15 / 27
<14>
しおりを挟む
何で、こんな事になったのだろう。
頭から葡萄酒を掛けられて、ヴィヴィアンは茫然と、濡れたドレスを見下ろした。
出会い頭に、問答無用でビシャ!だ。
ごく一般的な貴族女性であるヴィヴィアンに、避けろと言う方が無理だ。
瓶に一本分の葡萄酒は、ヴィヴィアンの髪から滴り、ドレスに不格好な染みを広げている。
「あんたは、トビーに嫌われてるのに!何で、あんたの事で、今更、彼が悩むのよ!」
トビー、と、夫の名を呼ぶ女性に、漸く、ヴィヴィアンの頭が回り始める。
彼の愛称を親し気に呼ぶ女性に、見覚えはない。
ないが、焦茶の巻き毛、青灰色の垂れ目、成人女性としては小柄で、凹凸の少ない少女のような体形…とくれば、トビアスの愛人であるアイリーン・エニエール男爵令嬢だ。
わめき散らす支離滅裂なアイリーンの言葉を整理するに、先日、ヴィヴィアンが偶然、王宮でトビアスと行き合ってから、彼は、ヴィヴィアンの事ばかり、口にしているらしい。
「あんたはトビーを愛してるから、放置するのが一番の罰になる、って教えてあげたのに!あんたに他の男がいるなら、罰にならないんじゃないか、あんたにとって自分はなんなんだ、って悩み始めちゃったじゃない!」
つまり。
結婚当初から、トビアスがヴィヴィアンに辛く当たったのは、アイリーンが横からない事ない事吹き込んだせいだと言うのか。
トビアスは、アイリーンの言葉を信じ、彼の意に添わぬ結婚を強いたヴィヴィアンへのお仕置きのつもりで、彼女を冷遇していたらしい。
いつか、ヴィヴィアンが彼に泣いて縋ってくる、そうしたら、『金を出して貰った』立場のトビアスが、優位に立てる、と思い込んで。
ヴィヴィアンへの態度を改善しないと捨てられる、と同僚から受けた忠告も、全く信じていなかったが、先日、隣にコンラートが立つ姿を見て、衝撃を受けた。
ヴィヴィアンが、離婚を申し立てたら。
初めて、その選択肢が、トビアスの脳裏に浮かんだ。
ヴィヴィアンが、離婚の申し立てをしたら、トビアスには、勝ち目などない。
何しろ、白い結婚である事は、誰よりも彼自身が知っている。
王宮に仕える文官であるトビアスは、畑違いではあるものの、『白い結婚』の確認方法も知っていた。
不本意な結婚への反抗心からだったが、離婚の申し立てとなったら、不利にしかならない。
妻と会うのは、年に数度、夜会の会場でのみ。
生活費を渡していないどころか、今、住んでいる家の家賃や嗜好品も、妻の資産を無心している。
ヴィヴィアンがいなくなれば、実質、トビアスの生活は成り立たない。
給料以上に散財している生活レベルを落とすなど、プライドが許さない。
勿論、流通部門の長官補佐と言う役職がある以上、義父であるスタンリー・クレメントは、容易には離婚させない。
それだけが、今のトビアスにとっての安心材料だった。
だが、そう思ってはいても、確証などない。
同程度以上の利を示されれば、あの義父ならば、簡単に離婚に応じるからだ。
離婚は、したくない。
今、享受している贅を、手放したくはない。
そのせいで、彼は日々、どうすればヴィヴィアンとの関係を改善出来るのか、頭を悩ませているらしい。
「そんな話を、わたくしにされましても…」
ヴィヴィアンからすれば、トビアスが歩み寄ろうとしている、と聞いた所で、今更、としか思わない。
何分、五年の月日、罵詈雑言を浴び、放置されて過ごして、今となっては、彼への期待も情も、欠片もないのだから。
――アイリーンの襲撃は、ヴィヴィアンがランドリック侯爵の夜会を訪れ、馬車を降りた途端の出来事だった。
にこやかな笑みを浮かべた女性が、こちらに歩み寄って来た、と思ったら、たっぷりと襞を取ったスカートの隙間から葡萄酒の小瓶を取り出して、おもむろに掛けられたのだ。
アイリーンの立場で、侯爵家の夜会の招待状を手に入れられたとは思えない。
だからこそ、人で混み合っていて、尚且つ、招待状が確認される前の車寄せで、凶行に及んだのだろう。
アイリーンのキンキンと耳に響く甲高い声を聞いて、侯爵家の護衛と思われる男性達が駆け寄って来る。
いや、もしかすると、コンラートがヴィヴィアンに密かにつけてくれている護衛かもしれない。
狼藉者として彼女を拘束しようとする護衛、手足をばたつかせて暴れるアイリーン、遠巻きにこちらを見て口々に何かを話す招待客達…そんな光景を、何処か他人事のように見ながら、ヴィヴィアンは、葡萄酒の赤に染まったドレスを、
「この染みはもう、落ちないでしょうね…」
と、眺めていた。
今日のドレスは、ヴィヴィアンにしては、冒険したものだった。
冬の短いリンデンバーグでは、冬季のドレスも他の季節のドレスと大差ない。
暖色や濃色が好まれ、袖がついたり、マントを羽織ったりする程度だ。
そんな中、ヴィヴィアンは、北の隣国エダンから来た天鵞絨と呼ばれる生地で、ドレスを仕立ててみた。
白にうっすらと銀が煌めく光沢の美しい生地は、リンデンバーグでは珍しい雪景色をイメージして選んだものだ。
毛羽のある生地ならば、寒色でも冬の季節に相応しい、との提案のつもりだった。
いつもは、集団に埋没するように、流行真っ只中の型と色を選ぶ。
だが、いずれ、商会を立ち上げるのであれば、目新しく、人々の関心を惹く商品を、紹介する必要がある。
実際に仕事を始めるのはサーラであっても、新しいものを目にした人々の反応は、万国共通の筈だ。
その為、参加者の多いランドリック侯爵の夜会で、興味の惹き方を学ぼうと思ったのだが。
「ヴィヴィアン!」
表の騒ぎを聞きつけたのか。
血相を変えて駆け寄って来たコンラートが、頭からポタリと赤い雫を垂らすヴィヴィアンを見て、一瞬、険しい表情を浮かべた。
暗がりの中で、葡萄酒の赤が、血の赤に見えたのだろう。
だが、場に広がる酒精の強い香りに事態を把握したらしく、即座に上着を脱いで、彼女の肩に掛けた。
ふわり、と香るコンラートの香りに、ヴィヴィアンはホッと息を吐く。
続いてコンラートは、ハンカチを取り出して、丁寧に雫を拭っていった。
「有難うございます…」
「何ですか、この女は」
「アイリーン・エニエール男爵令嬢だと思います。わたくしは、お会いした事がないので、推測ですが」
アイリーンの名を聞いて、コンラートは、鋭い眼光でアイリーンを睨みつけた。
コンラートに睨みつけられたアイリーンは、そんな場合ではなかろうに、一瞬、惚けたように、整った彼の顔に見入る。
「嘘でしょ…あんたは、トビーが好きだから、だから、私から奪おうとしたのよね?なのに、何でトビーよりもいい男を、掴まえてるのよ…!そんないい男がいるなら、トビーは私にちょうだいよ!何で、あんたばっかり!頭空っぽのお人形の癖に…!」
己の立場を弁えないアイリーンの言葉に、ヴィヴィアンは眉を顰めた。
ここは、ランドリック侯爵の夜会。
例え、初対面であっても、コンラートが高位貴族に属する事位、判る筈だ。
一男爵令嬢に過ぎないアイリーンが、高位の男性貴族であるコンラートを、品物のように呼ばわるとは。
だが、アイリーンに謝罪させようとするヴィヴィアンの前に、コンラートが口を開く。
「頭空っぽは、お前だろう」
地の底から這うような声に、アイリーンは、ヒッ、と息を飲む。
「招待されてもいない侯爵家の夜会で騒動を起こした責任を、お前に取れるのか?」
「…え?」
「場を騒がせた慰謝料を侯爵家に支払った上で、ヴィヴィアンのツケでこれまで買った品の代金を払えるのか?」
「なっ、何で私がそんな事しないといけないのよ!悪いのは、私にこんな事をさせたその女でしょ?!その女に払わせればいいじゃない!」
いっそ清々しい程、自己中心的なアイリーンの発言に、コンラートは嫌悪を隠そうともせず、周囲を取り囲んだ招待客も失笑した。
自分を取り囲む人々の蔑む視線に、漸く気づいたアイリーンは、
「あんたのせいで、私の人生が狂った…!」
と、ヴィヴィアンを糾弾する。
「あんたさえいなければ、トビーと結婚するのは私だった!私が、私こそが伯爵夫人になる筈だったのに!成金男爵家のあんたじゃなくて、由緒ある男爵家の私が…!」
「そして、ブライトン伯爵家は没落するんだな」
「家が危なかったのは、この女が裏から手を回したせいじゃない!この女のせいで、没落危機に陥ったんだわ!私とトビーは愛し合ってるのよ?それを、この女が、トビーに横恋慕したせいで、ブライトン家は大変な目に遭ったし、私達は結婚出来なかった…!」
周囲の同情を買おうと言い募るアイリーンの言葉に、ヴィヴィアンは、小さく首を傾げた。
「わたくし、結婚式当日まで、旦那様とはお会いした事もございません。ですから、横恋慕は無理です。それに…ブライトン家とのお付き合いは、経済状況が悪化した頃からございますけれど、それは、前ブライトン伯が借金の申し入れをしたのが、クレメント家だったからです。どうしても家を存続したい、と請われた父が、わたくしを縁づける提案をしただけの事。…旦那様は、家の没落とエニエール男爵令嬢を天秤に掛けて、お家の存続を選ばれただけですわ」
淡々としたヴィヴィアンの声は、時折、馬の嘶く声が聞こえるだけで、それ以外は、シン…と静まり返った車寄せの前で、よく通った。
ヒソヒソと、招待客達が小声で言葉を交わしている。
被害者面をしていたトビアスとアイリーンは、傍若無人なだけではなく、恩人に後ろ足で砂を掛ける恩知らずである事が、これで広く知れ渡った事になる。
「違う!トビーが、お金の為だけに私を捨てる筈がない…!」
「旦那様は、貴方と暮らしていらっしゃるのですから、家の存続と、愛する方と、どちらも手放さない選択をなさったのだと思いますけれど?」
「じゃあ、何で今更、私と別れるなんて言い出すのよ?!」
え、と、ヴィヴィアンは言葉に詰まり、思わず、傍らのコンラートに、「意味判る?」と視線で尋ねてしまった。
その視線を受けて、コンラートがアイリーンに質問する。
「ブライトン伯爵は、お前と別れると言ったのか」
「そうよ!『離婚は出来ない。お前と別れれば、誠意が伝わる筈だ。一人にした時間が長かったせいで、よその男がちょっかいを出して来たのだろう。家に戻って、あの女を正式に妻にしてやればいい』って…!」
「え、やだ」
思わず、素で発言してしまったヴィヴィアンは、慌てて姿勢を正した。
「旦那様が本邸にお戻りになるのでしたら、わたくしが家を出ます。ですから、どうぞ、エニエール男爵令嬢はこれまで通り、安心して旦那様にお仕えくださいませ」
『私は、あの男と夫婦になる気は、ありませんから』。
はっきりとそう宣言したヴィヴィアンに、背後からパチパチと拍手と共に声が掛けられる。
「流石は、クレメント家の末姫。しっかりしていらっしゃる」
この夜会の主催者、ランドリック侯爵だ。
彼は眉尻を下げて、寒そうにコンラートの上着の前を掻き合わせるヴィヴィアンを見ると、
「私の主催する会で、このような事になり、申し訳ない。後日、お詫びを」
と、申し入れた。
「いいえ、ランドリック侯爵様。わたくしこそ、我が家の問題でお騒がせして、大変、申し訳ございません」
「貴方に何の非もない事は、今夜、この場にいる全員…いや、一人を除いて、理解しておる。どうか、この先は私に任せて欲しい。そこの招かれざる客は、私が責任を持って、実家に送り届けよう」
ランドリック侯爵が、アイリーンをぎろりと睨めつける。
遥かに上の爵位の人間に睨まれ、流石のアイリーンも蒼白になって黙り込んだ。
「コンラート卿。このままでは、クレメント嬢がお風邪を召される。護衛を兼ねて、私の代理として屋敷まで送っては頂けないか」
ランドリック侯爵は、ブライトン夫人であるヴィヴィアンを、わざと「クレメント嬢」と呼んだ。
トビアスが言ったとされる『正式に妻とする』と言う言葉は、トビアスがヴィヴィアンを蔑ろにしていたどころか、妻として扱っていない…つまり、指一本触れていない、ヴィヴィアンは人妻とは名ばかりで、清い体だ、と言ったと汲み取れる。
書類上、ブライトン伯爵夫人であったとしても、実質はまだ、「令嬢」である、と、ランドリック侯爵は、強調してみせたのだ。
夫ある身の為、コンラートの好意を受け入れなかったヴィヴィアン。
彼女は、夫が家に戻ると聞いても、彼を拒み、愛人にその座を渡す、と宣言した。
それはつまり、妻としてトビアスに仕える気はない、と言う事。
コンラートとヴィヴィアンの恋を応援する立場のランドリック侯爵は、ヴィヴィアンがトビアスと別れる為の布石を打ったのだろう。
「承知しました。ヴィヴィアン、お送りします」
「ですが、」
「今の貴方を、一人にするわけには参りません」
婚約者でもない男女が、馬車内で二人きりになる事への周囲の目を気にするヴィヴィアンに対し、
「私の名代ですよ」
と、ランドリック侯爵も、追撃する。
周囲の人々が、うんうん、と頷いているのを見て、漸く、ヴィヴィアンは遠慮がちに頷いた。
「では…お願い出来ますか?一人では、少々、恐ろしいので…」
「はい。ご安心を」
ヴィヴィアンは、気づいていない。
ただでさえ、ランドリック侯爵の夜会の招待客は、コンラートとヴィヴィアンの恋に同情していた人々が中心。
そんな彼等が、夫の愛人にまで虐げられながら、感情的になるわけでもなく、凜として顔を上げ、己の言葉で気持ちを語り、ついに夫を拒んでコンラートを選んだ(ように見える)楚々として美しいヴィヴィアンを、どう思うのか。
この晩、『コンラートとヴィヴィアンの純愛を見守り隊』が、正式に、但し、密やかに、結成された。
頭から葡萄酒を掛けられて、ヴィヴィアンは茫然と、濡れたドレスを見下ろした。
出会い頭に、問答無用でビシャ!だ。
ごく一般的な貴族女性であるヴィヴィアンに、避けろと言う方が無理だ。
瓶に一本分の葡萄酒は、ヴィヴィアンの髪から滴り、ドレスに不格好な染みを広げている。
「あんたは、トビーに嫌われてるのに!何で、あんたの事で、今更、彼が悩むのよ!」
トビー、と、夫の名を呼ぶ女性に、漸く、ヴィヴィアンの頭が回り始める。
彼の愛称を親し気に呼ぶ女性に、見覚えはない。
ないが、焦茶の巻き毛、青灰色の垂れ目、成人女性としては小柄で、凹凸の少ない少女のような体形…とくれば、トビアスの愛人であるアイリーン・エニエール男爵令嬢だ。
わめき散らす支離滅裂なアイリーンの言葉を整理するに、先日、ヴィヴィアンが偶然、王宮でトビアスと行き合ってから、彼は、ヴィヴィアンの事ばかり、口にしているらしい。
「あんたはトビーを愛してるから、放置するのが一番の罰になる、って教えてあげたのに!あんたに他の男がいるなら、罰にならないんじゃないか、あんたにとって自分はなんなんだ、って悩み始めちゃったじゃない!」
つまり。
結婚当初から、トビアスがヴィヴィアンに辛く当たったのは、アイリーンが横からない事ない事吹き込んだせいだと言うのか。
トビアスは、アイリーンの言葉を信じ、彼の意に添わぬ結婚を強いたヴィヴィアンへのお仕置きのつもりで、彼女を冷遇していたらしい。
いつか、ヴィヴィアンが彼に泣いて縋ってくる、そうしたら、『金を出して貰った』立場のトビアスが、優位に立てる、と思い込んで。
ヴィヴィアンへの態度を改善しないと捨てられる、と同僚から受けた忠告も、全く信じていなかったが、先日、隣にコンラートが立つ姿を見て、衝撃を受けた。
ヴィヴィアンが、離婚を申し立てたら。
初めて、その選択肢が、トビアスの脳裏に浮かんだ。
ヴィヴィアンが、離婚の申し立てをしたら、トビアスには、勝ち目などない。
何しろ、白い結婚である事は、誰よりも彼自身が知っている。
王宮に仕える文官であるトビアスは、畑違いではあるものの、『白い結婚』の確認方法も知っていた。
不本意な結婚への反抗心からだったが、離婚の申し立てとなったら、不利にしかならない。
妻と会うのは、年に数度、夜会の会場でのみ。
生活費を渡していないどころか、今、住んでいる家の家賃や嗜好品も、妻の資産を無心している。
ヴィヴィアンがいなくなれば、実質、トビアスの生活は成り立たない。
給料以上に散財している生活レベルを落とすなど、プライドが許さない。
勿論、流通部門の長官補佐と言う役職がある以上、義父であるスタンリー・クレメントは、容易には離婚させない。
それだけが、今のトビアスにとっての安心材料だった。
だが、そう思ってはいても、確証などない。
同程度以上の利を示されれば、あの義父ならば、簡単に離婚に応じるからだ。
離婚は、したくない。
今、享受している贅を、手放したくはない。
そのせいで、彼は日々、どうすればヴィヴィアンとの関係を改善出来るのか、頭を悩ませているらしい。
「そんな話を、わたくしにされましても…」
ヴィヴィアンからすれば、トビアスが歩み寄ろうとしている、と聞いた所で、今更、としか思わない。
何分、五年の月日、罵詈雑言を浴び、放置されて過ごして、今となっては、彼への期待も情も、欠片もないのだから。
――アイリーンの襲撃は、ヴィヴィアンがランドリック侯爵の夜会を訪れ、馬車を降りた途端の出来事だった。
にこやかな笑みを浮かべた女性が、こちらに歩み寄って来た、と思ったら、たっぷりと襞を取ったスカートの隙間から葡萄酒の小瓶を取り出して、おもむろに掛けられたのだ。
アイリーンの立場で、侯爵家の夜会の招待状を手に入れられたとは思えない。
だからこそ、人で混み合っていて、尚且つ、招待状が確認される前の車寄せで、凶行に及んだのだろう。
アイリーンのキンキンと耳に響く甲高い声を聞いて、侯爵家の護衛と思われる男性達が駆け寄って来る。
いや、もしかすると、コンラートがヴィヴィアンに密かにつけてくれている護衛かもしれない。
狼藉者として彼女を拘束しようとする護衛、手足をばたつかせて暴れるアイリーン、遠巻きにこちらを見て口々に何かを話す招待客達…そんな光景を、何処か他人事のように見ながら、ヴィヴィアンは、葡萄酒の赤に染まったドレスを、
「この染みはもう、落ちないでしょうね…」
と、眺めていた。
今日のドレスは、ヴィヴィアンにしては、冒険したものだった。
冬の短いリンデンバーグでは、冬季のドレスも他の季節のドレスと大差ない。
暖色や濃色が好まれ、袖がついたり、マントを羽織ったりする程度だ。
そんな中、ヴィヴィアンは、北の隣国エダンから来た天鵞絨と呼ばれる生地で、ドレスを仕立ててみた。
白にうっすらと銀が煌めく光沢の美しい生地は、リンデンバーグでは珍しい雪景色をイメージして選んだものだ。
毛羽のある生地ならば、寒色でも冬の季節に相応しい、との提案のつもりだった。
いつもは、集団に埋没するように、流行真っ只中の型と色を選ぶ。
だが、いずれ、商会を立ち上げるのであれば、目新しく、人々の関心を惹く商品を、紹介する必要がある。
実際に仕事を始めるのはサーラであっても、新しいものを目にした人々の反応は、万国共通の筈だ。
その為、参加者の多いランドリック侯爵の夜会で、興味の惹き方を学ぼうと思ったのだが。
「ヴィヴィアン!」
表の騒ぎを聞きつけたのか。
血相を変えて駆け寄って来たコンラートが、頭からポタリと赤い雫を垂らすヴィヴィアンを見て、一瞬、険しい表情を浮かべた。
暗がりの中で、葡萄酒の赤が、血の赤に見えたのだろう。
だが、場に広がる酒精の強い香りに事態を把握したらしく、即座に上着を脱いで、彼女の肩に掛けた。
ふわり、と香るコンラートの香りに、ヴィヴィアンはホッと息を吐く。
続いてコンラートは、ハンカチを取り出して、丁寧に雫を拭っていった。
「有難うございます…」
「何ですか、この女は」
「アイリーン・エニエール男爵令嬢だと思います。わたくしは、お会いした事がないので、推測ですが」
アイリーンの名を聞いて、コンラートは、鋭い眼光でアイリーンを睨みつけた。
コンラートに睨みつけられたアイリーンは、そんな場合ではなかろうに、一瞬、惚けたように、整った彼の顔に見入る。
「嘘でしょ…あんたは、トビーが好きだから、だから、私から奪おうとしたのよね?なのに、何でトビーよりもいい男を、掴まえてるのよ…!そんないい男がいるなら、トビーは私にちょうだいよ!何で、あんたばっかり!頭空っぽのお人形の癖に…!」
己の立場を弁えないアイリーンの言葉に、ヴィヴィアンは眉を顰めた。
ここは、ランドリック侯爵の夜会。
例え、初対面であっても、コンラートが高位貴族に属する事位、判る筈だ。
一男爵令嬢に過ぎないアイリーンが、高位の男性貴族であるコンラートを、品物のように呼ばわるとは。
だが、アイリーンに謝罪させようとするヴィヴィアンの前に、コンラートが口を開く。
「頭空っぽは、お前だろう」
地の底から這うような声に、アイリーンは、ヒッ、と息を飲む。
「招待されてもいない侯爵家の夜会で騒動を起こした責任を、お前に取れるのか?」
「…え?」
「場を騒がせた慰謝料を侯爵家に支払った上で、ヴィヴィアンのツケでこれまで買った品の代金を払えるのか?」
「なっ、何で私がそんな事しないといけないのよ!悪いのは、私にこんな事をさせたその女でしょ?!その女に払わせればいいじゃない!」
いっそ清々しい程、自己中心的なアイリーンの発言に、コンラートは嫌悪を隠そうともせず、周囲を取り囲んだ招待客も失笑した。
自分を取り囲む人々の蔑む視線に、漸く気づいたアイリーンは、
「あんたのせいで、私の人生が狂った…!」
と、ヴィヴィアンを糾弾する。
「あんたさえいなければ、トビーと結婚するのは私だった!私が、私こそが伯爵夫人になる筈だったのに!成金男爵家のあんたじゃなくて、由緒ある男爵家の私が…!」
「そして、ブライトン伯爵家は没落するんだな」
「家が危なかったのは、この女が裏から手を回したせいじゃない!この女のせいで、没落危機に陥ったんだわ!私とトビーは愛し合ってるのよ?それを、この女が、トビーに横恋慕したせいで、ブライトン家は大変な目に遭ったし、私達は結婚出来なかった…!」
周囲の同情を買おうと言い募るアイリーンの言葉に、ヴィヴィアンは、小さく首を傾げた。
「わたくし、結婚式当日まで、旦那様とはお会いした事もございません。ですから、横恋慕は無理です。それに…ブライトン家とのお付き合いは、経済状況が悪化した頃からございますけれど、それは、前ブライトン伯が借金の申し入れをしたのが、クレメント家だったからです。どうしても家を存続したい、と請われた父が、わたくしを縁づける提案をしただけの事。…旦那様は、家の没落とエニエール男爵令嬢を天秤に掛けて、お家の存続を選ばれただけですわ」
淡々としたヴィヴィアンの声は、時折、馬の嘶く声が聞こえるだけで、それ以外は、シン…と静まり返った車寄せの前で、よく通った。
ヒソヒソと、招待客達が小声で言葉を交わしている。
被害者面をしていたトビアスとアイリーンは、傍若無人なだけではなく、恩人に後ろ足で砂を掛ける恩知らずである事が、これで広く知れ渡った事になる。
「違う!トビーが、お金の為だけに私を捨てる筈がない…!」
「旦那様は、貴方と暮らしていらっしゃるのですから、家の存続と、愛する方と、どちらも手放さない選択をなさったのだと思いますけれど?」
「じゃあ、何で今更、私と別れるなんて言い出すのよ?!」
え、と、ヴィヴィアンは言葉に詰まり、思わず、傍らのコンラートに、「意味判る?」と視線で尋ねてしまった。
その視線を受けて、コンラートがアイリーンに質問する。
「ブライトン伯爵は、お前と別れると言ったのか」
「そうよ!『離婚は出来ない。お前と別れれば、誠意が伝わる筈だ。一人にした時間が長かったせいで、よその男がちょっかいを出して来たのだろう。家に戻って、あの女を正式に妻にしてやればいい』って…!」
「え、やだ」
思わず、素で発言してしまったヴィヴィアンは、慌てて姿勢を正した。
「旦那様が本邸にお戻りになるのでしたら、わたくしが家を出ます。ですから、どうぞ、エニエール男爵令嬢はこれまで通り、安心して旦那様にお仕えくださいませ」
『私は、あの男と夫婦になる気は、ありませんから』。
はっきりとそう宣言したヴィヴィアンに、背後からパチパチと拍手と共に声が掛けられる。
「流石は、クレメント家の末姫。しっかりしていらっしゃる」
この夜会の主催者、ランドリック侯爵だ。
彼は眉尻を下げて、寒そうにコンラートの上着の前を掻き合わせるヴィヴィアンを見ると、
「私の主催する会で、このような事になり、申し訳ない。後日、お詫びを」
と、申し入れた。
「いいえ、ランドリック侯爵様。わたくしこそ、我が家の問題でお騒がせして、大変、申し訳ございません」
「貴方に何の非もない事は、今夜、この場にいる全員…いや、一人を除いて、理解しておる。どうか、この先は私に任せて欲しい。そこの招かれざる客は、私が責任を持って、実家に送り届けよう」
ランドリック侯爵が、アイリーンをぎろりと睨めつける。
遥かに上の爵位の人間に睨まれ、流石のアイリーンも蒼白になって黙り込んだ。
「コンラート卿。このままでは、クレメント嬢がお風邪を召される。護衛を兼ねて、私の代理として屋敷まで送っては頂けないか」
ランドリック侯爵は、ブライトン夫人であるヴィヴィアンを、わざと「クレメント嬢」と呼んだ。
トビアスが言ったとされる『正式に妻とする』と言う言葉は、トビアスがヴィヴィアンを蔑ろにしていたどころか、妻として扱っていない…つまり、指一本触れていない、ヴィヴィアンは人妻とは名ばかりで、清い体だ、と言ったと汲み取れる。
書類上、ブライトン伯爵夫人であったとしても、実質はまだ、「令嬢」である、と、ランドリック侯爵は、強調してみせたのだ。
夫ある身の為、コンラートの好意を受け入れなかったヴィヴィアン。
彼女は、夫が家に戻ると聞いても、彼を拒み、愛人にその座を渡す、と宣言した。
それはつまり、妻としてトビアスに仕える気はない、と言う事。
コンラートとヴィヴィアンの恋を応援する立場のランドリック侯爵は、ヴィヴィアンがトビアスと別れる為の布石を打ったのだろう。
「承知しました。ヴィヴィアン、お送りします」
「ですが、」
「今の貴方を、一人にするわけには参りません」
婚約者でもない男女が、馬車内で二人きりになる事への周囲の目を気にするヴィヴィアンに対し、
「私の名代ですよ」
と、ランドリック侯爵も、追撃する。
周囲の人々が、うんうん、と頷いているのを見て、漸く、ヴィヴィアンは遠慮がちに頷いた。
「では…お願い出来ますか?一人では、少々、恐ろしいので…」
「はい。ご安心を」
ヴィヴィアンは、気づいていない。
ただでさえ、ランドリック侯爵の夜会の招待客は、コンラートとヴィヴィアンの恋に同情していた人々が中心。
そんな彼等が、夫の愛人にまで虐げられながら、感情的になるわけでもなく、凜として顔を上げ、己の言葉で気持ちを語り、ついに夫を拒んでコンラートを選んだ(ように見える)楚々として美しいヴィヴィアンを、どう思うのか。
この晩、『コンラートとヴィヴィアンの純愛を見守り隊』が、正式に、但し、密やかに、結成された。
68
あなたにおすすめの小説
完結 愛のない結婚ですが、何も問題ありません旦那様!
音爽(ネソウ)
恋愛
「私と契約しないか」そう言われた幼い貧乏令嬢14歳は頷く他なかった。
愛人を秘匿してきた公爵は世間を欺くための結婚だと言う、白い結婚を望むのならばそれも由と言われた。
「優遇された契約婚になにを躊躇うことがあるでしょう」令嬢は快く承諾したのである。
ところがいざ結婚してみると令嬢は勤勉で朗らかに笑い、たちまち屋敷の者たちを魅了してしまう。
「奥様はとても素晴らしい、誰彼隔てなく優しくして下さる」
従者たちの噂を耳にした公爵は奥方に興味を持ち始め……
冷徹宰相様の嫁探し
菱沼あゆ
ファンタジー
あまり裕福でない公爵家の次女、マレーヌは、ある日突然、第一王子エヴァンの正妃となるよう、申し渡される。
その知らせを持って来たのは、若き宰相アルベルトだったが。
マレーヌは思う。
いやいやいやっ。
私が好きなのは、王子様じゃなくてあなたの方なんですけど~っ!?
実家が無害そう、という理由で王子の妃に選ばれたマレーヌと、冷徹宰相の恋物語。
(「小説家になろう」でも公開しています)
【完結】20年後の真実
ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。
マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。
それから20年。
マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。
そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。
おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。
全4話書き上げ済み。
勘違い令嬢の離縁大作戦!~旦那様、愛する人(♂)とどうかお幸せに~
藤 ゆみ子
恋愛
グラーツ公爵家に嫁いたティアは、夫のシオンとは白い結婚を貫いてきた。
それは、シオンには幼馴染で騎士団長であるクラウドという愛する人がいるから。
二人の尊い関係を眺めることが生きがいになっていたティアは、この結婚生活に満足していた。
けれど、シオンの父が亡くなり、公爵家を継いだことをきっかけに離縁することを決意する。
親に決められた好きでもない相手ではなく、愛する人と一緒になったほうがいいと。
だが、それはティアの大きな勘違いだった。
シオンは、ティアを溺愛していた。
溺愛するあまり、手を出すこともできず、距離があった。
そしてシオンもまた、勘違いをしていた。
ティアは、自分ではなくクラウドが好きなのだと。
絶対に振り向かせると決意しながらも、好きになってもらうまでは手を出さないと決めている。
紳士的に振舞おうとするあまり、ティアの勘違いを助長させていた。
そして、ティアの離縁大作戦によって、二人の関係は少しずつ変化していく。
一級魔法使いになれなかったので特級厨師になりました
しおしお
恋愛
魔法学院次席卒業のシャーリー・ドットは、
「一級魔法使いになれなかった」という理由だけで婚約破棄された。
――だが本当の理由は、ただの“うっかり”。
試験会場を間違え、隣の建物で行われていた
特級厨師試験に合格してしまったのだ。
気づけばシャーリーは、王宮からスカウトされるほどの
“超一流料理人”となり、国王の胃袋をがっちり掴む存在に。
一方、学院首席で一級魔法使いとなった
ナターシャ・キンスキーは、大活躍しているはずなのに――
「なんで料理で一番になってるのよ!?
あの女、魔法より料理の方が強くない!?」
すれ違い、逃げ回り、勘違いし続けるナターシャと、
天然すぎて誤解が絶えないシャーリー。
そんな二人が、魔王軍の襲撃、国家危機、王宮騒動を通じて、
少しずつ距離を縮めていく。
魔法で国を守る最強魔術師。
料理で国を救う特級厨師。
――これは、“敵でもライバルでもない二人”が、
ようやく互いを認め、本当の友情を築いていく物語。
すれ違いコメディ×料理魔法×ダブルヒロイン友情譚!
笑って、癒されて、最後は心が温かくなる王宮ラノベ、開幕です。
白い結婚に、猶予を。――冷徹公爵と選び続ける夫婦の話
鷹 綾
恋愛
婚約者である王子から「有能すぎる」と切り捨てられた令嬢エテルナ。
彼女が選んだ新たな居場所は、冷徹と噂される公爵セーブルとの白い結婚だった。
干渉しない。触れない。期待しない。
それは、互いを守るための合理的な選択だったはずなのに――
静かな日常の中で、二人は少しずつ「選び続けている関係」へと変わっていく。
越えない一線に名前を付け、それを“猶予”と呼ぶ二人。
壊すより、急ぐより、今日も隣にいることを選ぶ。
これは、激情ではなく、
確かな意思で育つ夫婦の物語。
【完結】無口な旦那様は妻が可愛くて仕方ない
ベル
恋愛
旦那様とは政略結婚。
公爵家の次期当主であった旦那様と、領地の経営が悪化し、没落寸前の伯爵令嬢だった私。
旦那様と結婚したおかげで私の家は安定し、今では昔よりも裕福な暮らしができるようになりました。
そんな私は旦那様に感謝しています。
無口で何を考えているか分かりにくい方ですが、とてもお優しい方なのです。
そんな二人の日常を書いてみました。
お読みいただき本当にありがとうございますm(_ _)m
無事完結しました!
美男美女の同僚のおまけとして異世界召喚された私、ゴミ無能扱いされ王城から叩き出されるも、才能を見出してくれた隣国の王子様とスローライフ
さくら
恋愛
会社では地味で目立たない、ただの事務員だった私。
ある日突然、美男美女の同僚二人のおまけとして、異世界に召喚されてしまった。
けれど、測定された“能力値”は最低。
「無能」「お荷物」「役立たず」と王たちに笑われ、王城を追い出されて――私は一人、行くあてもなく途方に暮れていた。
そんな私を拾ってくれたのは、隣国の第二王子・レオン。
優しく、誠実で、誰よりも人の心を見てくれる人だった。
彼に導かれ、私は“癒しの力”を持つことを知る。
人の心を穏やかにし、傷を癒す――それは“無能”と呼ばれた私だけが持っていた奇跡だった。
やがて、王子と共に過ごす穏やかな日々の中で芽生える、恋の予感。
不器用だけど優しい彼の言葉に、心が少しずつ満たされていく。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる