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エピローグ
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「おっはよ~!」
「う~っす!」
「…なぁ、聞いた? 屋上の“白い魔女”の噂。また出たんだってよ」
「…マジで? あそこってさ、もう立入禁止になったじゃん? ほら、夏のあの…」
「ああ…。“アレ”ね…」
「もう高いフェンスで囲まれてるし上がれなくない?」
「工事業者とか来んのチョー早かったよね?」
「早かった早かった! 三日くらい? マジで突貫工事。気づいたら金網高くなってたしさ。絶対ありゃ登れないわ」
「そうそう。内側にチョー角度つけて網目が細かいのなんの、足も引っかけられなくなってんの。どうせなら有刺鉄線とかにしちゃえばって感じ?」
「新しく入った用務員さんじゃないの? 日中とか時計塔にいるし」
「日中はね。夕方には帰っちゃうでしょ。メンテの業者と見間違えたんじゃないの?」
「そりゃないわ。夜間工事とかやってないし。時計塔は文化財扱いで保存されるみたいだし。いずれはどっかの警備会社とかと契約するみたいよ」
「だから女の幽霊なんだろ。どうやって夜中に鍵の掛かったドアと高いフェンス乗り越えるんだよ? 屋上の密室だぞ」
「嘘ばっかし。そんなのいる訳ないでしょ。あんな事件起こった場所なんだよ? 話盛ってんの見え見え。不謹慎」
「俺に言うな。俺が見た訳じゃねぇんだから」
「この間、見たっつってたの誰だっけ?」
「B組の吉田。10日くらい前だっけかな。ってことは今月の1日?」
「うん、確かそんくらい。部活で夜遅くにガッコにケータイ忘れたのに気付いて取りに行ったら見たんだって」
「嘘! マジで!? どこのクラスの奴だ!?」
「だからB組の…」
「じゃなくてさ。仮にその白い魔女がいるなら、どっかのクラスの女生徒ってことだろ?」
「まぁ、いればね。ってか幽霊じゃないの?」
「そんな感じに見えなかったんだってよ。手に白いブーケかなんか持って白いウェディングドレスみてーなヒラヒラした裾の長いスカートで上は…アレ、なんつったっけ? 肩と背中が開いてるセクシー下着」
「ビスチェ? ってかベアトップでしょ?」
「そう、それ! 着てたんだってよ。まぁ幽霊じゃないってんだから脚があったんだろ」
「アホくさ。アンタ幽霊とか信じてる訳?」
「いや、それがよ…その白い魔女ってけっこう可愛いらしくてよ。ほっそりしてて髪が長くて胸もそこそこ大きくて、しかも白い魔女とか、そそられ…痛てっ!
…おい、耳引っ張るんじゃねぇよ!」
「ふん、朝っぱらからアンタが変なこと言うからでしょ!」
「あ~行こ。もう行こ。朝からお熱いノロケ話とか聞きたくねーし」
「アタシ…すっごい気分悪くなってきた!」
「まぁまぁ」
「別れちゃえば? アハハ」
「…あっ! あそこだよ!ねぇママー、私もパパが見た白いお姉ちゃん見たい!」
「こら、ユキ。指さしちゃダメでしょ。あっち行こうね」
「…あら、おはようございます、田中さん」
「ああ奥さん、おはようございます。ずいぶんあそこの学校も変わりましたな~。両の道に植樹しただけでずいぶん印象が変わった」
「あの木、桜だそうですわ。あっちの…ほら、あの坂道の桜並木がここまで続いてくるらしいですわ」
「ほほぉ…春には満開ですな。お花見ができそうですな。もう秋だというのに、そう考えると何だかワクワクしますな」
「ふふ、楽しみですわね」
「ってかさぁ、やっぱ守護霊っつーの? あると思うんだよな! あのガッコってさ…芸能人の姉妹とか今度入ってくるらしいぜ。引き寄せられてるんだよ、白い女神様によ」
「やめてよ。アタシんち、こっから近いんだから。絶対に比べられる…」
「あそこさ、金持ちとか多い私立校じゃん? 可愛いコも多いしさ。ヤバくねぇ?」
「今年の文化祭、オレ絶対行くわ」
「最近警官とか全然見なくなったよな」
「まぁね。平和だし事件もないしね。警官とか学校とかに来ないからねフツー」
「そういやさ、あの真っ黒いオシャレなスーツ着た人、最近見ないよな?」
「ああ、あのホストみたいな凄いイケメンか! 女子が騒いでた」
「やっぱ男は顔かね~。ウチの女生徒が惚れるとかどんだけレベル高ぇんだよ…」
「言えてる…。あーあ…やっぱこういう綺麗で華やかな学校にいたんだからさぁ…そらもう、何人か、パックリと…」
「食べられててもおかしくないんだよなぁ。あ~あ、やってらんねー…」
「ねえ奥さん、聞きました? またあの学校なんですってよ」
「ええ、また聖真学園ですってね。これで吹奏楽部も全国区ね! ウチのコももっと頑張ってくれないかしら…」
「おい…本当の話か? それ」
「だから事実だって」
「ありえねー! 今日が数学のテストとか、そんな話始めて聞いたぞ!」
「一週間前から言ってたって」
「終わった…。俺の人生詰んだ」
「あははは、大袈裟だな~」
34
いつものように、貴子に渡された合鍵で殺風景な屋上に入ると、冷たい夜風と外気が勇樹を出迎えた。
時計塔の螺旋階段はゆっくりと歩いてくると、やたらと長く感じた。普段は履かない白いハイヒールは相変わらず少し歩きづらく、未だに慣れなかった。
けれど最初の頃に比べれば、階段で幾度も転びそうにならなくなっただけ幾らかマシで、そこは少し成長したのかもしれない。今日はワンピースにしていた。
今夜の空には薄く雲が翳り、月はその背後に隠れている。吹きすさぶ夜の風は今夜も冴え冴えと冷たく、凛とした孤独を運んでくる。
いつものように勇樹は時計塔の一番隅に立つ。
いつものように白いブーケを両手に持つ。
内側に湾曲して狭くなった、切り取られたような金網越しに空を見上げ、勇樹は静かに夜空に向けて呟いた。
「月と夜とあの人達に…」
いつものように勇樹は目を閉じて祈る。
そして、待った。
基本的にはこれだけだ。
たったこれだけでよかった。
始めに言い出したのは貴子だった。
理事長が飛び降りて死んだ、あの事件から数日後のことだった。
「勇樹…本当にこのままで…いいの?」
「いいも何も、もう終わったんだよ。あの人が言っていたじゃないか。僕の事件はこれで終わりだって」
「あの人だなんて、もう他人みたいに言わないで。気持ちを確かめた訳じゃないじゃない」
「日本語が変だぞ。…っていうか変わったな、お前。一ヶ月前とは別人みたいだ。実は鈴木貴子じゃないとか? 入れ替わりトリックか?」
「誤魔化さないで」
容赦ない。本人が意識しているかどうかわからないが、最近ますます性格が奈美や由紀子に似てきたと思う。
煮え切らない勇樹の態度を見透かすように、貴子はじっと勇樹の目を見つめる。
容赦なく見つめている。
鼻先数cmまで顔を寄せて勇樹の目を見ている。
結局勇樹は目を逸らした。
「な、なんだよ…。近い。近いよ、貴子」
「こんなことだと思った。…ねぇ勇樹。聞いてくれる? 私に考えがあるの」
「どうせロクでもないことだろ」
「知りたくないの? 来栖要を釣る方法」
「魚みたいに言うなよ。あんなの…あんな大物が簡単に…捕まられ…捕まえられる訳ないじゃないじゃないか」
「日本語が変。動揺してる」
本当に容赦ない。事件が始まった時と違い、今や完全に立場が入れ替わっている。
「…僕を唆すのか?」
「たまには唆されたらどうなの?」
それが、たった今のこの状況なのだった。
とにかくやれの一点張りで一度言い出したら割と頑固で強引な貴子の言うままに、今もこうして立っている。
魔術師はタロットカードの1番目のカード。数字の1がつく日に10日ごとに勇樹と貴子で交代で立つのが決まりだった。
時間は夜の23時から1時間だけ。
なるべく白く女の子らしい服を着て、ブーケを持って事件が起こった場所に立つこと。
黒や赤が妖しく舞う、怪しいフードやマントのイメージを完全に払拭するのが目的だった。
走り出したら止まらない貴子は元担任なのをいいことに新たな理事長となった山内に相談し、勇樹の知らぬ間にちゃっかり合鍵まで預かっていた。
理事長もやけに乗り気で、白いワンピースとハイヒールまで用意してくれた。
それは、あの間宮愛子の形見でもあった。
ヒールも大人びたワンピースも、サイズは誂えたように勇樹にぴったりだった。
「偶然にしても出来すぎているな。彼女や死んでいった人達やこれからの学園の為だなんて重く考える必要はない。お前の判断に任せよう」
とは山内の言葉だった。
勇樹は躊躇しなかった。
夜風が本当に心地好い。
肌に触れる秋の夜気はひんやりとしていて、螺旋階段を上がってきた熱を急速に冷ましてくれる。時折吹いてくる風が勇樹の白いワンピースをはためかせる。
幽霊になるのも悪くないな。
一息ついて目を開け、勇樹は改めて時計塔の最上階を見渡してみた。真新しい緑色のフェンスの細かい網目は指ひとつ通るのがやっとなくらい、内側にいる人間が外側へ飛び立つことを頑なに拒絶していた。
工事は夜間を通して三日ほど続いたが、作りは頑丈で完全な檻のようなものだった。
微かに錆びたような香りを感じる。勇樹は白いラウンドブーケを傍らに置いて、バルコニーの手摺の向こう側に広がる街を見つめた。
月明かりだけが照らす夜の闇の中、錆びたような香りを感じながら見下ろす街はまるで宝石のようだった。
昔流行ったロックバンドの曲が脳内再生されたように感じて勇樹は少し可笑しかった。
見下ろした街は本当に温かい光が宝石のように広がっていた。美しい夜景の中で、勇樹はため息をついていた。
貴子や勇樹のメッセージに対する答えは相変わらずなかった。
7月になって1を跨ぐ日付が何度目かを越え、うだるように暑い8月を迎える頃になって勇樹は少し不安になった。
もしや来栖は、それなりの日常を送るようになった勇樹に対して、気を遣っているのではないだろうか。
終わった事件の関係者に対して、探偵がどうこう言うべきではないと考えているのではないだろうか。そうなのだろう。
ならば、忘れろ。
そういうことか。
事実、勇樹は日々に追われて胸の奥では堪らなく焦がれつつも、来栖のことを忘れようと努めてきた。あちら側に足を向けようとは思わなかった。
結局夏休みが終わって部活に精を出しながら、勇樹は今までの自分らしくもなく予備校に通い始め、コンビニでアルバイトまで始めたりもしたのだが、来栖の真っ黒なスーツ姿が勇樹や貴子の前に現れることはなかった。
その度に勇樹は…。
少し寂しくなった。来栖に会えないことが淋しかったのではない。きっと忘れてしまうことが寂しかったのだ。陽の当たる場所で暮らしていると、闇の中のことは見えないし、また見る必要もない。闇に思いを馳せる暇すら与えてくれない。
全ては夢の中の出来事のようなものだった。
忙しいと全てが嘘だったようにも思える。
でも。
嘘ではないし夢でもない。
だから、ここに来るのはいつしか楽しみになっていた。未練がましくも、もう一度非日常を味わいたい、そんな自分に酔いたいというのも確かにあったかもしれない。けれど。
鎮魂と祈りと祝福と離別を。
それをこの場所に来ることで己に確かめ、積み重ねることは、きっと勇樹や貴子にしか出来ないことだと思えたからだった。
貴子には感謝していた。
由紀子に奈美、そして死んでいった女生徒達と間宮愛子と理事長への彼女なりの別れと弔いの表出なのだ。
クリスチャンの貴子らしいアプローチの仕方で思いも寄らなかった。
ただ祈る。ただ願う。ただ思う。
たったそれだけの当然のことを、勇樹は完全に忘れていたのだ。
そこに意味などないけれど、意味を作ることに意味があった。意味を見出だし、形にすることで、それがいつしかなくてはならないものになっている。
思い出が家族になるようなものだ。
呪詛でなく祝福を。絶望でなく希望を。
勇樹が来栖の本意を悟ったのは、理事長が死んで事件がすっかり片付いた後のことだった。
あれだけの騒ぎが起きたにも関わらず、そしてそれに関する悪い噂が蔓延していたにも関わらず、のみならず未解決の事件の真相が報道されて奇怪な女生徒の死体まで発見されたにも関わらず、私立学園が閉校の憂き目に遭うことは一切なかった。
呪いか否かは別としても、理事長の死因が自殺であることは間違いないと、警察はそう判断せざるを得なかったようだ。
花屋敷刑事と石原刑事は、事件後にすぐに駆けつけ、対応してくれた。
うちひしがれた貴子と勇樹を見て、大柄な刑事と小柄な女刑事はある程度、状況を察したようだった。二人には包み隠さず全てを語った。
理事長の間宮孝陽こそが、学園を覆う不可解な舞台を作り上げた本当の真犯人であったこと。事件の陰で動いていた探偵の来栖要との熾烈なやり取りがあったこと。
二人は親身になって勇樹と貴子の話を聞いてくれた。二人とは今でも時折メールのやり取りまでしている。
二人の後方でやや不貞腐れているような白いサマースーツを着た早瀬一郎警視の様子が気になったが、勇樹はこの時になって始めて花屋敷から、彼が捜査責任者であったのだということを聞かされた。
勇樹の父よりも階級は上で、聞けば直属の上司であり警視なのだという。しかも花屋敷と来栖とは大学の旧友なのだそうだ。
インテリで冷静な印象が強い早瀬一郎警視はなぜか、来栖の名前が出た瞬間に必死の形相で、来栖が現れたら真っ先に私に連絡するんだ絶対だぞ必ずだぞ、と早口で強引にまくし立て、勇樹に手書きの電話番号とメールアドレスまで渡してくれたのが可笑しかった。
大急ぎで書いたと思われる早瀬警視のメモには「近いうちに絶対に逮捕する」とやや物騒なことまで書いてあったのだが、花屋敷にそれとなく訊ねてみると、あれは俺達の挨拶代わりのようなものだから気にするな、と笑っていた。
花屋敷は上野の不忍池で起こった不可解な殺人事件にかかりきりで三人とも眠る暇もないほど忙しいのだとボヤいていたが、相棒の石原刑事と仏頂面をした早瀬警視に促され、花屋敷刑事は学園から去っていった。
事件から一週間ほどして、理事長と新校長紹介の全校集会行事が体育館で行われたのだが、生徒達の方が驚きを隠せなかったに違いない。
式では若い国語教師が事前に養子縁組の届け出が成されていた末に、理事長の椅子に収まったこと。年の差が二回りも違う化学教師と若い事務員が結婚したことが紹介された。
元教頭である新校長の話は非常に簡潔で手短な挨拶のみで、開始から三分と経たずに終わったのが生徒達には相当にインパクトのある出来事だったらしく、それは“傷のハゲの起こした奇跡”として学校では暫くの間、その噂で持ちきりとなった。
PTA総会では相当ないざこざがあったと聞くが、一番尽力したのが体育教師の植田だと後から聞かされた時は驚きであった。長らく別居状態だった奥さんや子供と復縁して人が変わったように穏やかになった植田が気持ち悪い、とは口さがない学園の噂を集めたネット掲示板の新たなスレッドであったが、ここでもその噂で持ちきりだった。
治安の悪化や風評の被害という学園経営の存続自体が危機的状況だったにも関わらず、隠された秘密のモルグや来栖コレクションという知る人ぞ知る奇跡的な解決策によって学園は閉校の憂き目からは免れたのだと聞く。
やや不謹慎ではあるが、高橋里美の遺体は正式にエンバーミングという耳慣れない技術によって修復され、さる大学の研究対象として国の保護下になったとも聞いた。
時計塔と地下のモルグは正式に文化財の保護指定まで受けて、片桐財閥という日本有数の財閥企業が突然名乗りを上げ、正式に敷地を丸ごと買い上げたことで解決したのだった。
これもネットの噂だが、その財閥の会長という人物は、秋田県のとある別荘地で起こった殺人事件の関係者で、来栖コレクションに魅せられて以降、金に糸目をつけない人物となったのだそうだ。
こうして噂が新たな噂を呼び、聖真学園は着々と再生してきているのだから返す返すも人の噂は侮れなかった。
…死神のカードが成せる離れ業、なのかな。
勇樹は感嘆のため息を洩らした。
その時だった。
背後からドアの開く音がした。
勇樹は慌てて振り返った。
そして、落胆した。
「久し振りに会ったっていうのに、そんなあからさまにガッカリした表情されると、少し傷つくわねぇ」
「ごめんなさい。誰かが来ると思ってなくて。つい先走っちゃいました。
…おひさしぶりですね、アリサさん。
…我ながら重症ですね、僕って」
あら恋煩いなら相談に乗るわよ、と女占い師のアリサは相変わらず眠気を催しそうな独特の甘い香水の香りを漂わせながら、勇樹の隣に立った。
「占い師として改めて祝福を告げに参上したわよ。…終わったのね」
「ええ、終わりました」
勇樹はアリサに貴子と始めた白い魔女の話を始めた。
話し出すと堰を切ったように一気に言葉が溢れ出た。
アリサに話している間、自然と今までのことが走馬灯のように甦り、駆け巡った。勇樹は再び、語ることで完全に憑き物が落ちていくような感覚を覚えていた。
高い高い時計塔の上で、ひんやりした夜風が二人を撫でる。
今さら当たり前だけど、とアリサは言った。
「生きてるとね、それなりに良いことも悪いこともあるものよ。頭の中や体そのものにね、その良いことと悪いことが折り重なって溜まってしまうの。
良いことだけを見て生きていければきっと幸せだけど、そういう風には人は出来ていないわ。生きていくということは生活していくっていう日常の繰り返し。
退屈も不幸も愛も幸福も正義も悪も罪も罰も絆もけじめも。それら人の心の中に生まれる感情や形のない価値観や概念まで日常には丸ごとくるまれているわ。
禍福は糾える縄の如しっていうけれど、人ってね…善いことも悪いことも真っ正面から見据えて、何もかもを受け入れるように生きていなければ本当の幸福さえも解らないものなんじゃないかしら? 良いことも悪いことも自分の記憶に眠れば価値は等しく同じだしね…。
勇樹…あなたはね、この短期間で見違えるように成長したわよ」
「変わりましたか?」
勇樹は気になって尋ねた。心の内といい生活習慣といい劇的に変化したとは思うが外側はどうなのだろう?
鏡で毎日、自分の顔を見ている自分と、外側の人から見える自分はきっと全く違う。
変わったわ凄く、と彼女は静かに微笑んだ。
「綺麗になったわ、とても。凄く女のコっぽくなった。だからこそ解るの。
凄く幸せそうに見えるし、反面そのせいで苦しんでいるんだなって。それはまったく矛盾しないから。言葉にすると野暮だけどね」
「そうかも…しれません」
きっとあなたはこう思ってるに違いないわ、と彼女は言った。
「あの人を忘れなければ。このままだと日常に戻れない。忘れるべきだ、忘れなければ、きっとあの人の邪魔になる…。でも…。きっとそんな風に考えてる」
勇樹はその言葉に俯いた。
そして、深く頷いた。
…その通りだった。
この人に嘘はつけない。
この人には、心の底を見透かす力でも備わっているのだろうか?
二人が沈黙する中で風の音だけが暫しの間、夜の闇を駆け抜けた。
勇樹は空を見上げた。
雲が一時晴れ、満天の星空に月が見える。秋は夜空も高い。そして夜が長い。
果てしなく静かで時に長く、そして穏やかで孤独な夜だと感じる。やがて迎える長く寒い冬の訪れを予感させる。
静かな星明かりの中で、アリサは眠りに入る子供をあやすような優しげな口調で続けた。
「忘れるということはね勇樹…消してしまうということではないのよ。
心の底の底の方にしまいこんで見ないで生きていくということよ。蓋をして見ないで済むのならそれもいいでしょう…。
けどね、心の奥の奥の方にしまいこんだ強い感情を疚しきこと悪しきものだと思っていたら、きっと表の方に表れている…あなたの心や人格の方が歪んでしまうのよ。人の心のうちは計り知れないなんてよく言うけど、逆に人間の精神は顔形や表情や肉体に顕著に現れたりもする。
心のうちは複雑でも肉体に現れる傾向は単純で誰が見ても解るように変わるのよ。
そして心の奥の強い感情はね、いつも不意に…ふとした瞬間に表に出てくることがあるの。
なぜ、自分があんなことをしたのか解らない、無我夢中で覚えていない、記憶が途切れる、そんなこともままあるわ。
それは心や感情や偶然が導いた結果なんだけれど、それをして運命というのなら確かに人はそうなるようにできているのかもしれないわね。
それは人として、どうしようもないことなの」
勇樹は間宮愛子を思い浮かべていた。山内の前で泣いた彼女の姿を思い出していた。
泣いた彼女を泣きながら抱き締めていた山内も周りの人達も皆、泣いていた。
「人は生きていくことの幸せや喜びを感じた時に始めてそれが失われた時の辛さや喪失に恐怖するわ。
幸せを手にした瞬間、他者の不幸と死を恐れるの。幸福は一人でも成り立つけど誰かと一緒に感じていられたなら、それは幸福と同時に別の価値観を生み出すわ。共有した途端に別の概念をも生み出す。絆だったり愛情だったり手にした幸福が倍に感じる時もあるわ。
あなたが幸せだと私も嬉しい、とかね。だからこそ死は怖い」
勇樹は黙っていた。これが彼女なりの悼みと導きの仕方なのだろう。
「けれど死を見つめ、死を乗り越えることでしか生きることを肯定し、死への絶望を拒絶する術はないわ。
その覚悟の違いが決定的に人の生き方や人そのものを変え、幸福にもするし不幸にもするから…。その理屈を誰よりも知っていたら、きっと誰よりも苦しむことになるでしょうね…」
勇樹は間宮孝陽を、暁の魔術師を思い出していた。アリサはきっと勇樹に伝わるように意図的にそうしているのだ。
「返す返すも私たち人間って因果なものね…」
勇樹は再び頷いた。
頷くことしかできなかった。
たとえば自分が死にたいと思った時、勇樹は果たしてどうするだろう?
事件の過程で勇樹は確かにそれを感じた。人の死に触れ、人の死を何度も目にし、時には人の死を望み、自分の死を望みさえもした。
幾度も幾度も死を意識した。
その度に悲しみと怒りと絶望と、あらゆる感情と違う自分が現れ、それと向き合った。
今日この日、この瞬間に死にたいと思う現実があり、目の前に絶対に助かりようがない、自分ではどうにもならない状況があったとしたらどうするのだろう?
勇樹は己の心に再び問いかけていた。
…生きていくことは決して逃れられない戦いなのだろうか?
ならば、その戦う対象とは何だろう?
何と戦い、何を傷つけ、何を守り、何に勝つというのだろう?
勇樹はひたすら問いかけた。
自分に。
自分自身に。
自分自身の心に。
事件を通して手に入れた、己の心の有り様に。
そして、気づいた。
当然のように至った。
来栖のいう通りだった。
勝敗は絶対的な価値観にはなりえない。勝敗を明確に区分するのなら、そこには逃げるという選択肢だってあるからだ。逃げることは負けることではない。戦術としては手段でもある。
戦わないのならそもそも負けようがない。けれど勇樹に逃げるという選択肢はなかった。
関わらないのは逃げること。
知らないという事は事実から目を背けること。
事実から目を背けるのは現実から何一つ拾うものなどなく、ただ嘘をついて逃げ回ることだ。そこには真実も己の有り様も、そして平穏な未来という当たり前な時間もあろうはずがない。
ひたすら癇癪を起こして喚く幼児と、何にでも難癖をつけて顔を真っ赤にして怒る老人の姿が似ているのと同じだ。自分本意で身勝手な人ほど自分は自分はと繰り返す。
それは周りから見れば、ても滑稽なものだろう。憎々しくも見えるだろう。人は一人ではないと知っている癖に見ないふりをしているのだから。いつか必ず、自分自身に返ってくるものをただただ己の苦しみを和らげる為に保留するのは嘘に過ぎない。
だから勇樹は逃げなかった。
それだけは嫌だったからだ。
得たものは大きかった。
悲しみは多かったし失うものが多すぎた。
けれど何もかも失った訳じゃない。何より大切なものも手に入れられた。
生きているという、この現実からは逃げられない。逃げようがない。
死ぬまで…逃げることはできない。
それが解った。
だからこそ…今だからこそ解る。
生きることは辛い。
生きることは苦痛だ。
出来ることなら…逃げたい。
逃げてしまいたい。
目の前にある悩みや苦しみや悲しみから目を逸らし、いつか自分や身近な誰かが痛み、死ぬことが解りきっている、そんな誰も変えられない、変えようもない現実なんて嫌だ。
苦しみや痛みに満ちた予定調和の為に…。いつか必ず訪れる苦しむだけの未来の為に勇樹達は生きている訳じゃない。けれど、不可逆的で残酷なこの時間の流れは…生きている限り何度でも、それこそ幾度となく自分自身を、周りを、何もかもを…。
変えてしまう。
人は死ぬ。必ず死ぬ。
死は誰にでも訪れる。
いつか絶対に訪れる、その時の為に暗闇の中で夜明けを待ち続ける日々は不安で孤独だ。死という永遠の闇と冷たい無の前に人は独りぼっちだ。
逃げたくてたまらない。逃げ出したい。こんな苦しみを味わうくらいなら、いっそ自分なんか消えて無くなってしまった方がマシだ。
そうか。
こういうことだったのか…。
勇樹はそこに至った。
ようやく、そこに行き着けた。
きっとあの人は…。理事長は生きることの終わりの、そのさらに先にある死というものの先を…。人としての終わりの姿を見ていたのかもしれない。見続けて生きていたのかもしれない。
勇樹は思い出す。
儚く、呆気なく死んでいったあの少女達がこの場所で何を考え、何を見つめていたのかを。
それは終わり。
人としての終わり。
命が潰える最後の終わり。
それは死の本当の意味だ。
死の意味を考え始めた時、実は死には抗い難い魅力があることに勇樹は気づく。
命の終わり…本当に命が尽きるその瞬間の…死というものの訪れからその先には、苦しみや悲しみなんか多分ない。
死はあくまで命の終わりであって意識の行き着く先など考えなくてもいいものだ。人が人である限り、不可逆的な時間の流れからも、肉体的な拘束からも精神的な拘束からも完全に解き放たれる瞬間が死なのだろう。
命が尽きる瞬間に人は繋がれていた鎖を引きちぎるように、完全に時間の流れから解き放たれることができるだろう。
意識が消えてしまえば、思考する肉体が機能しなくなれば、死への恐怖も生への不安も何もない。
生きているということは時間という鎖に繋がれ、死への恐怖に怯えながら、永劫とも思える時を過ごす虜囚となることと同義だ。
死へのタイムリミットは生まれた瞬間に既に刻まれている。命のタイムリミット…その消せない刻印は人によって長かったり短かったり、生きているうちに伸びたり縮んだりもする。時間的な制約に人は抗う術を持たない。人は皆、生まれながらにして時間という絶対的な鎖と己の意識という脳髄の檻の中に繋がれ、肉体という拘束具に覆われ、縛りつけられているのだ。
完全な自由などあり得ない。
魂と肉体が繋がれる牢獄だ。それは人が人である限り、けっして変えようもない現実だ。夢の中でしか夢想することは叶わない絶対的に残酷な理であり真実だ。
生きることも死ぬことも、そこに意味なんてない、か…。
考えてみれば勇樹は死を目前に覚悟した人に対して、とんでもないことを平気で口にしたものだ。本当にあの時は必死だった。必死な思いから咄嗟に口に出た、出たとこ勝負のハッタリや虚勢だった。
けれど、それを理事長は…暁の魔術師は自分への最大級の祝福と罰の言霊だと言ったのだ。
…あの人は勇樹に…自分に何を見たというのだろう?
勇樹は叫んだ。あらん限りの声で叫んだ。
それは紛れもなく、勇樹の中で生まれた魂の叫びといっていいものだった。
生きることも死ぬことも、きっとそこに意味なんてない。どんなに足掻いたところで自分の目に映るものは、結局は自分の二つの瞳の中にしかない。
その窓は小さくて狭くて時に頼りなくて、その窓の向こうにたとえ無限に世界が広がっていたとしても、現実に抱える不安や悩みの前では世界は酷く狭くなってしまう。
人は高く自由に、鳥のように飛べはしない。
生きているから苦しむ。
苦しみたくないから逃げたくなる。
時に死にたくなる。
生は他者の人生と己の人生を比べることでしか規定できないものなのだろうか?
それこそ勝ったか負けたか逃げたかでしか判断できないものなのだろうか?
生きている限り、他者と己が存在するなら、自分が苦しい思いをしたくないから、相手がいなくなってしまえばそれでいいのだろうか?
人は他者は鏡に映した己の姿であるという。
勇樹が思うに、そんなに人は変わらない。
勇樹はあの時、この場所で感じた。涙の向こうに見えた絶対的な孤独と離別を。
誰かを思うことの希望と光の温かさを。
生の前には人が溢れていて、比べる対象は人の数だけ無限に存在して、それぞれに不平等に感じる。死の前に人は平等で孤独なのに。
生きていることは、ただ時間を積み重ねることであり、悲しいことも辛いことも、どうしようもない怒りも憎しみの感情も現実には溢れ返っている。そして、それらはどうやら日常という時間の中に丸ごと包まれている。
不可逆的な時間の流れの中に人は感情のままに生きていて、そして現実は苦しみと悲しみに満ちている。
降り続く現実に傘などない。
けれど止まない雨などない。
嬉しいことがあれば悲しいことが待っている。
悲しいことは嬉しいことがあれば途端に輝き出す。それが当たり前なのだと気づけた。
「本当に呆れた二人ね。何で私がここに現れたか、そろそろ察してほしいわ」
「え?」
「死神と魔術師は近いうちに再会を遂げると私の占いに出ていたのね。ちなみに魔術師は正位置で死神は逆位置で出たわ。カナメには可哀想だけど…」
何が言いたいんだ?
「ちょっとした勘違いなのよ」
「勘違い?」
「貴女達はとても似た者同士だったってことなのよ。
不器用でおっちょこちょいで、相手の気持ちを考えすぎて深みに嵌まって結局、お互いとんでもない勘違いをして、どちらも斜め上の方向に暴走して振りきれている感じね」
何を言っているんだ?
「兄貴ならいつも河川敷で昼寝していたわよ。夕方になれば誰かが現れるかもしれないと待っていたのかもしれないわ。あの界隈に変な噂があるのを知ってる?
…聞いたら笑うわよ。1がつく日の夕方になると真っ黒い男が子供を誘拐しにくるっていうの。目黒区の不審者情報にしっかり載っちゃってるのよねぇ…」
勇樹は金縛りにあっていた。
頭が混乱する。頭が追いつかない。
お互い…勘違い? お互い…待っていた?
待て待て待て。
ちょっと待ってくれ。
「あ、兄貴って…? えぇっ! アリサさんと来栖さんが?」
「そ。私のフルネームはアリサ・コールマン・来栖。私と要は異母兄妹よ。どっちの親も死んじゃってるけど」
ひたすら混乱する勇樹に女占い師は続けた。
「方や白い魔女という“女教皇”になって死神に焦がれて天上で待ち続ける魔術師。
方や“隠者”に変わって魔術師に思いを馳せても近付こうともしないで夕闇に潜む死神。
夜と夕方。お互いがお互いを待ち焦がれていた勘違いのすれ違いで、世間にはただただ怪しい噂だけが残る。
タロットって本当に面白いわね。
始まりと再生が出会った最終予想が何だったのか…。
占い師なんだけど、これは言わない方がいいかもしれないわね。
…だってその方が面白そうなんだもの」
勇樹は今ほど特大級のハンマーで殴られたような感覚を覚えたことはなかった。
どんでん返しは、ある意味で最強だ。
「それじゃ、またね…」
異国情緒溢れる占い師はにっこりと微笑んで、茫然自失している勇樹の前から立ち去った。
※※※
勇樹は駆けた。
ひたすら駆けていた。
事件が起こった時の金田一耕輔のように駆けていた。事件です! 大事件です!
頭を滅茶苦茶にかきむしって“しまった!”と思いきり叫びだしたい衝動に駆られる。
その時だった。
幻聴が聞こえた気がした。
微かな。低い声。
ひどく。懐かしい声。
誰よりも。
聞きたかった声。
勇樹は辺りを見渡した。
今度は必死で探した。
そうすると、また呼ばれた。
「来栖さん? 来栖さん!」
呼ばれたら…。
…そうなんでしょう?
ススキが邪魔で見えない。
勇樹は周囲を見渡した。
何もない。
誰もいない。
勇樹は一人だ。
きらきらと水が光っている。
ぶっきらぼうで聞き覚えのある粗野な声が、いきなり背後から勇樹の耳朶を打った。
勇樹は振り返った。
ほぼ真下。
土手のど真ん中。
そこに。
夕日に浮かぶ黒いシルエットが見えた。夕焼けに長い長い尾を引いて、大の字になって寝そべった長身の男の目立つ影を際立たせた。
こんなに目立つところにいたのに。
こんなにも近くにいたのに何で見つけられなかったのだろう?
勇樹は可笑しかった。
自然と涙が零れていた。
そうだった。
忘れていた。
この男はいつも、勇樹が最悪の気分の時に現れるのだった。
こんなに寂しかったことはない。こんなにも誰かを愛おしく思ったことなんかない。こんなにも嬉しくてこんなにも優しくて温かい気持ちになれたことなんてない。
苦しくて切なくて、何もかも振り切れて高鳴る胸の鼓動も熱くなる身体の熱も勇樹のこの気持ちも声も聞かずに…。
狡い。凄く狡い男だ。
「来栖さん…」
そっと近づく。
いつかと同じ夕焼けの空の下。
二つの影法師。
「来栖さん!」
やや咎めるように呼ぶ。
答えない。憎らしい。
男は聞こえないふりをして横向きになった。自分から勇樹を見かねて声を出した癖に、どうやら寝たふりを決め込むつもりらしい。
とことん不器用で意地っ張りな男だ。
別に逃げも隠れもしないから好きにしろ、という態度をとっている。狡い。
推理する時はあんなに流暢に話す癖に、肝心なことは何一つ言葉にしない。勇樹にはしてくれない。狡い。
どうしてくれよう。
今なら隙だらけだ。
このまま覆い被さってキスしてやりたい衝動に駆られる。思いきり抱き締めて転がって一緒に川に落ちたら身体の火照りも恥ずかしさも頭も一気に覚めるだろうか?
でも。
先ずはこの一言だ。
勇樹は静かに微笑んで言った。
「呼ばれたら答えろよな、バカヤロウ」
了
「う~っす!」
「…なぁ、聞いた? 屋上の“白い魔女”の噂。また出たんだってよ」
「…マジで? あそこってさ、もう立入禁止になったじゃん? ほら、夏のあの…」
「ああ…。“アレ”ね…」
「もう高いフェンスで囲まれてるし上がれなくない?」
「工事業者とか来んのチョー早かったよね?」
「早かった早かった! 三日くらい? マジで突貫工事。気づいたら金網高くなってたしさ。絶対ありゃ登れないわ」
「そうそう。内側にチョー角度つけて網目が細かいのなんの、足も引っかけられなくなってんの。どうせなら有刺鉄線とかにしちゃえばって感じ?」
「新しく入った用務員さんじゃないの? 日中とか時計塔にいるし」
「日中はね。夕方には帰っちゃうでしょ。メンテの業者と見間違えたんじゃないの?」
「そりゃないわ。夜間工事とかやってないし。時計塔は文化財扱いで保存されるみたいだし。いずれはどっかの警備会社とかと契約するみたいよ」
「だから女の幽霊なんだろ。どうやって夜中に鍵の掛かったドアと高いフェンス乗り越えるんだよ? 屋上の密室だぞ」
「嘘ばっかし。そんなのいる訳ないでしょ。あんな事件起こった場所なんだよ? 話盛ってんの見え見え。不謹慎」
「俺に言うな。俺が見た訳じゃねぇんだから」
「この間、見たっつってたの誰だっけ?」
「B組の吉田。10日くらい前だっけかな。ってことは今月の1日?」
「うん、確かそんくらい。部活で夜遅くにガッコにケータイ忘れたのに気付いて取りに行ったら見たんだって」
「嘘! マジで!? どこのクラスの奴だ!?」
「だからB組の…」
「じゃなくてさ。仮にその白い魔女がいるなら、どっかのクラスの女生徒ってことだろ?」
「まぁ、いればね。ってか幽霊じゃないの?」
「そんな感じに見えなかったんだってよ。手に白いブーケかなんか持って白いウェディングドレスみてーなヒラヒラした裾の長いスカートで上は…アレ、なんつったっけ? 肩と背中が開いてるセクシー下着」
「ビスチェ? ってかベアトップでしょ?」
「そう、それ! 着てたんだってよ。まぁ幽霊じゃないってんだから脚があったんだろ」
「アホくさ。アンタ幽霊とか信じてる訳?」
「いや、それがよ…その白い魔女ってけっこう可愛いらしくてよ。ほっそりしてて髪が長くて胸もそこそこ大きくて、しかも白い魔女とか、そそられ…痛てっ!
…おい、耳引っ張るんじゃねぇよ!」
「ふん、朝っぱらからアンタが変なこと言うからでしょ!」
「あ~行こ。もう行こ。朝からお熱いノロケ話とか聞きたくねーし」
「アタシ…すっごい気分悪くなってきた!」
「まぁまぁ」
「別れちゃえば? アハハ」
「…あっ! あそこだよ!ねぇママー、私もパパが見た白いお姉ちゃん見たい!」
「こら、ユキ。指さしちゃダメでしょ。あっち行こうね」
「…あら、おはようございます、田中さん」
「ああ奥さん、おはようございます。ずいぶんあそこの学校も変わりましたな~。両の道に植樹しただけでずいぶん印象が変わった」
「あの木、桜だそうですわ。あっちの…ほら、あの坂道の桜並木がここまで続いてくるらしいですわ」
「ほほぉ…春には満開ですな。お花見ができそうですな。もう秋だというのに、そう考えると何だかワクワクしますな」
「ふふ、楽しみですわね」
「ってかさぁ、やっぱ守護霊っつーの? あると思うんだよな! あのガッコってさ…芸能人の姉妹とか今度入ってくるらしいぜ。引き寄せられてるんだよ、白い女神様によ」
「やめてよ。アタシんち、こっから近いんだから。絶対に比べられる…」
「あそこさ、金持ちとか多い私立校じゃん? 可愛いコも多いしさ。ヤバくねぇ?」
「今年の文化祭、オレ絶対行くわ」
「最近警官とか全然見なくなったよな」
「まぁね。平和だし事件もないしね。警官とか学校とかに来ないからねフツー」
「そういやさ、あの真っ黒いオシャレなスーツ着た人、最近見ないよな?」
「ああ、あのホストみたいな凄いイケメンか! 女子が騒いでた」
「やっぱ男は顔かね~。ウチの女生徒が惚れるとかどんだけレベル高ぇんだよ…」
「言えてる…。あーあ…やっぱこういう綺麗で華やかな学校にいたんだからさぁ…そらもう、何人か、パックリと…」
「食べられててもおかしくないんだよなぁ。あ~あ、やってらんねー…」
「ねえ奥さん、聞きました? またあの学校なんですってよ」
「ええ、また聖真学園ですってね。これで吹奏楽部も全国区ね! ウチのコももっと頑張ってくれないかしら…」
「おい…本当の話か? それ」
「だから事実だって」
「ありえねー! 今日が数学のテストとか、そんな話始めて聞いたぞ!」
「一週間前から言ってたって」
「終わった…。俺の人生詰んだ」
「あははは、大袈裟だな~」
34
いつものように、貴子に渡された合鍵で殺風景な屋上に入ると、冷たい夜風と外気が勇樹を出迎えた。
時計塔の螺旋階段はゆっくりと歩いてくると、やたらと長く感じた。普段は履かない白いハイヒールは相変わらず少し歩きづらく、未だに慣れなかった。
けれど最初の頃に比べれば、階段で幾度も転びそうにならなくなっただけ幾らかマシで、そこは少し成長したのかもしれない。今日はワンピースにしていた。
今夜の空には薄く雲が翳り、月はその背後に隠れている。吹きすさぶ夜の風は今夜も冴え冴えと冷たく、凛とした孤独を運んでくる。
いつものように勇樹は時計塔の一番隅に立つ。
いつものように白いブーケを両手に持つ。
内側に湾曲して狭くなった、切り取られたような金網越しに空を見上げ、勇樹は静かに夜空に向けて呟いた。
「月と夜とあの人達に…」
いつものように勇樹は目を閉じて祈る。
そして、待った。
基本的にはこれだけだ。
たったこれだけでよかった。
始めに言い出したのは貴子だった。
理事長が飛び降りて死んだ、あの事件から数日後のことだった。
「勇樹…本当にこのままで…いいの?」
「いいも何も、もう終わったんだよ。あの人が言っていたじゃないか。僕の事件はこれで終わりだって」
「あの人だなんて、もう他人みたいに言わないで。気持ちを確かめた訳じゃないじゃない」
「日本語が変だぞ。…っていうか変わったな、お前。一ヶ月前とは別人みたいだ。実は鈴木貴子じゃないとか? 入れ替わりトリックか?」
「誤魔化さないで」
容赦ない。本人が意識しているかどうかわからないが、最近ますます性格が奈美や由紀子に似てきたと思う。
煮え切らない勇樹の態度を見透かすように、貴子はじっと勇樹の目を見つめる。
容赦なく見つめている。
鼻先数cmまで顔を寄せて勇樹の目を見ている。
結局勇樹は目を逸らした。
「な、なんだよ…。近い。近いよ、貴子」
「こんなことだと思った。…ねぇ勇樹。聞いてくれる? 私に考えがあるの」
「どうせロクでもないことだろ」
「知りたくないの? 来栖要を釣る方法」
「魚みたいに言うなよ。あんなの…あんな大物が簡単に…捕まられ…捕まえられる訳ないじゃないじゃないか」
「日本語が変。動揺してる」
本当に容赦ない。事件が始まった時と違い、今や完全に立場が入れ替わっている。
「…僕を唆すのか?」
「たまには唆されたらどうなの?」
それが、たった今のこの状況なのだった。
とにかくやれの一点張りで一度言い出したら割と頑固で強引な貴子の言うままに、今もこうして立っている。
魔術師はタロットカードの1番目のカード。数字の1がつく日に10日ごとに勇樹と貴子で交代で立つのが決まりだった。
時間は夜の23時から1時間だけ。
なるべく白く女の子らしい服を着て、ブーケを持って事件が起こった場所に立つこと。
黒や赤が妖しく舞う、怪しいフードやマントのイメージを完全に払拭するのが目的だった。
走り出したら止まらない貴子は元担任なのをいいことに新たな理事長となった山内に相談し、勇樹の知らぬ間にちゃっかり合鍵まで預かっていた。
理事長もやけに乗り気で、白いワンピースとハイヒールまで用意してくれた。
それは、あの間宮愛子の形見でもあった。
ヒールも大人びたワンピースも、サイズは誂えたように勇樹にぴったりだった。
「偶然にしても出来すぎているな。彼女や死んでいった人達やこれからの学園の為だなんて重く考える必要はない。お前の判断に任せよう」
とは山内の言葉だった。
勇樹は躊躇しなかった。
夜風が本当に心地好い。
肌に触れる秋の夜気はひんやりとしていて、螺旋階段を上がってきた熱を急速に冷ましてくれる。時折吹いてくる風が勇樹の白いワンピースをはためかせる。
幽霊になるのも悪くないな。
一息ついて目を開け、勇樹は改めて時計塔の最上階を見渡してみた。真新しい緑色のフェンスの細かい網目は指ひとつ通るのがやっとなくらい、内側にいる人間が外側へ飛び立つことを頑なに拒絶していた。
工事は夜間を通して三日ほど続いたが、作りは頑丈で完全な檻のようなものだった。
微かに錆びたような香りを感じる。勇樹は白いラウンドブーケを傍らに置いて、バルコニーの手摺の向こう側に広がる街を見つめた。
月明かりだけが照らす夜の闇の中、錆びたような香りを感じながら見下ろす街はまるで宝石のようだった。
昔流行ったロックバンドの曲が脳内再生されたように感じて勇樹は少し可笑しかった。
見下ろした街は本当に温かい光が宝石のように広がっていた。美しい夜景の中で、勇樹はため息をついていた。
貴子や勇樹のメッセージに対する答えは相変わらずなかった。
7月になって1を跨ぐ日付が何度目かを越え、うだるように暑い8月を迎える頃になって勇樹は少し不安になった。
もしや来栖は、それなりの日常を送るようになった勇樹に対して、気を遣っているのではないだろうか。
終わった事件の関係者に対して、探偵がどうこう言うべきではないと考えているのではないだろうか。そうなのだろう。
ならば、忘れろ。
そういうことか。
事実、勇樹は日々に追われて胸の奥では堪らなく焦がれつつも、来栖のことを忘れようと努めてきた。あちら側に足を向けようとは思わなかった。
結局夏休みが終わって部活に精を出しながら、勇樹は今までの自分らしくもなく予備校に通い始め、コンビニでアルバイトまで始めたりもしたのだが、来栖の真っ黒なスーツ姿が勇樹や貴子の前に現れることはなかった。
その度に勇樹は…。
少し寂しくなった。来栖に会えないことが淋しかったのではない。きっと忘れてしまうことが寂しかったのだ。陽の当たる場所で暮らしていると、闇の中のことは見えないし、また見る必要もない。闇に思いを馳せる暇すら与えてくれない。
全ては夢の中の出来事のようなものだった。
忙しいと全てが嘘だったようにも思える。
でも。
嘘ではないし夢でもない。
だから、ここに来るのはいつしか楽しみになっていた。未練がましくも、もう一度非日常を味わいたい、そんな自分に酔いたいというのも確かにあったかもしれない。けれど。
鎮魂と祈りと祝福と離別を。
それをこの場所に来ることで己に確かめ、積み重ねることは、きっと勇樹や貴子にしか出来ないことだと思えたからだった。
貴子には感謝していた。
由紀子に奈美、そして死んでいった女生徒達と間宮愛子と理事長への彼女なりの別れと弔いの表出なのだ。
クリスチャンの貴子らしいアプローチの仕方で思いも寄らなかった。
ただ祈る。ただ願う。ただ思う。
たったそれだけの当然のことを、勇樹は完全に忘れていたのだ。
そこに意味などないけれど、意味を作ることに意味があった。意味を見出だし、形にすることで、それがいつしかなくてはならないものになっている。
思い出が家族になるようなものだ。
呪詛でなく祝福を。絶望でなく希望を。
勇樹が来栖の本意を悟ったのは、理事長が死んで事件がすっかり片付いた後のことだった。
あれだけの騒ぎが起きたにも関わらず、そしてそれに関する悪い噂が蔓延していたにも関わらず、のみならず未解決の事件の真相が報道されて奇怪な女生徒の死体まで発見されたにも関わらず、私立学園が閉校の憂き目に遭うことは一切なかった。
呪いか否かは別としても、理事長の死因が自殺であることは間違いないと、警察はそう判断せざるを得なかったようだ。
花屋敷刑事と石原刑事は、事件後にすぐに駆けつけ、対応してくれた。
うちひしがれた貴子と勇樹を見て、大柄な刑事と小柄な女刑事はある程度、状況を察したようだった。二人には包み隠さず全てを語った。
理事長の間宮孝陽こそが、学園を覆う不可解な舞台を作り上げた本当の真犯人であったこと。事件の陰で動いていた探偵の来栖要との熾烈なやり取りがあったこと。
二人は親身になって勇樹と貴子の話を聞いてくれた。二人とは今でも時折メールのやり取りまでしている。
二人の後方でやや不貞腐れているような白いサマースーツを着た早瀬一郎警視の様子が気になったが、勇樹はこの時になって始めて花屋敷から、彼が捜査責任者であったのだということを聞かされた。
勇樹の父よりも階級は上で、聞けば直属の上司であり警視なのだという。しかも花屋敷と来栖とは大学の旧友なのだそうだ。
インテリで冷静な印象が強い早瀬一郎警視はなぜか、来栖の名前が出た瞬間に必死の形相で、来栖が現れたら真っ先に私に連絡するんだ絶対だぞ必ずだぞ、と早口で強引にまくし立て、勇樹に手書きの電話番号とメールアドレスまで渡してくれたのが可笑しかった。
大急ぎで書いたと思われる早瀬警視のメモには「近いうちに絶対に逮捕する」とやや物騒なことまで書いてあったのだが、花屋敷にそれとなく訊ねてみると、あれは俺達の挨拶代わりのようなものだから気にするな、と笑っていた。
花屋敷は上野の不忍池で起こった不可解な殺人事件にかかりきりで三人とも眠る暇もないほど忙しいのだとボヤいていたが、相棒の石原刑事と仏頂面をした早瀬警視に促され、花屋敷刑事は学園から去っていった。
事件から一週間ほどして、理事長と新校長紹介の全校集会行事が体育館で行われたのだが、生徒達の方が驚きを隠せなかったに違いない。
式では若い国語教師が事前に養子縁組の届け出が成されていた末に、理事長の椅子に収まったこと。年の差が二回りも違う化学教師と若い事務員が結婚したことが紹介された。
元教頭である新校長の話は非常に簡潔で手短な挨拶のみで、開始から三分と経たずに終わったのが生徒達には相当にインパクトのある出来事だったらしく、それは“傷のハゲの起こした奇跡”として学校では暫くの間、その噂で持ちきりとなった。
PTA総会では相当ないざこざがあったと聞くが、一番尽力したのが体育教師の植田だと後から聞かされた時は驚きであった。長らく別居状態だった奥さんや子供と復縁して人が変わったように穏やかになった植田が気持ち悪い、とは口さがない学園の噂を集めたネット掲示板の新たなスレッドであったが、ここでもその噂で持ちきりだった。
治安の悪化や風評の被害という学園経営の存続自体が危機的状況だったにも関わらず、隠された秘密のモルグや来栖コレクションという知る人ぞ知る奇跡的な解決策によって学園は閉校の憂き目からは免れたのだと聞く。
やや不謹慎ではあるが、高橋里美の遺体は正式にエンバーミングという耳慣れない技術によって修復され、さる大学の研究対象として国の保護下になったとも聞いた。
時計塔と地下のモルグは正式に文化財の保護指定まで受けて、片桐財閥という日本有数の財閥企業が突然名乗りを上げ、正式に敷地を丸ごと買い上げたことで解決したのだった。
これもネットの噂だが、その財閥の会長という人物は、秋田県のとある別荘地で起こった殺人事件の関係者で、来栖コレクションに魅せられて以降、金に糸目をつけない人物となったのだそうだ。
こうして噂が新たな噂を呼び、聖真学園は着々と再生してきているのだから返す返すも人の噂は侮れなかった。
…死神のカードが成せる離れ業、なのかな。
勇樹は感嘆のため息を洩らした。
その時だった。
背後からドアの開く音がした。
勇樹は慌てて振り返った。
そして、落胆した。
「久し振りに会ったっていうのに、そんなあからさまにガッカリした表情されると、少し傷つくわねぇ」
「ごめんなさい。誰かが来ると思ってなくて。つい先走っちゃいました。
…おひさしぶりですね、アリサさん。
…我ながら重症ですね、僕って」
あら恋煩いなら相談に乗るわよ、と女占い師のアリサは相変わらず眠気を催しそうな独特の甘い香水の香りを漂わせながら、勇樹の隣に立った。
「占い師として改めて祝福を告げに参上したわよ。…終わったのね」
「ええ、終わりました」
勇樹はアリサに貴子と始めた白い魔女の話を始めた。
話し出すと堰を切ったように一気に言葉が溢れ出た。
アリサに話している間、自然と今までのことが走馬灯のように甦り、駆け巡った。勇樹は再び、語ることで完全に憑き物が落ちていくような感覚を覚えていた。
高い高い時計塔の上で、ひんやりした夜風が二人を撫でる。
今さら当たり前だけど、とアリサは言った。
「生きてるとね、それなりに良いことも悪いこともあるものよ。頭の中や体そのものにね、その良いことと悪いことが折り重なって溜まってしまうの。
良いことだけを見て生きていければきっと幸せだけど、そういう風には人は出来ていないわ。生きていくということは生活していくっていう日常の繰り返し。
退屈も不幸も愛も幸福も正義も悪も罪も罰も絆もけじめも。それら人の心の中に生まれる感情や形のない価値観や概念まで日常には丸ごとくるまれているわ。
禍福は糾える縄の如しっていうけれど、人ってね…善いことも悪いことも真っ正面から見据えて、何もかもを受け入れるように生きていなければ本当の幸福さえも解らないものなんじゃないかしら? 良いことも悪いことも自分の記憶に眠れば価値は等しく同じだしね…。
勇樹…あなたはね、この短期間で見違えるように成長したわよ」
「変わりましたか?」
勇樹は気になって尋ねた。心の内といい生活習慣といい劇的に変化したとは思うが外側はどうなのだろう?
鏡で毎日、自分の顔を見ている自分と、外側の人から見える自分はきっと全く違う。
変わったわ凄く、と彼女は静かに微笑んだ。
「綺麗になったわ、とても。凄く女のコっぽくなった。だからこそ解るの。
凄く幸せそうに見えるし、反面そのせいで苦しんでいるんだなって。それはまったく矛盾しないから。言葉にすると野暮だけどね」
「そうかも…しれません」
きっとあなたはこう思ってるに違いないわ、と彼女は言った。
「あの人を忘れなければ。このままだと日常に戻れない。忘れるべきだ、忘れなければ、きっとあの人の邪魔になる…。でも…。きっとそんな風に考えてる」
勇樹はその言葉に俯いた。
そして、深く頷いた。
…その通りだった。
この人に嘘はつけない。
この人には、心の底を見透かす力でも備わっているのだろうか?
二人が沈黙する中で風の音だけが暫しの間、夜の闇を駆け抜けた。
勇樹は空を見上げた。
雲が一時晴れ、満天の星空に月が見える。秋は夜空も高い。そして夜が長い。
果てしなく静かで時に長く、そして穏やかで孤独な夜だと感じる。やがて迎える長く寒い冬の訪れを予感させる。
静かな星明かりの中で、アリサは眠りに入る子供をあやすような優しげな口調で続けた。
「忘れるということはね勇樹…消してしまうということではないのよ。
心の底の底の方にしまいこんで見ないで生きていくということよ。蓋をして見ないで済むのならそれもいいでしょう…。
けどね、心の奥の奥の方にしまいこんだ強い感情を疚しきこと悪しきものだと思っていたら、きっと表の方に表れている…あなたの心や人格の方が歪んでしまうのよ。人の心のうちは計り知れないなんてよく言うけど、逆に人間の精神は顔形や表情や肉体に顕著に現れたりもする。
心のうちは複雑でも肉体に現れる傾向は単純で誰が見ても解るように変わるのよ。
そして心の奥の強い感情はね、いつも不意に…ふとした瞬間に表に出てくることがあるの。
なぜ、自分があんなことをしたのか解らない、無我夢中で覚えていない、記憶が途切れる、そんなこともままあるわ。
それは心や感情や偶然が導いた結果なんだけれど、それをして運命というのなら確かに人はそうなるようにできているのかもしれないわね。
それは人として、どうしようもないことなの」
勇樹は間宮愛子を思い浮かべていた。山内の前で泣いた彼女の姿を思い出していた。
泣いた彼女を泣きながら抱き締めていた山内も周りの人達も皆、泣いていた。
「人は生きていくことの幸せや喜びを感じた時に始めてそれが失われた時の辛さや喪失に恐怖するわ。
幸せを手にした瞬間、他者の不幸と死を恐れるの。幸福は一人でも成り立つけど誰かと一緒に感じていられたなら、それは幸福と同時に別の価値観を生み出すわ。共有した途端に別の概念をも生み出す。絆だったり愛情だったり手にした幸福が倍に感じる時もあるわ。
あなたが幸せだと私も嬉しい、とかね。だからこそ死は怖い」
勇樹は黙っていた。これが彼女なりの悼みと導きの仕方なのだろう。
「けれど死を見つめ、死を乗り越えることでしか生きることを肯定し、死への絶望を拒絶する術はないわ。
その覚悟の違いが決定的に人の生き方や人そのものを変え、幸福にもするし不幸にもするから…。その理屈を誰よりも知っていたら、きっと誰よりも苦しむことになるでしょうね…」
勇樹は間宮孝陽を、暁の魔術師を思い出していた。アリサはきっと勇樹に伝わるように意図的にそうしているのだ。
「返す返すも私たち人間って因果なものね…」
勇樹は再び頷いた。
頷くことしかできなかった。
たとえば自分が死にたいと思った時、勇樹は果たしてどうするだろう?
事件の過程で勇樹は確かにそれを感じた。人の死に触れ、人の死を何度も目にし、時には人の死を望み、自分の死を望みさえもした。
幾度も幾度も死を意識した。
その度に悲しみと怒りと絶望と、あらゆる感情と違う自分が現れ、それと向き合った。
今日この日、この瞬間に死にたいと思う現実があり、目の前に絶対に助かりようがない、自分ではどうにもならない状況があったとしたらどうするのだろう?
勇樹は己の心に再び問いかけていた。
…生きていくことは決して逃れられない戦いなのだろうか?
ならば、その戦う対象とは何だろう?
何と戦い、何を傷つけ、何を守り、何に勝つというのだろう?
勇樹はひたすら問いかけた。
自分に。
自分自身に。
自分自身の心に。
事件を通して手に入れた、己の心の有り様に。
そして、気づいた。
当然のように至った。
来栖のいう通りだった。
勝敗は絶対的な価値観にはなりえない。勝敗を明確に区分するのなら、そこには逃げるという選択肢だってあるからだ。逃げることは負けることではない。戦術としては手段でもある。
戦わないのならそもそも負けようがない。けれど勇樹に逃げるという選択肢はなかった。
関わらないのは逃げること。
知らないという事は事実から目を背けること。
事実から目を背けるのは現実から何一つ拾うものなどなく、ただ嘘をついて逃げ回ることだ。そこには真実も己の有り様も、そして平穏な未来という当たり前な時間もあろうはずがない。
ひたすら癇癪を起こして喚く幼児と、何にでも難癖をつけて顔を真っ赤にして怒る老人の姿が似ているのと同じだ。自分本意で身勝手な人ほど自分は自分はと繰り返す。
それは周りから見れば、ても滑稽なものだろう。憎々しくも見えるだろう。人は一人ではないと知っている癖に見ないふりをしているのだから。いつか必ず、自分自身に返ってくるものをただただ己の苦しみを和らげる為に保留するのは嘘に過ぎない。
だから勇樹は逃げなかった。
それだけは嫌だったからだ。
得たものは大きかった。
悲しみは多かったし失うものが多すぎた。
けれど何もかも失った訳じゃない。何より大切なものも手に入れられた。
生きているという、この現実からは逃げられない。逃げようがない。
死ぬまで…逃げることはできない。
それが解った。
だからこそ…今だからこそ解る。
生きることは辛い。
生きることは苦痛だ。
出来ることなら…逃げたい。
逃げてしまいたい。
目の前にある悩みや苦しみや悲しみから目を逸らし、いつか自分や身近な誰かが痛み、死ぬことが解りきっている、そんな誰も変えられない、変えようもない現実なんて嫌だ。
苦しみや痛みに満ちた予定調和の為に…。いつか必ず訪れる苦しむだけの未来の為に勇樹達は生きている訳じゃない。けれど、不可逆的で残酷なこの時間の流れは…生きている限り何度でも、それこそ幾度となく自分自身を、周りを、何もかもを…。
変えてしまう。
人は死ぬ。必ず死ぬ。
死は誰にでも訪れる。
いつか絶対に訪れる、その時の為に暗闇の中で夜明けを待ち続ける日々は不安で孤独だ。死という永遠の闇と冷たい無の前に人は独りぼっちだ。
逃げたくてたまらない。逃げ出したい。こんな苦しみを味わうくらいなら、いっそ自分なんか消えて無くなってしまった方がマシだ。
そうか。
こういうことだったのか…。
勇樹はそこに至った。
ようやく、そこに行き着けた。
きっとあの人は…。理事長は生きることの終わりの、そのさらに先にある死というものの先を…。人としての終わりの姿を見ていたのかもしれない。見続けて生きていたのかもしれない。
勇樹は思い出す。
儚く、呆気なく死んでいったあの少女達がこの場所で何を考え、何を見つめていたのかを。
それは終わり。
人としての終わり。
命が潰える最後の終わり。
それは死の本当の意味だ。
死の意味を考え始めた時、実は死には抗い難い魅力があることに勇樹は気づく。
命の終わり…本当に命が尽きるその瞬間の…死というものの訪れからその先には、苦しみや悲しみなんか多分ない。
死はあくまで命の終わりであって意識の行き着く先など考えなくてもいいものだ。人が人である限り、不可逆的な時間の流れからも、肉体的な拘束からも精神的な拘束からも完全に解き放たれる瞬間が死なのだろう。
命が尽きる瞬間に人は繋がれていた鎖を引きちぎるように、完全に時間の流れから解き放たれることができるだろう。
意識が消えてしまえば、思考する肉体が機能しなくなれば、死への恐怖も生への不安も何もない。
生きているということは時間という鎖に繋がれ、死への恐怖に怯えながら、永劫とも思える時を過ごす虜囚となることと同義だ。
死へのタイムリミットは生まれた瞬間に既に刻まれている。命のタイムリミット…その消せない刻印は人によって長かったり短かったり、生きているうちに伸びたり縮んだりもする。時間的な制約に人は抗う術を持たない。人は皆、生まれながらにして時間という絶対的な鎖と己の意識という脳髄の檻の中に繋がれ、肉体という拘束具に覆われ、縛りつけられているのだ。
完全な自由などあり得ない。
魂と肉体が繋がれる牢獄だ。それは人が人である限り、けっして変えようもない現実だ。夢の中でしか夢想することは叶わない絶対的に残酷な理であり真実だ。
生きることも死ぬことも、そこに意味なんてない、か…。
考えてみれば勇樹は死を目前に覚悟した人に対して、とんでもないことを平気で口にしたものだ。本当にあの時は必死だった。必死な思いから咄嗟に口に出た、出たとこ勝負のハッタリや虚勢だった。
けれど、それを理事長は…暁の魔術師は自分への最大級の祝福と罰の言霊だと言ったのだ。
…あの人は勇樹に…自分に何を見たというのだろう?
勇樹は叫んだ。あらん限りの声で叫んだ。
それは紛れもなく、勇樹の中で生まれた魂の叫びといっていいものだった。
生きることも死ぬことも、きっとそこに意味なんてない。どんなに足掻いたところで自分の目に映るものは、結局は自分の二つの瞳の中にしかない。
その窓は小さくて狭くて時に頼りなくて、その窓の向こうにたとえ無限に世界が広がっていたとしても、現実に抱える不安や悩みの前では世界は酷く狭くなってしまう。
人は高く自由に、鳥のように飛べはしない。
生きているから苦しむ。
苦しみたくないから逃げたくなる。
時に死にたくなる。
生は他者の人生と己の人生を比べることでしか規定できないものなのだろうか?
それこそ勝ったか負けたか逃げたかでしか判断できないものなのだろうか?
生きている限り、他者と己が存在するなら、自分が苦しい思いをしたくないから、相手がいなくなってしまえばそれでいいのだろうか?
人は他者は鏡に映した己の姿であるという。
勇樹が思うに、そんなに人は変わらない。
勇樹はあの時、この場所で感じた。涙の向こうに見えた絶対的な孤独と離別を。
誰かを思うことの希望と光の温かさを。
生の前には人が溢れていて、比べる対象は人の数だけ無限に存在して、それぞれに不平等に感じる。死の前に人は平等で孤独なのに。
生きていることは、ただ時間を積み重ねることであり、悲しいことも辛いことも、どうしようもない怒りも憎しみの感情も現実には溢れ返っている。そして、それらはどうやら日常という時間の中に丸ごと包まれている。
不可逆的な時間の流れの中に人は感情のままに生きていて、そして現実は苦しみと悲しみに満ちている。
降り続く現実に傘などない。
けれど止まない雨などない。
嬉しいことがあれば悲しいことが待っている。
悲しいことは嬉しいことがあれば途端に輝き出す。それが当たり前なのだと気づけた。
「本当に呆れた二人ね。何で私がここに現れたか、そろそろ察してほしいわ」
「え?」
「死神と魔術師は近いうちに再会を遂げると私の占いに出ていたのね。ちなみに魔術師は正位置で死神は逆位置で出たわ。カナメには可哀想だけど…」
何が言いたいんだ?
「ちょっとした勘違いなのよ」
「勘違い?」
「貴女達はとても似た者同士だったってことなのよ。
不器用でおっちょこちょいで、相手の気持ちを考えすぎて深みに嵌まって結局、お互いとんでもない勘違いをして、どちらも斜め上の方向に暴走して振りきれている感じね」
何を言っているんだ?
「兄貴ならいつも河川敷で昼寝していたわよ。夕方になれば誰かが現れるかもしれないと待っていたのかもしれないわ。あの界隈に変な噂があるのを知ってる?
…聞いたら笑うわよ。1がつく日の夕方になると真っ黒い男が子供を誘拐しにくるっていうの。目黒区の不審者情報にしっかり載っちゃってるのよねぇ…」
勇樹は金縛りにあっていた。
頭が混乱する。頭が追いつかない。
お互い…勘違い? お互い…待っていた?
待て待て待て。
ちょっと待ってくれ。
「あ、兄貴って…? えぇっ! アリサさんと来栖さんが?」
「そ。私のフルネームはアリサ・コールマン・来栖。私と要は異母兄妹よ。どっちの親も死んじゃってるけど」
ひたすら混乱する勇樹に女占い師は続けた。
「方や白い魔女という“女教皇”になって死神に焦がれて天上で待ち続ける魔術師。
方や“隠者”に変わって魔術師に思いを馳せても近付こうともしないで夕闇に潜む死神。
夜と夕方。お互いがお互いを待ち焦がれていた勘違いのすれ違いで、世間にはただただ怪しい噂だけが残る。
タロットって本当に面白いわね。
始まりと再生が出会った最終予想が何だったのか…。
占い師なんだけど、これは言わない方がいいかもしれないわね。
…だってその方が面白そうなんだもの」
勇樹は今ほど特大級のハンマーで殴られたような感覚を覚えたことはなかった。
どんでん返しは、ある意味で最強だ。
「それじゃ、またね…」
異国情緒溢れる占い師はにっこりと微笑んで、茫然自失している勇樹の前から立ち去った。
※※※
勇樹は駆けた。
ひたすら駆けていた。
事件が起こった時の金田一耕輔のように駆けていた。事件です! 大事件です!
頭を滅茶苦茶にかきむしって“しまった!”と思いきり叫びだしたい衝動に駆られる。
その時だった。
幻聴が聞こえた気がした。
微かな。低い声。
ひどく。懐かしい声。
誰よりも。
聞きたかった声。
勇樹は辺りを見渡した。
今度は必死で探した。
そうすると、また呼ばれた。
「来栖さん? 来栖さん!」
呼ばれたら…。
…そうなんでしょう?
ススキが邪魔で見えない。
勇樹は周囲を見渡した。
何もない。
誰もいない。
勇樹は一人だ。
きらきらと水が光っている。
ぶっきらぼうで聞き覚えのある粗野な声が、いきなり背後から勇樹の耳朶を打った。
勇樹は振り返った。
ほぼ真下。
土手のど真ん中。
そこに。
夕日に浮かぶ黒いシルエットが見えた。夕焼けに長い長い尾を引いて、大の字になって寝そべった長身の男の目立つ影を際立たせた。
こんなに目立つところにいたのに。
こんなにも近くにいたのに何で見つけられなかったのだろう?
勇樹は可笑しかった。
自然と涙が零れていた。
そうだった。
忘れていた。
この男はいつも、勇樹が最悪の気分の時に現れるのだった。
こんなに寂しかったことはない。こんなにも誰かを愛おしく思ったことなんかない。こんなにも嬉しくてこんなにも優しくて温かい気持ちになれたことなんてない。
苦しくて切なくて、何もかも振り切れて高鳴る胸の鼓動も熱くなる身体の熱も勇樹のこの気持ちも声も聞かずに…。
狡い。凄く狡い男だ。
「来栖さん…」
そっと近づく。
いつかと同じ夕焼けの空の下。
二つの影法師。
「来栖さん!」
やや咎めるように呼ぶ。
答えない。憎らしい。
男は聞こえないふりをして横向きになった。自分から勇樹を見かねて声を出した癖に、どうやら寝たふりを決め込むつもりらしい。
とことん不器用で意地っ張りな男だ。
別に逃げも隠れもしないから好きにしろ、という態度をとっている。狡い。
推理する時はあんなに流暢に話す癖に、肝心なことは何一つ言葉にしない。勇樹にはしてくれない。狡い。
どうしてくれよう。
今なら隙だらけだ。
このまま覆い被さってキスしてやりたい衝動に駆られる。思いきり抱き締めて転がって一緒に川に落ちたら身体の火照りも恥ずかしさも頭も一気に覚めるだろうか?
でも。
先ずはこの一言だ。
勇樹は静かに微笑んで言った。
「呼ばれたら答えろよな、バカヤロウ」
了
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