和感を覚えたのだそうだ。
 故郷での評判を調べさせるのに時間が掛かり、盲目的な愛を捧げる私に、別れるべき理由を明示する証拠がなかなか揃わない。
 ダーレンドルフに来てからの彼女は、飽くまで私の婚約者として貞淑に振る舞っていたので、別れを勧めても却って頑なになる私に、手をこまねいていたと言う。
「…申し訳ありません、従兄上。私が、人を見る目を持たなかったばかりに」
「ディートリヒを殺したのは、自分だと思うか、ジークムント」
 愛称ではなく呼ばれる名に、自然と背筋が伸びる。
「…はい」
「そうだな…ディートリヒを殺したのは、俺でもある」
「!違います、従兄上は何も、」
「…俺やお前は、国の中でも重い責を担っている。それは、人によっては甘い蜜だ。大きな権力を与えられる代わりに、目を配らねばならぬものが多い。それを、お前に教えて来なかったのは、俺とディーだ。同時に、気づこうとしなかったのは、お前自身だ」
「はい…」
「ディーの喪失は、余りにも大きいな。だが…お前が選択を誤る事は、二度となかろう。違うか?」
「いいえ。二度と過たぬよう、努めます」
 レニは、罪は手をくだした者にある、と言った。
 けれど、私は自身の過ちを、生涯、忘れる事は出来ない。
 そして、私がそう思い定めている事を、レニに告げる気もない。
 聡い彼女ならば、恐らく気づいてしまうのだろうが、同時に、私の気持ちもまた、汲んでくれるだろうとも思う。
 それは、甘さだろうか。信頼だろうか。
 喪った人は、二度と戻らない。
 人生は、二度ない。
 だからこそ、私は慎重に物事を選択していかなくてはならない。
 …それを理解する為に払った犠牲は、余りに大きなものだった。
 冤罪で失われた命も同じだ。
 我が国では、一度下った判決が覆る事はない。
 だが、社交界での名誉を回復させる事は出来る。
 それを望んでエアハルト伯爵が残した資料を集めたものの、エアハルト家唯一の縁者であるレニが、私の妻である為、これ以上、私に出来る事はない。
 身内故に、真実を捻じ曲げた、と付け入る隙を与えては困るからだ。
 その為、この件は全て、従兄上に任せてしまった。
 自らの手で、資料の証拠能力を確認出来ないのは口惜しいものがあるものの、私の側近であるマティアスを始めとした部下達もまた、手を出す事が出来ない。
 ただでさえ多忙な従兄上には申し訳ないが、従兄上自身、エアハルト家の断罪には忸怩たる思いがあるので、即座に動いてくださった。
 エアハルト伯爵の資料を参考に、改めて、王宮の精鋭により、当時挙げられた証拠を検証した結果、エアハルト家の罪は、捏造されたものであると断定された。
 断罪に積極的に関与した家の当主は、もう殆どが引退もしくは亡くなっている。
 バーデンホスト侯爵から賄賂が渡ったと言う証拠も、ない。
 唯一、怪しいと言えるのは、レニの育児に掛かる費用として、バーデンホスト家がエアハルト家に多額の金銭を無心した手紙と、断罪に関わった家が、レニの誕生直後から、収入に見合わぬ散財をしていた記録位だ。
 怪しいと言うだけでは、明確に彼等の罪を問う事は出来ず、現当主に向けて『厳重注意』がなされた。
 実際には、従兄上が、凄絶な笑みを浮かべながら、滔々と経緯を説明したのだから、厳重注意ではなく、「全て判っているぞ」との脅迫に受け止められただろう。
 遺されていたマルグリット夫人の毛髪からは、毒物が検出された。
 長い髪の毛先から、根本まで、満遍なく。
 慢性的な中毒症状を起こしていたと思われる、脳機能も低下していた筈だ、と、医師は険しい顔で言った。
 当時のマルグリット夫人が、バーデンホスト本邸から一歩も出ていない事は、複数の証言が得られている。
 勿論、その毒を『誰が』与えたかの証拠はない。
 だが、弱っていく妻に、医師を呼ばせなかったのが、夫であるバーデンホスト侯爵である事もまた、複数の証言があるのだ。
 これらの結果を受けて、従兄上は、内々にバーデンホスト侯爵とウルリーケ夫人、そしてリアーヌ嬢を王城へと呼び出した。
 判決が覆るわけではなく、エアハルト伯爵とマルグリット夫人の名誉を回復する事が目的なので、公の裁きの場ではない。
 何の呼び出しなのか判っていない彼等は、王城へと上がる為か、煌びやかな衣装に身を包んで現れた。
 その場に、私とレニもまたいる事に気づいて、侯爵夫妻が目を見張る。
 内々の話だから、と理由づけて、従兄上は私達の同席を許可してくださった。
 唯一、リアーヌ嬢だけは、今のレニと、婚前のレニの姿が一致しないようで、首を傾げている。
「さて、バーデンホスト侯爵、そしてウルリーケ夫人。何故、呼び出されたか、用件は判っておろうな」
 従兄上よりも、バーデンホスト侯爵が二つばかり年長だが、彼は、いつになく険しい従弟上の表情に動揺した様子で、首を横に振った。
「申し訳ございません、殿下。何故なにゆえ、お召しになったのか、とんと検討もつきません」
「…そうか」
 従兄上は、証拠となる資料を、ずらりとバーデンホスト侯爵の前に並べる。
 勿論、逆上した侯爵に破損されないよう、資料の脇には兵士が立っている。
 ちら、と資料を見たバーデンホスト侯爵の顔が、強張った。
「バーデンホスト侯爵。恋情とは、御し難いものだな。理性で悪と判っておっても、それを止められない程に」
「へ、はぁ、」
「ウルリーケ夫人を愛しながらも、実家の窮状の為に別の女性を娶らねばならぬとは、確かに苦であろうよ」
「っそ、それは、」
「だがな、それは、人の尊厳を貶め、罪を捏造していい理由にはならんのだ」
 バーデンホスト侯爵と、ウルリーケ夫人の顔から、血の気が引いて真っ青になった。
 リアーヌ嬢もまた、従兄上の怒気に飲まれて震えているが、状況を理解出来てはいないだろう。
「ましてや、殺人を犯す大義名分にはならん」
 厳かな声に、バーデンホスト侯爵は震え上がり、ウルリーケ夫人は足から力が抜けたのか、床に蹲る。
 リアーヌ嬢は戸惑うように両親を見ていたが、ハッとした顔で、私を見た。
 レニではない。
 私の、顔を。
「殿下!お姉様が、殿下に何を申し上げたかは存じませんが、全くの嘘偽りでございます!お姉様は、わたくしだけが両親に愛されたからと、わたくし達を逆恨みしているのです!アーベルバッハ公爵様、貴方様もよくご存知ですわよね?ですから、お姉様を遠ざけておいでなのでしょう?大丈夫ですわ、わたくしが、お姉様から解放して差し上げます!」
 王太子である従兄上に、許される前に話し掛けると言う暴挙を犯しながらも、彼女がそれに気づく様子はない。
「…ほぅ?」
 従兄上の声が、一段と低くなった。
 それに気づかないのか、リアーヌ嬢はペラペラとよく回る口で、レニを貶めていく。
 曰く、以前から姉は被害者意識が強く、全ての責任を周囲になすりつける。
 曰く、姉は虚言癖があり、妄想の世界に生きている。
 …あぁ、彼女はこうして、ギュンター・ファルクとの婚約に関連したレニの悪評を立てて行ったのか。
「…言いたい事は、それだけか?」
 じっと黙って聞いていた従兄上は、リアーヌ嬢が一息吐いた所で、口を挟んだ。
「え?」
「私も、随分と虚仮にされたものだな」
 リアーヌ嬢は、イルザと同じだ。
 美しい容姿と、他人の心に入り込む話術で、自分に有利な環境を作り出して来た彼女達にとって、「真実」とは、自らの手で作り出すもの。
 彼女が是と言えば是、非と言えば非。
 そんな環境で、真っ当な倫理観が育つわけもない。
「リアーヌ・バーデンホスト」
 従兄上が、リアーヌ嬢を呼び捨てた。
「私は、曲がりなりにもダーレンドルフ王国王太子の責を担っている。その私が、一夫人の奏上だけで、何の証拠もなく、裁くと思っているのか?」
「さばく…?」
 これまでの話を、どう受け止めていたのか。
 リアーヌ嬢はこの時初めて、彼等一家の背後に、一歩踏み外せば墜落する深い深い淵がある事に気づいたらしい。
「其方は、王族に直訴する程に、姉をよく知っているのだろう?ならば、何故、その姉が目の前にいる事に気づいておらんのだ」
「え…?」
 リアーヌ嬢の視線が、ゆっくりと、私の横に佇むレニへと向かう。
「嘘…だって…あの女は、もっと貧相で見すぼらしくて…」
「ジークムント・アーベルバッハの隣に立つご夫人は、その妻以外にありえん。何故、それすらも理解出来んのだ?」
 従兄上の汚らわしいものを見るような眼差しに、リアーヌ嬢が凍り付く。
 その時、漸く、バーデンホスト侯爵夫妻が動いた。
「で、殿下…!全ては、夫が独断で行った事でございます!」
「おい、何を、ウルリーケ!お前が、マルグリットを差し出したんだろう!」
「知らないわ!貴方が、お金がないから結婚出来ないって言うからでしょう?!」
「俺は、マルグリットでも良かったんだ!あいつは、素直で心優しく、美人だった!それを、お前が、別れたくないとゴネたのだろうが!」
 掴み合いの喧嘩を始めた両親を、茫然とリアーヌ嬢が見ている。
「バーデンホスト侯爵」
 決して大音声ではないが、押し殺した従兄上の声に、夫妻が、ぴたりと止まった。
「皆まで言わずとも、卿自身が、卿の犯した罪をよく理解しておろう。さて、選ばせてやろうではないか。爵位と領地を返上し、平民に下るのと、白日の下に卿の犯した罪を明らかにするのと、どちらがいい?安心せよ、本来ならば死刑に処す所だが、白眼に晒され、真っ当な社交が送れなくなるだけだ。冤罪を見抜けなかった王宮の官吏の責任もあるからな。寛大な措置だろう?あぁ…リアーヌ嬢。モリツ・クリントヴォルトからの伝言だ。『婚約のお話は、なかった事に』だそうだ」
 リアーヌ嬢が、悲鳴を上げた。
 モリツ殿は、社交界きっての美男子。
 数多のご令嬢に秋波を送られている彼とリアーヌ嬢の縁談がまとまったのは、リアーヌ嬢自身の強い要望によるものだったとクリントヴォルト侯爵に聞いている。
「どっちも嫌よ!死ぬのと一緒じゃない!」
 錯乱したウルリーケ夫人が、叫ぶ。
 真っ青を通り越して、紙のような顔色になったバーデンホスト侯爵が、泣き叫ぶ妻と娘を見て、従兄上に頭を下げた。
「ウルリーケを離縁し、クラフト男爵家にリアーヌと共に戻します。その後、私は侯爵位を返上致します」
 予想外に落ち着いた声に、従兄上は一瞬、眉を顰めたが、暫く経って、あぁ、と頷いた。
「夫人の実家に、面倒を押し付ける気か?クラフト男爵家も堪ったものではないな」
「…ウルリーケは、実家に相当額の金子を援助しておりましたから、これ位は受けて貰わねば」
「その金子が何処から出たものかも、気になる所だがな」
「…」
 口を閉ざしたバーデンホスト侯爵は、妻子と共に、兵士に引きたてられていった。

 バーデンホスト侯爵は、自身の言葉通り、離縁した妻子をクラフト男爵家に送り届けた。
 しかし、父はもう亡く、兄に代替わりしたクラフト家では、侯爵家と変わらぬ生活を続けようとする彼女達を、持て余したらしい。
 それまで、ウルリーケ夫人に多額の支援を受けていた筈だが、それはそれ、と言う事だろう。
 どれ程、諫めようと、彼女達の意識が変わる事はなかった。
 結果として、母子は、別々の修道院へと送られた。
 バーデンホスト侯爵は、屋敷の使用人を解雇した後、爵位を返上。
 領地は、王家の直轄地となり、代官を含め、領地運営に携わっていた人々は、そのまま、雇用が継続されている。
 だが、バーデンホスト侯爵の行方は、杳として知れない。
 元々、侯爵家の領地からの収入とエアハルト家から吸い上げた財産で生活していた人物だ。
 市井で暮らしていけるとは、従兄上も私も思っていない。
 死罪よりも辛い状況にあるだろう事は、想像に難くないし、いずれは行旅死亡人として見つかるだろうと考えている。
 しかし、レニが知る必要はないので、彼等はそれぞれに相応しい場所で、過去の自分と向き合っている、と伝えてある。
 レニの強い要望で、断罪の場に立ち会わせたが、彼等は誰一人として、一言も、レニにも、マルグリット夫人にも、エアハルト伯爵にも、謝罪しなかった。
 互いに罪を擦り付けるだけで、自らの罪を認める事はなかった事に、強い憤りを覚える。
 だが、レニは、心にもない謝罪を受けた所で、受け入れられるとは思えない。寧ろ、一片の情も残っていない事が判って良かった、と、言い切った。
 一方で、バーデンホスト侯爵がまともな紹介状を用意しなかったせいで、次の雇用先を見つけ出せない使用人達の口利きが出来ないか、私に相談する辺り、彼女自身、嘗てバーデンホストの家名を持っていた者としての責任を感じているのだろう。
 幼いレニを守ってくれていた使用人達は、アーベルバッハの本邸で雇用し、付き合いの浅い使用人達にもそれぞれ、雇用先を探したので、少しでもレニの心の負担が軽くなれば、と思う。
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