モブの悪役令息は平穏な日々を望むも、破滅回避のためシナリオに翻弄される

妖精 美瑠

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一章 屋敷編

第4話 母の微笑みを取り戻すために

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 その日、グランフィールド邸にはいつもとは違う張り詰めた空気が漂っていた。普段なら静まり返っているはずの廊下には、使用人たちの慌ただしい足音が響き渡り、誰もが落ち着きを失っている。大理石の床を走る靴音、消え入りそうな小声で交わされる会話、そして時折漏れるすすり泣き――。

「どうして……こんなことに……」

「奥様が……あんなに急に……」

 すれ違いざまに聞こえた言葉に、俺――レオナールの心臓が一瞬強く跳ねた。胸の奥に、嫌な予感が広がっていく。

「ルカス、これは一体どういうことだ?」

 後ろに控えていた執事見習いのルカスが、顔を蒼白にしながら駆け寄る。

「……奥様が、急にお体の具合を崩されたとのことです。医師を呼んでおりますが……原因が分からないそうで……」

「母上が……!」

 その言葉を聞いた瞬間、全身から血の気が引いた。冷たい汗が背を伝い、手足が震える。視界が狭まり、周囲のざわめきが遠くで響くように感じた。

 元のレオナールは母に冷淡で、ろくに顔も見せず、心配することすらしなかった。
 しかし、今の俺は違う。前世の記憶を持ち、家族を愛し、守りたいと強く願っている。だからこそ、その知らせが胸を締め付けるように痛かった。

 (まさか……いや、嫌な予感が当たるな……!)



「母上のもとへ案内しろ!」

「は、はいっ!」

 ルカスの返事を聞くが早いか、俺は全力で駆け出した。


---


 重厚な扉を押し開くと、鼻をつく薬草と汗の混ざった匂いが部屋を満たしていた。分厚いカーテンが閉ざされているため、外の光は遮られ、部屋は昼間だというのに薄暗い。その暗がりの中、ベッドに横たわる母上の姿が浮かび上がった。

 母上――エリザベート=グランフィールド。いつもは優しく微笑むその顔は、今は苦悶に歪み、頬はこけ、唇は乾いて白くひび割れている。浅い呼吸が肩を小さく上下させ、そのたびに小さな呻き声が漏れた。

「母上……!」

 俺は叫ぶように名を呼び、ベッドへ駆け寄った。母上はかすかにまぶたを開き、俺の顔を認めると、信じられないという表情を浮かべる。

「……レオナール……? 本当に……あなたなの……?」

「母上、俺です……! 今まで……本当に申し訳ありませんでした!」

 俺は母上の手を両手で強く握り、深々と頭を下げた。かつての俺――いや、前世の記憶を持つ前のレオナールは、母を冷たく突き放してばかりだった。そのことが胸を刺すように痛む。

 母上はわずかに微笑もうとしたが、すぐに激しい咳に襲われ、苦しげに胸を押さえる。

「もうしゃべらないでください! 今はゆっくり休んで……!」

 俺は必死に声をかけるが、母上の呼吸はどんどん荒くなっていく。焦りが全身を駆け巡り、喉が焼けるように熱くなった。

(このままじゃ……! 俺が……俺が何とかしなければ!)




---

 そのとき、重々しい足音が廊下から近づいてきた。扉が再び開き、鋭い気配とともに一人の男が姿を現す。

 父――クラウディオ=グランフィールド。高い背と広い肩幅、鋭い鷹のような眼光。その場にいるだけで、周囲の空気が一瞬で凍り付く。

「……父上。」

 俺は慌てて立ち上がり、深く頭を下げた。

「母上を……助けたくて……ここに来ました。」

 父は病床の妻を見下ろした後、冷たい視線を俺に向ける。その目は感情をほとんど映さず、ただ厳格な支配者のものだった。

「……お前がここにいるとはな、レオナール。」

「はい……」

「お前の行動が、母をさらに苦しめることのないように願う。」

「……承知しました。」

 短く言い放ち、父は母の額に一度だけそっと手を置いた。その手には確かな愛情が込められていたが、すぐに踵を返し、無言で部屋を去っていく。その背中は重々しく、遠ざかる足音が廊下に響き渡った。

 (父上……必ず母上を救い出し、俺が変わったことを証明してみせる……!)




---


 俺は深く息を吸い込み、母上の体をもう一度じっくりと診た。脈を取り、呼吸のリズムを確認し、瞳孔の動き、唇の乾き具合、舌の色、爪の色――細かく観察していく。それだけでは足りず、ルカスに母上の普段の食事や屋敷の水場の管理状況を聞き出す。

「水はどうやって使ってる? 井戸は掃除されているか?」

「食事の内容は? 野菜はどれくらい出ていた?」

 ルカスが戸惑いながら答える言葉を一つひとつ整理し、頭の中で前世の医学知識と照らし合わせていく。点と点が線でつながり、やがて答えが形を成した。

(これは……熱病じゃない。免疫低下が原因で、ビタミン不足と感染症が同時に起きている……!)



 この世界の医師は、栄養や衛生の概念が乏しい。ただ熱を下げる薬草を煎じて飲ませるだけで、根本的な原因にはまるで届いていない。

 (俺なら……救える! 母上を絶対に助けてみせる!)



 胸の奥で炎が燃え上がる。妹のセリーヌを救った時と同じく、いやそれ以上の決意が全身を駆け巡った。


---


「皆、俺の指示に従ってくれ! 母上を救うためだ!」

 突然の命令に、使用人たちは驚愕し、目を見開いた。元のレオナールなら考えられない行動だからだ。

「レオナール様が……?」

「何を……?」

 戸惑う声があちこちで上がる。その時、エマが前に出て声を張り上げた。

「レオナール様のお考えは、奥様をお救いするためです! どうか信じてください!」

 ルカスも真剣な眼差しで力強く頷く。その二人の必死な訴えが、使用人たちの心をわずかに動かした。

「……承知いたしました!」


---


 俺は厨房へ駆け込み、調理台に食材を並べさせた。料理人たちが緊張した面持ちで固まる。

「母上にはこれを使え! 刺激物は一切禁止だ!調理を始める前に必ず手を洗え! 器具は熱湯で消毒しろ!」

「て、手を洗う……?」

「そうだ! 水は必ず沸かしてから使うんだ! そうすれば病気が広がらない!」

 料理人たちは耳慣れない指示に困惑するが、俺の必死さに押されて動き始める。

 さらに侍女たちには、寝具の煮沸消毒や部屋の換気を徹底させた。この世界では考えられないほど徹底した衛生管理だが、誰一人逆らわなかった。その場にいた全員が、俺の眼差しから「本気」を感じ取っていた。


---


 俺は毎日母上の部屋に通い、自ら薬湯を調合し、少しずつ口に運んだ。額の汗を拭い、手を握り、優しく声をかけ続ける。その姿は、かつての冷酷なレオナールを知る使用人たちにとって信じがたいものだった。

「母上、今日は少しでも召し上がれますか?」

「……ええ……レオナール……あなたがいてくれるだけで……」

 母上はかすかな声でそう言い、弱々しく微笑んだ。その笑顔は儚くも美しく、俺の胸を強く締め付けた。

 セリーヌも毎日見舞いに訪れ、母上の手を小さく握りしめていた。母を想う妹の涙に、俺は決意を新たにする。


---


 廊下の陰から、その光景をこっそりと見つめる弟アラン。母上を必死に看病する俺の姿に、複雑な感情が渦巻く。

「兄上が……母上を……?」

 かつて母を避け、家族を顧みなかった兄が、今は必死に母を救おうとしている。それが本心なのか、それとも偽りなのか――アランには分からない。

(信じない……俺はまだ、兄上を信じられない……)



 小さく拳を握りしめ、アランは背を向けてその場を去った。


---


 数日後――
 母上の容体は目に見えて回復していた。自ら体を起こし、セリーヌの髪を撫でられるほどに元気を取り戻す。

「母上……!」

 俺は駆け寄り、涙をこらえきれず声を震わせた。

「レオナール……本当にありがとう……」

 母上が優しく微笑むその瞬間、部屋の扉が静かに開く。そこに立っていたのは、父クラウディオだった。

 父は母の姿を見て、わずかに目を見開く。そして俺を鋭い目で見据えた。

「……お前が、これを……?」

「はい……母上を助けたい一心なんです。」

 俺は真剣な眼差しで答える。父は何も言わず、深く息を吐き、背を向けて部屋を後にした。その背中には、ほんのわずかに迷いが見えた気がした。


---


 母上は俺とセリーヌの手を握り、穏やかに微笑む。

「こうして……三人で笑える日が……また来るなんて……」

 その笑顔を見て、俺は胸の奥から熱い感情が込み上げてきた。

 (妹も……母上も……必ず守る。そして、この屋敷全体を……笑顔で満たしてみせる!)



 母上の部屋には、以前の重苦しさが嘘のように温かな空気が満ちていた。それは、グランフィールド家の新たな未来の幕開けを告げる光景だった。

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