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沈黙の牢舎
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これも、その日の数時間前の出来事である。
その日、職場の捜査一課に現れた花屋敷優介はいつにも増して不機嫌だった。
大柄な上に常日頃から異相といってもいい顔立ちの彼であるから、事情を知らない者が見れば、まるでヤクザの若頭が組の若い衆を今にも怒鳴りつけようとしているかのような面体である。
捜査一課にいた面々はいつもと雰囲気の違う彼の様子に何かあったな、と刑事の勘を働せつつ捜査資料を整理したり外部からの電話の応対をしたりといつも通りに淡々と情勢を見守った。
花屋敷は自分のデスクにどっかりと腰を落ち着けるなり、腕組みをした。
機嫌がいいのか悪いのか解らないのが常態の人間を相手にする場合、大抵の者はファーストコンタクトには特に気を配るものだ。
些細なことで上機嫌になったり不機嫌になったりする上に強面の顔立ちであるから、花屋敷優介という男は読みにくい男である。
とはいえ中身の方はすこぶる面倒見のよい性格の刑事だし、鈍重そうな外見に似合わず精力的でマメな男であるから別に付き合いにくいという訳でもない。
だからその日、神戸帰りの石原智美が土産のプリンだのゴーフルだのを片手に職場に現れた時は、捜査員一同は正直ホッと胸を撫で下ろしたものだった。
この気難しい大男を御せるのは世界広しといえど、相棒の彼女くらいのものだからだ。
「トモ…トモってば!」
制服を着た石原の同期の中川明美が自らの職務である事務整理をほったらかしにして石原がデスクにつくやいなや、刑事部屋の隅に彼女を引っ張り込んだ。
「ちょっ…ちょっと明美! なんなのよ、いきなり」
ほっそりした外見に似合わぬ強引な腕力で明美は石原の肩を掴むと机の陰に素早く屈み込んだ。
明美は刑事部屋の方をひょこりと首を出して刑事部屋の方を伺う。狐のように目が細く、同じく細身な体型が特徴的な事務員である。小柄な石原と違って背丈がひょろ長い。
彼女は手の平を口元にあて、井戸傍会議に訪れた近所の奥さんのようにひそひそと話し出した。
「ねぇ…花屋敷さん、今日もあの調子なの? なんかいつも以上に今日は不機嫌っていうか、ヤバくない?
…アンタ相棒でしょ。なんとかなんないの?」
世話好きでちょっぴりお節介な、自称捜査一課のマスコットガールを自認する彼女は先輩刑事の急激な変化がやたらと気にかかるらしかった。
石原は腕組みをしたまま動かない花屋敷の様子をそっと窺った。三日ぶりに会う彼女の相棒は、いつも以上に強面の仏頂面に磨きがかかっている。意外に深刻な事態なのかもしれない。
…そういう事か。
聡明な彼女は即座に事態を理解した。そして、心の中でそっと溜め息をついた。
捜査員の中には一昨日の事件と花屋敷とを結び付けて知っているのは、まだ限られたごく一部だけのようだ。
花屋敷と、今や現場で磯貝警部に代わる直上の上司となった早瀬管理官。
二人の大学時代の旧友が、目黒区で起こった傷害事件の容疑者として緊急逮捕されたのは一昨日の夜遅く、午後の10時を過ぎた時刻であったという。
容疑者の身元の確認作業は今後、被害少年達の事情聴取にあたっていた磯貝警部から引き継ぎ、今日は明美が立ち会う予定だった。
正直、石原は気が重かった。神戸で十二年前の事件の第一発見者である中谷老人に会ってきて、その思いはさらに増した。難解な事件の最中に舞い込んだ事件の確認作業ほど厄介なものはない。
容疑者は来栖要。27才。職業は私立探偵。
最初に磯貝や明美からの報告を聞いて、石原は驚くよりも先にまず呆れた。
事件自体はよくあるチンピラ同士や少年達による傷害事件の類だったようだが、この事件が他の事件と決定的に違うのは、集団リンチの加害者たるべき少年達を容疑者が全員返り討ちにしてしまった点である。
逆ではないのか、と石原は何度も念を押して確認した。
彼らのうちの何人かは凶器まで所持していたという。普通ならありえない。
だが、少年達の中には全治一ヶ月にも及ぶ深刻な骨折や打撲をしている者もいるらしく、けして絵空事や冗談の報告ではなかった。
加害者と被害者は、いきなり立場が逆転してしまった。
そして、突然の逮捕劇である。六年ぶりに再会した旧友を逮捕したのであろう早瀬と花屋敷の心痛を思うと石原も胸が痛んだ。
「本当にね~。警察官が身内を逮捕するなんてドラマじゃよく聞く話だけどさ~。花屋敷さんも大変よね~」
口の軽い野次馬な明美はまるで他人事である。
「そういう訳じゃないと思うけど…」
そう、この場合そうした問題ではないのだ。どうした所で、傷害事件だの正当防衛だの、犯罪を人間から切り離して考える事などできない。
捕まえたのは身内だとか、友人だけど捕まえたんだとか、社会正義を貫く為には仕方がなかったなどという難しい小理屈など、最初から意味はない。
今回の傷害事件は関わった人間が聖真学園の人間だったという点が問題なのだ。
本当の被害者というべきか、始めに不良達に絡まれていたのは成瀬勇樹という聖真学園の生徒だ。
また、不良達の中にも聖真学園の生徒は三人含まれている。要は事件は当所は、ただの学生同士のいざこざだったということだ。
少年達の自白や成瀬勇樹の供述もあり、来栖要の正当防衛は誰の目にも明らかであった。
聞けば管轄である渋谷警察署もオヤジ刈りやカツアゲ、空き巣やスリの常習であるスカーズというチームには手を焼いていたらしい。
来栖要は警察の一部では既に英雄視され、半ば感謝状すら授与されそうな勢いである。しかし、凶器を所持していたとはいえ相手は未成年である。過剰防衛の感は拭えない。
昨日の内に来栖容疑者の身柄は管轄である目黒警察署の地下牢に移送されていた。普通は保護室なのだろうが、あそこには今は使われていない、戦前の地下の独房があったはずだ。
早瀬警視がなんのために彼を出したがらないのかは分からないが、被害届が出ていない以上、長期の拘留は望めない。早いうちに出てくるのは間違いないだろう。
それにしても…。
また聖真学園か。
今回の事件といい売春事件といい、過去に不吉な殺人事件があったあの学園には何かしら因縁めいたように奇妙な事件を呼び込む性質でもあるかのようだ。
石原はあの学園に、まだ自分達も知らない、何かとてつもない秘密が眠っているような気がしてならない。
少年達の供述から明らかになった点が幾つかある。
まず、聖真学園には未成年の少女達による売春組織が確実に存在するであろう事だ。
早瀬警視から最初に捜査会議でも可能性は指摘されたが、少年達はドラッグを使って売春している女生徒達を恐喝材料にして学園側、あるいは少女達自身をゆすろうとしていたのは、ほぼ間違いないと思われた。
売春組織はヘブンズ・ガーデンという名前以外は目下調査中だが、客筋の中には社会的な地位にある人間も含まれているという。
学校側としても、警察にとっても、マスコミには絶対に知られてはならない一大スキャンダルといえた。
今回の事件発生時の混乱を知っているだけに、その思いはますます強い。
早瀬警視の行動は迅速だった。傷害事件に関する情報統制や警察内部の人間…いわゆる身内への箝口令まで含め、マスコミ関係者への余計な混乱は最小限に食い止められたといっていい。
今朝の朝刊各紙にも聖真学園の名前をすっぱ抜かれた様子はなく、目黒区で少年グループによる傷害事件があったという情報が流れた程度で、聖真学園の名前とドラッグの存在は今の所、公にはなっていないようだった。
今後、問題になるのは学園側の対応だろう。事は売春にドラッグである。徹底的に学園側が否定するであろう事は容易に想像できた。
「古井管理官は?」
「磯貝課長と一昨日の事件の情報収集。いきなり舞い込んだ事件だったから、かなり渋ってたわよ。ただでさえ被害者…ううん、この場合は加害者かな?
…ややこしいわね。悪ガキ共の人数の把握に時間がかかりそうだから。
…トモ、課長から伝言があるの。かなり参ってるみたいだから花屋敷さんの事、悪いけどよろしく頼むってさ」
彼女はポンと石原の肩を叩いてウインクすると、バネ仕掛けのように立ち上がり、刑事部屋の奥にある自分のテリトリーへとさっさと戻っていった。言いたい事だけ言って、後は丸投げである。
石原は考え深げに腕組みをして、アユタヤ遺跡の大仏のように目を閉じたまま動かない花屋敷を遠くから眺めた。
…さて、と。
石原は素知らぬふりをして自分のデスクへと向かった。花屋敷は向かいの席だ。
いちいち気を遣って考え込んでいても埒があかない。石原はわざとらしく大袈裟に背伸びをしてから自分の席についた。
「う~ん。夜中まで被疑者の身元を洗ってたらさすがに寝不足ですよ。…おはようございます、先輩。コーヒーでもどうですか?」
こんな所か。案の定、今までは周囲の物事はすべてシャットアウトといった様子だった花屋敷は『被疑者の身元』という言葉に、獣のごとくピクリと反応した。
「割れたのか?」
これである。朝の挨拶も、三日ぶりに会った後輩にも、質問に対する正しい応答という行動も、彼の心中では綺麗さっぱり度外視されている。猪突猛進という言葉は、彼の為にあるのだ。
「ええ、大体の所は。先輩は今日は昨日の事件じゃなくて私と一緒に学園での聞き込みでしたよね?」
「あ、ああ…。昨日の事件は外されたよ。できれば今日は本部から動きたくはなかったんだけどな。学園の方は目撃者なんて何人もいるし、いまさら現場付近から何か目新しい事があるとも思えないんだが…」
花屋敷は腕組みをしたまま再び考え込んでしまった。彼にしては珍しく煮え切らない態度である
「課長なりの配慮なんだと思いますよ。身内が被疑者と知り合いというのも微妙なものですから」
「微妙…か」
「ええ、微妙です。本部で早瀬警視を待ちながらヤキモキするより、動き回ってた方が余計な事は考えなくてすみますよ」
「そうかな」
「そうです。大体、先輩らしくないですよ。…考え込むより現場百回。
…刑事は迷わずに身体で証拠を探せ。歩いて調べて報告する。それから考えろ。
…自分一人で事件は動いている訳じゃない。歯車が正しく回っていれば、事件は自然に解決する。
…今、自分達ができる事をしようって、そう教えてくれたのは先輩ですよ?」
石原はわざと大袈裟に身振り手振りまで加えた。本当は磯貝警部がよく使う台詞なのだが、今の花屋敷には思いの外効果的だった。
目がギラギラと狩りをする獣のように光を帯び始めている。犯罪者という都会の闇に潜む獣を追い掛けるハンターは、必然的に犯罪者の顔よりも怖くなるのだ。
今、彼は猛烈に考えを巡らせている。石原はよく知っているが、迷っている彼は実は一人ぼっちにされた子供のように素直なのだ。
…可愛い性格なのにね。
古井管理官にコーヒーを庵れていた明美は『よくやった』とでも言いたげにガッツポーズをして微笑んだ。
人の気も知らないで。
「そうだな…。バカはとりあえず動いてみるしかないよな。
…よし! 聖真学園で聞き込み再開だ。あいつの…昨日の被疑者の身元については道々話してくれ。そろそろ行くか?」
「ええ、先輩とコンビで動くのも久しぶりですね。私も実は少し気になってる事があるんですよ。
…あ、今日は課長いないんで古井警視に報告しといてもらえます? 今、下に車を回してきますから。ところで先輩、朝ご飯まだじゃないですか? まずは取り敢えずコーヒーでもどうです?」
「ああ、今日は俺が奢るよ。…ところで石原。お前、いつ戻ってきたんだ?」
あっけらかんとした花屋敷の口調に石原は呆れたように溜め息をついた。
※※※
ひんやりと冷たい石の感触が光量の乏しい狭い空間を満たし、辺りには硬質な雰囲気が漂っている。
コンクリート構造の地下は音もなく、薄暗く、そして梅雨時だというのに渇いている。僅かに錆び付いた臭いがするのは何年も使われた形跡がないからだろう。
日の光など一筋とて射さぬ暗がりがひんやりと冷たく感じるのは、鉄格子が幾つも嵌まった独房というものが本来持つ退廃的な雰囲気によるものなのか、それとも目の前の男が醸し出す、独特の圧迫感によるものなのか、早瀬にはわからなかった。
獄舎の中の男は備え付けのベッドに行儀悪くも靴のまま寝転がっている。
右腕を枕にして、グローブの嵌まったもう片方の手は目を覆い隠すようにして寝ている為、表情はまったく窺えない。
全身黒ずくめのスーツを着た男の姿は完全に周囲の闇と同化してしまっている。
ひとしきり牢獄の全体像を眺め、早瀬は口火を切った。
「来栖要…。職業、私立探偵。1978年4月13日生まれの27才。目下、新宿歌舞伎町二丁目にて探偵事務所を営む探偵…」
早瀬は闇に向かって語り始めた。
「一昨年…つまり2004年から現在の事務所を構えるまでの期間は、現在調査中。
本籍、家族構成、素性等、一切が不明。
…ただし警察の公式記録ではかなりの有名人物。
昨年の秋、秋田県で、かの大富豪鬼頭家の別邸で起こった殺人事件を解決に導いた男。
また、その年の冬にも北海道のとある修道院で起きた連続猟奇殺人事件の犯人逮捕に大きく貢献している」
早瀬はそこで読んでいた資料を傍らの椅子に置くと、腕組みをして右手の親指と中指で眼鏡を押し上げる彼独特のクセをした。
「…さて、そろそろ話してはもらえないか。
一応、忠告しておくが、弁護士も呼ばず、黙秘権をただ行使するその行為は、いくら正統防衛でも自らの不利益を招くことになるぞ」
男は何も答えず、身じろぎ一つしなかった。眠っているようにも見えたが、抜け目のない男だから、おそらく早瀬の話は聞いているはずだ。
「面白い話をしよう」
早瀬は粗末なパイプ椅子を引き寄せて座ると、ひたすら牢屋の向こうでだんまりを決め込む男に構わずに続けた。
「そういえば、お前と同じ珍しい苗字の男がいてな。
来栖征司という名の建築家で、かつてはその奇抜で斬新な耐震構造のアイディアと独特の外装建築のデザインで数々のコンペを総なめにした、知る人ぞ知る建築業界の一大芸術家とも言われた男だ。…お前は知らないか?」
薄暗いコンクリートに早瀬の低い声だけが反響した。早瀬の問い掛けも虚しく、闇は動かない。早瀬は構わずに続けることにした。
「彼の手掛けた洋風建築はどれもこれも変わったものばかりだが、一つだけある共通点があった。
それは建物の屋上の窓に、必ずといっていい程嵌まったステンドグラスのことだ。
それもただのステンドグラスじゃない。デザインや施工、その他諸々まで彼が手掛けた、言ってみれば彼のアーティスト性を物語る、一枚の絵という話だ。
今では建築物ともども来栖コレクションなどと呼ばれ、あちこちの好事家達の間で高い評価を受けているそうだが…。
このステンドグラスというのがまた変わった代物だそうでな。まぁ、いつの時代も天才というのは余人には理解の及ばない世界を作り出すものらしい。
…おや、ほんの少し興味が出てきたか?」
傍らで沈黙する闇の中、僅かに牢獄の黒い影が蠢いた。
※※※
「午前いっぱい潰して学校中で聞き込みしても、結局思ったほどの収穫は得られませんでしたね…」
まだ真新しい緑色の金網に手をかけて石原はそう呟くとふうっと、か細い溜め息をついた。
彼女の隣にいる花屋敷は、売店の自動販売機で買った冷たい缶コーヒーをゴクリと喉を鳴らして飲んだ。
「あの日、グラウンドにいた生徒達。職員室以外の場所から事件を目撃した教師達や事務員に図書室の司書。
とりあえず川島由紀子が飛び降りた時の目撃証言を集めるのは、これ以上は意味ないってことだけは確認できたな」
花屋敷は倦み疲れたようにそう言うと、大きな背中で寄り掛かるようにして金網に身体を預けた。頼りないフェンスはギシリと軋んだ悲鳴を上げた。
事件が始まった日と同じように、石原と花屋敷の二人は再び現場となった聖真学園の屋上を訪れていた。
本格的な夏も近い眩しい日差しの中、さあっと一際涼しい風が一陣、屋上を吹き抜けていく。
『KEEP OUT』と黒字で書かれた黄色いテープはもうドアから外されており、授業中とあってか辺りに人影はない。
どこか遠くから生徒達の明るい声が聞こえてくる。体育の時間なのだろう。
思い思いのTシャツにジャージ姿の女生徒達がキャアキャアとはしゃぎながら校庭へと駆けていく姿が屋上から望めた。
花屋敷はどこか眩しそうにその姿を眺めた。
「不思議なもんだよな」
花屋敷は唐突に、ボソリとそう呟いた。
「何がですか?」
「あれだけの事件があったってのに、生徒達は至って普通に学校生活を送ってる事が、さ。俺も刑事になって四年になるけど、今時の学生ってのは自分と同じ学校の生徒があんな死に方をしても一週間近く経てば、あんなふうに無邪気に笑えるものなのか?」
「あんな死に方をしたからじゃないですか…?」
石原は風に散った自分の髪を手櫛で撫で付けて花屋敷に答えた。
「どういう意味だ?」
「いくら不可解な死に方をしたとはいえ、大半の生徒は川島由紀子は自殺したと思ってるんですよ。少なくとも親や教師達からはそう聞かされてますから。
『悲しいけどお前には関係ない。忘れろ』と繰り返し聞かされるんです。
…同級生やクラスメートだって同じだと思いますよ。いくら悲しんでも胸の痛みを誰かに叫んでみても自殺と聞けば誰だって…そりゃあ悲しいし辛いんでしょうけど、結局は沈黙する以外ないんじゃないですか?
自分と直接関わりのない誰かの死は、結局は突然の事故と変わりないんです。
自分は自分だし、これからも生きていくし、後ろばかり振り返っていられない。
そう言い聞かせて忙しい日常に戻りながら、少しずつ忘れていくのが普通なんですよ、きっと…」
石原はどこか遠くを見るような目で明るい生徒達を眺めていた。青春真っ盛りといった、どこにでもいそうな生徒達の姿は夏の日差しの下で眩しいくらいに輝いて見えた。
現代の若者と一言で言ってしまえば簡単だが、石原はそうした括り方があまり好きになれない。
援助交際や未成年者による犯罪は若者達を取り巻く負の部分だけを切り取って、メディアがやたらとクローズアップして報道するゆえに歪曲して見えるだけに思えるのだ。
事件の前には高校生も社会人も関係ない。大衆という幻想に紛れた途端、全体としての形状が歪んで見えるだけの事で生徒一人一人、やはり大人と同じように違うものだ。
常日頃から呆れるほど様々な事件を追い掛けている刑事の石原が思うに、犯罪の多くは日常の延長でしかなく、けして逸脱した異常なものではない。
まともな人間がまともでなくなる瞬間がある。石原は常にそうしたスタンスで事件に臨むことにしている。
ありえそうもない事件の動機ほど実は日常の中では当たり前な、些細な感情の振幅がきっかけだったりもするのだ。犯罪を自分とは無関係な、いわばケガレとして払い落とすような行為は真実に目をつぶる行為と同じだと思うのだ。
高校生だろうと中学生だろうと道を踏み外す事もあるだろうし、挫折だって味わうに決まっている。彼らは子供でもなく、かといって大人でもなく、曖昧で限りなくマージナルな存在でもあるからだ。
石原がまだ高校生の頃、同じクラスの男子が自分の運転する自動車の事故で死んだ。
かなりの速度超過の上に急カーブを曲がり切れずに車は大破。彼は即死だった。
彼の遺体は顔の原形がなくなるほどにひしゃげ、胴体に至っては半分から千切れ、内臓まで飛び出していたという。
卒業も間近に控えた18才。
同級生の誰よりも早く免許を取って喜んでいた矢先の悲劇だった。彼に車を貸し与えた両親は深く悲しみ、母親は葬儀が終わってしばらくの後に走ってきた電車に飛び込み、自殺した。
悲しい、辛いというよりも人の死というモノがあまりに呆気なく、そして素っ気なく感じたものだった。
見知らぬ土地に一人ぼっちで置き去りにされたような喪失感。胸にぽっかりと隙間ができたような堪らない虚しさが残った。
石原はその当時の、今でも胸が痛くなるような記憶を思い出していた。
花屋敷はそんな後輩の話を、ただ静かに聞いている。
彼女の表情の裏に隠された悲しみを察してか、穏やかに向けられた眼差しが24才にしては、まだあどけない顔立ちをした相棒の表情を真剣に捉えていた。
「お前自身はどう思ってるんだ? この事件…。
17才の少女がいきなり狂ったように笑いながら学校の屋上から飛び降りて死ぬ。普通じゃ考えられないようなこの事件を。…この台詞、あの日に警部にも聞いた事だけどな」
「そうですね…」
石原は即座に刑事の顔になると、片手を握りこぶしにして顎の辺りにあてた。何かを考え込む時によくする自分のクセだ。
「いい機会ですから、少し状況を整理してみましょうか。私は実を言うと自殺説に関しては半分、肯定的なんです」
「半分? そりゃまた新説だな。どういう意味だ?」
花屋敷は怪訝な顔つきで石原に問い掛けた。
「その前に…。先輩は、今回の事件をわからなくしている一番の原因は何だと思いますか?」
「…あん? そりゃお前、自殺なのか他殺なのか未だにはっきりしないからじゃないのか? 死因だって異常というしかない。
…なにしろ何人もの人間が狂ったように笑って自ら飛び降りる川島由紀子を目撃してるんだぞ?」
「それですよ」
「はぁ?」
花屋敷は酸っぱい物を口にした猿のように眉毛をひん曲げた。いきなりそれですよ、などと言われてもわかりはしない。この場合、はぁくらいしか受けはないだろう。
「先輩、もし今回の事件…川島由紀子をたくさんの人達が見ていなかったとしたら…どうなっていたと思いますか?」
「はぁ? その仮定はいくらなんでも無茶だろ。実際、彼女は何人もの人間に同時に見られてるんだぞ。誰も見ていないなんて…」
「いいんです」
石原は花屋敷を制した。
「遺留品などの証拠は一端横にのけておいて、結果に捕われずに考えてみましょう。
…どうなっていたと思います?」
「うーん…川島由紀子を誰も見ていなかったとしたら…か。そりゃ即座に、今以上に早く自殺と断定されたんじゃないのか?」
「どうしてです?」
「そりゃそうだろ。だいたい自殺なんての本来、誰も見てない所でするもんで…あっ!」
花屋敷の細い目がいきなり大きく見開かれた。頭を思わぬ所から殴られたような表情だった。花屋敷の釈迦のようにめずらしく見開かれた目は、目の前に立つひょろ長い建築物だけを捉えていた。
「先輩も気が付きましたね」
いきなり明後日の方向を見て固まった花屋敷に向け、石原は子供のようにニッコリと微笑んだ。
「そうなんです。
ここは自殺するにはあまりに中途半端で不向きな場所なんです。屋上は確かに普通だったら自殺には最適な場所です。
…誰もいない時間帯を見計らって、私だって人知れずこっそり死のうかなって考えるかもしれない」
花屋敷は相変わらず動かなかった。今の冗談には熱くツッコミを入れて欲しかったのだが、そんな余裕はないようだった。
石原は構わずに続けた。
「ここは金網があるのに、遠くからもグラウンドからも中庭からも360度丸見えなんです。なぜかと言えば、理由は嫌でも目につくあの時計塔のせいです。暇があれば人は時計を探して見るものでしょう。
ドラマによくあるワンシーンのように『私に近づかないで!来たら死んでやるから!』なんてシチュエーションでも期待してない限り、よほどの事がなきゃ自殺にこんな場所は選びません。
…実はあれ、投げやりで自暴自棄な感情が働く裏で止めてほしいって願望も働くからだって知ってましたか?
ああ…それはまぁいいか。
…とにかく、川島由紀子が未だに自殺だと断定できない最大の理由は、まず現場自体が不可解であるという事。これがまず第一点。
さて…ここから次の段階に進みましょう」
「次は俺に任せろ。
俺の嫌いな二時間ドラマのワンシーンをなぞるみたいでムカつくけどな」
花屋敷は明後日の方向からようやく戻ってきた。ついでに、持っていた缶コーヒーの空き缶を彼は自慢の怪力で握り潰した。
「こんな目立つ屋上に誰かが一人でいたとしたら、普通なら誰だって止める。けれど、この学園ではそんな理屈は通用しない。
…なぜか? 聞く所によれば、あの時計塔の一階部分は学園資料館がある。いわば客寄せの見世物になってる訳だ。だからこの学校に関しては屋上に一人二人誰かがいても、誰も不思議には思わない。
…ところでよ、普通じゃない見世物小屋ってのは、実は金持ち達の間じゃ今でも公然と行われてるって知ってるか?
ああ…それはまぁいい。
とにかく、いきなり女生徒が金網に座ってたから周囲はびっくり仰天した訳で、ここにいた事自体は何も不自然な事ではない。
…では、なぜ彼女は目の前に飛び降りるのにはとても便利で外からはレンガ造りで決して見えない、あのひょろ長い時計塔の方を選ばなかったのか?
…これが次に進む第二段階という訳だな」
花屋敷はニヤリと微笑んで石原にパスした。彼女は微笑んで花屋敷のパスを受け止めた。
刑事は捜査において推理をあまりしない。情報は互いに共有しあうのが警察の捜査だ。身内を出し抜くような真似は混乱するだけだ。
論理の穴や矛盾を指摘するのは、上の仕事だ。
何をするにも本部の判断と指示を仰ぐのが普通の刑事だ。だからサラリーマンと同じだとよくいわれるのだろう。
だが、この基本的なディスカッションを二人は重視していた。これも磯貝警部の教えの一つである。
二人はまるで導かれるようにして、その漆黒の塊のごとき堅牢な建物へと歩んでいった。
「ええ、では次の段階に進む事にしましょう。幸い推理の材料は二つあるようですから。
まず彼女の遺留品の手帳から判明した『16時に時計塔。魔術師に会う』という文面です。この事実から、川島由紀子は時計塔で誰かと落ち合う約束をしていた可能性が浮上します。魔術師というのが誰なのか、そして何のキーワードなのかは一端、保留しましょう。
ただし、少なくとも川島由紀子は『例の件どを確かめる。これが事実なら狂ってる。この学園が危ない』と自らの手帳に思わず漏らしてしまうほどの相手ではあったはずです」
「その通りだな」
「普通なら誰かと約束する場合、当然持っていくはずの携帯電話を彼女は教室に忘れています。
たんに忘れただけと言われたら身も蓋もありませんが、これは今時の女子高生の行動にしては全くない訳じゃありませんが、少し妙な気がします。となると当然、次の可能性が浮上してきます」
彼女は花屋敷に意味ありげな視線を送った。花屋敷はすぐにピンときたようだ。
「ああ、彼女が携帯をわざと持っていかなかったとした場合だな。それは発着信履歴や通話記録が残っては困るような会話を誰かと交わす予定があったか、あるいは短時間で済むような、けれども内緒にしておきたい話を誰かとする予定だった。…そういう事だな?」
「ええ、そして彼女の死亡推定時刻。
…いえ、たくさんの人に同時に目撃されている訳ですから、この場合は死亡断定時刻ですね。これが時計塔の鐘が鳴って間もない16時37分です。
それにしても変わった学園ですよね?
ちゃんとチャイムがあるのに、朝と放課後を知らせる時は時計塔の鐘ですからね。
夕方は16時35分なんて妙に切りの悪い時間に鐘が鳴るし。生徒の中には時間を取り違えて40分に鐘が鳴ったと勘違いした生徒が何人かいましたよ。
…さて、16時に誰かと時計塔で落ち合ったはずの川島由紀子は37分後に、いきなりさっき私達がいた金網の上に座って、狂ったように大笑いしていた訳です」
二人は時計塔の前に至った。
改めて間近で見ると、ひょろ長く見える外見とは裏腹に驚くほど重厚な構造をしているのがわかる。
監獄の入口にいるみたい。
石原はなぜかそんな風に感じた。札幌の時計台をモデルにしたという話だが、あの歴史ある建造物の持つ独特の重厚さと、街のど真ん中に建ちながらもどこか人間味のある静謐な荘厳さが、この塔からは少しも感じられなかった。
この不安定な場所に立つ塔から受ける印象は、どちらかといえば圧迫感に近い。それも監獄や収容所の監視塔のような雰囲気だ。
隣の花屋敷もじっと細い目を懲らすようにして、夏の強い日差しの中でも黒々とそびえ立つ、塔の頂きを見つめていた。
白い文字盤のさらに上、頂上にあたる屋根部分は螺旋状に階下から階段が延びているのが下から望めた。塔屋は教会の鐘部分のように狭いものではなく、ちょっとした部屋といってもいい広さはある。
時計塔は高さにして25メートル。ちょうど川島由紀子が墜落した校舎前のアスファルトくらいまでの距離はゆうにありそうだった。
ビルの真下を通る時のように風が強い。二人は足を止め、黒々としたレンガ作りの時計塔の真下へと近付いた。
花屋敷は忌ま忌ましそうな表情で塔を見上げて言った。
「お前がさっき、川島由紀子の自殺説に関して、半分は肯定的だと言ったその意味がわかったよ。
彼女が自分から飛び降りたという事実は間違いない。それをして自殺というなら確かに自殺だ。しかし、何かしら引き金になるような出来事が必ずあったはずだ。でなきゃ前後の辻褄が合わない。
だいたい普通の女子高生がいきなり金網の上に座りながら高笑いを続け、最後には自分の命を支えてる金網を自分自ら蹴り飛ばして墜落する。こんな異常な事件はありえない…」
『きゃはははっ!あはは!あーっはっはっははっはっはっはっはっはっっ!』
石原も真剣に頷いた。
「ええ…何かがあったんですよ。あの日、この場所で…。まともな人間を狂気に誘い込み、自分から死んでしまうような、そんな魔術としか思えないような仕掛けが…」
花屋敷は重そうな銅製の輪の取っ手がついた両開きのドアの前に至ると、躊躇わずに門扉を開けた。
キィッと硝子を引っ掻いたような厭な音を立て、扉は開かれた。
見ための重厚さに反して、観音開きの門は意外にあっさりと開閉できるタイプの扉のようだ。
「12年前の災厄はすべてこの塔に繋がってる。今回の事件もな…。行こうぜ、石原」
「…はい、先輩」
二人は僅かな暗がりが広がる闇の中へと足を踏み出した。
※※※
「災いのアルカナ…。幻視のタロット…」
ボソリと闇が呟いた。
その声はぞっとするほど冷たい音となって暗い地下に響き渡った。漆黒の闇の中、男はようやくその時とばかりに沈黙を解いた。
「親父はな…来栖征司という男はその昔、大学に在学していた時は建築学を専行していたが、元々は画家を心指していた男だ。
本格的な洋風建築に興味が移り変わったのは、あの時計塔の施工から数えて一年半くらい前…1991年頃の事だと聞いている。
それまでの親父は、祖父や先代が遺した遺産を食い潰して生きているだけの金持ちのボンボンで、道楽で建築家の仕事をする傍ら、趣味の油絵ばかり描いているような変人だったのさ」
闇の中、男は黒いスーツの懐に手を入れて何かを探っていたが、すぐ何もない事に気付き、チッと舌打ちをした。
早瀬は新品のセブンスターと彼愛用の不思議な色合いをしたライターを、ドアのある鉄格子の隙間から中へと差し入れた。
「…いいのか? ここは警察署だぞ。留置場の中は禁煙なんだろ?」
「係員には伝えてある。どうせ誰も使わない施設だし昔の代用監獄の名残だ。
…気にせず続けろ」
早瀬は格子のついたドアの前で腕を組みながら、獄舎の中の探偵の様子にじっと耳目を傾けていた。
ピンという金属音と共に続いて微かにボッという音がした。
闇の中、怪しい深紅の瞳が浮かび上がった。
来栖要は紫煙を深く吸い込み、ふうと吐き出した。
「聖真学園のあの時計塔は親父が…建築家、来栖征司が手掛けた一番最初の仕事という事らしい。
…ところで、お前は神だの迷信だのは信じるクチか?」
いきなりの問い掛けに早瀬は目を細めた。
「いきなり何を言いたいのかは知らんが、俺は筋金入りの無神論者だよ。
あいにく神も仏もない、信じるだけ無駄な世界にいるものでな。神だ仏だを利用する、ふざけた教祖や狂信者のいる宗教絡みの事件に関わるのがせいぜいだ」
「だろうな。俺だってそんなもの鼻毛の先ほども信じちゃいない。
神だ仏だ悪魔だ妖怪だと、不粋な世の中ではいつだってそうした繰り言は怪しい作り事か、さもなくば迷信か嘘だと断じられる。本気にすればするほどに狂人扱いされるのが関の山だ。
でもな早瀬…不可知なるモノ、得体の知れないモノや神秘的なモノに理由や名前を与え、意志を架託する事で不安を取り除くという方法論はいつだって、どんな時代だって変わりはしないんだぜ。
人はどこかで不思議を作る事で、辻褄を合わせ、世の中と正しい折り合いをつけているんだ。信じる者は救われるというが、人はただそれだけで存在している訳じゃない。
家族や友人、恋人といった人間関係。あるいは宗教や迷信や占い。仕事。趣味。金。法律。あるいは神や悪魔…。人は信じる事で何かを得ているのは間違いない」
「話がまるで見えんな。
あいにく科学的な思考というヤツがどっぷり身についてる俺には、お前のそうした繰り言こそ狂気の沙汰としか思えんぞ」
「クク…俺が狂ってるって? ククク…そいつはいい!」
静止した闇の中、微かに空気が震えた。獄舎の男は再び雄弁に語り始める。
「科学的思考とて、科学を信仰してるのと変わりないんだぜ。お前もそうした意味では完全な無神論者とはいえない訳だな」
「…何が言いたいんだ?」
早瀬は僅かに苛立った。
「人は完全な嘘つきにはなれないという事さ。頼るもの、信じるものなくして現代の社会と切れて生きていけるほど人は強くない。
俺達の住むこの社会は、最初から人間の欲望を丸ごと取り込んで利用し、消費し、拡大していく実に都合のいいシステムになっている。
…だが一方で、そうしたシステムからは切れ、定められた枠組から抜け出し、はみ出して、どこまでも自由でありたいと願う意志もまた存在する…」
「信じる事とはまったく対極の方法で社会と関わる者…たとえば、この世界を呪うことに喜びを見出だす者もいるかもしれない。
…そういう意味か?」
「そうだ。来栖征司って人殺しはな、六年前に自分と繋がる一族、そして無関係な人達を巻き添えに皆殺しにして自分が死ぬ瞬間まで、悪意と憎しみを込め、狂気の種をこの世界にばら撒いていった、この世で一番最低の屑野郎だ。…来栖コレクション?
…ハッ! 笑わせるぜ。あんなものがあるから怪しい迷信が後を絶たなくなるんだ」
「その怪しい迷信の話は俺も聞いた事がある。…もっとも、俺が知っているのは聞くに耐えないただの都市伝説。考える事自体、馬鹿げているような風聞の類なんだがな…」
早瀬の反応に闇は沈黙した。早瀬は内心の動揺を抑え込んで続けた。
「これも奇妙な噂話さ…。
来栖征司の手掛けた建物は、まるで予言めいたように災厄に見舞われる、というものだ。
それらはステンドグラスや天井の壁画をタロットカード仕立てにした一風変わった代物で、美術品としても相当に価値のある物という事らしい。
かのインドのサラスヴァティの涙や、アフリカのブラッド・ダイアモンドのように災いを呼ぶステンドグラスなのだという。
無論、そんなあり得ないような噂が真実なのかどうかは、俺も知らんがな」
暗闇の中で、煙草の火が微かにジジッと音を立てた。獄舎の中で探偵は煙草をくゆらせている。
早瀬は改めて罪悪感にも似た、いたたまれない気分になっていた。今ようやくわかった。
なぜこの男が法に触れてまで、この事件に固執するのかが。
「この、馬鹿野郎…!」
一際大きく空気が震えた。早瀬は自分らしくもなく、胸のわだかまりを始めてこの男に晒け出して、ぶつけてやりたくなった。
「お前は馬鹿だ。どうしようもない強情っ張りな大馬鹿だ。…なぜ六年前、俺達に何も話さずにいなくなった?
お前はいつだってそうだ。素知らぬ振りを決め込んで痛みもない振りをして…。
越境者にでもなったつもりか?
誰より苦しかった癖に、たった一人で何でもかんでも抱え込んでいなくなりやがって。
父親のした事を悔いて探偵になったのなら、たった一人で事件を片付けるなんて無茶はもうやめろ。俺と花屋敷が何とかする」
早瀬は何も言わない来栖から目を伏せた。
一度ついた言葉は、咳を切ったように溢れ出して止まらなかった。
来栖要は動かない。
身じろぎ一つせず、早瀬の声を聞いている。
鉄の壁越しでよかった。
今はこいつの顔をまともに見れそうにない。
まるで俺らしくない。こんな人情芝居は花屋敷の領分だ。
六年前、まさに花屋敷と三人で別れたあの後にこの男の周辺でどんな壮絶な出来事があったのか、今は想像する事しかできない。
しかし、早瀬にはこの男の気持ちが痛いほど伝わった。そう。この意地っぱりで強情でやさぐれた男は昔から何も、それこそ何一つ変わってなどいない。
花屋敷が一番気にかけていた理由も納得がいった。六年前から年齢を重ねていないような、この男の人相や風貌に。
六年ぶりに再会したこの男の赤いカラーコンタクトや、左手に嵌めた黒いグローブが何を意味するのか、早瀬にもまだわからない。今はまだ知る時ではないのだろう。
時に著しい精神的なダメージは、人間の成長や肉体的な時間を止めてしまう事すらあるという。この男が何のために探偵になったのか、いずれこの男の方から話してくれる時がきっと来るはずだ。
無神論者を自認する早瀬だが、今は誰よりもこの親友を信じることにした。
「生徒を助ける為の正当防衛だったとしても、お前は罪を冒した。とんだハードボイルド探偵だ。もう少し警察を…いや、俺を信用しろ。お前が何を怖れているのか知らないが、この事件は俺達に任せて頭を冷やせ」
早瀬は踵を返し、階段の方へと歩み出した。
その時。
「早瀬」
…カシャン!
格子の隙間から何かが飛んできて、早瀬の足元に転がった。
見るとそれは先程のライターと煙草だった。
早瀬はそれを拾い上げた。
煙草の箱の表面に何か細く、固いモノで殴り書きしたような文字が爪で彫ってあった。暗がりで今は無茶苦茶な傷にしか見えない。
アルファベッドだろうか。
しかし、もっと小さな文字の見慣れた配列だった。『htt』の最初だけ読める。後は光に翳さないと読めそうもなかった。
暗がりの中でもよく響く、明瞭な声で探偵は言った。
「ありがとよ…。コイツは餞別だ。俺に俺の真実があるように、お前の真実は、いつだってお前と共にある…」
そう言い残して闇は今度こそ完全に沈黙した。もう起き上がっては来ないだろう。
…なるほど。頭を冷やすのは、どうやら俺の方だったらしいな。
早瀬は不思議な色合いをしたライターと白い箱を握りしめると親友にそっと微笑みかけ、留置場を後にした。
これも、その日の数時間前の出来事である。
その日、職場の捜査一課に現れた花屋敷優介はいつにも増して不機嫌だった。
大柄な上に常日頃から異相といってもいい顔立ちの彼であるから、事情を知らない者が見れば、まるでヤクザの若頭が組の若い衆を今にも怒鳴りつけようとしているかのような面体である。
捜査一課にいた面々はいつもと雰囲気の違う彼の様子に何かあったな、と刑事の勘を働せつつ捜査資料を整理したり外部からの電話の応対をしたりといつも通りに淡々と情勢を見守った。
花屋敷は自分のデスクにどっかりと腰を落ち着けるなり、腕組みをした。
機嫌がいいのか悪いのか解らないのが常態の人間を相手にする場合、大抵の者はファーストコンタクトには特に気を配るものだ。
些細なことで上機嫌になったり不機嫌になったりする上に強面の顔立ちであるから、花屋敷優介という男は読みにくい男である。
とはいえ中身の方はすこぶる面倒見のよい性格の刑事だし、鈍重そうな外見に似合わず精力的でマメな男であるから別に付き合いにくいという訳でもない。
だからその日、神戸帰りの石原智美が土産のプリンだのゴーフルだのを片手に職場に現れた時は、捜査員一同は正直ホッと胸を撫で下ろしたものだった。
この気難しい大男を御せるのは世界広しといえど、相棒の彼女くらいのものだからだ。
「トモ…トモってば!」
制服を着た石原の同期の中川明美が自らの職務である事務整理をほったらかしにして石原がデスクにつくやいなや、刑事部屋の隅に彼女を引っ張り込んだ。
「ちょっ…ちょっと明美! なんなのよ、いきなり」
ほっそりした外見に似合わぬ強引な腕力で明美は石原の肩を掴むと机の陰に素早く屈み込んだ。
明美は刑事部屋の方をひょこりと首を出して刑事部屋の方を伺う。狐のように目が細く、同じく細身な体型が特徴的な事務員である。小柄な石原と違って背丈がひょろ長い。
彼女は手の平を口元にあて、井戸傍会議に訪れた近所の奥さんのようにひそひそと話し出した。
「ねぇ…花屋敷さん、今日もあの調子なの? なんかいつも以上に今日は不機嫌っていうか、ヤバくない?
…アンタ相棒でしょ。なんとかなんないの?」
世話好きでちょっぴりお節介な、自称捜査一課のマスコットガールを自認する彼女は先輩刑事の急激な変化がやたらと気にかかるらしかった。
石原は腕組みをしたまま動かない花屋敷の様子をそっと窺った。三日ぶりに会う彼女の相棒は、いつも以上に強面の仏頂面に磨きがかかっている。意外に深刻な事態なのかもしれない。
…そういう事か。
聡明な彼女は即座に事態を理解した。そして、心の中でそっと溜め息をついた。
捜査員の中には一昨日の事件と花屋敷とを結び付けて知っているのは、まだ限られたごく一部だけのようだ。
花屋敷と、今や現場で磯貝警部に代わる直上の上司となった早瀬管理官。
二人の大学時代の旧友が、目黒区で起こった傷害事件の容疑者として緊急逮捕されたのは一昨日の夜遅く、午後の10時を過ぎた時刻であったという。
容疑者の身元の確認作業は今後、被害少年達の事情聴取にあたっていた磯貝警部から引き継ぎ、今日は明美が立ち会う予定だった。
正直、石原は気が重かった。神戸で十二年前の事件の第一発見者である中谷老人に会ってきて、その思いはさらに増した。難解な事件の最中に舞い込んだ事件の確認作業ほど厄介なものはない。
容疑者は来栖要。27才。職業は私立探偵。
最初に磯貝や明美からの報告を聞いて、石原は驚くよりも先にまず呆れた。
事件自体はよくあるチンピラ同士や少年達による傷害事件の類だったようだが、この事件が他の事件と決定的に違うのは、集団リンチの加害者たるべき少年達を容疑者が全員返り討ちにしてしまった点である。
逆ではないのか、と石原は何度も念を押して確認した。
彼らのうちの何人かは凶器まで所持していたという。普通ならありえない。
だが、少年達の中には全治一ヶ月にも及ぶ深刻な骨折や打撲をしている者もいるらしく、けして絵空事や冗談の報告ではなかった。
加害者と被害者は、いきなり立場が逆転してしまった。
そして、突然の逮捕劇である。六年ぶりに再会した旧友を逮捕したのであろう早瀬と花屋敷の心痛を思うと石原も胸が痛んだ。
「本当にね~。警察官が身内を逮捕するなんてドラマじゃよく聞く話だけどさ~。花屋敷さんも大変よね~」
口の軽い野次馬な明美はまるで他人事である。
「そういう訳じゃないと思うけど…」
そう、この場合そうした問題ではないのだ。どうした所で、傷害事件だの正当防衛だの、犯罪を人間から切り離して考える事などできない。
捕まえたのは身内だとか、友人だけど捕まえたんだとか、社会正義を貫く為には仕方がなかったなどという難しい小理屈など、最初から意味はない。
今回の傷害事件は関わった人間が聖真学園の人間だったという点が問題なのだ。
本当の被害者というべきか、始めに不良達に絡まれていたのは成瀬勇樹という聖真学園の生徒だ。
また、不良達の中にも聖真学園の生徒は三人含まれている。要は事件は当所は、ただの学生同士のいざこざだったということだ。
少年達の自白や成瀬勇樹の供述もあり、来栖要の正当防衛は誰の目にも明らかであった。
聞けば管轄である渋谷警察署もオヤジ刈りやカツアゲ、空き巣やスリの常習であるスカーズというチームには手を焼いていたらしい。
来栖要は警察の一部では既に英雄視され、半ば感謝状すら授与されそうな勢いである。しかし、凶器を所持していたとはいえ相手は未成年である。過剰防衛の感は拭えない。
昨日の内に来栖容疑者の身柄は管轄である目黒警察署の地下牢に移送されていた。普通は保護室なのだろうが、あそこには今は使われていない、戦前の地下の独房があったはずだ。
早瀬警視がなんのために彼を出したがらないのかは分からないが、被害届が出ていない以上、長期の拘留は望めない。早いうちに出てくるのは間違いないだろう。
それにしても…。
また聖真学園か。
今回の事件といい売春事件といい、過去に不吉な殺人事件があったあの学園には何かしら因縁めいたように奇妙な事件を呼び込む性質でもあるかのようだ。
石原はあの学園に、まだ自分達も知らない、何かとてつもない秘密が眠っているような気がしてならない。
少年達の供述から明らかになった点が幾つかある。
まず、聖真学園には未成年の少女達による売春組織が確実に存在するであろう事だ。
早瀬警視から最初に捜査会議でも可能性は指摘されたが、少年達はドラッグを使って売春している女生徒達を恐喝材料にして学園側、あるいは少女達自身をゆすろうとしていたのは、ほぼ間違いないと思われた。
売春組織はヘブンズ・ガーデンという名前以外は目下調査中だが、客筋の中には社会的な地位にある人間も含まれているという。
学校側としても、警察にとっても、マスコミには絶対に知られてはならない一大スキャンダルといえた。
今回の事件発生時の混乱を知っているだけに、その思いはますます強い。
早瀬警視の行動は迅速だった。傷害事件に関する情報統制や警察内部の人間…いわゆる身内への箝口令まで含め、マスコミ関係者への余計な混乱は最小限に食い止められたといっていい。
今朝の朝刊各紙にも聖真学園の名前をすっぱ抜かれた様子はなく、目黒区で少年グループによる傷害事件があったという情報が流れた程度で、聖真学園の名前とドラッグの存在は今の所、公にはなっていないようだった。
今後、問題になるのは学園側の対応だろう。事は売春にドラッグである。徹底的に学園側が否定するであろう事は容易に想像できた。
「古井管理官は?」
「磯貝課長と一昨日の事件の情報収集。いきなり舞い込んだ事件だったから、かなり渋ってたわよ。ただでさえ被害者…ううん、この場合は加害者かな?
…ややこしいわね。悪ガキ共の人数の把握に時間がかかりそうだから。
…トモ、課長から伝言があるの。かなり参ってるみたいだから花屋敷さんの事、悪いけどよろしく頼むってさ」
彼女はポンと石原の肩を叩いてウインクすると、バネ仕掛けのように立ち上がり、刑事部屋の奥にある自分のテリトリーへとさっさと戻っていった。言いたい事だけ言って、後は丸投げである。
石原は考え深げに腕組みをして、アユタヤ遺跡の大仏のように目を閉じたまま動かない花屋敷を遠くから眺めた。
…さて、と。
石原は素知らぬふりをして自分のデスクへと向かった。花屋敷は向かいの席だ。
いちいち気を遣って考え込んでいても埒があかない。石原はわざとらしく大袈裟に背伸びをしてから自分の席についた。
「う~ん。夜中まで被疑者の身元を洗ってたらさすがに寝不足ですよ。…おはようございます、先輩。コーヒーでもどうですか?」
こんな所か。案の定、今までは周囲の物事はすべてシャットアウトといった様子だった花屋敷は『被疑者の身元』という言葉に、獣のごとくピクリと反応した。
「割れたのか?」
これである。朝の挨拶も、三日ぶりに会った後輩にも、質問に対する正しい応答という行動も、彼の心中では綺麗さっぱり度外視されている。猪突猛進という言葉は、彼の為にあるのだ。
「ええ、大体の所は。先輩は今日は昨日の事件じゃなくて私と一緒に学園での聞き込みでしたよね?」
「あ、ああ…。昨日の事件は外されたよ。できれば今日は本部から動きたくはなかったんだけどな。学園の方は目撃者なんて何人もいるし、いまさら現場付近から何か目新しい事があるとも思えないんだが…」
花屋敷は腕組みをしたまま再び考え込んでしまった。彼にしては珍しく煮え切らない態度である
「課長なりの配慮なんだと思いますよ。身内が被疑者と知り合いというのも微妙なものですから」
「微妙…か」
「ええ、微妙です。本部で早瀬警視を待ちながらヤキモキするより、動き回ってた方が余計な事は考えなくてすみますよ」
「そうかな」
「そうです。大体、先輩らしくないですよ。…考え込むより現場百回。
…刑事は迷わずに身体で証拠を探せ。歩いて調べて報告する。それから考えろ。
…自分一人で事件は動いている訳じゃない。歯車が正しく回っていれば、事件は自然に解決する。
…今、自分達ができる事をしようって、そう教えてくれたのは先輩ですよ?」
石原はわざと大袈裟に身振り手振りまで加えた。本当は磯貝警部がよく使う台詞なのだが、今の花屋敷には思いの外効果的だった。
目がギラギラと狩りをする獣のように光を帯び始めている。犯罪者という都会の闇に潜む獣を追い掛けるハンターは、必然的に犯罪者の顔よりも怖くなるのだ。
今、彼は猛烈に考えを巡らせている。石原はよく知っているが、迷っている彼は実は一人ぼっちにされた子供のように素直なのだ。
…可愛い性格なのにね。
古井管理官にコーヒーを庵れていた明美は『よくやった』とでも言いたげにガッツポーズをして微笑んだ。
人の気も知らないで。
「そうだな…。バカはとりあえず動いてみるしかないよな。
…よし! 聖真学園で聞き込み再開だ。あいつの…昨日の被疑者の身元については道々話してくれ。そろそろ行くか?」
「ええ、先輩とコンビで動くのも久しぶりですね。私も実は少し気になってる事があるんですよ。
…あ、今日は課長いないんで古井警視に報告しといてもらえます? 今、下に車を回してきますから。ところで先輩、朝ご飯まだじゃないですか? まずは取り敢えずコーヒーでもどうです?」
「ああ、今日は俺が奢るよ。…ところで石原。お前、いつ戻ってきたんだ?」
あっけらかんとした花屋敷の口調に石原は呆れたように溜め息をついた。
※※※
ひんやりと冷たい石の感触が光量の乏しい狭い空間を満たし、辺りには硬質な雰囲気が漂っている。
コンクリート構造の地下は音もなく、薄暗く、そして梅雨時だというのに渇いている。僅かに錆び付いた臭いがするのは何年も使われた形跡がないからだろう。
日の光など一筋とて射さぬ暗がりがひんやりと冷たく感じるのは、鉄格子が幾つも嵌まった独房というものが本来持つ退廃的な雰囲気によるものなのか、それとも目の前の男が醸し出す、独特の圧迫感によるものなのか、早瀬にはわからなかった。
獄舎の中の男は備え付けのベッドに行儀悪くも靴のまま寝転がっている。
右腕を枕にして、グローブの嵌まったもう片方の手は目を覆い隠すようにして寝ている為、表情はまったく窺えない。
全身黒ずくめのスーツを着た男の姿は完全に周囲の闇と同化してしまっている。
ひとしきり牢獄の全体像を眺め、早瀬は口火を切った。
「来栖要…。職業、私立探偵。1978年4月13日生まれの27才。目下、新宿歌舞伎町二丁目にて探偵事務所を営む探偵…」
早瀬は闇に向かって語り始めた。
「一昨年…つまり2004年から現在の事務所を構えるまでの期間は、現在調査中。
本籍、家族構成、素性等、一切が不明。
…ただし警察の公式記録ではかなりの有名人物。
昨年の秋、秋田県で、かの大富豪鬼頭家の別邸で起こった殺人事件を解決に導いた男。
また、その年の冬にも北海道のとある修道院で起きた連続猟奇殺人事件の犯人逮捕に大きく貢献している」
早瀬はそこで読んでいた資料を傍らの椅子に置くと、腕組みをして右手の親指と中指で眼鏡を押し上げる彼独特のクセをした。
「…さて、そろそろ話してはもらえないか。
一応、忠告しておくが、弁護士も呼ばず、黙秘権をただ行使するその行為は、いくら正統防衛でも自らの不利益を招くことになるぞ」
男は何も答えず、身じろぎ一つしなかった。眠っているようにも見えたが、抜け目のない男だから、おそらく早瀬の話は聞いているはずだ。
「面白い話をしよう」
早瀬は粗末なパイプ椅子を引き寄せて座ると、ひたすら牢屋の向こうでだんまりを決め込む男に構わずに続けた。
「そういえば、お前と同じ珍しい苗字の男がいてな。
来栖征司という名の建築家で、かつてはその奇抜で斬新な耐震構造のアイディアと独特の外装建築のデザインで数々のコンペを総なめにした、知る人ぞ知る建築業界の一大芸術家とも言われた男だ。…お前は知らないか?」
薄暗いコンクリートに早瀬の低い声だけが反響した。早瀬の問い掛けも虚しく、闇は動かない。早瀬は構わずに続けることにした。
「彼の手掛けた洋風建築はどれもこれも変わったものばかりだが、一つだけある共通点があった。
それは建物の屋上の窓に、必ずといっていい程嵌まったステンドグラスのことだ。
それもただのステンドグラスじゃない。デザインや施工、その他諸々まで彼が手掛けた、言ってみれば彼のアーティスト性を物語る、一枚の絵という話だ。
今では建築物ともども来栖コレクションなどと呼ばれ、あちこちの好事家達の間で高い評価を受けているそうだが…。
このステンドグラスというのがまた変わった代物だそうでな。まぁ、いつの時代も天才というのは余人には理解の及ばない世界を作り出すものらしい。
…おや、ほんの少し興味が出てきたか?」
傍らで沈黙する闇の中、僅かに牢獄の黒い影が蠢いた。
※※※
「午前いっぱい潰して学校中で聞き込みしても、結局思ったほどの収穫は得られませんでしたね…」
まだ真新しい緑色の金網に手をかけて石原はそう呟くとふうっと、か細い溜め息をついた。
彼女の隣にいる花屋敷は、売店の自動販売機で買った冷たい缶コーヒーをゴクリと喉を鳴らして飲んだ。
「あの日、グラウンドにいた生徒達。職員室以外の場所から事件を目撃した教師達や事務員に図書室の司書。
とりあえず川島由紀子が飛び降りた時の目撃証言を集めるのは、これ以上は意味ないってことだけは確認できたな」
花屋敷は倦み疲れたようにそう言うと、大きな背中で寄り掛かるようにして金網に身体を預けた。頼りないフェンスはギシリと軋んだ悲鳴を上げた。
事件が始まった日と同じように、石原と花屋敷の二人は再び現場となった聖真学園の屋上を訪れていた。
本格的な夏も近い眩しい日差しの中、さあっと一際涼しい風が一陣、屋上を吹き抜けていく。
『KEEP OUT』と黒字で書かれた黄色いテープはもうドアから外されており、授業中とあってか辺りに人影はない。
どこか遠くから生徒達の明るい声が聞こえてくる。体育の時間なのだろう。
思い思いのTシャツにジャージ姿の女生徒達がキャアキャアとはしゃぎながら校庭へと駆けていく姿が屋上から望めた。
花屋敷はどこか眩しそうにその姿を眺めた。
「不思議なもんだよな」
花屋敷は唐突に、ボソリとそう呟いた。
「何がですか?」
「あれだけの事件があったってのに、生徒達は至って普通に学校生活を送ってる事が、さ。俺も刑事になって四年になるけど、今時の学生ってのは自分と同じ学校の生徒があんな死に方をしても一週間近く経てば、あんなふうに無邪気に笑えるものなのか?」
「あんな死に方をしたからじゃないですか…?」
石原は風に散った自分の髪を手櫛で撫で付けて花屋敷に答えた。
「どういう意味だ?」
「いくら不可解な死に方をしたとはいえ、大半の生徒は川島由紀子は自殺したと思ってるんですよ。少なくとも親や教師達からはそう聞かされてますから。
『悲しいけどお前には関係ない。忘れろ』と繰り返し聞かされるんです。
…同級生やクラスメートだって同じだと思いますよ。いくら悲しんでも胸の痛みを誰かに叫んでみても自殺と聞けば誰だって…そりゃあ悲しいし辛いんでしょうけど、結局は沈黙する以外ないんじゃないですか?
自分と直接関わりのない誰かの死は、結局は突然の事故と変わりないんです。
自分は自分だし、これからも生きていくし、後ろばかり振り返っていられない。
そう言い聞かせて忙しい日常に戻りながら、少しずつ忘れていくのが普通なんですよ、きっと…」
石原はどこか遠くを見るような目で明るい生徒達を眺めていた。青春真っ盛りといった、どこにでもいそうな生徒達の姿は夏の日差しの下で眩しいくらいに輝いて見えた。
現代の若者と一言で言ってしまえば簡単だが、石原はそうした括り方があまり好きになれない。
援助交際や未成年者による犯罪は若者達を取り巻く負の部分だけを切り取って、メディアがやたらとクローズアップして報道するゆえに歪曲して見えるだけに思えるのだ。
事件の前には高校生も社会人も関係ない。大衆という幻想に紛れた途端、全体としての形状が歪んで見えるだけの事で生徒一人一人、やはり大人と同じように違うものだ。
常日頃から呆れるほど様々な事件を追い掛けている刑事の石原が思うに、犯罪の多くは日常の延長でしかなく、けして逸脱した異常なものではない。
まともな人間がまともでなくなる瞬間がある。石原は常にそうしたスタンスで事件に臨むことにしている。
ありえそうもない事件の動機ほど実は日常の中では当たり前な、些細な感情の振幅がきっかけだったりもするのだ。犯罪を自分とは無関係な、いわばケガレとして払い落とすような行為は真実に目をつぶる行為と同じだと思うのだ。
高校生だろうと中学生だろうと道を踏み外す事もあるだろうし、挫折だって味わうに決まっている。彼らは子供でもなく、かといって大人でもなく、曖昧で限りなくマージナルな存在でもあるからだ。
石原がまだ高校生の頃、同じクラスの男子が自分の運転する自動車の事故で死んだ。
かなりの速度超過の上に急カーブを曲がり切れずに車は大破。彼は即死だった。
彼の遺体は顔の原形がなくなるほどにひしゃげ、胴体に至っては半分から千切れ、内臓まで飛び出していたという。
卒業も間近に控えた18才。
同級生の誰よりも早く免許を取って喜んでいた矢先の悲劇だった。彼に車を貸し与えた両親は深く悲しみ、母親は葬儀が終わってしばらくの後に走ってきた電車に飛び込み、自殺した。
悲しい、辛いというよりも人の死というモノがあまりに呆気なく、そして素っ気なく感じたものだった。
見知らぬ土地に一人ぼっちで置き去りにされたような喪失感。胸にぽっかりと隙間ができたような堪らない虚しさが残った。
石原はその当時の、今でも胸が痛くなるような記憶を思い出していた。
花屋敷はそんな後輩の話を、ただ静かに聞いている。
彼女の表情の裏に隠された悲しみを察してか、穏やかに向けられた眼差しが24才にしては、まだあどけない顔立ちをした相棒の表情を真剣に捉えていた。
「お前自身はどう思ってるんだ? この事件…。
17才の少女がいきなり狂ったように笑いながら学校の屋上から飛び降りて死ぬ。普通じゃ考えられないようなこの事件を。…この台詞、あの日に警部にも聞いた事だけどな」
「そうですね…」
石原は即座に刑事の顔になると、片手を握りこぶしにして顎の辺りにあてた。何かを考え込む時によくする自分のクセだ。
「いい機会ですから、少し状況を整理してみましょうか。私は実を言うと自殺説に関しては半分、肯定的なんです」
「半分? そりゃまた新説だな。どういう意味だ?」
花屋敷は怪訝な顔つきで石原に問い掛けた。
「その前に…。先輩は、今回の事件をわからなくしている一番の原因は何だと思いますか?」
「…あん? そりゃお前、自殺なのか他殺なのか未だにはっきりしないからじゃないのか? 死因だって異常というしかない。
…なにしろ何人もの人間が狂ったように笑って自ら飛び降りる川島由紀子を目撃してるんだぞ?」
「それですよ」
「はぁ?」
花屋敷は酸っぱい物を口にした猿のように眉毛をひん曲げた。いきなりそれですよ、などと言われてもわかりはしない。この場合、はぁくらいしか受けはないだろう。
「先輩、もし今回の事件…川島由紀子をたくさんの人達が見ていなかったとしたら…どうなっていたと思いますか?」
「はぁ? その仮定はいくらなんでも無茶だろ。実際、彼女は何人もの人間に同時に見られてるんだぞ。誰も見ていないなんて…」
「いいんです」
石原は花屋敷を制した。
「遺留品などの証拠は一端横にのけておいて、結果に捕われずに考えてみましょう。
…どうなっていたと思います?」
「うーん…川島由紀子を誰も見ていなかったとしたら…か。そりゃ即座に、今以上に早く自殺と断定されたんじゃないのか?」
「どうしてです?」
「そりゃそうだろ。だいたい自殺なんての本来、誰も見てない所でするもんで…あっ!」
花屋敷の細い目がいきなり大きく見開かれた。頭を思わぬ所から殴られたような表情だった。花屋敷の釈迦のようにめずらしく見開かれた目は、目の前に立つひょろ長い建築物だけを捉えていた。
「先輩も気が付きましたね」
いきなり明後日の方向を見て固まった花屋敷に向け、石原は子供のようにニッコリと微笑んだ。
「そうなんです。
ここは自殺するにはあまりに中途半端で不向きな場所なんです。屋上は確かに普通だったら自殺には最適な場所です。
…誰もいない時間帯を見計らって、私だって人知れずこっそり死のうかなって考えるかもしれない」
花屋敷は相変わらず動かなかった。今の冗談には熱くツッコミを入れて欲しかったのだが、そんな余裕はないようだった。
石原は構わずに続けた。
「ここは金網があるのに、遠くからもグラウンドからも中庭からも360度丸見えなんです。なぜかと言えば、理由は嫌でも目につくあの時計塔のせいです。暇があれば人は時計を探して見るものでしょう。
ドラマによくあるワンシーンのように『私に近づかないで!来たら死んでやるから!』なんてシチュエーションでも期待してない限り、よほどの事がなきゃ自殺にこんな場所は選びません。
…実はあれ、投げやりで自暴自棄な感情が働く裏で止めてほしいって願望も働くからだって知ってましたか?
ああ…それはまぁいいか。
…とにかく、川島由紀子が未だに自殺だと断定できない最大の理由は、まず現場自体が不可解であるという事。これがまず第一点。
さて…ここから次の段階に進みましょう」
「次は俺に任せろ。
俺の嫌いな二時間ドラマのワンシーンをなぞるみたいでムカつくけどな」
花屋敷は明後日の方向からようやく戻ってきた。ついでに、持っていた缶コーヒーの空き缶を彼は自慢の怪力で握り潰した。
「こんな目立つ屋上に誰かが一人でいたとしたら、普通なら誰だって止める。けれど、この学園ではそんな理屈は通用しない。
…なぜか? 聞く所によれば、あの時計塔の一階部分は学園資料館がある。いわば客寄せの見世物になってる訳だ。だからこの学校に関しては屋上に一人二人誰かがいても、誰も不思議には思わない。
…ところでよ、普通じゃない見世物小屋ってのは、実は金持ち達の間じゃ今でも公然と行われてるって知ってるか?
ああ…それはまぁいい。
とにかく、いきなり女生徒が金網に座ってたから周囲はびっくり仰天した訳で、ここにいた事自体は何も不自然な事ではない。
…では、なぜ彼女は目の前に飛び降りるのにはとても便利で外からはレンガ造りで決して見えない、あのひょろ長い時計塔の方を選ばなかったのか?
…これが次に進む第二段階という訳だな」
花屋敷はニヤリと微笑んで石原にパスした。彼女は微笑んで花屋敷のパスを受け止めた。
刑事は捜査において推理をあまりしない。情報は互いに共有しあうのが警察の捜査だ。身内を出し抜くような真似は混乱するだけだ。
論理の穴や矛盾を指摘するのは、上の仕事だ。
何をするにも本部の判断と指示を仰ぐのが普通の刑事だ。だからサラリーマンと同じだとよくいわれるのだろう。
だが、この基本的なディスカッションを二人は重視していた。これも磯貝警部の教えの一つである。
二人はまるで導かれるようにして、その漆黒の塊のごとき堅牢な建物へと歩んでいった。
「ええ、では次の段階に進む事にしましょう。幸い推理の材料は二つあるようですから。
まず彼女の遺留品の手帳から判明した『16時に時計塔。魔術師に会う』という文面です。この事実から、川島由紀子は時計塔で誰かと落ち合う約束をしていた可能性が浮上します。魔術師というのが誰なのか、そして何のキーワードなのかは一端、保留しましょう。
ただし、少なくとも川島由紀子は『例の件どを確かめる。これが事実なら狂ってる。この学園が危ない』と自らの手帳に思わず漏らしてしまうほどの相手ではあったはずです」
「その通りだな」
「普通なら誰かと約束する場合、当然持っていくはずの携帯電話を彼女は教室に忘れています。
たんに忘れただけと言われたら身も蓋もありませんが、これは今時の女子高生の行動にしては全くない訳じゃありませんが、少し妙な気がします。となると当然、次の可能性が浮上してきます」
彼女は花屋敷に意味ありげな視線を送った。花屋敷はすぐにピンときたようだ。
「ああ、彼女が携帯をわざと持っていかなかったとした場合だな。それは発着信履歴や通話記録が残っては困るような会話を誰かと交わす予定があったか、あるいは短時間で済むような、けれども内緒にしておきたい話を誰かとする予定だった。…そういう事だな?」
「ええ、そして彼女の死亡推定時刻。
…いえ、たくさんの人に同時に目撃されている訳ですから、この場合は死亡断定時刻ですね。これが時計塔の鐘が鳴って間もない16時37分です。
それにしても変わった学園ですよね?
ちゃんとチャイムがあるのに、朝と放課後を知らせる時は時計塔の鐘ですからね。
夕方は16時35分なんて妙に切りの悪い時間に鐘が鳴るし。生徒の中には時間を取り違えて40分に鐘が鳴ったと勘違いした生徒が何人かいましたよ。
…さて、16時に誰かと時計塔で落ち合ったはずの川島由紀子は37分後に、いきなりさっき私達がいた金網の上に座って、狂ったように大笑いしていた訳です」
二人は時計塔の前に至った。
改めて間近で見ると、ひょろ長く見える外見とは裏腹に驚くほど重厚な構造をしているのがわかる。
監獄の入口にいるみたい。
石原はなぜかそんな風に感じた。札幌の時計台をモデルにしたという話だが、あの歴史ある建造物の持つ独特の重厚さと、街のど真ん中に建ちながらもどこか人間味のある静謐な荘厳さが、この塔からは少しも感じられなかった。
この不安定な場所に立つ塔から受ける印象は、どちらかといえば圧迫感に近い。それも監獄や収容所の監視塔のような雰囲気だ。
隣の花屋敷もじっと細い目を懲らすようにして、夏の強い日差しの中でも黒々とそびえ立つ、塔の頂きを見つめていた。
白い文字盤のさらに上、頂上にあたる屋根部分は螺旋状に階下から階段が延びているのが下から望めた。塔屋は教会の鐘部分のように狭いものではなく、ちょっとした部屋といってもいい広さはある。
時計塔は高さにして25メートル。ちょうど川島由紀子が墜落した校舎前のアスファルトくらいまでの距離はゆうにありそうだった。
ビルの真下を通る時のように風が強い。二人は足を止め、黒々としたレンガ作りの時計塔の真下へと近付いた。
花屋敷は忌ま忌ましそうな表情で塔を見上げて言った。
「お前がさっき、川島由紀子の自殺説に関して、半分は肯定的だと言ったその意味がわかったよ。
彼女が自分から飛び降りたという事実は間違いない。それをして自殺というなら確かに自殺だ。しかし、何かしら引き金になるような出来事が必ずあったはずだ。でなきゃ前後の辻褄が合わない。
だいたい普通の女子高生がいきなり金網の上に座りながら高笑いを続け、最後には自分の命を支えてる金網を自分自ら蹴り飛ばして墜落する。こんな異常な事件はありえない…」
『きゃはははっ!あはは!あーっはっはっははっはっはっはっはっはっっ!』
石原も真剣に頷いた。
「ええ…何かがあったんですよ。あの日、この場所で…。まともな人間を狂気に誘い込み、自分から死んでしまうような、そんな魔術としか思えないような仕掛けが…」
花屋敷は重そうな銅製の輪の取っ手がついた両開きのドアの前に至ると、躊躇わずに門扉を開けた。
キィッと硝子を引っ掻いたような厭な音を立て、扉は開かれた。
見ための重厚さに反して、観音開きの門は意外にあっさりと開閉できるタイプの扉のようだ。
「12年前の災厄はすべてこの塔に繋がってる。今回の事件もな…。行こうぜ、石原」
「…はい、先輩」
二人は僅かな暗がりが広がる闇の中へと足を踏み出した。
※※※
「災いのアルカナ…。幻視のタロット…」
ボソリと闇が呟いた。
その声はぞっとするほど冷たい音となって暗い地下に響き渡った。漆黒の闇の中、男はようやくその時とばかりに沈黙を解いた。
「親父はな…来栖征司という男はその昔、大学に在学していた時は建築学を専行していたが、元々は画家を心指していた男だ。
本格的な洋風建築に興味が移り変わったのは、あの時計塔の施工から数えて一年半くらい前…1991年頃の事だと聞いている。
それまでの親父は、祖父や先代が遺した遺産を食い潰して生きているだけの金持ちのボンボンで、道楽で建築家の仕事をする傍ら、趣味の油絵ばかり描いているような変人だったのさ」
闇の中、男は黒いスーツの懐に手を入れて何かを探っていたが、すぐ何もない事に気付き、チッと舌打ちをした。
早瀬は新品のセブンスターと彼愛用の不思議な色合いをしたライターを、ドアのある鉄格子の隙間から中へと差し入れた。
「…いいのか? ここは警察署だぞ。留置場の中は禁煙なんだろ?」
「係員には伝えてある。どうせ誰も使わない施設だし昔の代用監獄の名残だ。
…気にせず続けろ」
早瀬は格子のついたドアの前で腕を組みながら、獄舎の中の探偵の様子にじっと耳目を傾けていた。
ピンという金属音と共に続いて微かにボッという音がした。
闇の中、怪しい深紅の瞳が浮かび上がった。
来栖要は紫煙を深く吸い込み、ふうと吐き出した。
「聖真学園のあの時計塔は親父が…建築家、来栖征司が手掛けた一番最初の仕事という事らしい。
…ところで、お前は神だの迷信だのは信じるクチか?」
いきなりの問い掛けに早瀬は目を細めた。
「いきなり何を言いたいのかは知らんが、俺は筋金入りの無神論者だよ。
あいにく神も仏もない、信じるだけ無駄な世界にいるものでな。神だ仏だを利用する、ふざけた教祖や狂信者のいる宗教絡みの事件に関わるのがせいぜいだ」
「だろうな。俺だってそんなもの鼻毛の先ほども信じちゃいない。
神だ仏だ悪魔だ妖怪だと、不粋な世の中ではいつだってそうした繰り言は怪しい作り事か、さもなくば迷信か嘘だと断じられる。本気にすればするほどに狂人扱いされるのが関の山だ。
でもな早瀬…不可知なるモノ、得体の知れないモノや神秘的なモノに理由や名前を与え、意志を架託する事で不安を取り除くという方法論はいつだって、どんな時代だって変わりはしないんだぜ。
人はどこかで不思議を作る事で、辻褄を合わせ、世の中と正しい折り合いをつけているんだ。信じる者は救われるというが、人はただそれだけで存在している訳じゃない。
家族や友人、恋人といった人間関係。あるいは宗教や迷信や占い。仕事。趣味。金。法律。あるいは神や悪魔…。人は信じる事で何かを得ているのは間違いない」
「話がまるで見えんな。
あいにく科学的な思考というヤツがどっぷり身についてる俺には、お前のそうした繰り言こそ狂気の沙汰としか思えんぞ」
「クク…俺が狂ってるって? ククク…そいつはいい!」
静止した闇の中、微かに空気が震えた。獄舎の男は再び雄弁に語り始める。
「科学的思考とて、科学を信仰してるのと変わりないんだぜ。お前もそうした意味では完全な無神論者とはいえない訳だな」
「…何が言いたいんだ?」
早瀬は僅かに苛立った。
「人は完全な嘘つきにはなれないという事さ。頼るもの、信じるものなくして現代の社会と切れて生きていけるほど人は強くない。
俺達の住むこの社会は、最初から人間の欲望を丸ごと取り込んで利用し、消費し、拡大していく実に都合のいいシステムになっている。
…だが一方で、そうしたシステムからは切れ、定められた枠組から抜け出し、はみ出して、どこまでも自由でありたいと願う意志もまた存在する…」
「信じる事とはまったく対極の方法で社会と関わる者…たとえば、この世界を呪うことに喜びを見出だす者もいるかもしれない。
…そういう意味か?」
「そうだ。来栖征司って人殺しはな、六年前に自分と繋がる一族、そして無関係な人達を巻き添えに皆殺しにして自分が死ぬ瞬間まで、悪意と憎しみを込め、狂気の種をこの世界にばら撒いていった、この世で一番最低の屑野郎だ。…来栖コレクション?
…ハッ! 笑わせるぜ。あんなものがあるから怪しい迷信が後を絶たなくなるんだ」
「その怪しい迷信の話は俺も聞いた事がある。…もっとも、俺が知っているのは聞くに耐えないただの都市伝説。考える事自体、馬鹿げているような風聞の類なんだがな…」
早瀬の反応に闇は沈黙した。早瀬は内心の動揺を抑え込んで続けた。
「これも奇妙な噂話さ…。
来栖征司の手掛けた建物は、まるで予言めいたように災厄に見舞われる、というものだ。
それらはステンドグラスや天井の壁画をタロットカード仕立てにした一風変わった代物で、美術品としても相当に価値のある物という事らしい。
かのインドのサラスヴァティの涙や、アフリカのブラッド・ダイアモンドのように災いを呼ぶステンドグラスなのだという。
無論、そんなあり得ないような噂が真実なのかどうかは、俺も知らんがな」
暗闇の中で、煙草の火が微かにジジッと音を立てた。獄舎の中で探偵は煙草をくゆらせている。
早瀬は改めて罪悪感にも似た、いたたまれない気分になっていた。今ようやくわかった。
なぜこの男が法に触れてまで、この事件に固執するのかが。
「この、馬鹿野郎…!」
一際大きく空気が震えた。早瀬は自分らしくもなく、胸のわだかまりを始めてこの男に晒け出して、ぶつけてやりたくなった。
「お前は馬鹿だ。どうしようもない強情っ張りな大馬鹿だ。…なぜ六年前、俺達に何も話さずにいなくなった?
お前はいつだってそうだ。素知らぬ振りを決め込んで痛みもない振りをして…。
越境者にでもなったつもりか?
誰より苦しかった癖に、たった一人で何でもかんでも抱え込んでいなくなりやがって。
父親のした事を悔いて探偵になったのなら、たった一人で事件を片付けるなんて無茶はもうやめろ。俺と花屋敷が何とかする」
早瀬は何も言わない来栖から目を伏せた。
一度ついた言葉は、咳を切ったように溢れ出して止まらなかった。
来栖要は動かない。
身じろぎ一つせず、早瀬の声を聞いている。
鉄の壁越しでよかった。
今はこいつの顔をまともに見れそうにない。
まるで俺らしくない。こんな人情芝居は花屋敷の領分だ。
六年前、まさに花屋敷と三人で別れたあの後にこの男の周辺でどんな壮絶な出来事があったのか、今は想像する事しかできない。
しかし、早瀬にはこの男の気持ちが痛いほど伝わった。そう。この意地っぱりで強情でやさぐれた男は昔から何も、それこそ何一つ変わってなどいない。
花屋敷が一番気にかけていた理由も納得がいった。六年前から年齢を重ねていないような、この男の人相や風貌に。
六年ぶりに再会したこの男の赤いカラーコンタクトや、左手に嵌めた黒いグローブが何を意味するのか、早瀬にもまだわからない。今はまだ知る時ではないのだろう。
時に著しい精神的なダメージは、人間の成長や肉体的な時間を止めてしまう事すらあるという。この男が何のために探偵になったのか、いずれこの男の方から話してくれる時がきっと来るはずだ。
無神論者を自認する早瀬だが、今は誰よりもこの親友を信じることにした。
「生徒を助ける為の正当防衛だったとしても、お前は罪を冒した。とんだハードボイルド探偵だ。もう少し警察を…いや、俺を信用しろ。お前が何を怖れているのか知らないが、この事件は俺達に任せて頭を冷やせ」
早瀬は踵を返し、階段の方へと歩み出した。
その時。
「早瀬」
…カシャン!
格子の隙間から何かが飛んできて、早瀬の足元に転がった。
見るとそれは先程のライターと煙草だった。
早瀬はそれを拾い上げた。
煙草の箱の表面に何か細く、固いモノで殴り書きしたような文字が爪で彫ってあった。暗がりで今は無茶苦茶な傷にしか見えない。
アルファベッドだろうか。
しかし、もっと小さな文字の見慣れた配列だった。『htt』の最初だけ読める。後は光に翳さないと読めそうもなかった。
暗がりの中でもよく響く、明瞭な声で探偵は言った。
「ありがとよ…。コイツは餞別だ。俺に俺の真実があるように、お前の真実は、いつだってお前と共にある…」
そう言い残して闇は今度こそ完全に沈黙した。もう起き上がっては来ないだろう。
…なるほど。頭を冷やすのは、どうやら俺の方だったらしいな。
早瀬は不思議な色合いをしたライターと白い箱を握りしめると親友にそっと微笑みかけ、留置場を後にした。
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