暁の魔術師

久浄 要

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急がなければ…!

勇樹は走っていた。
駆けて駆けて駆け続けていた。

怒り。焦り。不安。

様々な感情が、ない交ぜになっていた。頭の中が沸騰しそうで、もう何も考えられなかった。勇樹は自分の愚かさを呪いながら、ただひたすらに駆けていた。

目黒川沿いの土手の上を、死に物狂いで二キロは走ってきただろうか。

先ほどまで周囲を束の間、真っ赤に照らしていた夕焼けの代わりに、今や黒々とした不穏な暗雲は空一面を覆いつくしていた。

恐ろしく風が強い。

気持ちばかり逸る。

走れども走れども、腕といわず脚といわず、全身の筋肉はおこりがついたように焦るばかりで、ちっとも前に進んでいる感じがしなかった。

悪意に満ちた突風に、後ろから襟首を掴まれて阻まれているような感覚だ。

頭を無茶苦茶にかきむしった後に『しまった!』と突然叫び、事件現場へと慌てて走っていく金田一耕介は多分こんな気持ちだったのだろうか。

ふと、来栖要の端正であの無表情な顔が頭をよぎった。

まさか…。

『楽園の花園からお迎えが来るはずだ』

『このまま放っておけば、また人が死ぬぞ!』

この事だったのか。

勇樹はようやくわかった。

来栖はきっと、こうなる事を予期していたに違いない。

吐く息も荒く、勇樹は街を駆け抜けた。

学園の女生徒達に人気のある屋台のクレープ屋が見えた。走り過ぎる。

今度は買い物袋を手にしたおばさんの一人と危うくぶつかりそうになった。買い物袋からスーパーの惣菜が飛び出しそうになった。

「ごめんなさい!僕、急いでるんです!」

勇樹はすれ違い様に慌てて謝り、走り過ぎた。おばさんは立ち止まりながら、勇樹をひどく不思議そうに見つめていた。

いつも通学に利用するバス停通りを抜けると、今度は一直線な坂道にさしかかる。恋人坂と呼ばれている坂道だ。

実際の名前は、もっと別の名前だったように思う。春に満開になる桜並木を意中の人と二人で並んで歩けば、その人と結ばれるとかいう噂がある坂道だ。

まるで愚かな勇樹を嘲笑うように何台もの車やバイクが脇をすり抜けていく。強風も手伝い、その度に華奢な勇樹の体は吹き飛ばされそうになった。

神経を逆撫でする轟音とアスファルトの磨滅する匂いがした。心臓が苦しく、肺が嫌な匂いの排気ガスで充たされる。

普段、慣れ親しんでいるはずの学園までの道のりがこれほど遠く、これほど長く感じた事はない。

勇樹は額の汗を拭った。汗ばんだ背中がやたらと気持ち悪い。ブレザーを脱いでくればよかったと、勇樹はひどく後悔した。

薄暗い坂道。

後ろへ流れる周囲の景色。

日常と非日常。

まるで、違う世界に入り込んだしまったように薄暗く、人のいない恋人坂は異世界への入口にさえ思えた。

道路のわだちに足を取られ、勇樹は危うく躓きそうになって、勇樹は前のめりにバランスを崩した。

「クソっ…!」

坂の中程で立ち止まり、勇樹は胸を抑えた。

焦りと苛立ちがさらに募る。

心臓は、今や別の生き物のようにドクドクと高鳴っていた。

傷つき、壊れたCDのように世界が嫌な音を立ててグルグルと回っている気がした。

耳鳴りがする。

目がチカチカした。

勇樹は膝に手をあて、暫し俯く。真横を大型のトラックが猛然と音を立てながら走り去っていった。

額から滝のように吹き出してくる自分の汗が顎や唇から滴り落ちて、黒いアスファルトに点々と消えていくのを勇樹は他人事のように呆然と見つめていた。

じっとりと湿り気を帯びた不快な強風は、恋人坂の道に吹き荒れていた。

体中が暑い。しかし、焦燥感に支配された思いは勇樹を悪寒に駆り立てた。

勇樹は空を仰いだ。

形容し難い曇天どんてんが暗く、重苦しく頭上に浮かんでいた。いきなり立ち止まって見上げたせいか、立ち眩みがした。

警察による事情聴取や怪我の打ち身や疲労。連日のゴタゴタは疲れ知らずの勇樹から根こそぎ体力と気力を奪っていた。

吹き荒ぶ風のせいで景色は歪み、視界が滲む。完全に視野狭窄しやきょうさくに陥っている。

マズい…。黒に近い灰色の雲の流れが驚くほど早い。上空を吹く風は強く、暗い空の向こう側は、微かに不穏な唸りを上げ始めている。雷が近いのだ。

ブレザーのポケットから携帯電話を取り出して、勇樹は時刻を確認した。液晶のデジタル表示に示された『PM16:37』の文字。

待ち受け画面に設定してある写真には、屈託なく微笑んでいる奈美と勇樹の姿が変わらずに写り込んでいた。今やもう何十年も前の過去の出来事のようにさえ思える。

…いつからこんな、非日常に足を踏み入れてしまったのだろう?

勇樹は思った。

闇は光のない所にあるとは限らないのだ。

闇は常にそこかしこに口を開けている。

見ないふり、気付かぬ振りでいられるうちはまだいい。何者かのくらい悪意に満ちた心の闇を覗いた時、当たり前だと思っていた日常は呆気なく崩壊し、人はこうして、いとも簡単に壊れてしまうのだ。

緊張で携帯を握りしめる手が、ぶるぶると震えた。急がないと…!

勇樹は呼吸を整え、鬱蒼とした林に覆われた坂の上を睨みつけ、再び薄暗い坂を駆け上がった。

チクショウ!何でこんな事になるんだ!

黒々と果てしなく続く暗闇を駆け上がりながら、勇樹はほんの少し前…数時間前の出来事を思い返していた。


※※※

「…事件の経緯は、まぁそういった所だったようでしてね」

そう言うと、鬼瓦のような厳つい顔立ちをした刑事はすっかり冷め切った茶を飲み干して、勇樹の母親へとクルリと180度、回転椅子ごと体を向けた。年齢は40才前後といった所だろうか。かなり大柄な男だ。

太い眉にエラの張った四角い顔。針ネズミのような固そうな髪を短く刈った特徴のある濃い顔立ち。左耳がひしゃげて潰れている所を見ると、柔道の心得があるのかもしれない。

頑健で大柄な体格といい、あの花屋敷という刑事にどこか似ていると思った。

「成瀬君も怪我をしていたようでしたが、幸い軽い怪我だったようで、我々が保護した時には既に怪我の治療は済ませていたようでした。実際かなりややこしい事情が背景にあったようでしてね」

「まぁ、そうだったんですか…。勇樹がまた何か仕出かしたのかと思って私、不安で仕事先からすっ飛んでまいりました。
…事情聴取っていうんですか? 他の刑事さんも、何度も同じ事を聞いていたようでしたから…」

勇樹の母親の成瀬美奈子は先ほどからの平身低頭に加え、後ろの椅子に座っている勇樹の方をチラリと見た。勇樹は意識的に母親と視線を交わすのを避けた。

勇樹は俯きながら、どこか他人事のように先ほどからのやりとりを聞いていた。

ああ、そういうことでしたか、と言って鬼瓦のような顔をした柏崎刑事は手にしたノック式のボールペンを忙しそうにカチカチと弄びながら美奈子に言った。

「こうした事件の場合、被疑者の供述と被害者の供述に矛盾する点がないかどうか、しつこく尋ねるのは、まぁ我々警察の常套手段でしてね。色々と気に触る所はあったと思いますが、交通事故の処理などと同じで、ただの確認作業ですから、心配には及びませんよ。
なんにせよ、とりあえず事情聴取はこれでおしまいですから」

柏崎の言葉に、美奈子は心底ほっとしたようだった。

「そうですか…。あの…つかぬことを聞きますが、これから自宅や私の職場…それに、この子の学園に警察の方が訪ねてくるというような事はないんでしょうか?」

これだ。勇樹は呆れた溜め息と共に自分の前髪をふっと吹いてやった。大人は結局いつもこうなのだ。

心配させないでね、誰かに迷惑をかけないでね、と常日頃からしつこいくらい親達が子供に言うのは結局、世間的な体面を気にするせいなのだ。

こんな時の親達の言動は八割方、自分達に累が及ばないかどうかの一点だけだ。

残りの二割が多分、親の責任だとか社会的な義務感だとか、多分そういうヤツなのだ。

もちろん、勇樹とて母親の理屈を理解できないほど子供ではないが、こうした大人達の慎重過ぎる言動は、どこか言い訳じみて聞こえるから、うんざりする。

勇樹は自分を助けたせいで捕まってしまった、あの探偵のことを思った。

両親以外に兄弟もいない一人っ子の勇樹には、あの偏屈で取っ付きにくい男は一時ではあるが、まるでどこか兄のように感じてもいたし、いつも近くにいる美奈子よりもよほど信頼できる人物のような気がした。

近くの家族より遠くの他人。

そう感じるのは、やはり家族としてどこか壊れている証拠なのだろうか?

勇樹はそう考え、少しだけそんな自分が厭になった。

憮然とする勇樹に追い討ちをかけるように、美奈子は余計な事まで言った。

「普段は女手一つで色々と目に届かない所が多いものですから…。警察が関わる事で世間から色眼鏡で見られはしないかと…」

「ああ、その点に関しては今後はそういった心配はいりませんよ。我々が関わるのはここまでですから、成瀬君に何らかの不利益が生じるという事はないと思います。その辺は、お母様もどうかご安心下さい。
少年犯罪の絡んだ事件とはいえ、成瀬君はそもそも被害者ですし、別件…まぁ、この場合は傷害事件の方なんですが、そちらの方が先ほどから申し上げているように、少し込み入った事情がありましてね…。
少年犯罪が絡む事件も、本来なら生活安全課の仕事なんですが、刑事事件となると、これはもう我々の管轄になるんです。
その事件の目撃者でもあるという事で、我々警察も調書の作成に多少、手間取っていたというだけの話なんですよ」

「まぁ…そうだったんですか。本当に色々とご迷惑をおかけしたようで、本当にすみません。…ほら勇樹、あなたも刑事さんにお礼を言いなさい」

母親は勇樹の制服の袖をつんと引っ張って、無理矢理頭を下げさせた。自分でも無意識に、ふてくされた表情になっていた。

こんな経験は小学校の時以来だった。ケンカで泣かせてしまったクラスの友達の親に謝りに行った時の事だ。あの時は、父親が一緒だった。

制服を着た警察官やスーツ姿の刑事達がチラチラとこちらを見ているのがわかった。

こうしたシチュエーションは彼らにとっては、もうお馴染みの光景なのかもしれない。

母親も大変だよな、とでもいった所か。

自分の身に起きたことだというのに、まるで彼ら同様に他人事のような気もしたから勇樹はさほど気にもならなかった。

というより、あまりにも非常識な展開ばかり続くので、今さらこの程度で動揺したりはしない。例の出来事以来、勇樹もこうした所は多少図太くなっている。

犯罪者が逮捕されて日常に戻ろうとする過程で動機を聞かれ、初めて落ち着いて考え始める心境も同じようなものなのかもしれない。

「ああ、なんのなんの。お母様の方もお仕事があるでしょうし、成瀬君の学園の方には既に連絡は届いていますので、これ以上は引き止めておく理由もありません。
お母様さえよろしければ、もう引き取って頂いて構いませんよ」

「どうも、お手数をおかけして、本当に申し訳ありませんでした」

美奈子は勇樹ともども再び深々と一礼した。

「幾つか確認したい事もありますが、まぁそれは後日、日を改めてという事にしましょう。刑事が自宅に伺う際には、前もって携帯電話で連絡するよう徹底しておきますので、お母様もどうかご安心下さい」

慇懃無礼にそう言った時、ちょうど柏崎のデスクの上の電話が鳴った。柏崎は二人に一礼すると、再びクルリと回転椅子ごと今度はデスクの方に体を向けた。

母親は黙って深々と一礼すると行きましょう、とでもいうように再び勇樹の袖を引っ張った。

去り際、後ろから柏崎刑事の声がした。

「はい、刑事課一係。…ああ、花屋敷か。すぐに署に戻ってくれ。
…あん? 魔術師に会っただと? 何、訳のわからん事を言ってるんだ?石原君も一緒か。
…まぁいい。とにかくすぐに来てくれ。どうもこうも、電話じゃ説明しづらいことになってきてるんだ。磯貝警部や山瀬医師も、間もなくこちらに来る事になってるから」


美奈子の運転で自宅へと帰る車中、しばらくの間、二人は無言だった。もう昼の二時はとっくに過ぎようとしている。

空腹を感じているだろうと気を利かせてくれたのか、車の助手席には、勇樹の好物のカツサンドの包みが置いてあった。

母親の無言の心遣いをそこに感じ、何だか情けない思いでいっぱいになりながら、勇樹はまだ温かいカツサンドを頬張った。

そのいつもと変わらない味に勇樹の胸は痛んだ。どんな説教よりも芯に響く気がした。

どんな形であれ、心配をかけた勇樹が悪い。

父さんだったら、間違いないなくそう言うだろう。警察の厄介になったとでも言ったら、頬に張り手の一つも飛んでくるかもしれない。

今さらながら、勇樹は誰かのせいにしてしまう自分の未熟さを恥じた。

運転席の美奈子が、さほど気にしている様子はないのが、今は唯一の救いだった。そんな勇樹の心を見透かしたように、幾分遠慮がちに美奈子は言った。

「お父さんには…連絡しておいたからね」

「うん…」

「晩ご飯は台所のテーブルの上に用意しておいたから、いつものように温めて食べるのよ」

「うん…。ありがと」

「怪我の方は平気?」

「うん。慣れてるから、大丈夫」

「相変わらず生傷ばかり作っちゃって…。わかってると思うけど、あまり心配かけないでね。お父さんにもよ」

「…うん」

「明日からは、ちゃんと学校へ行くのよ」

「うん…わかってる。
本当にごめん…母さん」

母親はチラリとこちらを見ただけで、それ以上は何も言ってこなかった。

それっきり二人の間に言葉はなくなった。

こんな時でも素直な振りをして、事務的な台詞で物事を片づけようとしている事に気付き、勇樹は再び自分が厭になった。

『ありがとう』。

『ごめんなさい』。

この二つをうまく使えば、家でも学校でも日常生活や対人関係に余計な支障はきたさない。現代の子供の処世術といってしまえばそれまでだが、いつからか、自分たち親子の間にも、そうした暗黙の了解のようなものが出来上がってしまっているらしい。

本当なら、お互いもっと違う言葉を交わせているはずなのに…。交わすべきはずなのに…。頭に浮かんでくる言葉の一つ一つは喉の奥の方でこもるばかりで、一向に形になろうとしなかった。

いたたまれなくなって勇樹は言った。

「母さん…ここでいい。もう自分で帰れるよ。ここなら家まで帰るより仕事場…近いんでしょ?」

「そう…。いいのね?」

と美奈子はホッとしたような、どこか安堵の表情を見せた。よほど忙しいのだろう。

こうした親を気遣う台詞が、一番安心させる言葉だという事を、幼い時から勇樹は経験で体得している。

勇樹ぐらいの子供を持つ働く親達は、常に二つの事を無意識に子供に要求してくる。

『自分の役割を果たせ』と『仕事の邪魔はするな』だ。

幼い時から、忙しい父親や母親を見てきた勇樹にはわかる。学校という小さな檻から出れば、大人には新しく、社会という名の大きな檻が用意されているのだ。家とて安息の訪れる檻には違いない。

忙しい忙しいとぼやきながらも、仕事をする親達の顔は何だかんだで充実しているように見える。親達の安定は、常に忙しく立ち回って、自分を生かせる環境の中にあるのだろう。

山内先生には連絡しておくから遅くならないうちに帰るのよ、と言い置いて美奈子は勇樹を途中で下ろし、仕事へ戻っていった。

インテリアデザインの事務所に勤める美奈子は、しきりに人手が足りなくて忙しいと漏らしていた。以前は家で在宅しながら仕事を請け負っていたが、最近では夜遅くに帰ってくる事も多い。

本来、勇樹などに関わっている暇はないに違いない。

学園の近くで母親とこれ以上いるのは気恥ずかしく、そしてどこか気まずくもあった。帰宅するにも半端な時間だったから、勇樹にとってはちょうどよかった。

何より、今は一人になりたかった。

母親の車のエンジン音を後ろに聞きながら勇樹は一人、何をしようというあてもなく歩き出した。勇樹の足は自然と人通りの多い駅前の方へと向いていた。

普段の通学路。

いつも通りの住宅街。

勇樹は深呼吸した。二日ぶりに、一人で感じる外の空気を思い切り満喫する。

聖真学園や自宅からさほど離れていない、街中といっても半端な距離にある場所だった。近くに目黒川の支流が流れる土手がある。

来栖と出会った廃工場もこの近くだった。

目黒区祐天寺は東急東横線、祐天寺駅を中心とする街だ。中目黒にある浄土宗の寺院である祐天寺の付近がそのまま地名になっている、世田谷区と目黒区の境界にあたる地域である。

浄土宗祐天寺は1718年、享保3年に増上寺36世住持の祐天が亡くなった後、弟子の祐海が祐天の庵居跡を廟堂として建立したのが始まりらしい。開山は祐天で、弟子の祐海は二世住持にあたる。その祐天上人にあやかった地名だという話を、勇樹は幼い頃に死んだ祖母から聞かされた。

生まれた時から住んでいる勇樹にしてみれば一丁目と二丁目しかない狭い町で、鉄道マニアやその筋の人には有名なカレーショップがあり、わざわざ足を運びにくる人もいる街ぐらいの印象しかないが、この土手の向こうに広がるちょっとした高台は勇樹はこの街で一番、夕焼けが綺麗な丘だと自負していた。

丘の上から臨む景色が、勇樹は何よりも好きだった。遠くの線路から聞こえてくる列車の警笛のどこかノスタルジックな音。

季節ごとに違う風の匂い。

はしゃぎながら、登下校を並んで歩く小学生達の姿やカラフルな幼稚園バス。制服を着て自転車に乗った同世代の若者達の姿。

カバンを携えて、腕時計を見ながら忙しそうに通勤するスーツ姿が幾つも通り過ぎ、小さな子供が公園の砂場で遊んでいる姿が見えたりする。そんな風景だ。

目黒川沿いの土手に寝転がって見上げる、そんな何年経っても変わり映えのしない見慣れた夕焼け空と、街の姿が勇樹は好きだった。

駅高架下の商店街にスーパーマーケットがある。

駅から放射状に商店の立ち並ぶ通りだ。勇樹は駅の東口にあるターミナルへと向けて歩いていく事にした。JR目黒駅から三軒茶屋へのバスが通っている場所である。ここから学園へは比較的近い場所にあった。

まだ昼間の半端な時間であるのか人通りの少ない乾いた町並みは、どんよりとした空の灰色を映して普段よりも一層くすんで見えた。

高架下の薄い暗がりを歩いていた時だった。柱の陰の死角にすっと影が差し、見慣れない異様な姿が覗いた。

「もし…そこの学生さん。
ちょっといいかしら?」

透明感のある女性の声が、いきなり勇樹を呼び止めた。コンクリートの柱の陰から声だけが聞こえてくる。

「そこのあなた…。さても嫌なモノに取り憑かれているようね。始まりと終わりは中庸の人から生まれし真実の灯火。
境界より生ずる、赤い霧に人は誘われる。あなたを誘うその手は魔術師の弓手ゆんでか、はたまた死神の馬手めてか…。
正しき星と太陽の導きの下に、迷えし者に祝福の光を授けましょう…。
…あなたの未来、占ってあげましょうか?」

現れたその女はヒラリ、と手に持った何枚かのカードをトランプのババ抜きのようにして開いた。

占い師だった。

紫色のベールをすっぽり頭から被り、薄手のドレスを身に纏った背の高い女性である。嫌でも目につく、その破天荒な姿に、勇樹は即座に警戒心を解いた。

と同時にホッと大きく溜め息をついた。悲しいかな、こうした非常識な展開こそが今の勇樹の日常になりつつある。

「驚いたな…。来栖さんといい、あなたといい、本当に神出鬼没なんですね。売れっ子の占い師が、こんな狭い街に出張ってきていいんですか? …アリサさん」

「あら、二日ぶりに会った恩人に随分つれないコトを言うのね、ユウキ。その分じゃ税金泥棒のクソお巡り共に随分たっぷりと生き肝を抜かれてきたみたいね。うふふっ…」

「その滅茶苦茶に間違ってる不吉でガラの悪い日本語…。発音とかは完璧で上手いんですけど、早く直した方がいいですよ。
その日本語を教えてくれた人、自分じゃ気付いてないけど相当ハイレベルな変人みたいですからね」

「ふふっ…そりゃね! アイツが変人なのは普段からよく知ってるわよ。面会ついでにちょっとね。…ユウキ、時間あるかしら?
あなたに伝えなきゃいけない事があるの…」

いつになく真剣な表情の彼女の様子に、勇樹は即座に表情を強張らせた。


駅前通りから少し外れた、小さな喫茶店に二人は入った。

アリサの占い師のドレス姿はやたらと目立つので、比較的静かな場所を選んだつもりだったのだが、彼女の姿はやはり浮いていると見え、二人は暫く周囲の客や店主の好奇の視線に晒されながら注文を受けねばならなかった。勇樹は、これには少し気恥ずかしくなった。

周りの人達には、自分達は果たしてどう映っていることだろうか?

勇樹に至っては学校の制服まで着ている。少なくとも英語の外国人講師と生徒には見えまい。滅多に見られない珍奇な組み合わせではあるだろう。

コーヒーを注文すると、アリサはテーブルの上の空いたスペースに裏側に伏せたタロットカードのデッキを広げ、手慣れた手つきでシャッフルすると決まった形に配列していく。

その裏側の絵には勇樹も見覚えがあった。来栖の事務所で見た、泣き笑いのような顔をした太陽の絵柄だったのだ。本当に占ってくれるつもりらしい。

「タロット占いってよく聞くけど、実際に占ってもらうのは初めてです。…なんだか緊張しちゃいますね」

ふふっ、とアリサは嫣然と微笑んだ。

「そんなに構える必要はないから、リラックスしてて。占う方は集中するのが決まりらしいけど、私はむしろゆったりと意識を拡散する事にしてるの。…理由はないわ。その方があたる気がするだけ」

プロの占い師はそう言うと、手慣れた動作で中央に三角形が上下に二つ重なった形でカードを六枚配列し、最後にその二つの三角の中央に、一枚のカードを置いた。テーブルの上には、ちょうど六芒星の形が出来上がった。

「この並べ方に何か意味があるんですか?」

「ええ、これはヘキサグラムという展開法なの。このスプレッドの上向きの三角形がそれぞれ質問に対する内容やその問題の現在、過去、近い将来の未来を表していて、逆三角形がそれぞれ質問を巡る問題や障害となる出来事。対人関係や外的要因、解決の鍵となる物事を暗示しているの。
そして、最後に真ん中のカードが、質問の最終予想になっているという訳。
…これ、普段はあまり使わない並べ方なんだけど、何となく今回はふさわしいような気がしたのよね」

「インスピレーションってヤツですか…。他にも様々なスプレッドってあるんでしょ?」

「ええ、もちろん他にもたくさんあるわ。
私が知ってるだけでも、まずケルト十字法にフォーチュンオラクル法。セブンテーリング法にホロスコープ法。変形ヘキサグラム法に大三角の秘宝法にファランクス法にピラミッド法。グレゴリウス法に陰陽法なんてのもあったりするわ。
それぞれ何枚使ってどう配列するかも違うし、それぞれ配列した位置が何を暗示して、何を予想するのかも占う人によって、また解釈の仕方によって、まるで違うでしょうね」

「はぁ…凄いですね。霊感みたいなモノが備わってなきゃいけないし、そういう事も覚えていなきゃいけない訳ですか?」

「占いに霊感もクソもないわよ。少なくとも私は、そんな不可知の力をアテにしたりなんかしないわ」

よく中ると評判の占い師は、はっきりとそう言い切った。

『私、霊感があるんだ』などと自称してタロット占いをする女生徒を勇樹は学校で見かけた事があるが、神秘的な力の介在を全く認めない占い師というのは、勇樹は初めて見た気がする。

「霊感占い師なんて世間ではまま聞くけど、それは広義の占いの理論に霊感という力を当てはめて商売するスタイルだという話ね。
勘違いしてる人が多いけど、タロットに限らず占いというのは要するに学問と同じよ。
六星占星術だの黄道12星座だの、陰陽五行に易学に観相学と占術理論は世界中に様々あるけど、要はその占いの理論を学び取りさえすれば誰でもできるものだし、そう難しいものではないわ。
自分なりにアレンジしていても、どこかにルーツは必ずある。模倣犯による犯罪と同じね。要するに勉強すればいいんですもの」

「後半の喩えは、ややいただけないですけど、趣旨はわかります。じゃあ霊感はありえないって事なんですか?」

「私は信じてないってだけよ。霊感なんてものを持ち出す占い師は、本物を除けば、要するに勉強するのが面倒くさかったんでしょ。
それにね、あまりはっきりと未来を言ってしまう占い師というのは信用できないわ。
例えば…
『A型の成瀬さんの週末の運勢はやや不調。運気は低迷気味で体調も不安定に陥りやすいので気をつけましょう』。
これなら世間でもよく用いられてる占いの形態だから、指針程度に受け取っておこうか、くらいのソフトな占いだから、まだいいの。ところが…」

アリサはふ、と悪戯っぽく微笑んだ。

「『成瀬勇樹の運気は今年、大殺界に入る。
未来は真っ暗闇。失せ物は出ず、火難水難女難の相に加えて死相まで出ており、財産も損失する。
アンタは恋人と知り合って大恋愛の末に結婚しても長続きしないし、また万一結婚できても伴侶とは長続きしない。ナントカ星人のアンタはそうした星の下に生まれているから、よほどの事がない限り運命は変わらない。このままだとアンタ、地獄に落ちるわよ』
なーんて、こんな言い方をするような占い師は、パフォーマンスはともかく、占術師としては、もう最低ね。どう糾弾されても仕方ないものだわ」

「あの…喩えるにしても、もう少しマシな言い方にしませんか? アリサさんが言うとシャレになりませんから…」

「そう? 大袈裟に聞こえるけど、この業界じゃよくある事よ。
占いの結果が外れていたり、理論の矛盾を指摘されてるのに『未来は常に変化するものです』なんて言い訳する占い師は世間に溢れてるし、自分の言葉に責任を持てない人間は、そもそも占い師になるべきじゃない。私はそう思うわ。
占いに限らず、実際そういう輩は世間に溢れてるけれどね」

なぜこんな話を始めたのだろう?

勇樹は先ほどからの、このアリサの言動が少し気になり始めていた。何を伝えようというのか全く意図が汲めない。

「それにね…宗教や神、それに占術がもっと生活そのものに密着していた古代文化では、託宣たくせんを間違えたり外したりした神官や巫女はどうなったと思う?」

「さあ…今よりずっとそうしたその…預言者っていうんですか? そうした人の発する言葉は重かった時代なんですよね? 凄く重い刑罰が課せられたとか?」

「死ぬのよ」

「え…?」

「殺されるの。仮にも神の言葉を預かり、民を導く神の使者に、誤った言葉は許されなかったのよ」

「………」

勇樹が思わず黙ってしまった時、まるで測ったように二人のテーブルにコーヒーが運ばれてきた。運んできた店主はどうやら話が切れるタイミングを待っていたようだ。

店主に英語の発音もよく何かを話して微笑むと、アリサは勇樹に向き直った。

二カ国語を操れる占い師なのだ。勇樹が思うに語学に堪能な人は、応用力があって、かなり頭が切れるタイプだ。

人をコンピューターに喩えるのも筋違いではあるが、設定言語のプログラムを、脳内で即座に変換可能なOSを持つ人は許容メモリの面でもビット数でもかなり高性能だといえるだろう。さすがに、あの普通ではない探偵の助手である。

新宿の占い師。顧客とて、日本人や英語圏の人だけではないかもしれない。

「タロットというのは英語だけど、タロウカードというのが正式な発音なの。イタリア語ではタロッコ。フランス語ではタロ。
タロットが大アルカナと呼ばれる22枚のカードと、小アルカナと呼ばれる56枚のカードから成り立っているのはユウキも知ってるでしょ?」

「ええ、知ってます。『吊られた男』とか『悪魔』とか『死神』みたいな不気味なカードもあるヤツでしょ?
小アルカナってのは確か、トランプの元々の形じゃなかったですか? 金貨の6とか杯の3みたいな」

勇樹は手元のコーヒーカップとポケットから小銭を出して示した。杯と金貨にかけたつもりだった。

「そうね。けどトランプという名称は日本人が勝手につけた呼び名なのよ。
確かに小アルカナは大きく分けて剣、杯、金貨、杖があるし、それぞれスペード、ハート、ダイヤ、クラブに対応しているプレイングカード…要するにトランプによく似ていると思われてるわ。けどよく似てるけど実際は、どちらが先にできたのかは、未だに判っていないというのが本当なの」

「トランプが先って事もありえる訳ですか?」

そうじゃないわ、とアリサは形の良い唇を僅かにすぼめた。

「タロットカードがトランプに…トランプがタロットカードになったとかじゃないの。同じ根を持っている別物同士(!)という可能性だってある訳でしょ?」

「ああ、起源は一緒だけど、違う形で枝分かれしたって可能性もある訳ですね?」

「そう。これらカードの起源がね、諸説紛々あって未だに決着を見ないということなの」

相変わらず難しい日本語をよく知っている。

『諸説紛々』という漢字など勇樹はどう書くのかもわからない。餅は餅屋の喩え通り、さすが占い師だけあって、よく知っている。

話の意図は汲めないまでも、勇樹は俄然タロットに興味が湧いてきた。勇樹は再びアリサに訊ねた。

「タロット占い師のアリサさんでも判らないんですか? カードの起源がどこにあるのかまでは」

「全然判らない訳じゃないわ。例えばタロウという名の語源は、古代ペルシア語タリスクから派生した『答えを求められし者』という意味のエジプト語、タルートという言葉に始まりを求められるっていう説があるわ。
この場合は、タロットカードはナイル川の水嵩を占うためにできあがったのではないか、というエジプト起源説を補強する形になるわね。成立年代はともかくとして、場所は矛盾していないから。
一方で大アルカナの枚数が22枚であるところから、これをアルファベット22文字に比定してヘブライ起源説を説く人もいる。
また、チャトゥル・アンガという古代インドの将棋の意匠が、やはり小アルカナのそれに近いことから、それを起源とする説もあるわね」

「結局バラバラじゃないですか」

まぁそうなるわね、と意味ありげにそう答え、アリサはコーヒーカップに唇をつけた。細くて長い指だ。きめ細かい白い肌といい、動作の一つ一つがひどく優雅に見える。

そして勇樹には、やはりアリサの言動の、いちいち何かが引っかかった。

一見、無関係な話しかしていないように見えるがきっちり本線に入っており、話者の真意を巧みに隠しながら伝える。このやり方…。

「現在、一番通りがいいのはタロットカードは本来、カードではなくて閉じられた一冊の本だった、という説ね。
…遥か昔、アレクサンドリア大図書館に保管されていた78ページからなる『世界の秘密を封じ込めた本』が、図書館が破壊された折にバラバラに分解されて運び出され、流浪の民達の手で今に伝えられた、というものね。
本来世界の秘密を封じ込めた本だった訳だから、それらを組み合わせることによって、失われた古代の叡智えいちが読み説ける…そう考えられた訳」

「何だかなあ…」

勇樹はあくまで懐疑的な口調で腕組みをした。そこまでいくと神秘的に過ぎると思ったのだ。そんな荒唐無稽な説が本当に有力なのだろうか?

『世界の秘密を封じ込めた本』というのも何だかやたらと胡散臭かった。

「…で、結局、何が言いたい訳ですか? タロットのルーツと今回の事件が何か関係あるとでも?今の話ではただ、タロットのルーツは、探れば探るほど判らなくなるばかりだって事しか判りませんけど」

まあ結論は急がずに聞いて、とアリサは少し強い口調で言った。どこかで聞いたような台詞だった。

「問題の魔術師もタロットの一部分よね。
タロットというのはね、象徴としての人の恐怖心や畏怖心、未知の領域や神秘を何とか体系化して、形あるものに置換したいという思いを形にしたもの、という事なの。言ってみれば神や悪魔と同じ…」

「この上、神や悪魔の存在を認めろと?」

勇樹は少し呆れた。説明はわかりやすくて明瞭なのだが、この部分だけは根本的な所でやはり理解するには無理があった。この辺りが宗教性の乏しい日本と、宗教が生活に根付いた欧米との違いというやつなのだろうか?

「もちろん神や悪魔なんて実在はしないかもしれないけど形になった概念だ、という事ならユウキだって理解できるんじゃない?
世界中に様々な宗教はあるし、偶像崇拝を認めていない宗教でも神を形に残したい、これは神への愛という形でこの世に残ってる美術作品は数多いでしょ?
描いて残してあるという所が肝心なのよ」

アリサは続けた。

「タロットには様々な形があるし、それぞれ国によってルーツも違えば絵柄だってマルセイユ版とウェイト版では、意味も解釈の仕方も全然違うわ。
魔術師に教皇、法王に女帝なんていう人や身分を表すものもあれば、正義や節制、力なんていう物事を端的に言い表したものもある。
太陽に月に星。これもまだ判る。けれど悪魔や死神、審判や世界となると、漠然とし過ぎていて、もう意味が通じなくなるわ。
これはやはりタロットはそうしたモノなのよ。神秘的なモノだけど謎に彩られたただの道具。結果は暗示としてただ受け入れるモノ。私達はそう捉えるべきなんでしょうね。
だって、私達には既に大昔にこれを描いた人の真意を読み取る論理が、圧倒的に欠落しているんですもの。
このカードの一枚一枚に描いてある絵だって、何らかの理由があるからこそ、こんな形になって残っているの。確かに人口に膾炙かいしゃしたものを採るというなら占いほど長い間、人々の口のに上ってきたものはないわ。
未来というのは未知の領域。判らない明日の事を予測する事で、訪れる危険を回避したいという心理の表れでもあるのよ」

確かにそうだ。未来とは未だ訪れない今日。不可逆な時間の中の日常。
昨日なら今である。

「さて…待たせたわね。結果が出たわよ」
いつの間にか、裏側に伏せられていた六枚のスプレッドが全て表側の正位置を向いていた。

過去に『恋人達』。

現在に『月』。

近い未来に『塔』。

障害となる位置に『悪魔』。

対人関係の位置に『死神』。

鍵となる位置に『愚者』。

そして最終予想の六芒星の中心に『魔術師』のカードが配置されていた。

アリサは吸い込まれそうな青い瞳を真っ直ぐに勇樹に向け、静かに言った。

「アイツの事務所であなたを初めて見た時から違和感は感じていたわ…。まさかとは思ってたけど、こんなにはっきりと出てしまうなんてね…」

悩ましげにアリサは目を逸らし、つうとテーブルの縁を白く細長い指で撫でた。思わせぶりな態度に勇樹は少し苛立ちを感じた。

「はっきり言って下さい。ぼやかしながら話すのは卑怯です」

アリサはしばらく考え込むようにして目を伏せていたが、やがて小さく溜め息をついた。

「言いたくはないけれど、それが私の役目のようだから言うわ。
裏切りと死…。
それがあなたに与えられている暗示なのよ。
あなたの最も身近で大切な人の突然の不幸…。…死よ。
それも遠くない、近い未来の出来事…。
既に種は蒔かれ、まるで最初から決まっていたかのように、起こるべくして起こる…。
心に深い傷を負い、あなたは絶対的な孤独と無力感に支配される。自分の未来を壊すほどの、暗い激情と悲しい叫び…。
過去が未来に復讐する。
そして…あなたの本当の人生が始まる…」

ザワリ、と勇樹の周囲の景色が揺らいだ。現実感の伴わない場所に、いきなり穴が空いたような。

悪寒。

身震い。

内心の動揺を押し殺し、勇樹は慎重に尋ねた。

「……。この魔術師というカード…タロットでは何を暗示しているカードなんですか?」

「始まり。一番目の大アルカナ…。天体では水星に対応しているわ。水星はギリシア神話のヘルメス。ヘルメスは魔術師の祖ともいわれている神よ」

「この魔術師というのは、じゃあこの事件ではアリサさんはどう捉えるんですか?」

再び神妙に勇樹は尋ねた。あらゆる核心を突いた質問のような気がした。

暫しの間、アリサは青い瞳を閉じていたが、やがてゆっくりと目を開くと、まるで虚空に向けて、歌うように語り始めた。

「…っ!」

勇樹は見た。

アリサの青い目の焦点が。

合っていない。

異邦の占い師は今、託宣の神官のように、この世ならざる世界を見ている。

「………
赤い薔薇や白い百合…。花園に囲まれた、閉ざされた…。とある場所。
若者は問いかける…。
…神とは?
…人とは?
真実の融合を目指し立ち上がる者がいる。
真理の探求の為に道を選ばない者がいる。
人々は口々に彼らを魔術師と罵るだろう。
しかし神は、彼を我が子と呼ぶだろう…」

何かからの引用だろうか?

まるで四行詩か何かを暗唱しているようだった。勇樹が呆然としている間に、アリサの表情は既にいつもの顔に戻っていた。

私もう行くわね、と言ってアリサは傍らの伝票を取って立ち上がった。ゆったりとした優雅な動作の中に、今は独特の冷ややかさと毒があった。

アリサの作り物のような、端正でどこか冷然としたその視線はあの時、夕日の下で見た来栖要の眼差しによく似ていた…。

勇樹は蛇に睨まれた蛙のように動けなかった。

「占い師に出来るのはここまで。真実は…自分自身の目で確かめてごらんなさい。
なぜアイツが、あなたをそこまでして必死に守ろうとするのか…ある程度、その理由もわかると思うわ」

去り際、妖艶な占い師は立ち止まり、勇樹の背中越しに冷ややかに言った。

勇樹は金縛りにあったように動けない。

「ユウキ…。あなたを巡る現実はあなたが思っているよりずっと残酷で、情け容赦がないわ…。…けれど、それに潰されないあなたの真実は、やはりあなたの中からしか生まれ出ないものでもあるの。
成瀬勇樹…。その与えられた名に恥じない誇りを持って、強く生きなさい…」

そう言って、異邦の占い師は静かに立ち去った。微かに眠気を誘うような香水の残り香がした。

カードのなくなったテーブルの上には鮮やかな真っ赤なルージュが縁に残った飲みかけのコーヒーカップと共に、一枚の紙切れが残されていた。


※※※


一方、その頃…。

警視庁目黒署、捜査一課一係の刑事部屋。

合同捜査にあたっていた所轄の目黒署の捜査員達から齎された、突然のその事実は花屋敷達の予想を遥かに上回るものだった。

バン、とスチール製のデスクを叩く鋭い音がして、刑事部屋の視線が一斉にそちらを向いた。威勢よく口火を切ったのは、石原智美だった。

「あの学園から捜査員を一旦引かせるって…。一体どういうつもりですか!?」

目の前にいるのは古井警視である。鉄面皮のキャリアは銀縁の眼鏡の狡猾そうな目で、ジロリと石原を睨みつけた。

「君…石原君だったな。これは一体、何の真似だ? 自分が今、している事がわかっているのかね?」

「ええ、わかってます!
納得のいかない捜査方針に対して、上申するのは捜査員の当然の権利です!」

石原はデスクに両手をつき、今しも目の前の古井警視に掴みかからんばかりに詰め寄った。

「石原、よせ!」

花屋敷は慌てて彼女の肩を掴んで宥めた。

「先輩は黙ってて下さい! 私は古井警視と話してるんです!」

彼女は花屋敷の手を振りほどいて、眼前の古井を睨みつけている。

石原の小振りな唇がわなわなと微かに震えていた。あどけない童顔な顔が必死になって訴えているその姿はある種、悲壮感めいた壮絶さが漂っていた。

理事長や神戸の元用務員にまで会いに行ってきた彼女のことだ。今回の事件には、何かしら強い思い入れがあるに違いない。しかし、花屋敷は再び怒りに震える彼女の肩を押さえた。これは相棒の役目だ。

「いいから、よせ! 古井警視だって早瀬…警視だってこの忙しい時に、わざわざ本庁まで掛け合ってくれたんだぞ。その結果の本庁の判断なんだ。仕方がないだろ!」

「だからって、何で今なんですか? 先輩だって、こんな捜査方針に納得がいくんですか!?
川島由紀子の死の原因だって未だに何もわかっていないし、学園にはドラッグまで使う売春組織までいるんですよ!?  この目黒署に出向中の身の上とはいえ、本店のこんな対応、到底納得できる訳ありませんよ!」

石原はいつになくいきり立っている。

女のヒステリーはたくさんだと言わんばかりに、古井はやれやれという風に首を振った。

「何もわかってないのは君だ、石原刑事。
売春に関しては、何も証拠がない。少年達の証言や学園の生徒達の口さがない噂に基づいているだけのことで今の所、確たる物証やモノ自体が出てきた訳ではあるまい。
それに、これは非常に微妙な政治的判断も含んでいるんだよ。学園にこれ以上、何人も捜査員を割く事はできない」

「だから、なぜなんですか!?」

「都教委や、あの学園の本体である宗教法人のキリスト教団体が今朝方、本庁へ抗議に赴いたそうだ。警察庁もそれに対応している。
本来、捜査とはいえ警察の人間を長期間、学園に留め置く事は難しいんだ。どの道、学園の中での捜査はもう限界だという事だよ」

「良家のご子息ご令嬢が多数在籍する学園の心情に配慮したからですか?
ミッション系の私立校って所は、警察も不可侵という訳ですか?
この不景気なご時世に、随分と羽振りのいい話もあったものですね? それにタイミングが良すぎませんか!?
…私達が売春の捜査や、事実確認をしている矢先の出来事なんですよ!?  どう見たって不自然じゃないですか!」

石原はあくまで食い下がった。石原がこうまで我を忘れて激昂する事は、本当にめずらしい。普段の直情的な花屋敷のお株を奪うような見幕である。彼女はたとえどんな陰惨な殺人事件の捜査中であっても、いつも淡々と物柔らかな態度でいる事を常として感情的な部分は使い分けているから、この豹変ぶりは意外だった。

もちろん、花屋敷にも彼女の気持ちは痛い程わかっていた。理事長との面会が効いている。ひとえに花屋敷はこの急な展開に、頭がついていかなかっただけである。

確かに、いくらなんでも、この展開は性急に過ぎる。これではまるでとでもいったような展開ではないか。

だが、花屋敷はここで彼女を引き止めなければ今後の捜査はおろか、今まで費やしてきた時間や労力も全て無駄になってしまう気がした。これはもう直感という以外にない。

傍らに黙って控えていた磯貝警部は、眉根を寄せ、倦み疲れたように腕を組んでいた。いつになく何だか疲れている。

古井は忌々しいと言いたげな視線で磯貝警部をチラリと伺ってから、石原をジロリと睨みつけた。

「…皮肉は聞き流そう。言いたい事はそれだけか、石原刑事? 君は、今回の件が随分と不服のようだな」

「もちろんです」

「…だが、こればかりは本庁直々の命令だ。
捜査員は一旦学園から引かせ、今は付近や外部の目撃証言などを重視して、引き続き慎重に捜査にあたれとの事だ。マスコミや報道機関への箝口令も、今後は徹底的に統制されるだろう」

「何かの圧力が…あったんですね?」

「石原、落ち着け! いくらなんでも言葉が過ぎるぞ!」

「そうとしか思えません! 本庁に圧力をかけてきたのは、買春に関わったどこかのお偉方ですか?それとも子供の事情を知っていながら、ひた隠しにしている学園のPTA関係者の誰かなんでしょうか?」

「石原!」

「あの学園には、不審な事が多すぎます!
…私と先輩、ついさっきまで学園の理事長に会ってきたんです。聖真学園では、12年前に例の殺人事件があった時も、本庁から情報統制が敷かれたそうですね?
…古井警視もご存知だったんでしょう?
12年前の殺人事件が、早々に被疑者自殺と判断された、その本当の根拠は何なんですか?
事件後、実は転校と称して行方不明者までいたというのに、追跡調査もロクにされなかった事件だったそうじゃないですか?
行方不明の女生徒の名前は高橋聡美。あの聖真学園の二年生で、当時17才。
山内洋子殺人事件と前後して、突然消息を断っている失踪少女です。
事件当時、被害者の家族から訴えがあったにも関わらず、捜査当局は事件との関連性はなしと判断して、早々に撤収。正規の行方不明事件として扱い、それを写真週刊誌が嗅ぎつけて記事にするなど、ちょっとした騒ぎになった事もあったそうですね?」

石原はそこで言葉を切った。

「結局、二ヶ月後に高橋聡美の両親から捜索願いは取り下げられ、彼女は親戚のある地方の学校に転校したという形で終息し、結局、行方不明事件は有耶無耶うやむやになっています。
しかし、本庁の特殊家出人のリストには、きっちりと載っている…。これは一体、どういう事なんでしょう? 警視はご存知ありませんでしたか?」

古井は苦虫を噛み潰したような、嫌悪感丸出しの表情を隠そうともしなかった。

「その件は既に過去のものだ。聖真学園で起こった事は確かだが、余計な混同はするな。それに今度の事件とは、何ら関わりがない」

「関係ない訳ありません!
あの学園のする事に警察は関わるな、手を出すな、目や耳を塞げという事なんですか?」

「いい加減にしたまえ! この捜査の担当を外されたいのか?
…いや、これ以上は内部の捜査妨害と見なし、服務規定法違反で本当に処分の対象にするぞ!…磯貝警部!君の部下だ。
…この責任は取ってくれるんだろうな?」

申し訳ありません古井警視、と呟いて自分よりも年の若いキャリアに深々と一礼すると、磯貝警部は石原に視線を送って言った。

「石原…よく聞け。お前達がいない間の出来事だから知らないのも当然だが、川島由紀子の事件に関しては今朝方、警察側は事故死と判断した。
今、早瀬警視も状況確認に本庁へ赴いている。敢えて捜査員にも情報は流さなかったが、本庁は事故と断定したからこそ、捜査員を撤収させる事に決定したんだ」

「…事故!? 川島由紀子が…事故死ですって!?」

「ちょっ…警部! 待って下さい! 自殺ならまだしも…あれが事故死だというんですか!?」

これには花屋敷も驚かされた。

これは一体、どういう事だ?

「それについては…」

「磯貝警部。そこから先は、私が説明した方がいいかもしれませんな…」

白衣を着て、傍らに控えていた監察医の山瀬医師は、いつになく神妙な表情で座を見渡した。

「脳CT、脳MRIと血液と髄圧検査による成分分析の結果、川島由紀子の体内からごく微量ですが、ある化学物質が検出されました。
墜落死した原因とは、確かに判断しにくい部分もまだあるのですが、川島由紀子は事故死…本庁の判断は、おそらくそれを受けての事だと思われます」

「化学物質…!? 何が出たっていうんです?」

茫然自失している石原の代わりに花屋敷が尋ねた。山瀬医師はやや間を持たせ、表情も険しく、重々しい口を開いた。


「…リン酸オセルタミビルです」
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