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ガランドゥ 5話 『平和な日』
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【2】
「面会なんて久しぶりに来ますね」
「ええ、こんなとんとん拍子で話が進んだのは初めてです。対応が早い」
職員の女性と話す経営者の男、雨田圭。穏やかでどこかおっとりとした表情の男は、見学の時間がもうすぐだというのに呑気だった。経営者という立場でありながらテーブルの雑巾がけをするその様に威厳はなく、何も知らない人からすればただの清掃員に見えることだろう。
汚れが雑巾で拭き取られる。
「どんな人ですかね?」
「役所の面倒な手続きを終えているのですから、やる気はあるでしょうね」
「まあ、あの養育里親研修をやっただけはありますか」
彼はこれから来る人物が里親の条件を満たした者であることは知っている。二日前に児童相談所から連絡があり、面会させる児童について説明するととんとん拍子で面会の日程が決まった。雨田がこの児童養護施設で働き始めたのは四年前。今まで一度も里親の希望者と会ったことはなかったが、彼が緊張を抱くことはなかった。
掃除を終えてシンクで雑巾を絞る雨田。
「後はもう、なるようになるだけです」
「……雨田さんってたまに適当ですよね」
「いえ、決して適当というわけでは」
そう言ってその場を立ち去る女性の職員。その時、暇をした少年がふらっと部屋の中に入って来る。
「せんせ、トランプ見てない?いつもの場所にないんだけど」
「見ていませんね……誰かが変な場所に置いたのかも」
「あーチビ共が忘れてんのかーめんどいなあ」
「そういえば裕君、今日は友達と遊びに行くのでは?」
裕君と呼ばれた子供はバツが悪そうな顔をすると冷蔵庫の扉を開け、中にあった麦茶を持つとコップに注ぐ。小学校高学年くらいの少年はそれを飲んでから雨田の疑問に答える。
「ドタキャンだってよ。あいつ俺のこと舐めてるな」
「それはツイていませんね。しかし、相手の真意は分かりませんが最初から疑うのは」
「あーいいっての。所詮俺は心が汚い人間ですよー」
「まさか。汚い心の持ち主はトランプ探しを引き受けはしませんよ」
麦茶を吹き出しそうになるもギリギリで堪え飲み干す少年。それはひねた性格を気取る少年には予想外の応酬だった。少年は空のコップをシンクに置きながら返事をする。
「がー何で分かったの!」
「トランプをやらないあなたが探すとしたら、大方小さい子に頼まれた時でしょう」
「ったく、これじゃ箔が付かねー……」
照れた少年がそそくさと退散して部屋から去る中、先ほどここを出た女性の職員が戻ってくる。雰囲気を変え真面目な表情でやってきた彼女は明らかに仕事の話をしに来ていた。何だろうかと思う雨田。
「雨田さん、例の見学の方がお見えになってます」
「ああ、もうそんな時間でしたか。分かりました向かいます」
ゆっくり談笑しつつ掃除をしていたせいですっかり忘れてしまっていた。彼は慌てて絞った雑巾を干すと、手をパパっと拭いて入口へ向かう。この経営者らしくない姿が人気の理由ではあるが、そのマイペースさが玉たまに瑕だった。小走りで廊下を駆けて行くと入口が見えてきた。
雨田を待つ二人。
「お待たせしました、施設長の雨田です。本日はよろしくお願いします」
「どうも進藤です。今日は急だったのにありがとうございます」
「つ、妻の縁です……どうも」
どう見てもぎこちない笑顔を浮かべる粳部と、手慣れた演技をする藍川。彼による仕込みのおかげで多少マシになっているとは言え、粳部に潜入の才能はなかった。嘘の身分と関係ではあったが彼の妻を自称したことが、彼女にデバフを掛けているのかもしれない。目が泳ぐ粳部。
「ところで、児童福祉司の方の到着が遅れるという連絡が来たんですが」
「あれ、そうでしたか。こちらにはまだ何も……」
「たっ、立ち会ってもらわないと駄目ですよね?」
「そうですね。あと……実は面会する子がまだ帰ってきていないのです」
面会をする準備が何も整っていない。本来は担当の児童福祉司の立会いの下、児童の生活の場で面会をするのが今日の予定だった。それが二つのイレギュラーによって先延ばしにされてしまっている。しかし、粳部達の目的はあくまでも雨田の調査であって子供との面会ではない。
「となると、暫く待たないといけませんね」
「そうなんですが……どうでしょう進藤さん、待っている間施設内を見学するというのは?」
「いいですね。あ、あなたもどう?」
「それはいいな。お願いできますか雨田さん」
「ええ、ご案内します」
そう言って二人を先導していく雨田。粳部は貼り付けたような笑顔で状況を必死に乗り切ろうとし、藍川はまるで本当に子供を引き取ろうとする里親のように辺りを眺めている。ゆっくりと歩いて行く三人。次第にソワソワし始めた粳部がしきりに藍川の方を見ると、突然雨田に聞こえないような小さな声で話し掛けた。
「あの……心読めないんですか?」
「とっくに読めたが?」
「読めてるんじゃないですか!じゃあ捜査終了ですよ……」
心が読めたのであれば司祭かそうでないかの判別は済んだ。もう調べるべきことはここに残っておらず、後は彼に蓮向かいに加入するかを聞けばいいだけ。すぐ終わらせられるのであればそうしたい粳部だったが、落ち着き払っている藍川はそうは考えていなかった。
「司祭で確定だ。危険性も概ねゼロ」
「えっ、ホントに終わりじゃ……」
「お二人は結婚して何年ですか?」
突然話題を振って来た雨田に驚く彼女。藍川は助け舟を出すつもりもなく黙っており、早く回答しなければと焦る彼女は事前に話した内容を思い出し話す。ここ数日で記憶力が鍛えられたと感じる粳部であった。
「四年ですねっ……大分早くに結婚しました」
「しかし、事前に聞いていた年齢よりもお若いですね」
「えっ!?よく童顔って言われるんですアハハー」
何とか乗り切る粳部。年齢を六歳も鯖を読んでいる為に見た目で気付かれるのではと焦った彼女だったが、あまり気にしていなかったのか雨田はすぐに納得した。安堵する粳部。本番でミスをしてはいけないというプレッシャーに晒され、心臓への大きな負担に苦しんでいた彼女の気も少しはマシになった。
ある部屋の前で足を止める雨田。
「ここが広間です」
広い空間の端にはテーブルやテレビがあり、ソファに座った小学校低学年くらいの子供が彼らを見ていた。本棚には漫画もあり、のどかな環境だということが見て分かる。それに、子供は何もなくたって楽しみを見つけられるものだ。
点々と散らばる子供達を眺める三人。
「中々広いですね」
「子供達は普段ここで遊んだり勉強してますよ」
「この施設は何人の子供が居るんですか?」
「今は十人です。あまり大きな施設でもないですし、経済的にもこれが限界ですね」
そう言って別の場所へと歩き出す雨田。働く職員と子供の数からあまり経済的な余裕がないことを粳部は悟る。しかし、通り過ぎていく子供の足取りからは微塵も辛さを感じられず、この施設が子供を大切にしていることも彼女には伝わった。藍川ほどではないが粳部にも人の心が分かるのだ。
「子供達の居室は個室と二人部屋です。個室は特に人気ですよ」
「へーもっと大人数の部屋だと思ってました」
「お前って学年時代は二人部屋だったか?」
「そうですね。お姉ちゃんと二人でした」
粳部の家は片親だったこともあり経済的にそこまで裕福なわけではなく、そこそこの広さの部屋を姉妹で共有していたのだ。彼女が子供達の暮らす二人部屋を覗き込むと、そこには同じくらいの広さの部屋が広がっていた。何となく懐かしさを覚えると同時に寂しさを覚える彼女だが、先を進む雨田の後を遅れて付いて行く。
「こっちにはホールがあって、ピアノとか卓球台がありますね」
「おお」
広間と同じくらいの広さのホール。箸に畳まれた卓球台とピアノがあるくらいで対照的に物が少なく、手を叩けば音が響くくらいには広い空間だった。これだけあればヨガ教室が開けそうだと思う粳部。
「でもまあピアノを使う人居ないんですよね……私だけです」
「おお、ピアノが演奏できるんですね。中々教養がある」
「いえいえ。昔教会に勤めていたのでパイプオルガンの経験があったんですよ」
ふと、それを聞いて一つの疑問を覚える粳部。特に任務と関係のない極めて普通な質問。
「パイプオルガンとピアノって何が違うんですかね?」
「お前そりゃ……俺も知らないな」
「ふふっ、似ていますが別物ですよ。ピアノは打弦楽器ですがオルガンは管楽器です」
笑顔で豆知識を披露する雨田。確かに両方とも鍵盤を叩いて演奏する楽器ではあるが、中身については仕様が違うのだ。オルガンは風箱からの風圧によってパイプが振動し、それによってあの独特で壮大な音が出る。弦の振動で音が鳴るピアノとは根本から違うのである。
「オルガンは操作によって九オクターブ以上の音が出る。ピアノとは響きが違うんです」
「……昔一度、教会でオルガンの演奏を聞いたことがあったかな」
「教会でよく弾きました。余韻の残らないあの感覚、複雑な音色。今ではそれも懐かしい」
そう言って昔を懐かしむような目をする彼。粳部から見ればその表情はかつて見た情景を望むような、遠く離れたことを悲しむような感情があった。だが、不思議と過去に戻りたいわけではないことも伝わった。彼のその立ち姿に弱々しさを感じることができなかったからだ。
また尋ねる粳部。
「……何で教会を辞めたんですか?」
「……私にしかできないことがあるかもしれないと思い飛び出した、そんな感じですかね」
「人は見かけによらないな。中々挑戦的ですね」
どこまでも穏やかな立ち振る舞いと言動から、彼がかつて聖職者であったことは粳部達にも理解できた。この道を選んだことも彼の信仰故なのか、それとも彼の言う通り自分にしかできないことを探した結果なのか。粳部であってもそこまで読み取ることはできない。
しかし、藍川にはそれを知ることができる術がある。彼がそれを選ぶのかまでは分からないが。
「何事もそう上手くはいきませんが、やれるだけやるつもりです」
「……さて、そろそろ本題に入ろう」
「……?本題というのは?」
突然話を切り出した藍川に困惑する粳部。確かにいつ切り出してもおかしくはないと思っていた粳部だったが、頭から薄れたタイミングで来ただけに流石に驚いていた。彼らは児童養護施設の見学をしに来たわけではなく、雨田が蓮向かいに入るかどうかを調べに来たのだ。本来は任務から離れてこんなことをしている場合ではない。
穏やかな表情を捨て去る藍川。
「誰も居ない今にしかできない」
「せ、先輩?」
「雨田圭さん、あんた司祭だな」
一般人であれば本来の意味でしか通用しない単語だが、本人が誰よりもその意味を知っていた。司祭は司祭になった瞬間に自分の存在や権能と弱点を理解する。彼には誰よりも心当たりがある筈だ。そもそも、藍川が既に調べ終えている為に彼が司祭であることは確定している。
目を大きく見開き、あまりの事に口も開く雨田。
「……一体どうして……何故それを」
「あんたに残っている選択肢は二つだけだ。さて、どちらを選ぶ?」
「面会なんて久しぶりに来ますね」
「ええ、こんなとんとん拍子で話が進んだのは初めてです。対応が早い」
職員の女性と話す経営者の男、雨田圭。穏やかでどこかおっとりとした表情の男は、見学の時間がもうすぐだというのに呑気だった。経営者という立場でありながらテーブルの雑巾がけをするその様に威厳はなく、何も知らない人からすればただの清掃員に見えることだろう。
汚れが雑巾で拭き取られる。
「どんな人ですかね?」
「役所の面倒な手続きを終えているのですから、やる気はあるでしょうね」
「まあ、あの養育里親研修をやっただけはありますか」
彼はこれから来る人物が里親の条件を満たした者であることは知っている。二日前に児童相談所から連絡があり、面会させる児童について説明するととんとん拍子で面会の日程が決まった。雨田がこの児童養護施設で働き始めたのは四年前。今まで一度も里親の希望者と会ったことはなかったが、彼が緊張を抱くことはなかった。
掃除を終えてシンクで雑巾を絞る雨田。
「後はもう、なるようになるだけです」
「……雨田さんってたまに適当ですよね」
「いえ、決して適当というわけでは」
そう言ってその場を立ち去る女性の職員。その時、暇をした少年がふらっと部屋の中に入って来る。
「せんせ、トランプ見てない?いつもの場所にないんだけど」
「見ていませんね……誰かが変な場所に置いたのかも」
「あーチビ共が忘れてんのかーめんどいなあ」
「そういえば裕君、今日は友達と遊びに行くのでは?」
裕君と呼ばれた子供はバツが悪そうな顔をすると冷蔵庫の扉を開け、中にあった麦茶を持つとコップに注ぐ。小学校高学年くらいの少年はそれを飲んでから雨田の疑問に答える。
「ドタキャンだってよ。あいつ俺のこと舐めてるな」
「それはツイていませんね。しかし、相手の真意は分かりませんが最初から疑うのは」
「あーいいっての。所詮俺は心が汚い人間ですよー」
「まさか。汚い心の持ち主はトランプ探しを引き受けはしませんよ」
麦茶を吹き出しそうになるもギリギリで堪え飲み干す少年。それはひねた性格を気取る少年には予想外の応酬だった。少年は空のコップをシンクに置きながら返事をする。
「がー何で分かったの!」
「トランプをやらないあなたが探すとしたら、大方小さい子に頼まれた時でしょう」
「ったく、これじゃ箔が付かねー……」
照れた少年がそそくさと退散して部屋から去る中、先ほどここを出た女性の職員が戻ってくる。雰囲気を変え真面目な表情でやってきた彼女は明らかに仕事の話をしに来ていた。何だろうかと思う雨田。
「雨田さん、例の見学の方がお見えになってます」
「ああ、もうそんな時間でしたか。分かりました向かいます」
ゆっくり談笑しつつ掃除をしていたせいですっかり忘れてしまっていた。彼は慌てて絞った雑巾を干すと、手をパパっと拭いて入口へ向かう。この経営者らしくない姿が人気の理由ではあるが、そのマイペースさが玉たまに瑕だった。小走りで廊下を駆けて行くと入口が見えてきた。
雨田を待つ二人。
「お待たせしました、施設長の雨田です。本日はよろしくお願いします」
「どうも進藤です。今日は急だったのにありがとうございます」
「つ、妻の縁です……どうも」
どう見てもぎこちない笑顔を浮かべる粳部と、手慣れた演技をする藍川。彼による仕込みのおかげで多少マシになっているとは言え、粳部に潜入の才能はなかった。嘘の身分と関係ではあったが彼の妻を自称したことが、彼女にデバフを掛けているのかもしれない。目が泳ぐ粳部。
「ところで、児童福祉司の方の到着が遅れるという連絡が来たんですが」
「あれ、そうでしたか。こちらにはまだ何も……」
「たっ、立ち会ってもらわないと駄目ですよね?」
「そうですね。あと……実は面会する子がまだ帰ってきていないのです」
面会をする準備が何も整っていない。本来は担当の児童福祉司の立会いの下、児童の生活の場で面会をするのが今日の予定だった。それが二つのイレギュラーによって先延ばしにされてしまっている。しかし、粳部達の目的はあくまでも雨田の調査であって子供との面会ではない。
「となると、暫く待たないといけませんね」
「そうなんですが……どうでしょう進藤さん、待っている間施設内を見学するというのは?」
「いいですね。あ、あなたもどう?」
「それはいいな。お願いできますか雨田さん」
「ええ、ご案内します」
そう言って二人を先導していく雨田。粳部は貼り付けたような笑顔で状況を必死に乗り切ろうとし、藍川はまるで本当に子供を引き取ろうとする里親のように辺りを眺めている。ゆっくりと歩いて行く三人。次第にソワソワし始めた粳部がしきりに藍川の方を見ると、突然雨田に聞こえないような小さな声で話し掛けた。
「あの……心読めないんですか?」
「とっくに読めたが?」
「読めてるんじゃないですか!じゃあ捜査終了ですよ……」
心が読めたのであれば司祭かそうでないかの判別は済んだ。もう調べるべきことはここに残っておらず、後は彼に蓮向かいに加入するかを聞けばいいだけ。すぐ終わらせられるのであればそうしたい粳部だったが、落ち着き払っている藍川はそうは考えていなかった。
「司祭で確定だ。危険性も概ねゼロ」
「えっ、ホントに終わりじゃ……」
「お二人は結婚して何年ですか?」
突然話題を振って来た雨田に驚く彼女。藍川は助け舟を出すつもりもなく黙っており、早く回答しなければと焦る彼女は事前に話した内容を思い出し話す。ここ数日で記憶力が鍛えられたと感じる粳部であった。
「四年ですねっ……大分早くに結婚しました」
「しかし、事前に聞いていた年齢よりもお若いですね」
「えっ!?よく童顔って言われるんですアハハー」
何とか乗り切る粳部。年齢を六歳も鯖を読んでいる為に見た目で気付かれるのではと焦った彼女だったが、あまり気にしていなかったのか雨田はすぐに納得した。安堵する粳部。本番でミスをしてはいけないというプレッシャーに晒され、心臓への大きな負担に苦しんでいた彼女の気も少しはマシになった。
ある部屋の前で足を止める雨田。
「ここが広間です」
広い空間の端にはテーブルやテレビがあり、ソファに座った小学校低学年くらいの子供が彼らを見ていた。本棚には漫画もあり、のどかな環境だということが見て分かる。それに、子供は何もなくたって楽しみを見つけられるものだ。
点々と散らばる子供達を眺める三人。
「中々広いですね」
「子供達は普段ここで遊んだり勉強してますよ」
「この施設は何人の子供が居るんですか?」
「今は十人です。あまり大きな施設でもないですし、経済的にもこれが限界ですね」
そう言って別の場所へと歩き出す雨田。働く職員と子供の数からあまり経済的な余裕がないことを粳部は悟る。しかし、通り過ぎていく子供の足取りからは微塵も辛さを感じられず、この施設が子供を大切にしていることも彼女には伝わった。藍川ほどではないが粳部にも人の心が分かるのだ。
「子供達の居室は個室と二人部屋です。個室は特に人気ですよ」
「へーもっと大人数の部屋だと思ってました」
「お前って学年時代は二人部屋だったか?」
「そうですね。お姉ちゃんと二人でした」
粳部の家は片親だったこともあり経済的にそこまで裕福なわけではなく、そこそこの広さの部屋を姉妹で共有していたのだ。彼女が子供達の暮らす二人部屋を覗き込むと、そこには同じくらいの広さの部屋が広がっていた。何となく懐かしさを覚えると同時に寂しさを覚える彼女だが、先を進む雨田の後を遅れて付いて行く。
「こっちにはホールがあって、ピアノとか卓球台がありますね」
「おお」
広間と同じくらいの広さのホール。箸に畳まれた卓球台とピアノがあるくらいで対照的に物が少なく、手を叩けば音が響くくらいには広い空間だった。これだけあればヨガ教室が開けそうだと思う粳部。
「でもまあピアノを使う人居ないんですよね……私だけです」
「おお、ピアノが演奏できるんですね。中々教養がある」
「いえいえ。昔教会に勤めていたのでパイプオルガンの経験があったんですよ」
ふと、それを聞いて一つの疑問を覚える粳部。特に任務と関係のない極めて普通な質問。
「パイプオルガンとピアノって何が違うんですかね?」
「お前そりゃ……俺も知らないな」
「ふふっ、似ていますが別物ですよ。ピアノは打弦楽器ですがオルガンは管楽器です」
笑顔で豆知識を披露する雨田。確かに両方とも鍵盤を叩いて演奏する楽器ではあるが、中身については仕様が違うのだ。オルガンは風箱からの風圧によってパイプが振動し、それによってあの独特で壮大な音が出る。弦の振動で音が鳴るピアノとは根本から違うのである。
「オルガンは操作によって九オクターブ以上の音が出る。ピアノとは響きが違うんです」
「……昔一度、教会でオルガンの演奏を聞いたことがあったかな」
「教会でよく弾きました。余韻の残らないあの感覚、複雑な音色。今ではそれも懐かしい」
そう言って昔を懐かしむような目をする彼。粳部から見ればその表情はかつて見た情景を望むような、遠く離れたことを悲しむような感情があった。だが、不思議と過去に戻りたいわけではないことも伝わった。彼のその立ち姿に弱々しさを感じることができなかったからだ。
また尋ねる粳部。
「……何で教会を辞めたんですか?」
「……私にしかできないことがあるかもしれないと思い飛び出した、そんな感じですかね」
「人は見かけによらないな。中々挑戦的ですね」
どこまでも穏やかな立ち振る舞いと言動から、彼がかつて聖職者であったことは粳部達にも理解できた。この道を選んだことも彼の信仰故なのか、それとも彼の言う通り自分にしかできないことを探した結果なのか。粳部であってもそこまで読み取ることはできない。
しかし、藍川にはそれを知ることができる術がある。彼がそれを選ぶのかまでは分からないが。
「何事もそう上手くはいきませんが、やれるだけやるつもりです」
「……さて、そろそろ本題に入ろう」
「……?本題というのは?」
突然話を切り出した藍川に困惑する粳部。確かにいつ切り出してもおかしくはないと思っていた粳部だったが、頭から薄れたタイミングで来ただけに流石に驚いていた。彼らは児童養護施設の見学をしに来たわけではなく、雨田が蓮向かいに入るかどうかを調べに来たのだ。本来は任務から離れてこんなことをしている場合ではない。
穏やかな表情を捨て去る藍川。
「誰も居ない今にしかできない」
「せ、先輩?」
「雨田圭さん、あんた司祭だな」
一般人であれば本来の意味でしか通用しない単語だが、本人が誰よりもその意味を知っていた。司祭は司祭になった瞬間に自分の存在や権能と弱点を理解する。彼には誰よりも心当たりがある筈だ。そもそも、藍川が既に調べ終えている為に彼が司祭であることは確定している。
目を大きく見開き、あまりの事に口も開く雨田。
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