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ヴィヴィアン・ブライトンは、リンデンバーグ王国の裕福なクレメント男爵家に生まれた。
裕福な、と頭につくのは冗談でも何でもなく、そんじょそこらの伯爵家よりも、余程、お金を持っている。
いや、侯爵家の中にも、クレメント家より財政状況が芳しくない家があるだろう。
父であるスタンリー・クレメント男爵は、よく言えば目端の利く、悪く言えば抜け目のない商人で、商売の成功を理由に爵位を得た所謂成金貴族だ。
金の力で美しい妻を得た彼は、美しく生まれた五人の娘達を、自らの商売に利となる家へと縁づけた。
嫡男である長男が一番初めに生まれているし、スペアとなる次男もいるので、後継者欲しさに子を求めたわけではない。
政略結婚の駒となる娘が欲しかった、と、堂々と言い切る男だ。
事実、姉が一人嫁ぐ度に、スタンリーの商売が大きくなっていった実感が、ヴィヴィアンにはある。
スタンリーは、娘達を磨く為の金こそ掛けてくれたものの、決定権はしっかりとその手に握っていた。
二番目の姉が、誠実で堅実だが、商売上の効果はない子爵家の息子と恋に落ち、相手が求婚して来た時にも、鼻で嗤って追い返した。
駆け落ちしようとした姉は捕らえられ、遠い遠い地へと嫁いでいった。
そんな姿を見ていたヴィヴィアンが、結婚に夢を見る筈もない。
勿論、恋愛なんて考えた事もない。
いや、憧れなど持ってしまえば、却って面倒な事になるのは、姉を見ていれば明らかだ。
だから、いずれは、姉達同様に駒となるのだと、諦念と共に受け入れていた。
四人の姉達は、駆け落ちに失敗した姉も含めて、結婚当初はともかくとして、今では子にも恵まれ、それなりに幸せにやっている。
何しろ、美しく従順なので、当初は何処か距離のあった夫達も、次第に妻を愛するようになる。
大切に扱われ、日々、愛を口にされる事で、姉達も、絆されていく。
夫達は、妻の実家に感謝し、一層の協力をする――…。
嫁ぎ先は実家から資金援助を受け、家を建て直し、実家は嫁ぎ先の家名と商売への優遇を受け、より繁盛し…と、両家共に繁栄するので、win-winの関係なのだろう、と思う。
けれど。
末娘であるヴィヴィアンが嫁す事となったトビアス・ブライトン伯爵は、彼女を一切受け入れなかった。
王宮で流通部門の文官としてそれなりの地位にあるトビアスは、スタンリーに弱みを握られて、この結婚に応じざるを得なかったのだ。
スタンリーは、王宮内部の流通部門とのパイプを太くしたい。
トビアスは、財政難で没落寸前だったブライトン伯爵家への資金援助が欲しい。
これだけならよくある話なのだが、ブライトン家が財政破綻寸前にまで追い詰められた原因の一端は、クレメント家にあると、彼は考えている。
トビアスが若齢で爵位を継ぐ事になったのも、家を傾けた父を早々に引退させる為だ。
憎い相手に資金援助して貰わざるを得ない屈辱と共に、トビアスがどうしても許せなかったのが、恋人と結婚出来なくなってしまった事だった。
トビアスには、男爵令嬢の恋人がいた。
互いに結婚を約束していたが、支度金を準備出来ないせいで結婚を先延ばししていた所での、ブライトン伯爵家没落危機。
没落貴族となっても愛を貫くか、政略結婚を受け入れて恋人との結婚を諦めるか――両天秤に掛けた結果、政略結婚を選び、恋人を愛人にすると決めたのは自分なのだから、ヴィヴィアンを恨むのはお門違いなのだが、トビアスにとっては違う。
ヴィヴィアンは、別に、トビアスが誰を愛そうと、愛人が何人いようと、吹聴する気もないし、自由にしてくれればいい、と思っている。
愛する女性との子供に家を継がせたいから、ヴィヴィアンに手を出さない、と言うのも、まぁ、ある意味、誠実だと思ってもいい。
けれど、それは、トビアスがヴィヴィアン個人を最低限尊重してくれるのならば、と言う注釈付きだ。
どうやら、嘗ての恋人、現在の愛人であるアイリーン・エニエール男爵令嬢は、見た目と違って随分としたたかなようで、ヴィヴィアンの事を、あの手この手で、陥れようとする。
服装にケチつけられたとか、髪型にダメ出しされたとか、教養がないと嗤われたとか、何とか。
「奥様の仰る通り、私なんて、トビーに相応しくありませんわぁ」と泣いてみせて、「君以外の女性など、愛せやしない。おのれ、あの女狐め!」とトビアスがヴィヴィアンへの怒りを燃やす、までが一連。
何と言う茶番。
ヴィヴィアンだって、アイリーンの気持ちは判らなくもない。
結婚出来ると思っていた相手の頬を、金貨袋で殴って奪われたのだ。
それは、ヴィヴィアンが憎くて仕方なかろう。
夫婦仲が悪ければ、トビアスはアイリーンの元に入り浸る。
『正妻に妨害されても貫き続ける真実の愛』と言う言葉に酔って、二人の愛は一層強固になる。
――けれど、この結婚はヴィヴィアンが望んだものでもない、と言う事を、彼等は失念している。
お陰で、双方の利害が一致した結果の政略結婚の筈が、ヴィヴィアンは結婚当初から、顔を合わせれば一方的に嫌味と叱責を受けるばかり。
敢えて愛人の顔が見たいとも思わないから、アイリーンに会った事は一度もないのに、
「嫌がらせと仰っても、身に覚えがございません。どうぞ、お気の済むまでお調べください」
と正直に言っても聞く耳を持たず、一方的に罵声を浴びせてくる人間への愛想など、とうに尽きた。
契約相手であるヴィヴィアンを、ここまで貶めて平然としているその心根への評価は、地中深くにめり込んでいる。
トビアスは、日中は王宮に出仕しているし、夜は愛する女性と暮らす為に借りた街中の家へと帰るので、普段、顔を合わす事は全くと言っていい程、ない。
アイリーンは、戸籍上はエニエール男爵家の令嬢であると言うのに、愛人扱いでいいのだろうか、と思ったけれど、どうやら、子沢山エニエール家は、養ってくれるのであれば、立場はそこまで気にしないようだ。
ヴィヴィアンが結婚して五年になるが、夫と顔を合わせた回数は両手指には余ろうとも、両足指まで数えれば十分足りるだろう。
その中の一回が、年末に王宮で開かれる大舞踏会だった。
大舞踏会には、国王の治世を寿ぐ為に、全国の貴族当主夫妻と、新年の節目に代替わりをする新当主が招待される。
この日ばかりは、例え仮面夫婦であっても、夫婦揃って拝謁しなければならない。
噂では、夫婦として申請している通りの相手を同伴していないと、後日、呼び出しがあるとか何とか。
数代前のリンデンバーグ国王夫妻が大恋愛の末に結ばれたらしく、
「夫婦は互いの想いで結ばれるように」
とのありがた~いご遺志から、今では、政略結婚は表向き、ない事になっている。
事実、現在の国王も、隣国サーラの姫君と恋愛結婚した。
王妃は、二男二女を儲けた後、ヴィヴィアンの幼い頃に若くして亡くなっているが、以降、国王が後添えを貰う気配はない。
王宮の式典でも、亡妻の席を必ず設ける位、国王の王妃への想いは厚く、同時に、それだけ想い合える相手と添うて欲しい、との希望も強い。
だが、そうは言っても、現実的に恋愛結婚以外の婚姻が全くのゼロになるか、と言うとそれはまた、別の話。
皆が皆、恋愛強者ではないし、想う人に想い返されるわけでもないのだ。
ヴィヴィアンに言わせれば、全員恋愛結婚出来ると思うなんて、脳内お花畑だよね、となる。
けれど、嘗ての国王夫妻の意を叶える為に、全ての結婚は表面上、『大恋愛の末、互いを想い合って結婚しました』、『きっかけは見合いでも、今では愛し合ってます』と言う体裁を取らざるを得ない。
つまり、どれだけトビアスが真実の妻はアイリーンだと思っていようと、大舞踏会では、戸籍上の妻であるヴィヴィアンを伴っていなければ、痛い腹をぐりぐり探られる羽目になるのだ。
他にも、王宮に勤める文官のトビアスが参加しなくてはならない夫婦同伴必須の夜会があるので、ヴィヴィアンは年に二、三度は、顔全体に「不機嫌」と書いてあるトビアスに、伴われる羽目になる。
こちらだって、好きで行くわけではないのだから、もう少し愛想をよくしなさいよ、と思うけれど、トビアスがヴィヴィアンを気遣った試しはない。
どうやら彼は、トビアスが何をしようと不平不満を言わないヴィヴィアンが、彼に惚れていると思い込んでいるらしい。
確かに、トビアスは金髪碧眼と言うこの国で典型的な美男の色合いを持ち、少々神経質そうに見えるが、文官らしく線の細い優美な美形ではある、と思う。
だが、それだけだ。
ヴィヴィアンにとっては、それ以上でもそれ以下でもない。
しかし、トビアスは、自身がモテる自覚があるせいか、
「惚れた男の妻を名乗れるのだから、嬉しいだろう?」
と、盛大な勘違いをしている。
何と言うか、その思い込みが気持ち悪いのだが、反論するのも面倒臭いな、と言葉を飲み込んでしまうのがいけないのだろうか。
「貴方が仕立てた礼装の代金、私が立て替えているのを覚えてらっしゃる?」
とか、
「愛人嬢…じゃなかった、アイリーン嬢が欲しがっているから、って、王家御用達レントン工房のドレスを、私のツケで作ったのは、何方だったかしら?」
とか、ついでに言えば、
「アイリーン嬢との愛の巣を借りてるお金、出してるの私だけど?」
とか、ヴィヴィアンだって、胸の内に溜め込んだモヤモヤはたくさんある。
どうして、生活費も入れない癖に、請求書ばかり送り付けて来るのか。
けれど、ヴィヴィアンには、泣きつく実家がない。
『ブライトン伯爵夫人の役』を果たす為に、資金援助はたくさん実家から貰っているが、所詮は、スタンリーにとっての駒。
ヴィヴィアンを思いやってくれての事ではないのだ。
トビアスに利用価値がある間は、ヴィヴィアンが離縁を望む事は出来ない。
裏を返せば、トビアスに利用価値がなくなれば、仮に、ヴィヴィアンに彼への情があったとしても、スタンリーの都合でまた別の相手に妻合わされるのだろうけれど。
無駄な事、面倒な事はしない、と言うのが、幼い頃から身に沁みついているから、こうしてヴィヴィアンは、結婚から五年、女として最も輝く時期を、無為に過ごして来た。
正直に言って、化粧品にもドレスにも宝石にも、興味はない。
ただ、クレメント商会の娘に相応しく装って来ただけの事。
どれだけ磨こうと飾ろうと、誉められるのはヴィヴィアンの見た目。
如何に美しく装っているか、と言う点だけだ。
誰も、ヴィヴィアンの事を、一人の意思を持つ人間として扱ってはくれない。
マネキンと同じで、ドレスや宝石を映えさせ、購買意欲をそそる為の土台に過ぎないのだ。
土台としての価値が下がれば、夫にも父にも苦言を呈される事だろう。
トビアスは、ヴィヴィアンが最新のドレスを纏い、高価な宝石を身に付ける事で、対外的に、ブライトン家の財政に余裕があるのだ、妻に費やす金を惜しまない心の広い夫なのだ、と示そうとしている。
スタンリーは、トビアスがヴィヴィアンを張りぼてだろうと妻として扱う事で、流通部門の優遇措置を受け、利益を上げる一方、伯爵夫人であるヴィヴィアンのマネキンとしての宣伝効果の恩恵を、受けている。
ヴィヴィアン個人の感情など、彼等は考慮しない。
一方的に「美しくあれ」と言うだけだ。
「…でも、おっさんになるのは、流石に嫌だわ…」
正直な所、ジュノが言う『ドキドキ』、『ときめき』、『きゅんっ』は、ヴィヴィアンの辞書にない。
どんな感情なのか、いまいちどころか、いまにいまさん、判らない。
だが、何か夢はないのか、と問われれば、
「可愛らしいおばあちゃまになりたい」
とは思う。
断然、おっさんよりも、おばあちゃまの方がいいに決まっている。
別に、女を捨てたいと思っているわけではない。
子を持てないのだから、孫に囲まれる人生は無理だけれど、せめて、世を拗ねたひねくればあさんにはなりたくない、と思っていたら、まさかの性別すら女でいられなくなってしまうかもしれないとは。
何とかして、おっさん化を回避しなければ。
裕福な、と頭につくのは冗談でも何でもなく、そんじょそこらの伯爵家よりも、余程、お金を持っている。
いや、侯爵家の中にも、クレメント家より財政状況が芳しくない家があるだろう。
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金の力で美しい妻を得た彼は、美しく生まれた五人の娘達を、自らの商売に利となる家へと縁づけた。
嫡男である長男が一番初めに生まれているし、スペアとなる次男もいるので、後継者欲しさに子を求めたわけではない。
政略結婚の駒となる娘が欲しかった、と、堂々と言い切る男だ。
事実、姉が一人嫁ぐ度に、スタンリーの商売が大きくなっていった実感が、ヴィヴィアンにはある。
スタンリーは、娘達を磨く為の金こそ掛けてくれたものの、決定権はしっかりとその手に握っていた。
二番目の姉が、誠実で堅実だが、商売上の効果はない子爵家の息子と恋に落ち、相手が求婚して来た時にも、鼻で嗤って追い返した。
駆け落ちしようとした姉は捕らえられ、遠い遠い地へと嫁いでいった。
そんな姿を見ていたヴィヴィアンが、結婚に夢を見る筈もない。
勿論、恋愛なんて考えた事もない。
いや、憧れなど持ってしまえば、却って面倒な事になるのは、姉を見ていれば明らかだ。
だから、いずれは、姉達同様に駒となるのだと、諦念と共に受け入れていた。
四人の姉達は、駆け落ちに失敗した姉も含めて、結婚当初はともかくとして、今では子にも恵まれ、それなりに幸せにやっている。
何しろ、美しく従順なので、当初は何処か距離のあった夫達も、次第に妻を愛するようになる。
大切に扱われ、日々、愛を口にされる事で、姉達も、絆されていく。
夫達は、妻の実家に感謝し、一層の協力をする――…。
嫁ぎ先は実家から資金援助を受け、家を建て直し、実家は嫁ぎ先の家名と商売への優遇を受け、より繁盛し…と、両家共に繁栄するので、win-winの関係なのだろう、と思う。
けれど。
末娘であるヴィヴィアンが嫁す事となったトビアス・ブライトン伯爵は、彼女を一切受け入れなかった。
王宮で流通部門の文官としてそれなりの地位にあるトビアスは、スタンリーに弱みを握られて、この結婚に応じざるを得なかったのだ。
スタンリーは、王宮内部の流通部門とのパイプを太くしたい。
トビアスは、財政難で没落寸前だったブライトン伯爵家への資金援助が欲しい。
これだけならよくある話なのだが、ブライトン家が財政破綻寸前にまで追い詰められた原因の一端は、クレメント家にあると、彼は考えている。
トビアスが若齢で爵位を継ぐ事になったのも、家を傾けた父を早々に引退させる為だ。
憎い相手に資金援助して貰わざるを得ない屈辱と共に、トビアスがどうしても許せなかったのが、恋人と結婚出来なくなってしまった事だった。
トビアスには、男爵令嬢の恋人がいた。
互いに結婚を約束していたが、支度金を準備出来ないせいで結婚を先延ばししていた所での、ブライトン伯爵家没落危機。
没落貴族となっても愛を貫くか、政略結婚を受け入れて恋人との結婚を諦めるか――両天秤に掛けた結果、政略結婚を選び、恋人を愛人にすると決めたのは自分なのだから、ヴィヴィアンを恨むのはお門違いなのだが、トビアスにとっては違う。
ヴィヴィアンは、別に、トビアスが誰を愛そうと、愛人が何人いようと、吹聴する気もないし、自由にしてくれればいい、と思っている。
愛する女性との子供に家を継がせたいから、ヴィヴィアンに手を出さない、と言うのも、まぁ、ある意味、誠実だと思ってもいい。
けれど、それは、トビアスがヴィヴィアン個人を最低限尊重してくれるのならば、と言う注釈付きだ。
どうやら、嘗ての恋人、現在の愛人であるアイリーン・エニエール男爵令嬢は、見た目と違って随分としたたかなようで、ヴィヴィアンの事を、あの手この手で、陥れようとする。
服装にケチつけられたとか、髪型にダメ出しされたとか、教養がないと嗤われたとか、何とか。
「奥様の仰る通り、私なんて、トビーに相応しくありませんわぁ」と泣いてみせて、「君以外の女性など、愛せやしない。おのれ、あの女狐め!」とトビアスがヴィヴィアンへの怒りを燃やす、までが一連。
何と言う茶番。
ヴィヴィアンだって、アイリーンの気持ちは判らなくもない。
結婚出来ると思っていた相手の頬を、金貨袋で殴って奪われたのだ。
それは、ヴィヴィアンが憎くて仕方なかろう。
夫婦仲が悪ければ、トビアスはアイリーンの元に入り浸る。
『正妻に妨害されても貫き続ける真実の愛』と言う言葉に酔って、二人の愛は一層強固になる。
――けれど、この結婚はヴィヴィアンが望んだものでもない、と言う事を、彼等は失念している。
お陰で、双方の利害が一致した結果の政略結婚の筈が、ヴィヴィアンは結婚当初から、顔を合わせれば一方的に嫌味と叱責を受けるばかり。
敢えて愛人の顔が見たいとも思わないから、アイリーンに会った事は一度もないのに、
「嫌がらせと仰っても、身に覚えがございません。どうぞ、お気の済むまでお調べください」
と正直に言っても聞く耳を持たず、一方的に罵声を浴びせてくる人間への愛想など、とうに尽きた。
契約相手であるヴィヴィアンを、ここまで貶めて平然としているその心根への評価は、地中深くにめり込んでいる。
トビアスは、日中は王宮に出仕しているし、夜は愛する女性と暮らす為に借りた街中の家へと帰るので、普段、顔を合わす事は全くと言っていい程、ない。
アイリーンは、戸籍上はエニエール男爵家の令嬢であると言うのに、愛人扱いでいいのだろうか、と思ったけれど、どうやら、子沢山エニエール家は、養ってくれるのであれば、立場はそこまで気にしないようだ。
ヴィヴィアンが結婚して五年になるが、夫と顔を合わせた回数は両手指には余ろうとも、両足指まで数えれば十分足りるだろう。
その中の一回が、年末に王宮で開かれる大舞踏会だった。
大舞踏会には、国王の治世を寿ぐ為に、全国の貴族当主夫妻と、新年の節目に代替わりをする新当主が招待される。
この日ばかりは、例え仮面夫婦であっても、夫婦揃って拝謁しなければならない。
噂では、夫婦として申請している通りの相手を同伴していないと、後日、呼び出しがあるとか何とか。
数代前のリンデンバーグ国王夫妻が大恋愛の末に結ばれたらしく、
「夫婦は互いの想いで結ばれるように」
とのありがた~いご遺志から、今では、政略結婚は表向き、ない事になっている。
事実、現在の国王も、隣国サーラの姫君と恋愛結婚した。
王妃は、二男二女を儲けた後、ヴィヴィアンの幼い頃に若くして亡くなっているが、以降、国王が後添えを貰う気配はない。
王宮の式典でも、亡妻の席を必ず設ける位、国王の王妃への想いは厚く、同時に、それだけ想い合える相手と添うて欲しい、との希望も強い。
だが、そうは言っても、現実的に恋愛結婚以外の婚姻が全くのゼロになるか、と言うとそれはまた、別の話。
皆が皆、恋愛強者ではないし、想う人に想い返されるわけでもないのだ。
ヴィヴィアンに言わせれば、全員恋愛結婚出来ると思うなんて、脳内お花畑だよね、となる。
けれど、嘗ての国王夫妻の意を叶える為に、全ての結婚は表面上、『大恋愛の末、互いを想い合って結婚しました』、『きっかけは見合いでも、今では愛し合ってます』と言う体裁を取らざるを得ない。
つまり、どれだけトビアスが真実の妻はアイリーンだと思っていようと、大舞踏会では、戸籍上の妻であるヴィヴィアンを伴っていなければ、痛い腹をぐりぐり探られる羽目になるのだ。
他にも、王宮に勤める文官のトビアスが参加しなくてはならない夫婦同伴必須の夜会があるので、ヴィヴィアンは年に二、三度は、顔全体に「不機嫌」と書いてあるトビアスに、伴われる羽目になる。
こちらだって、好きで行くわけではないのだから、もう少し愛想をよくしなさいよ、と思うけれど、トビアスがヴィヴィアンを気遣った試しはない。
どうやら彼は、トビアスが何をしようと不平不満を言わないヴィヴィアンが、彼に惚れていると思い込んでいるらしい。
確かに、トビアスは金髪碧眼と言うこの国で典型的な美男の色合いを持ち、少々神経質そうに見えるが、文官らしく線の細い優美な美形ではある、と思う。
だが、それだけだ。
ヴィヴィアンにとっては、それ以上でもそれ以下でもない。
しかし、トビアスは、自身がモテる自覚があるせいか、
「惚れた男の妻を名乗れるのだから、嬉しいだろう?」
と、盛大な勘違いをしている。
何と言うか、その思い込みが気持ち悪いのだが、反論するのも面倒臭いな、と言葉を飲み込んでしまうのがいけないのだろうか。
「貴方が仕立てた礼装の代金、私が立て替えているのを覚えてらっしゃる?」
とか、
「愛人嬢…じゃなかった、アイリーン嬢が欲しがっているから、って、王家御用達レントン工房のドレスを、私のツケで作ったのは、何方だったかしら?」
とか、ついでに言えば、
「アイリーン嬢との愛の巣を借りてるお金、出してるの私だけど?」
とか、ヴィヴィアンだって、胸の内に溜め込んだモヤモヤはたくさんある。
どうして、生活費も入れない癖に、請求書ばかり送り付けて来るのか。
けれど、ヴィヴィアンには、泣きつく実家がない。
『ブライトン伯爵夫人の役』を果たす為に、資金援助はたくさん実家から貰っているが、所詮は、スタンリーにとっての駒。
ヴィヴィアンを思いやってくれての事ではないのだ。
トビアスに利用価値がある間は、ヴィヴィアンが離縁を望む事は出来ない。
裏を返せば、トビアスに利用価値がなくなれば、仮に、ヴィヴィアンに彼への情があったとしても、スタンリーの都合でまた別の相手に妻合わされるのだろうけれど。
無駄な事、面倒な事はしない、と言うのが、幼い頃から身に沁みついているから、こうしてヴィヴィアンは、結婚から五年、女として最も輝く時期を、無為に過ごして来た。
正直に言って、化粧品にもドレスにも宝石にも、興味はない。
ただ、クレメント商会の娘に相応しく装って来ただけの事。
どれだけ磨こうと飾ろうと、誉められるのはヴィヴィアンの見た目。
如何に美しく装っているか、と言う点だけだ。
誰も、ヴィヴィアンの事を、一人の意思を持つ人間として扱ってはくれない。
マネキンと同じで、ドレスや宝石を映えさせ、購買意欲をそそる為の土台に過ぎないのだ。
土台としての価値が下がれば、夫にも父にも苦言を呈される事だろう。
トビアスは、ヴィヴィアンが最新のドレスを纏い、高価な宝石を身に付ける事で、対外的に、ブライトン家の財政に余裕があるのだ、妻に費やす金を惜しまない心の広い夫なのだ、と示そうとしている。
スタンリーは、トビアスがヴィヴィアンを張りぼてだろうと妻として扱う事で、流通部門の優遇措置を受け、利益を上げる一方、伯爵夫人であるヴィヴィアンのマネキンとしての宣伝効果の恩恵を、受けている。
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一方的に「美しくあれ」と言うだけだ。
「…でも、おっさんになるのは、流石に嫌だわ…」
正直な所、ジュノが言う『ドキドキ』、『ときめき』、『きゅんっ』は、ヴィヴィアンの辞書にない。
どんな感情なのか、いまいちどころか、いまにいまさん、判らない。
だが、何か夢はないのか、と問われれば、
「可愛らしいおばあちゃまになりたい」
とは思う。
断然、おっさんよりも、おばあちゃまの方がいいに決まっている。
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