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ファーストステージ
アクシデント
しおりを挟む通勤にもすっかりなれ、いつものコーヒーショップで買ったホットコーヒーを片手に出社した羽津宮、10月になり寒い日が増えて来た。
入社以来春夏ものスーツで頑張っていたが寒さの苦手な羽津宮は新しく冬物のスーツとコートを買い、それを着て気持ちも一新して意気揚々と出社した、そんな朝だった。
いつも通り朝の朝礼の後、羽津宮と宮下が山根部長に呼ばれた。
「仕事にもなれて来たようだし、2人にやってもらいたい仕事があるんだ。なに、いつもとやる事はたいして変わらんのだがね、この本の発売イベントなんだが」
そういって山根部長が机の上においたのは、ブログで人気に火が付いて書籍化されたいわゆるブログ本だった。ネコのリョウちゃんの生活を写真と面白おかしい文章で紹介したもので、本事体はいつも紹介しているような本とたいした変わりはなかった。
羽津宮は疑問に思い訪ねた。
「部長、この本がいつもと何か違うのですか、2人でと言うのは何か特別な事があるのですよね」
「やっそうなんだ。イベント当日会場にこの猫ちゃんを連れて来て欲しいと言うんだよ、もちろん著者の了解も得てるんだが。問題なのは当日に著者は顔を知られたくないとかで来ないと言うんだよ。だからまぁ大丈夫だとは思うんだが、猫の面倒を見なくてはいけないから、イベント会場には今回は2人でと思ってね。もちろん準備等は先輩達にもやってもらうからその点は心配しなくていい」
宮下はそれを聞いて簡単な事だと安心したのかすぐさま自信を見せた。
「分かりました部長、自分に任せて下さい、私が責任持って無事イベントを成功させてみせます」
羽津宮はいくつか部長に確認したい事があったが、宮下が「任せて下さい、責任を持って・・・」と言った事に少しむっとしてあえて聞く事はしなかった。多少意地が悪い気もしたが、自分で「任せろ、責任を持つ」と言ったのだから、言った本人が責任持つのが筋と言った気持ちからだ。羽津宮は「責任」と言う言葉を軽視出来ない性格で、彼なりの信念を持っていた。
このイベントに関しては宮下が妙に積極的に仕切って来た。始めて部長から指名を受けての仕事なので張り切るのは無理はないが、張り切り過ぎじゃないかと思うほど宮下は羽津宮に何もさせようとしなかった。羽津宮はそれに対して無理に前に出ようとはぜずお手並みは意見と言った態度で見ていたのだが、どうにも見ていられないところもあったので自分なりの準備もそれなりに進めていた。
イベント当日もそれほどの緊張感もなくむかえ、羽津宮は一度会社に出て部長と最終の確認をして現場へ向かった。宮下は著者の所によって猫のリョウちゃんを預かり直接現場に出向く予定になっていた。
羽津宮がイベント会場のある書店に着くとすでにイベントが目的であろうお客が入場券代わりの発売されたばかりの本を持って数十人店の前に並んでいた。
みんな手にカメラをもって人気の猫ちゃんと写真を取ろうと楽しみにしているのがわかった。羽津宮もこんなに楽しみにしてくれている人が居る事を嬉しく思い、自分でもいつもよりテンションが高いのがわかるくらい明るい気持ちになっていた。
会場横の控え室に着くと宮下はリョウちゃんの入ったゲージを持って一息着いていた。
「おはよう、お客さんもう並んでるよ、皆楽しみにしてくれてるんだね」
「おはよう、羽津宮君も早かったね。そうなんだ並んでくれてるよね、部長に任された仕事だからなんとしても成功させようよ」
「そうだね、じゃあ僕は一通り会場を下見しておくよ、他にやっておかなければいけない事もあるし」
「わかった、宜しく頼むよ。オレはリョウちゃんが心配だからここで時間まで見ているよ」
羽津宮は控え室を出た。羽津宮が気にしていたのは会場の間取りであった。やってくるのが猫だけに、もし何かの拍子で手を離れた時、外に逃げ出さないようにしておかなければと思っていたのである。
事前にもらっておいたフロアの見取り図によれば非常階段への出入り口と、下の階へ行くお客さま用の階段への扉、それとエレベーターの3ケ所以外にこのフロアから出る場所は無かったので、エレベーターはこの階に止まらないようにしてもらい、非常階段とお客様用階段はイベントが始まってから終わるまでは解放厳禁で行うように店舗スタッフと打合せをしておいたのだ。
そうこうしているとそろそろイベントスタートの時間となっていたので控え室に戻った。
「宮下君どう、問題ない、そろそろだけど」
そう言って宮下を見ると何かごそごそと鞄を見たり、スタッフに詰め寄ったりとオロオロしている。
「どうかした」
「羽津宮君・・・首輪とか持ってないよね・・・」
「なにどうしたの」
「著者の先生からリョウちゃんの首輪借りてくるの忘れたんだよ・・・・どうしよう」
「どこかで買ってくれば良いんじゃない、まだ少し時間もあるし」
「ダメなんだ、お店のスタッフに聞いたらこの辺りにペットショップとか無いって言うんだよ」
「じゃあ何か代わりになるような物探そうよ」
「探したよ、何も無いんだ、どうしよう」
そこに店舗スタッフが走って来た。
「これなんかどうでしょう」
スタッフが持っていたのはロープだった。それを見て宮下はバカにしたような口調で言った。
「そんな物使える訳無いじゃ無いか、みんな写真とか撮ったりするのにロープでくくられてるリョウちゃんの写真とか撮られてブログとかで紹介されたらどうするんだよイメージダウンだろ」
「宮下君そんな言い方はないんじゃない、考えてくれてるんだから。僕、山根部長に電話してみるよ、もしこの近くの書店に出ている社員が居たら買って来れるかもしれないし」
「羽津宮君、それは出来ないよ。部長は僕達に期待してくれて指名してくれたんだ。自分達だけで出来ないなんて思われたくないだろ。僕がリョウちゃんに付きっきりで持ってるから、だからこのままイベント始めようよ。多分大丈夫だから」
そう言って宮下は、スタッフ達にこのまま予定通りイベントを始めつように指示した。
羽津宮は宮下が聞く耳を持たず強引に進めているのもあったが、自分がフロアから逃げ無いように手配していたので、もし手から離れても大した事にはならないだろうと思い宮下にしたがう事にした。
羽津宮は時間通りにお客さまを会場に誘導し全員が会場に入れた時点で扉を閉めた。そこにはスタッフ1人に付いてもらっていたので事情を説明して開閉する時は猫の状況を確認してから行うように念を押した。
会場内には沢山の写真がマンガのようにセリフ入りで飾られていたり、またポストカード等関連グッズ等が置かれていていたりと、本の発売を大いに盛り上げる演出がしてある。訪れていた客もそれぞれに大笑いしたり、「かわいい」とはしゃいだり皆一様に楽しんでくれているようだ。その様子を見てここまで準備して来た羽津宮は首輪の事も忘れ自分の仕事に誇りを感じて少し感傷的になっていた。
お客さまが各々展示物を見終える位を見計らって主役であるリョウちゃんと写真を撮るという企画をスタートさせる事になっており、その通りに司会がリョウちゃんの登場を盛り上げた。予定通り人工芝を敷いたワゴンの上に宮下がリョウちゃんを連れて来た。背中と胸の辺りをしっかりと抑えているが、リョウちゃんはキョロキョロと緊張しているようだ。
そんな事を気にする事も無くお客様がどっと周りに集まって皆「かわいい」と口々に言っている。司会がさり気なく仕切りお客のさまの順番を決めて行きその通りに並んで行った。1人目、2人目と代わる代わる撮影していたが、宮下が押さえていてはどの写真にも写り込んでしまう。その事に不満を感じた客の1人が「あの、だっこさせてもらっていいですか」と切り出した。
宮下は少し焦った顔を見せたが「だっこしてくれるならいいか」と言った感じでしぶしぶリョウちゃんを渡した。お客さまも猫好きとあって慣れた感じだったので宮下も少しホッとして気が抜けて落ち着きを取り戻したようだ。
司会がどんどん入れ代わりを促し順調に撮影は進んでいたが順番が親子連れに来た時、小学生位のその子供が「私にも抱かせて」と母親に言って手を出した。宮下は焦って止めようとしたが間に合わなかった。子供がだっこをして母親が撮影しようと離れた瞬間。リョウちゃんはその子の腕から体をひねるように飛び下りて部屋のどこかに走り去ったのである。
羽津宮はハッとしたが扉の前のスタッフに目をやると手でオーケーのサインを出していたので気持ち落ち着く事が出来た。客もそれほど慌てる事も無く「あららたいへん、どこいったの」と各々あたりを探してくれている。
宮下はすでに半分パニック状態に落ち入っていてスタッフに荒い口調で早く捜せと指示しつつ、それでも部長には知られたく無かったのかリョウちゃんの飼い主である著者にとっさに電話をかけていた。
「すみません先生、リョウちゃんが逃げてしまって、なにか好物とかすぐ出てくる呼び方とか無いですか」
「なによ、どういうこと。説明してちょうだい」
「あっいえったいした問題は起きていないので安心して下さい、大丈夫ですから」
「だから何が起こったのよ」
「すみません大丈夫ですから、なにか好物とか・・・」
「しっかり見ていてくれるんじゃ無かったの。ちゃんと探しなさいよ」
そう言われると電話を切られてしまった。宮下は更にパニックに状態になっていた。
しばらくすると宮下の携帯がなった、相手は山根部長だった、著者の先生は宮下では状況が分からないので電話を切ってすぐ山根部長に電話したようだ。
「宮下君、どうした先生から電話があったが何が起こった」
「いえ、リョウちゃんが会場で逃げてしまって・・・・今ささっさ・・探しているので・・・あっ」
「バカ者、そう言う事が起こった時はまず私に連絡するもんだ。で状況を説明しなさい」
「あっいえ・・・大丈夫です・・・すみません」
「もういいから、羽津宮君と変わりなさい」
「はい」
「はい羽津宮です、申し訳ございません」
「で、どんな状況だ」
「はい、会場で手を離れてしまいリョウちゃんが逃げてしまったのですが、事前にこのフロアからの出口になるような所は封鎖しておりますので、会場の外に出る事は無いと思います」
羽津宮がそう伝え終わると同時にスタッフがリョウちゃんをだっこして連れて来た。
「あっ部長、今見つかりました、スタッフの方が見つけて連れて来て下さいました」
「おぉお、そうかそれは良かった。会場はどうだ。お客さまの様子は大丈夫か」
「はいそうですね。皆さん探して下さって『見つかって良かったと』と拍手されています。怒られたりと言った事は無いので大丈夫かと思います」
「そうか、わかった。先生には私から連絡しておくよ。私もそっちに向かうからそれまで宜しく頼んだぞ」
「はいわかりました。御迷惑おかけしました」
その後イベントは問題なく進み、終わる間際に山根部長がやって来た。山根部長はイベントが無事終了する様子を眺め、帰って行く客を丁寧に見送りながら各々の表情を見ていた。
「お客さまは楽しんでくれたようだね、ひとまず良かったよ」
「はい申し訳ございません・・・・」
宮下もさすがに落ち込んでいるようだった。部長はその答えを聞いて一つため息を付いてこう言った、
「さて、イベントは無事終わったが問題はここからだぞ。この後2つの書店で同様のイベントを予定していたが、著者の奥さんががリョウちゃんを預けるのはもう嫌だとおっしゃっている。なんとか説得せねばな。スタッフの方に聞いたが宮下、問題が起きたにもかかわらずお前が強引に決行したそうだな。これから先生の所にリョウちゃんを連れて謝りに行くから、宮下、お前は付いてこい。羽津宮、君はこの会場の後片付けもあるからここに残ってくれ、後は頼んだぞ」
「はいわかりました、では片付いたら一度連絡します」
「ああ、そうしてくれ」
そう言うと山根部長と宮下は会場を後にした。
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