ガランドゥ『仮想現代戦記』

扇屋

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ガランドゥ 16話 『少年少女暴走劇』

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【14】

 小学校の校舎裏の日陰、肌寒い日陰に二人の少女が居た。灰色の空と灰色の街並み、卜部うらべはくすんだ瞳で空を見上げている。しかし、その視線の先にあったのは外壁のパイプを昇ろうと悪戦苦闘する柳だった。
『……おたけ何がしたいの?』
『この校舎の屋上、行けない仕組みなんだよね』
『だからって昇ろうとするのは論外じゃん』
 柳は常に常識の外側に居る存在だ。常識で彼女を縛ることは叶わず、暴走する彼女は誰にも何にも縛られない。とは言え、所詮彼女は小学生でしかない。その弱い力でできることは限られている。決して自由にはなれないのだ。
 だが、ここには卜部が居る。
『しょうがないなあ』
 彼女がそう言うと足と腕が強化法術によって発光し、跳び上がるとずり落ちた柳を抱えて屋上まで駆け上がる。人間を超えた超人級の芸当だったが、宝の持ち腐れとばかりの使い方である。一瞬で屋上まで昇った柳は瞬きをした後、その感覚に興奮していく。
『おお!今の法術ってやつだよね!?』
『そうだよ……こんなことに使わせないでね』
『それ私も使いたいなあ……今度教えてよ』
『……まあお竹なら良いけど』
 卜部の腕の中から降りた柳が歩き出す。狭かった空が途端に広がり、視界いっぱいに灰色が広がる。行きたかった場所に無理やり行っても決して景色は良いものではなく、息が詰まりそうな曇り空だけがそこにある。無表情のままの卜部と対照的に柳は常に楽しそうな表情をしていた。
 卜部と柳は仲が良いが、卜部は彼女のその全てを知ってはいない。
『やっぱりここ扉がないよ。どうやって上るんだろ』
『梯子でもあるんじゃない?』
『そうかなー……あっ、本当だ。ここから昇り降りできそう』
 柳は縁から下を見下ろす。無邪気に全てを楽しむ彼女は、卜部にとって太陽のような存在だった。自分よりも遥かに弱い存在でしかないのに、彼女の存在は卜部を大きく変えてしまったのだ。常にどんなことが起きようと笑い続ける柳は無敵なように思える。
 その先にある結末を巧妙に隠して、柳は不敵に笑っている。
『何で、お竹ってこういうことするの?』
『こういうことって具体的に何?』
『校則破ったり、生き物狩ったり、家に帰らなかったり』
 生き物を狩っていることを除けば全て可愛いものだろう。だが、同じ小学生や両親は何か異質な物を彼女から感じていた。ただの思春期特有の行動なのだと周囲からは誤認されていたが、卜部は人間の在り方から離れている柳の性質を感じ取っていたのだ。
柳は不敵に笑い続ける。
『退屈っていうか、暇を紛らわせたいんだ』
『……暇?』
『両親は私に興味ないの。異性に興味ないのに世間体の為に産んだだけから』
『……』
『生まれてから指の数ほども会話してないしね』
 ある意味、彼らは世間体を気にする現代人の究極系かもしれない。自分を守る為だけに生み出された命という名の盾、それが柳竹子という少女。生きていればどうでも良く、成人したら役目は終わりで放り出される存在。
 しかし、人は金と食料だけでは生きていけない。
『家に居たって何の音もしないんだ。私、それが耐えられないの』
『……外に居たい理由?』
『響夏ちゃんと居ると飽きないな。世界の価値を感じるよ』
 真っ白なキャンバスのような、真っ黒な太陽のような柳は人によっては清らかで美しく見えるだろう。だがその実、行き着いた彼女がどうなるのかを真に理解している者は居ない。それは傍に居る卜部でさえそうだ。
 その時、下から男児の声が聞こえる。
『お前ら何やってんだ……?』
 柳が下を覗き込むと、そこでは進藤と沼野が信じられないような物を見るような目で彼女を見つめていた。


『投網、失敗だったね……』
『いや無理って分かってただろ。こんな出来合いの網じゃ』
 沼野がボロボロの網を肩に背負っている。残念そうにする柳はバケツを抱えており、中にはボラとブラックバスが突っ込まれていた。隣を歩く進藤も両手で大きなブラックバスを抱えている。卜部はそんな三人の後ろを歩いていた。
 日が傾き世界はオレンジ色に染まっている。
『穴が開いてちゃ無理だよねえ』
『卜部が電気流さなかったら収穫ゼロだったよなあ』
『……確か、電気を流して獲るのって犯罪じゃないか?』
 沼野のツッコミは正しい。見かねた卜部が川に法術で電気を流したものの、電気漁業は完全にアウトだ。とんでもない釣果を得た四人はルンルンで帰路に就いている。
 卜部が沼野の問いに回答した。
『法術だから多分セーフ』
『そ、そうなのか?……そうかも』
『とっとと焼こうぜ。もう夕方になっちまった』
『じゃあ沼野のアパートの裏でやろうよ』
『俺の家か?……まあいいけど』
 スッキリしない回答をする沼野。四人は夕焼けが濃くなる中、長い影の揺れる誰も居ない道を進んでいく。四人で馬鹿をやる時、その場の全員が笑顔になっていた。悪い現状について考えなくて良い時間は安らぎだった。
 四人が沼野の住むアパートに辿り着く。
『誰かライター持ってる?』
『柳、卜部が居るだろ?』
『私はライターかいな……まあ良いけどさ』
『じゃあ捌くのは柳がやるとして……』
 その時、アパートの階段を荒々しく降りる音が響く。金属製の階段を踏む音は大きく、周囲の注意を自然と引いていた。だが、沼野はその音に聞き覚えがあったのか顔色を変えて音のした階段を見上げる。先程までの笑みは完全に消えていた。
 階段を降りる三十代前半の男は片手にゴミ袋を持ち、下に居る沼野のことに気が付くと不機嫌そうな表情が更に険しく変わっていく。
『おい雫!朝にゴミ捨てろって言ったよなあ!』
『あっ……いや、捨てようとは』
『何で捨てるだけなのにできねえんだよ』
『その……大家さんが分別ができてないから駄目って』
『そんなの無視して捨てろ!こっちの方が偉いんだ』
 男は沼野にゴミ袋を投げつけ、その場に居る卜部たちを一瞥すると不機嫌なままどこかへ去っていく。今時こういう粗暴な輩を見かけることは少ないが、世間のどこかに居ることには居るのである。そして、治安を悪化させている。
 男が離れていった後、卜部が一番最初に口を開く。
『今の……沼野のお父さん?』
『母親の再婚相手だよ。父親じゃない』
『……法術でぶちのめす?』
『やめてくれ……良いんだ、別に』
 明らかに無理をした笑みを浮かべる沼野を見て、卜部は何も言えなかった。両親と不仲になってしまった彼女だったが、それでも暴力が振るわれたことは一度もないのだ。彼女にとって、目の前で起きた現実の出来事は受け入れがたいものだろう。
 しかし、それは確かに彼女の親友に起きた出来事だったのだ。


 そして、遂にその日が来た。いつものように小学校の校舎裏に集まった四人は、灰色の空の下である決断をする。
『えっ?家を出る?』
『うん、私なら自給自足で生活できるよ』
 驚く進藤と沼野。柳は目を輝かせて楽しそうにしており、卜部にとって概ね予想通りの反応だった。全てに愛想が尽きた卜部が取った最後の手段は全てから逃げること。仲間を守る為に自分達の世界を作ることだ。
『超斬新じゃん!』
『ど、どうやって?どこに行くんだよ』
『山とかかな。今作ってる法術が完成したら、誰も入って来れないよ』
『う、卜部なら不可能じゃねーな……』
 そう言う進藤の頬はガーゼが貼られている。その理由については言うまでもない。
 卜部は法術の天才だ。進藤と柳はその彼女から法術を習い少しだけ法術を使えるようになっていたが、卜部は曾祖父から殆どの法術を習得しているのだ。更に、彼女が新たに開発した法術は曾祖父よりも進歩していた。
 自給自足の生活ができるほどに。
『食料と水はどうするんだ!?それに警察も追ってくるぞ!』
『水は法術で作れるよ。食料は……考えがある』
『そもそも私達法術使いだし、敵じゃないよ!』
『お前らはな!俺は法術使えないんだ!』
 とは言え、そう言う沼野としてもその提案は悪いものではなかった。何より、卜部という圧倒的な力の象徴が味方に付いていることが心強かったのだ。暫く彼が考え込んだ後、静かに今後の展望について想像していく。
『……やるなら、徹底的に考えるけど』
『私が居んだよ?何とかなるって!』
 その言葉を聞いて、進藤と沼野は覚悟を決めたのだ。


 地面に転がる卜部が意識を取り戻す。長い夢を見ていたような気がしていた彼女だったが、実際の時間は殆ど経っていなかった。既に粳部のお座敷ざしきは崩壊し元の空間に彼女は投げ出され、彼女が立ちあがると同時に粳部も立ち上がっていく。
 小屋の影から飛び出した沼野が卜部の隣に立つ。
「卜部!俺の法力も使ってくれ!多少は足しになる!」
「おう……」
 ゼロに近かった卜部の法力残量が沼野からの供給を受けて少しだけ回復する。とは言えそんなことをしても焼け石に水であり、既に彼女にはお座敷ざしきを使う余力は残っていなかったのだ。粳部を倒すにはもうチャンスは一度しか残っていない。
 フラフラの粳部と彼女が向き合う。
「あと……少しでッ……!」
「卜部さん……これが最後です!」
「付き合ってやるよおッ!」
 両者共に限界が近かった。しかし、彼女の成長速度は卜部を上回っていたのだ。粳部がお座敷を使う構えを取る。それを見た卜部は彼女の才能に恐怖するが、それでも退くわけにはいかなかった。
 彼女の背中には三人が居るのだから。
「お座敷ざしき三畳、夕凪ゆうなぎ!」
「まだお座敷を……!」
 二人の周囲をお座敷の壁が取り囲み、空を閉ざすと周囲の空間が構築される。そこは夕陽の沈む白い砂浜。心奪われる絶景が広がる中、二人の法術使いが向かい合った。粳部はボロボロの靴を砂浜に脱ぎ捨て、火傷した素足で砂浜を駆け出す。強化法術の出力は落ちていたが、彼女はそれでも戦う気だった。
「来い!」
 粳部の拳を彼女が受け流し軽いジャブを顎に叩き込む。粳部は膝蹴りを卜部の腹に叩き込むと、追い打ちで肘打ちを頭に打ち込もうとした。しかし卜部は片手でそれを受け止め、その手から層展乱雷そうてんらんらいを放ち彼女を弾き飛ばす。
「ぐっ!?」
 だが、不意に卜部の足が止まる。彼女はふと夕焼けが無性に気になってそっぽを向いてしまい、不注意になったところを粳部が殴り抜けた。よろけた彼女が波打ち際に倒れると、冷たい水が卜部を包む。
 意外なことに海水ではなかった。
夕凪ゆうなぎの効果は夕陽に気を取られること!ちなみに真水です!」
「ははは!また変なの考えて!」
「あなたも似たようなもんでしょ!」
 体勢を立て直した卜部が水を粳部にかけた。不意打ちに彼女が身構えた隙に卜部が突っ込み、そのまま頭突きすると押し倒して粳部をタコ殴りにする。だが粳部も反撃として層展乱雷そうてんらんらいを放つが、水の中に居る両者が感電してしまう。
 もう完全に限界だった。
「こ、こいつ!?」
 卜部がお座敷の効果で夕陽の方を見てしまうが、気合いで粳部の方を向く。しかし粳部は彼女の頭に水をかけて視界を封じ、卜部を両足で蹴り飛ばす。体勢を立て直した両者は波打ち際で向かい合った。疲労は積もり法力は底を尽きかけている。
 不意に、粳部が語り始めた。
「楽しいですね……法術の腕を見せ合うの」
「……楽しい……思いっきり全力出せるのが楽しい」
 だが、途端に卜部が泣きそうな顔になる。彼女の方はもう精神的にも限界だった。
「でも私は粳部を倒すんだ!みんなの自由の為にッ!」
「……私は、卜部さんたちを苦しめたいわけじゃないですよ?」
「それでもッ!」
 その時、夕凪ゆうなぎが解除されて空間が崩壊する。遂に粳部の法力が底を尽いてお座敷を維持できなくなってしまったのだ。粳部が疲労からよろけたその時、卜部が法術発動の構えを取った。掲げた手の中に光が収束し回転していく。
 もう、卜部はやけくそになっていた。
「ほ、法力が尽きてお座敷ざしきが……!」
「私の最強最速の技!全法力をここで使い切るッ!」
 だが、それでも粳部は踏ん張って迎え撃つ構えを取る。
「来いッ!!」
 卜部の手中の光輪が限界まで加速し、臨界を迎えた。
「チャクラム!!」
 投擲された光輪が空を切り裂き異音を出しながら粳部を襲う。疲弊した粳部だったが強化法術と硬化法術を瞬間的に最大出力にすると、音速を超えた攻撃を躱す。しかし、チャクラムは空中で軌道を変えて彼女の背後に迫り、不意打ちで脇腹を切り裂いた。貫通した腹からは血が溢れ、法力と体力が完全に尽きた粳部が倒れていく。卜部の法力も尽きていた。
「がっ……!?」
「……あっ」
 しかし、粳部は決して倒れなかった。彼女の影から海坊主が飛び出すと同時に全ての傷が癒え、脱ぎ捨てた靴までもが再生していく。一瞬で完全復活した粳部は海坊主を網状にして卜部の体を縛った。一瞬で戦況が塗り替わり、もうどうすることもできない卜部は途方に暮れた。
 確かに法術では卜部が勝っていただろう。それでも、粳部には海坊主という切り札があったのだ。
「手加減なしなら……こっちも手加減しません」
「……そんなっ」
 進藤と沼野は遠くで地面にへたり込みながらそれを眺めていた。圧倒的な力の象徴だった卜部が、大人に敗北してしまったのだ。今まで完全無欠だった彼女が負けたと言う事実は、大人に抗う子供たちにとって余りにも重くのしかかる。
「卜部が……負けた?」
「……駄目なのか」
 卜部は最大限上手くやった。三人から法力を供給されて最大限に法術を発揮した。それでも試合に勝ったところで、勝負に勝てなければ意味がないのだ。本能的に粳部との勝負を楽しんでいた卜部が、その楽しみを投げ捨ててまで殺傷能力に特化した法術を使った。しかし、それでも勝つことは叶わない。
 その時、傷心の卜部の背後に柳が立つ。
「負けたの?……響夏ちゃん」
「お、お竹……?」
「あいつ……法力全部渡してなかったのか……」
 進藤と沼野は法力を全て卜部に渡していた。しかし、柳は活動できるだけの法力を残していたのだ。いつもの笑みが消えた柳は酷く冷たい顔をしている。期待外れのような、失望したような表情の彼女が卜部を見下ろしている。
 卜部が震えていく。
「大人には負けないって言ったじゃん。勝てるって言ったじゃん」
「……ごめん」
「私を導いてくれないの?助けてくれないの?」
 その瞬間、柳は激怒すると同時に法力で包丁を作り出した。
「なら死ねッ!」
 海坊主に拘束されている卜部に包丁が振り下ろされる。余りにも強い殺意が彼女に押し寄せたその時、高速で飛来したラジオがその包丁を掴んで止めた。彼女が力を込めて包丁を砕くと結鎖けっさで柳を拘束する。
「粳部、遅くなった」
「ラジオさん!」
「クソッ!こんな鎖でえっ!」
 暴れる柳にラジオは三伝漆柱さんでんしっちゅうを使うと、三本の朱い柱が柳の半身を飲み込んで止まる。単芯漆柱たんしんしっちゅうの発展形であるそれは対象の体力と法力を奪い取る封印系の法術。元々柳は卜部に法力を渡していた為に法力が殆ど残っていなかった。
 これで、柳はもう誰も傷付けられない。
「何で……!?」
 粳部が柳の方へ歩いていく。
「この子の背中は……あなたを背負えるほど大きくないんです」
「じゃあ何で期待させた!私には!響夏ちゃんしかないのに!」
 最後の希望を失って破れかぶれになった柳は暴走機関車だ。力で止めることはできてもその心までもを止めることはできない。何もない真っ白な柳にとって、卜部の存在は全てを変える神のようなものだった。裏切られれば神殺しもするだろう。
 柳の頬を涙が流れていく。
「……噓つきぃ」
 その日、少年少女の暴走劇が終わった。



【15】

 人がまばらに居る食堂で粳部がハンバーガーを口に詰め込んでいる。前の席に座る藍川はコーヒーを飲みながら、遠くの席で大盛りの料理をかき込む女性を眺めていた。蓮向かいの食堂の利用料金は無料になっている為、そんな暴挙でも許されているが壮観な光景ではあった。
 清掃員が短い間隔でテーブルを拭き、ロボット掃除機が手早く床を掃いていく。淡々とした動きで拭かれた場所はほのかに輝きを放っている。基地内の白い内装はこうした徹底管理で維持されているのだ。粳部はその光景を眺めながら、何も考えずにハンバーガーを飲み込んだ。
 その時、ホットドッグの乗ったトレーを持った卜部が彼女の隣に座る。
「どもどもー」
「ああ、卜部さん」
「……えっ?何で彼女がここに居るんだ?」
 思わず藍川が目を丸くする。あれから数日が経っていたがもう事件は解決し、もう粳部たちが彼女に関わることはないと思っていたのだ。しかし、卜部は消えるどころか自分達の目の前に現れて食堂で食事を摂っている。もう滅茶苦茶だ。
 だが、粳部はあまり驚いていない。
「卜部さんは法術の師範として、法術を教えることになったんです」
「そういうことー……この人誰?」
「まあ、腐らせるには惜し過ぎる才能か……」
 卜部の法術の才能は百年先を行っている。この力を放っておけば組織は大きな損失を被ることだろう。自慢気な表情の卜部がホットドッグを頬張っている。そこにやさぐれていた時の表情はなく、心の底からのどかに過ごしていた。
「他の三人は法術を使わないと誓約して監視処分。これで一件落着です」
「やるからには全力でやるからね。すぐに追い越してやる」
「い、言うようになりましたね……」
「あの時は準備不足だったから負けたんだ。次は勝つよ」
「じゃあもっと凄いの考えます」
 そう宣言する卜部を粳部は笑う。二人の天才の因縁はこの時から始まり、それが後の時代に大きな禍根になることはまだ誰も知らない。だが、親友二人の友情が壊れることは決してなかったという。今を生きる二人は知る由もないのだが。
 それを眺めていた彼はわずかに微笑むと、コーヒーを持ったままその場を立ち去る。粳部は遅れてそれに気が付くと彼を追って歩き出した。
「鈴先輩、聞き忘れてたんですけど」
「ん?何だ」
 藍川が足を止めて彼女の方に振り返る。
「立ち入り禁止区域、どこにもガスがなかったんです。変じゃないですか?」
「……さあな。気のせいじゃないか」
「えっ、気のせいって……それじゃ何であの子たち」
 その時、作業服を着た職員がダンボール箱を運びながら粳部に話しかける。彼女の話を遮って、質問の答えを彼女が聞く前にその男が話を始めた。それは藍川の権能によるものかどうかは誰にも分からないが、都合の良いタイミングであったことは事実だろう。
「粳部さん、荷物を指定の場所まで運びました」
「あ、ああ……どうもあっ、ありがとうございます」
「自分で運ぶということでしたが、よろしいですか?」
「は、はい!」
 それを聞いた作業服を着た職員はその場を後にし、廊下は藍川と粳部の二人だけになってしまう。会話を黙って聞いていた藍川は不意にあることが気になり、彼女の質問を完全になかったことにして一方的に話を始める。
「引っ越しって、実家に戻るのか?まだ住んで二か月くらいだろ」
「いやあ……家賃がタダは良いんですが、真っ白で病みそうで」
 基地の真っ白な内装はまるで病院のような無機質さを持っている。清潔さを優先した結果がこれなのだが、一部の人からは長期間は居たくないと不評であった。当然、病院嫌いの粳部からすれば嫌な気分になるだけだった。
「実家に戻ろうと思ったんですけど、まだ言い出せてないんすよね」
「じゃあこれからどうすんだ?」
「……自分でも考え無しですね」
 呆れたように自嘲する粳部だったが、それはもう冷静な思考ができていない証拠である。藍川は少し考えた後、あまり深いことは考えずにある提案をした。
「……ウチの余ってる部屋でも使うか?」
 その提案が余りにも強い劇薬であることを、彼はまだ理解していない。
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