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一章 屋敷編
第7話 揺れる兄弟の影
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半年後――。
その言葉が、アランにとってどれほど長く、そして居心地の悪い時間だったか、屋敷の誰も知らない。
母の寝室からは、もう弱々しい咳はほとんど聞こえなくなった。廊下を行き交う使用人たちの足取りは軽く、怯えたように壁際に張り付くこともない。食堂には温かなスープの匂いが漂い、以前のような重い沈黙は消えていた。
――屋敷は、確かに変わった。
けれど、その変化の中心にいるはずの兄・レオナールを、アランだけはまっすぐ見られずにいた。
(兄上が……優しくなった? そんなわけない。)
柱の影から廊下を覗く。
少し先でレオナールが、侍女から銀の盆を受け取り、柔らかく微笑んだ。
「ありがとう。運ぶのを手伝ってくれて助かった。」
「も、もったいないお言葉でございます、レオナール様……!」
侍女は真っ赤になって頭を下げる。
そこに、アランの知る「怒鳴り声を上げて盆を叩き落とす兄」の姿はなかった。
薬草の香りが漂う母の寝室。レオナールは静かに扉をノックし、柔らかな声で中に入る。
「母上、ご気分はいかがですか。」
「ええ、今日はずいぶん楽よ。あなたがいてくれると、心まで軽くなるわね。」
「それは何よりです。新しく用意させた茶葉です、少し香りを嗅いでみてください。」
――優しい声。穏やかな笑み。
だが、アランの胸には、ざらりとした違和感がこびりついて離れない。
(全部、演技だ。きっとそうだ。父上に取り入るための……)
そう思い込むことでしか、彼は自分の中の怒りと恐怖を抑え込めなかった。
かつて、妹セリーヌが泣きながらアランの袖を掴んでいた日のことを、彼は忘れていない。母の部屋の前で、聞きたくなくても聞こえてきた怒鳴り声も。割れた陶器の音も。
あの“兄”が、たった半年で別人のように変わるはずがない――そう信じていた。
「レオナール様、今日も街へ行かれるそうですよ。」
ある日の午前、アランは書斎前の廊下で、使用人たちのひそひそ話を耳にした。足を止め、柱の陰に身を隠す。
「ええ、毎週のようにいらっしゃいますわ。市場の方々も、すっかりお見慣れになったとか。」
「聞きました? 市場の子どもたちが、“レオ様”と呼んでるそうですよ。」
「まぁ、本当に? それをお許しになっているんですか?」
「ええ。“その方が呼びやすいだろう”って、笑っておられたそうです。」
アランの胸が、きゅっと締めつけられる。
(……レオ様? 子どもに、あだ名で呼ばせている……?)
かつて、少しでも呼び方を間違えた使用人がどんな目に遭ったか、アランは知っている。少年の頃、ただ「兄さん」と呼びかけようとしただけで冷たい視線を浴びたことも思い出す。
(本当に、兄上がそんなことを?)
頭の中で、これまでの兄の姿と、今聞いた噂が噛み合わない。疑いと、わずかな期待が、胸の奥で絡み合った。
半年――何も起こらなかった。少なくとも、アランの目にはそう映っていた。
母は穏やかに笑い、妹はよく笑うようになった。使用人たちは、兄の名前を口にするたびに、なぜかほんの少し誇らしそうに見える。
(……このまま、兄上の“変化”を見て見ぬふりをしていていいのか?)
ある日の早朝、アランは窓の外の薄い朝焼けを見つめて、静かに決意した。
(確かめればいい。俺の目で。兄上が、本当に変わったのかどうか。)
その日、彼は一人で屋敷を抜け出した。護衛の動きは日々見てきた。見回りの時間も、交代のタイミングも、頭に入っている。それを縫うように、裏口から外へ出た。
冷たい朝の空気を胸いっぱいに吸い込む。屋敷から街へ続く道は、何度も馬車の窓から見てきたはずなのに、徒歩で歩くとやけに遠く感じられた。
街の門をくぐると、賑やかな声と匂いが一気に押し寄せた。焼きたてのパンの香り、干し肉の匂い、果物の甘い香り。人々の笑い声が溶け合って、活気のあるざわめきになっている。
その中に、ひときわ懐かしい声が混じった。
「それじゃあ、次はこの数字を数えてみようか。さぁ、ゆっくりでいい。」
広場の一角。果物の屋台の横に、見慣れた金髪の背中があった。
兄――レオナール。
小さなテーブルを挟んで、子どもたちが何人か座っている。手元の紙に拙い字で数字を書きながら、きゃっきゃと笑っていた。
「レオ様、これ合ってる?」
「見せてみろ……ふむ、惜しいな。ここは“六”じゃなくて“九”だ。」
「えー!」
「でもちゃんと数えられている。よく頑張ったな。」
レオナールは、ほんの少し身を屈めて子どもの目の高さに顔を合わせる。その目は優しく細められ、口元には自然な笑みが浮かんでいた。
周囲には、大人たちも集まっている。老商人が笑いながら声をかけた。
「レオナール様、本当に助かっておりますよ。字を教えてくださるおかげで、帳簿も間違いが減りましてな。」
「こちらこそ、皆さんに街のことを教えていただけている。持ちつ持たれつですよ。」
レオナールがそう答えると、商人は嬉しそうに腹を揺らして笑った。
「レオ様、見て! 昨日描いた絵!」
「おお、これは……空か。色がきれいだな。雲の形もよく見ている。」
子どもが差し出した紙を両手で受け取り、レオナールは本当に楽しそうに目を細めた。
――恐怖も、怒号も、そこには一つもなかった。
影からその光景を眺めるアランは、喉がひどく渇いていることに気づいた。何か言葉を発しようとしても、声が出てこない。
(……あれが、兄上……?)
あまりにも違う。幼いころ、ただ存在するだけで屋敷の空気を凍らせていた兄とは。
(演技……か? 半年も? 街の人々相手に?)
思考がまとまらない。胸の奥で、固く固まっていた何かが、きしりと音を立ててひび割れる。
アランはその場から、逃げるように歩き出した。
気づけば街の喧噪は遠ざかり、足元には硬い石畳ではなく土の感触が広がっていた。
考え事に沈んだまま、彼はただ歩いた。兄の笑顔が頭から離れない。
(兄上が、子どもたちに優しく笑っていた……。レオ様、なんて呼ばれても怒らないで……)
足元で小枝が折れる音がした。見上げると、周囲はいつの間にか高い木々に囲まれている。
――森だ。
そこでようやく、自分が屋敷でも「近づくな」と言われていた場所へ入り込んでしまったことに気づいた。
「……いつの間に、ここまで……」
背筋に冷たいものが走る。引き返そうと一歩踏み出した、その時――。
低く、喉の奥から絞り出すような唸り声が、背後から響いた。
ぞわり、と肌が粟立つ。振り返ると、木々の間の薄暗がりの中で、赤い光が二つ、じっとこちらを見つめていた。
狼のような体躯。だが、その爪と牙は常の獣よりも長く、禍々しい気配を纏っている。
「……嘘、だろ……」
魔物だ。
アランは反射的に腰へ手を伸ばす。しかし、指先は空を掴むだけだった。
「剣が……ないっ……!」
護衛を撒くためだけを考えて屋敷を出た。武器を携えることなど、頭から抜け落ちていたことを、ここにきてようやく思い知らされる。
魔物が地面を蹴った。大きな影が一直線に跳びかかる。
「っ――!」
咄嗟に身を捻って避ける。しかし完全には避けきれず、鋭い爪が左腕を掠めた。
「ぐっ……!」
焼けつくような痛みが走り、腕からじわりと温かい液体が流れ出す。袖が赤く染まっていくのが分かった。だが、ここで倒れたら終わりだ。
アランは歯を食いしばり、後ろに跳び退りながら両手を前に突き出した。
「……来るな……! 《ウィンド・ブラスト》!」
空気が軋み、圧縮された風が衝撃波となって放たれる。魔物は呻き声を上げながら後方へ押しやられた。
しかし、その足は止まらない。獰猛な瞳が、再び標的を捉えていた。
(……一発じゃ、倒せない……!)
息が荒くなる。傷口がずきずきと疼き、指先がわずかに震えている。魔力も、そう多くはない。
「くっ……!」
アランは踵を返し、森の奥へと駆け出した。背後から木々が揺れる音と、魔物の足音が追いかけてくる。
枝が頬をかすめて皮膚を裂く。葉に隠れた棘が、腕や肩をひっかいていく。痛みは増していくのに、足を止めることはできない。
(どこか、隠れられる場所……!)
しばらく走った先に、崩れかけた石造りの建物が見えた。蔦に覆われ、半ば森に飲み込まれた古い廃墟だ。
アランは最後の力を振り絞り、その扉を押し開けて中へ飛び込んだ。扉が背中で激しく揺れ、外側から何かがぶつかる衝撃が伝わってくる。
荒い息を吐きながら、アランは壁際にずるずると座り込んだ。廃墟の中は薄暗く、ひんやりとした空気が、火照った体温を奪っていく。
「……っ……はぁ……はぁ……」
左腕を見ると、爪の傷が赤く腫れ、袖は血で重くなっていた。頬や額にも細かな傷がいくつも走っている。
(兄上のことを確かめに来ただけなのに……俺、何してるんだ……)
情けなさと恐怖が混じり合い、喉の奥が熱くなる。窓の隙間から見える空は、いつの間にか茜色に染まり始めていた。
(……帰れなくなったら……)
そこで思考を止める。考えてしまえば、心が折れそうだった。
「アラン様が見当たりません!」
慌ただしい声が、屋敷の廊下に響いた。
夕食の時間が近づき、レオナールは部屋を出たところだった。目の前を、盆も持たずに走り抜けようとした侍女を呼び止める。
「どうした?」
「レ、レオナール様……! アラン様が、どこにもいらっしゃらないのです!お部屋にも、庭にも……!」
侍女の顔は真っ青だった。レオナールの胸に冷たいものが落ちる。
「屋敷内は、どこまで探した?」
「す、すでに皆で手分けして……ですが、まだ……」
短い答えが、逆に状況の悪さを物語っている。
(アラン……)
レオナールは瞬時に考えを巡らせた。アランが行きそうな場所。そして、最近の様子――。
「屋敷内をもう一度、隅々まで確認しろ。それでも見つからないなら、街へ捜索に向かえ。」
「かしこまりました!」
侍女が駆け出していくのを見送り、レオナールも歩き出す。街に向かうことにした。足は自然と速足になっていた。
街に着くと、レオナールは人々に次々と声をかけた。アランの特徴を伝え、見なかったかと問いただす。
何人目かの町民が、はっとしたように顔を上げた。
「……そういえば。夕方より前に、アラン様らしき子が森の方へ歩いて行くのが見えましたよ。なんだか、何か考え込んでいる様子でしたが……」
胸の奥がきゅっと鳴る。
「……森ですか。ありがとうございます。」
短く礼を言い、レオナールはその場を駆け出した。外套が風に翻り、靴音が硬い石畳を打つ。
(森には、魔物がいる……)
夕闇が迫る森の入り口が見えてきた。木々の間から流れ込む冷たい空気が、肌にまとわりつく。
(アラン、どこにいるんだ。どうか――無事でいてくれ。)
誰に聞かせるでもない祈りが、心の中で静かに繰り返された。
その言葉が、アランにとってどれほど長く、そして居心地の悪い時間だったか、屋敷の誰も知らない。
母の寝室からは、もう弱々しい咳はほとんど聞こえなくなった。廊下を行き交う使用人たちの足取りは軽く、怯えたように壁際に張り付くこともない。食堂には温かなスープの匂いが漂い、以前のような重い沈黙は消えていた。
――屋敷は、確かに変わった。
けれど、その変化の中心にいるはずの兄・レオナールを、アランだけはまっすぐ見られずにいた。
(兄上が……優しくなった? そんなわけない。)
柱の影から廊下を覗く。
少し先でレオナールが、侍女から銀の盆を受け取り、柔らかく微笑んだ。
「ありがとう。運ぶのを手伝ってくれて助かった。」
「も、もったいないお言葉でございます、レオナール様……!」
侍女は真っ赤になって頭を下げる。
そこに、アランの知る「怒鳴り声を上げて盆を叩き落とす兄」の姿はなかった。
薬草の香りが漂う母の寝室。レオナールは静かに扉をノックし、柔らかな声で中に入る。
「母上、ご気分はいかがですか。」
「ええ、今日はずいぶん楽よ。あなたがいてくれると、心まで軽くなるわね。」
「それは何よりです。新しく用意させた茶葉です、少し香りを嗅いでみてください。」
――優しい声。穏やかな笑み。
だが、アランの胸には、ざらりとした違和感がこびりついて離れない。
(全部、演技だ。きっとそうだ。父上に取り入るための……)
そう思い込むことでしか、彼は自分の中の怒りと恐怖を抑え込めなかった。
かつて、妹セリーヌが泣きながらアランの袖を掴んでいた日のことを、彼は忘れていない。母の部屋の前で、聞きたくなくても聞こえてきた怒鳴り声も。割れた陶器の音も。
あの“兄”が、たった半年で別人のように変わるはずがない――そう信じていた。
「レオナール様、今日も街へ行かれるそうですよ。」
ある日の午前、アランは書斎前の廊下で、使用人たちのひそひそ話を耳にした。足を止め、柱の陰に身を隠す。
「ええ、毎週のようにいらっしゃいますわ。市場の方々も、すっかりお見慣れになったとか。」
「聞きました? 市場の子どもたちが、“レオ様”と呼んでるそうですよ。」
「まぁ、本当に? それをお許しになっているんですか?」
「ええ。“その方が呼びやすいだろう”って、笑っておられたそうです。」
アランの胸が、きゅっと締めつけられる。
(……レオ様? 子どもに、あだ名で呼ばせている……?)
かつて、少しでも呼び方を間違えた使用人がどんな目に遭ったか、アランは知っている。少年の頃、ただ「兄さん」と呼びかけようとしただけで冷たい視線を浴びたことも思い出す。
(本当に、兄上がそんなことを?)
頭の中で、これまでの兄の姿と、今聞いた噂が噛み合わない。疑いと、わずかな期待が、胸の奥で絡み合った。
半年――何も起こらなかった。少なくとも、アランの目にはそう映っていた。
母は穏やかに笑い、妹はよく笑うようになった。使用人たちは、兄の名前を口にするたびに、なぜかほんの少し誇らしそうに見える。
(……このまま、兄上の“変化”を見て見ぬふりをしていていいのか?)
ある日の早朝、アランは窓の外の薄い朝焼けを見つめて、静かに決意した。
(確かめればいい。俺の目で。兄上が、本当に変わったのかどうか。)
その日、彼は一人で屋敷を抜け出した。護衛の動きは日々見てきた。見回りの時間も、交代のタイミングも、頭に入っている。それを縫うように、裏口から外へ出た。
冷たい朝の空気を胸いっぱいに吸い込む。屋敷から街へ続く道は、何度も馬車の窓から見てきたはずなのに、徒歩で歩くとやけに遠く感じられた。
街の門をくぐると、賑やかな声と匂いが一気に押し寄せた。焼きたてのパンの香り、干し肉の匂い、果物の甘い香り。人々の笑い声が溶け合って、活気のあるざわめきになっている。
その中に、ひときわ懐かしい声が混じった。
「それじゃあ、次はこの数字を数えてみようか。さぁ、ゆっくりでいい。」
広場の一角。果物の屋台の横に、見慣れた金髪の背中があった。
兄――レオナール。
小さなテーブルを挟んで、子どもたちが何人か座っている。手元の紙に拙い字で数字を書きながら、きゃっきゃと笑っていた。
「レオ様、これ合ってる?」
「見せてみろ……ふむ、惜しいな。ここは“六”じゃなくて“九”だ。」
「えー!」
「でもちゃんと数えられている。よく頑張ったな。」
レオナールは、ほんの少し身を屈めて子どもの目の高さに顔を合わせる。その目は優しく細められ、口元には自然な笑みが浮かんでいた。
周囲には、大人たちも集まっている。老商人が笑いながら声をかけた。
「レオナール様、本当に助かっておりますよ。字を教えてくださるおかげで、帳簿も間違いが減りましてな。」
「こちらこそ、皆さんに街のことを教えていただけている。持ちつ持たれつですよ。」
レオナールがそう答えると、商人は嬉しそうに腹を揺らして笑った。
「レオ様、見て! 昨日描いた絵!」
「おお、これは……空か。色がきれいだな。雲の形もよく見ている。」
子どもが差し出した紙を両手で受け取り、レオナールは本当に楽しそうに目を細めた。
――恐怖も、怒号も、そこには一つもなかった。
影からその光景を眺めるアランは、喉がひどく渇いていることに気づいた。何か言葉を発しようとしても、声が出てこない。
(……あれが、兄上……?)
あまりにも違う。幼いころ、ただ存在するだけで屋敷の空気を凍らせていた兄とは。
(演技……か? 半年も? 街の人々相手に?)
思考がまとまらない。胸の奥で、固く固まっていた何かが、きしりと音を立ててひび割れる。
アランはその場から、逃げるように歩き出した。
気づけば街の喧噪は遠ざかり、足元には硬い石畳ではなく土の感触が広がっていた。
考え事に沈んだまま、彼はただ歩いた。兄の笑顔が頭から離れない。
(兄上が、子どもたちに優しく笑っていた……。レオ様、なんて呼ばれても怒らないで……)
足元で小枝が折れる音がした。見上げると、周囲はいつの間にか高い木々に囲まれている。
――森だ。
そこでようやく、自分が屋敷でも「近づくな」と言われていた場所へ入り込んでしまったことに気づいた。
「……いつの間に、ここまで……」
背筋に冷たいものが走る。引き返そうと一歩踏み出した、その時――。
低く、喉の奥から絞り出すような唸り声が、背後から響いた。
ぞわり、と肌が粟立つ。振り返ると、木々の間の薄暗がりの中で、赤い光が二つ、じっとこちらを見つめていた。
狼のような体躯。だが、その爪と牙は常の獣よりも長く、禍々しい気配を纏っている。
「……嘘、だろ……」
魔物だ。
アランは反射的に腰へ手を伸ばす。しかし、指先は空を掴むだけだった。
「剣が……ないっ……!」
護衛を撒くためだけを考えて屋敷を出た。武器を携えることなど、頭から抜け落ちていたことを、ここにきてようやく思い知らされる。
魔物が地面を蹴った。大きな影が一直線に跳びかかる。
「っ――!」
咄嗟に身を捻って避ける。しかし完全には避けきれず、鋭い爪が左腕を掠めた。
「ぐっ……!」
焼けつくような痛みが走り、腕からじわりと温かい液体が流れ出す。袖が赤く染まっていくのが分かった。だが、ここで倒れたら終わりだ。
アランは歯を食いしばり、後ろに跳び退りながら両手を前に突き出した。
「……来るな……! 《ウィンド・ブラスト》!」
空気が軋み、圧縮された風が衝撃波となって放たれる。魔物は呻き声を上げながら後方へ押しやられた。
しかし、その足は止まらない。獰猛な瞳が、再び標的を捉えていた。
(……一発じゃ、倒せない……!)
息が荒くなる。傷口がずきずきと疼き、指先がわずかに震えている。魔力も、そう多くはない。
「くっ……!」
アランは踵を返し、森の奥へと駆け出した。背後から木々が揺れる音と、魔物の足音が追いかけてくる。
枝が頬をかすめて皮膚を裂く。葉に隠れた棘が、腕や肩をひっかいていく。痛みは増していくのに、足を止めることはできない。
(どこか、隠れられる場所……!)
しばらく走った先に、崩れかけた石造りの建物が見えた。蔦に覆われ、半ば森に飲み込まれた古い廃墟だ。
アランは最後の力を振り絞り、その扉を押し開けて中へ飛び込んだ。扉が背中で激しく揺れ、外側から何かがぶつかる衝撃が伝わってくる。
荒い息を吐きながら、アランは壁際にずるずると座り込んだ。廃墟の中は薄暗く、ひんやりとした空気が、火照った体温を奪っていく。
「……っ……はぁ……はぁ……」
左腕を見ると、爪の傷が赤く腫れ、袖は血で重くなっていた。頬や額にも細かな傷がいくつも走っている。
(兄上のことを確かめに来ただけなのに……俺、何してるんだ……)
情けなさと恐怖が混じり合い、喉の奥が熱くなる。窓の隙間から見える空は、いつの間にか茜色に染まり始めていた。
(……帰れなくなったら……)
そこで思考を止める。考えてしまえば、心が折れそうだった。
「アラン様が見当たりません!」
慌ただしい声が、屋敷の廊下に響いた。
夕食の時間が近づき、レオナールは部屋を出たところだった。目の前を、盆も持たずに走り抜けようとした侍女を呼び止める。
「どうした?」
「レ、レオナール様……! アラン様が、どこにもいらっしゃらないのです!お部屋にも、庭にも……!」
侍女の顔は真っ青だった。レオナールの胸に冷たいものが落ちる。
「屋敷内は、どこまで探した?」
「す、すでに皆で手分けして……ですが、まだ……」
短い答えが、逆に状況の悪さを物語っている。
(アラン……)
レオナールは瞬時に考えを巡らせた。アランが行きそうな場所。そして、最近の様子――。
「屋敷内をもう一度、隅々まで確認しろ。それでも見つからないなら、街へ捜索に向かえ。」
「かしこまりました!」
侍女が駆け出していくのを見送り、レオナールも歩き出す。街に向かうことにした。足は自然と速足になっていた。
街に着くと、レオナールは人々に次々と声をかけた。アランの特徴を伝え、見なかったかと問いただす。
何人目かの町民が、はっとしたように顔を上げた。
「……そういえば。夕方より前に、アラン様らしき子が森の方へ歩いて行くのが見えましたよ。なんだか、何か考え込んでいる様子でしたが……」
胸の奥がきゅっと鳴る。
「……森ですか。ありがとうございます。」
短く礼を言い、レオナールはその場を駆け出した。外套が風に翻り、靴音が硬い石畳を打つ。
(森には、魔物がいる……)
夕闇が迫る森の入り口が見えてきた。木々の間から流れ込む冷たい空気が、肌にまとわりつく。
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